善は急げ、と言うけれど/こめミサでもこめミサこめでもお好みで それはとある、ほとんど定例となった、県境にいちばん近いファミリーレストランでの逢瀬の日。たいていは非番の合った日の前夜だけれど、ひどく遠いわけでもないので、そうでもないこともある。今回は前者だった。車社会なもので、どんな洞察力をもってしてもいかんせん到着時刻ばかりは完全には読み切れず、予定より少し早く着いた高明は、駐車場で車内から星空を見上げていた。季節としては、早くももう、冷え込みつつある。夜ともなればなおさらだ。愛しい彼を待っている今、きっとこの身が冷え込むことはないだろうと過言したくなるほどなのだけれど、それでも、風邪とかひいたらたいへんですからと、彼が言うので、早くついたほうはいつも車内か店内のどちらかで待っていた。ヘッドライトが新たに視界に来るたび、視線をやるけれど幾度か空振り。ああ、今度こそ! 見馴染んだ車が、やってくる。頬のふわりとゆるむ瞬間だ。高明は、車を降りた。
「お待たせしちゃってすみませんっ、たかあきさァん~!」
駐車を終え運転席から降りた彼が、ぶんぶんと手を振り、声を少し張る。以前にまるきり同じ事を言いながらぱたぱた駆けてきたので、危ないですから急がないで構いませんよ、と言ってある。それでも、急きそうになる足取りの気持ちは我が物と等しく解って、もつれそうなそれに、かえって危ないのかもしれないと困ったようにあまいにがわらいをしてしまう。
「いえ、私も、来たばかりですから」
にこりと笑んで言えば、頬にするり手を伸ばされた。
「…ちょっとだけ、冷えちゃってますね」
指摘され、眼を少し見開いて、またふわり細める。
「…では、あたためていただけますか?」
「モチのロンですよ!」
ミサオの両手が、高明の頬をつつみこみ、少しの間そこに高めの体温を分け与える。合う視線のたとえば少しまどろみそうなそれに近いのは、どんな季節の天の川よりも、ほうと、あまくとろける時間だった。それから、するりと滑るように動いたミサオの腕が、高明の背にきゅっと回り、ぎゅううっと、抱きついてくる。ああ、胸がぬくもりに満たされる瞬間を、彼は幾らでも容易くくれ、さながら魔法使いだ――
少しの間、そうしていた。ミサオが名残惜しげに高明の胸から離れながら、言う。
「…さて、チャージも済んじゃったことですし、店内、行ってくれちゃいましょうか」
「そうですね」
からんころん、と、扉がかろやかに人の出入りを告げ、店員がすぐ気付く。
「いらっしゃいませー! あ、二名様ですね。いつもありがとうございます~」
「こんにちは」
店員によっては言われる馴染みのフレーズに、この店をでたあと過ごす時間を思えば少々苦笑気味になる高明だが、それでもにこやかに返した。
「こんにちは~! 今日もお疲れさま~っス!」
ミサオのほうは人懐っこさゆえか動じてないようで、むしろ親しみすら感じているようで、なかなかの大物だと高明はしみじみ思う。
すいている店内から好きな席に座るよう指示され、あいていれば基本的に選ぶ、窓際の奥にした。着席し、そらんじているメニュー表にそえられている季節物をまとめたものに軽く目を通して、それぞれ好みのものを注文する。それから、ドリンクバーの飲み物をとってきた。いよいよ、会話を楽しむ時間だ。
「さてさてっ、たかあきさんっ、今回はですねェ~、…フッ、僕ゥ、…ちょォ~っと、たかあきさんにお見せしてくれちゃったりなんかしたいものがありましてね…」
「おや、なんでしょう。実に気になりますね」
もったいぶった前ぶりも、決して不快ではなかった。純粋に、楽しみだとさえ思った。立てたひとさしゆびをゆるやかに左右に振っていたミサオが、高明の返しを聞いて、自身の横の席に置いていたバッグをごそごそ探り出す。
「ふっふっふ、それはですね……じゃーん!! なんとっ、僕も買っちゃったんですよぉ!」
ミサオがバッグから取り出したのは、本、それも三国志だった。それが高明の影響であることは自明で、高明の頬は、すこしだけ熱ばんで、緩むのだった。ミサオがその選択をするまで、それほど長くはかからなかったように思う。うれしい、ものだった。
「……、…ふふ。感想、楽しみにしていますよ」
「はァい! …僕も、あなたと、同じ世界を見てみたくて…あっ、でもでもっ、最初だけはどーーーしてもたかあきさんの前で読みたかったんでっ、今から、ちょっと読んでみていいですか?」
「それは……身に余るほどの、僥倖ですよ。是非、お願いします」
「それじゃあ、っと……ふむふむ…」
ぱらり、表紙を捲り、頁に目を通し始める彼を、高明はにこやかに見守った。ああ、胸が、妖精のたぐいのくすくす笑いじみてなんとも言い難くくすぐったい! じきに食事が運ばれてきて読書は中断されるけれど、食事を終え、軽く談笑したあと各自の車で今回は高明のアパートへと向かう。どちらの家に行くかは、その時々。先にシャワーを浴びさせたミサオが、高明のベッドに背を預けて、続きを読んでいたのを高明はうやうやしく取り上げる。
「あっ」
