君の宇宙の侵略者「伏黒恵さん、俺とデートしてください」
はっきりと告げられた言葉は本当に同じ星の言葉か。差し出された大きな右手は本当に同じ地球人のものか。
唐突すぎる申し出に驚いて、伏黒はただ呆気にとられたまま虎杖のことを見ていた。
虎杖悠仁は、伏黒が在籍する某大学獣医学部のキャンパス近くにある、消防署に勤める消防士である。歳は伏黒と同じ二十二歳。出会いは伏黒のアルバイト先の動物病院に、虎杖が迷い犬を連れて来たこと。再会はその二週間後。実習帰りの伏黒はキャンパス内で虎杖に声をかけられ、実習でくたくたになった頭で適当に返事をしている間に夕飯を共にすることになっていた。
虎杖は広大なキャンパスを(勝手に)ロードワークに利用していたらしく、最初に出会った時に伏黒がそこの学生だと聞いてから、ずっと探していたのだという。曰く、「友達になれる気がして」。一方の伏黒は、見るからに自分とは正反対の陽な光を放つ虎杖を、病院で接した時から「無理なタイプ」としていた。
しかし、酒を酌み交わす中で彼が結局迷い犬をそのまま飼い始めたという事を聞いて、「無理だけどいい奴かも」と見る目を変えた。
人間よりも動物を広く愛する伏黒にとって、同じように動物を敬愛している人間は善人の部類に入る。もちろん、一つ目のボーダーラインをクリアしたに過ぎないのだが、犬を飼うのは初めてだからいろいろ教えて欲しいという虎杖の頼みに応え、あっさりと連絡先を交換したのだ。
その後はメッセージでのやりとりをメインにしていたが、日が合えば食事を、時間が合えば電話を……と、その頻度も高くなっていった。そうして食事以外にもペット用品の買い物に一緒に行くようになったり、終いには、例の元迷い犬に会うために虎杖の部屋に遊びに行くまでになり、気がつけばすっかり普通の友人の立ち位置にいたのだ。
そして伏黒が、虎杖が初めの頃に言った「友達になれる気がして」なんて言葉も案外間違いではなかったのかもしれない、と思い始めた矢先。
話は冒頭に戻る。
「いいじゃん、行ってきなさいよ」
「……本気で言ってるんですか」
ありえないだろ、と目で訴える伏黒を無視して、夕香里は「マジマジ」と軽く言った。彼女は伏黒の雇い主であり、若くしてこの動物病院の院長を務める女性獣医師だ。彼女と伏黒とは二年目の付き合いになるが、伏黒の扱い方をすでに熟知している、ずるい大人の一人である。
「マジじゃなきゃ、他の患者さんもいる待合室であんなこと言えないって」
「逆でしょ…あんな人前で言うなんて、むしろ冗談としか」
数日前から飼い犬が風邪っぽいのだという相談を受けて病院に来ることを勧めたのは伏黒だったが、まさか見送りをするつもりで出た待合室でデートの誘いをされるなんて思っていなかった。
ドアの向こうの待合室に目を向ければ、数時間前のことを思い出して掃除の手が止まる。
初めて病院へ来たときは弱った体をぐったりと預けていただけの迷い犬――犬種は中型犬のハーリア、ちなみにオス――は、半年ほど経った今ではすっかり虎杖に懐いていた。
しなやかな体の彼を、虎杖は何故か「タカ」と呼んでいる。どうしてそんな名前にしたのか訊ねると、彼は真面目な顔で「ユージといえばタカだろ」と答えた。どこのあぶない刑事だ。
デートの申込時。「虎杖タカくん」と書かれた調剤袋を握り締め、緊張した面持ちで頭を下げた虎杖と、彼の足元で特徴的な垂れ耳をぷるぷる揺らしていたタカ。大胆な飼い主を応援していたのか、呆れていたのか、あるいは同調して自身も緊張していたのかもしれない。いずれにせよ、最後に伏黒に愛想を振って病院を去っていった聡明な犬は、虎杖の気持ちをしっかりと理解しているように見えた。わずか半年でそこまで心を通わせていることは、獣医師の卵かつ愛犬家である伏黒にとって間違いなく好印象。だからこそ断りきれない。おまけに、虎杖の真意はいまいちわからないものの、外堀は完全に埋められている(なんせ待合室にいた他の患者やスタッフも虎杖の勇気を褒め称え、伏黒はデートくらいしてやれと囃し立てられた)。