高明がシャワーから出たことにも気付かずに、夢中になっていたようだ。
「…本日の読書はここまで、ということで」
不思議なもので、自分が彼に与えた影響が自ずとそうさせているとわかっていて、わかっていてそれでも、すこしだけ、やけるとおもった。取り上げた本をサイドボードに置き、尋ねる。
「いかがですか、三国志は?」
「…ちょっとだけ難しいトコもありますケド、たかあきさんのこと、もっともっと知ったりなんかしちゃいたいから、すっごく興味深いです」
「……そうですか…それは、よかった」
ああ、わかっている確認を、それでもことばできくのは充足だ。するり、高明は五指をミサオの輪郭に沿わせるようめいめいに姿勢取らせ、やわらかな頬をちいさく、親指の腹でふにふにと押す。それをノックの代わりとばかり、予感にとろんと切り替わる視線を、熱っぽく見つめ返す。くちづけ、た。少しの接触のあと、ベッドへと乗せ、彼を抱く。いつもより強めに痕をつけてしまったのが、まるでサイドボードの本にあてつけるようで、我ながら青いものだと思った。青春は、いつだってひとをあおくさせるから青春と言うのだ。そんなふうに、理由づける。
その日から、三国志に関して感想や質問があるといつも以上に頻繁にミサオから連絡が来るようになった。うれしいし、愛らしい。大切に閉ざした、きっとそのまま生きるのだろうとさえ思った青春の頁を、棚にしまったそれとは別に、新たに、今まさしく捲っているのだと、改めてしみじみ、思う。
『そろそろ、読み終わっちゃったりなんかしちゃいそうです! どうせなら、たかあきさんの前で読み終わりたいです』
そんな連絡が来たのは、次に会う約束の前夜だった。
『是非お願いします! たのしみに、していますよ』
『はぁい♡ それじゃあ、また明日! おやすみなさ~い♡』
『おやすみなさい』
簡単な、やりとりだったのに、高明は高鳴る胸で少しだけ寝付くのに苦労して、そんな自分に苦笑した。
翌日が来て、職務を終え、いつものファミリーレストランに駐車する。暖房をつけたままで、少しだけその時を心待ちした。程なくして馴染んだ車が来たので、高明は車を降りる。今はまだ降っていないけれど、多少の雪の予報だったから、ワイパーを立てた。ミサオも同じようにしている。互いに近づき合って落ち合うのがいつも以上に待ちきれない様子。途中、ワイパーを立て忘れている車を見つけてそれを立ててやった。
いつものように店内に入れば、もう、新顔のない限り決まって同じフレーズを言われ、気に入りの窓際の奥の席を選び、腰を下ろす。そわそわと、高揚の理由が高明には数多あることを、ミサオはまだ、きっと知るまい。
いつものようにドリンクを持ってきて、それをぶつからない場所に置き、ミサオが、緊張と高揚とをない交ぜにしたような面持ちで、本を取り出した。
「じゃ~~ん………ゴクリ…そっ、それじゃあ、さいごまで、読み切ってくれちゃったりなんかしちゃいますねっ!」
「……ええ。たのしみに、していますよ?」
頁を繰る手を、そのやわらかさを知るそれを同じくやわらかいと自覚のないまなざしで見つめ、時を、時を待った。
さいごの、頁が捲られる。わずか、ためらうような余韻。ぱたり、と、閉じるのは名残惜しげだった。
「………、…終わっちゃいました……」
「はい。見守らせて、いただきました」
改めてなにか感想を、と思ったのだろう、ミサオがくちをあけたりとじたりして、それから引き結び、うつむきがちに、つぶやいた。
「……感想が…、まとまらない、です……」
「それは、また、追々、…じっくりと、お聞かせ願うとしましょうか。…ところで、ミサオさん」
追々、とじっくりとを少しだけ艶やかな声音でゆっくりめに強調し、ミサオの視線を、自身に釘付けた。ごくり、と、のどが上下するのがひどく愛らしい。だのに高明は、さらりその香を流すかのようにさらりと、話題の転換を投げかけたのだった。
「ふぇ? なんですか?」
意表を突かれ、ミサオが少し動揺しつつも油断しているのがじゅうぶん、理解できる。
少しだけ、間。ミサオのくびがちいさく傾ぎ、くちが、あさくひらく。それをまるで封じ込めでもするかのように、高明は、ことばを、それでもまるきり何でも無いふうに、涼やかに、…わずかゆるやかに、発した。
「――わたしの、黄夫人に…、……なっては、くれませんか」
ああ、予定ではもっと、さらりと、さらりと言うはずだったのだけれど。いざくちにしてみればそれは、自分でも緊張を伴うものだったのだと知る。諸葛亮孔明の婚姻は、もっとあっさり、決まったように聞いているが、今ばかり彼は彼、自分は、自分なのだ。軍師高明は、戦況を、うかがうような視線で探るふう、ただ見守った。ミサオが高明のことばを、状況を、呑み込むのに時間を要していることが伝わってくる。それもそうだろう。高明にしてみればかねてよりのはかりごとでも、ミサオにとっては、想定外なのだろうから。徐々に、ああ、徐々に紅葉をするほっぺたが愛らしい。うるり、うるんだどんぐりが、うつむきがちに、じとり気恥ずかしげに見上げてくる!
「…………、…っ……、
…たかあきサン…もしかして、ソレ、僕が読み終わるまで待ってました?」
「バレましたか」
けろりと返せば、ミサオは どぁっと、大きくためいきをつきながら刹那のけぞるよう背もたれに身を預けたのち、顔を覆って突っ伏すのだった。
「もぉ~~…っ!!! そーだと知ってたらっ、もっともっといっそうしゃかりきにっ、読み進めてくれちゃったのに…っ! …いや、面白くて、結構せっせと読んじゃったほうだと僕的には思いますケド…ケドぉ~~~、もォ~~…!」
ミサオのことばに、ああ、自身もどぅと風が吹き抜けるよう安堵したのを、ああ、やはり緊張していたのだと確認のよう、思った。にやけそうになるくちもとよ、それは少々、性急すぎる。高鳴り、天井知らずの鼓動よ、それは少々、確認不足すぎる。
「…と、言うことは…、お返事は?」
ああ、そうだ! ことばでの確認が、ほしかったのだ!
「っ、わかりきっちゃってるでしょっ、とぉ~~ぜんYesに、決まりきっちゃってますから!!」
あたりまえだと、言う彼の、そのことばを、わかっていてもああ、何事にも代えがたい至福に思った!
「………、……ふふ……想像、以上に、…舞い上がってしまうものですね…」
噛み締め、る。
「僕だってっ、…うぅ、…こんなサプライズぅ、…もォ~~…! うれしすぎちゃってもぉ、のぼせあがっちゃいそうなんですからねっっ!」
ぽろぽろと、こぼれるなみだの色があのひと違うことがただただ、こころに灯火だ。
「どんどん、のぼせあがっちゃってください。…私も、同感ですから」
「…っ、…もぉ~~~!!! たかあきさんのことっ、ほんとっ、あいしてますぅ~…!」
「…っ、…私も、…あいして、いますよ、…ミサオさん…」
手を伸ばして、ミサオのあたまを、あやすように撫でた。挟んだテーブルがいまひとときもどかしくて、抱き締めたい。じきに、料理が運ばれてきた。祝いの席には日常姿で、けれど特別なその一食を、――否、どの一食たりとも、ともに過ごした頁は一片たりと忘れ得ないことだろう。
店を出て、自然寄り添うよう肩を抱き寄せる。こつり、と、星のまたたくようなちいさなおとに、視線を交わす、面はゆさ。別々の車に乗る時間がとこしえじみて切なくて、けれどそのさきに、ともに過ごせる時間があると知っているから、旅路は躍る。ちら、ちらと、雪がちらつき始め、少しだけそれがロマンチックと、見慣れた景色を、きっと彼も別の場所同じよう思っていると思えて、ああ、これからさきどこに居てもそう思えると感じて、旅路は、躍る。彼と自分との空は、同じひとつづきなのだ。
玄関をくぐるなり、待ちわびたようぎゅっと抱き締め合って、くちづけあった。名残惜しむよう、同時に期待はぜるよう小指絡げながら移動して、ベッドで、求め合う。たとえばあしたゆくのなら、どこだってきっと、ハネムーン。できれば指環を見に行きたいけれど、それはまた今度の、楽しみでいいだろう。食料買いにスーパーでもよし、本を見に本屋、なんてのもよし。…あるいは、一日求め合うも、よし。蜜月は、これまでとこれからの地続きに、いつも在った。
後日、指環を選びに出掛けたふたりは、微笑み合い、ことば交わし合い、ゆびを絡げ合い、雪のちいさな玉さえ、交わし合った。それはシロツメクサの花じみて、花冠をかぶったうさぎの絵本を思わせた。
善は急げ、と言うけれど、機が熟すのを待つもまた楽し。そんなことを、思った折だった。
終