それでも、伏黒だって虎杖と出会ってからまだ半年。確かに堂々と友人と言える程度の仲にはなったが、デートとなると友人同士のそれではない。伏黒は次にスマホを見れば「ごめん、冗談だったー!」と弁解のメッセージが来ているのではと一日中期待しながら過ごしたが、診察時間終了の十九時を回った現在になっても、虎杖からのメッセージはない。
「じゃー行かなきゃいいんじゃない? 冗談だもん。伏黒くんがすっぽかしても、虎杖くんは待ち合わせ場所で待ってなんかないでしょうね」
ぎくりとして顔を上げれば、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる夕香里と目が合った。本当に、伏黒の扱いをよく知っている。
「そのゴミを外に出したら、今日はもう帰っていいから。それと、休みの希望は早めに言ってね?」
じゃあおつかれーと言い残し、夕香里は診察室を出て行った。
二週間後。伏黒は日曜日だというのに大学の門の前にいた。
そこが虎杖が指定したデートの待ち合わせ場所だったからである。
「……寒い」
昨日まで夏のような日差しで人々を照らしていた太陽は、ウロコ雲の向こうで弱々しい光を放っている。やっと秋らしい気温になったかと思えば、風は冷たく、もはや冬の到来を知らせている。厚手のシャツを羽織るにはまだ早いかもしれないなんて思いながら家を出たが、むしろインナーを薄いロングTシャツにしたのは失敗だった。裾から入り込んでくる外気でそわっと鳥肌が浮かんでしまう。
何処でもいいからさっさと屋内に入りたい。そもそもどうして大学の門が待ち合わせ場所なんだ、学生じゃないくせに。
寒さのせいで苛立ちのゲージがぐんぐん上がっている。虎杖はまだか、とスマホを確認していると、遠くから「ふしぐろー!」と元気な声が聞こえた。
「ごめん、待たせた!」
「……おせーよ、馬鹿」
来たら一通りの文句を言ってやろう。そんなことを考えていたはずの頭が、虎杖の姿を見てぽんっと飛んだ。
虎杖は濃紺の襟シャツに柔らかなベージュの二ットを重ね、さらに黒のカーディガンを合わせるというシンプルながら秋らしい服装をしていた。こんな格好、初めて見る。伏黒が彼と会うときは、大抵Tシャツかパーカーだった。休日は家でのんびりしているか外でロードワークをするくらいだから、ろくな私服を持っていないと言っていたのは伏黒の記憶違いだっただろうか。
鍛えられた逞しい身体はカーディガンに隠され、すらりとした高身長だけが残っている。こうして見れば、まるで普通の、伏黒と同じ大学生にも見えなくない(しかもお洒落な部類に入る方)。
「伏黒?」
ぼうっと虎杖の姿を見ていた伏黒が我に返った。デートと言われたものの、変に気張る必要は無いだろうと「いつも通り」を目指したはずが、地味な恰好の自分が途端に恥ずかしくなる。
「なんでもない。で、今日は何処に行くんだ」
誤魔化すように訊ねると、虎杖は嬉しそうににっこりと笑った。
「まずは腹ごしらえから!」
じゅう、とソースの焦げる匂いに腹が鳴りかけ、伏黒はろくに朝を食べて来なかったことを思い出した。決して緊張していたわけではなく、部屋の冷蔵庫に手軽に食べられるものがなかっただけだ。誰に聞かせるでもなく言い訳を垂れる向かいで、虎杖が「腹減ったー!」と楽しそうにメニューを見る。
「いつでもちゃんと力が出せるように朝はしっかり食べろって言われてるんだけどさ、今日はちょっと緊張してあんま食べらんなくて……へへ、照れんね」
「…そうか」
「あ、伏黒メニュー見える? どれがいいかな……俺のおすすめは海鮮ミックスモダンなんだけど」
「じゃあそれで」
「おっけ。おばちゃーん!」
腹ごしらえからと言いながら、店は待ち合わせ場所から徒歩十分程度の場所にあった。虎杖が一切の躊躇いもなくお好み焼きの暖簾をくぐったので、伏黒はせっかくの服装に鉄板の匂いがつくのは気にならないのかと思うと同時に、やはり虎杖の中にもデートという意識はあまりないのではと期待した。
それも束の間のこと。注文を終えた虎杖は何処か落ち着かない様子で店内を見回している。
「ここ、夜勤終わりとか先輩たちとよく来るし来慣れてるんだけどさ…伏黒と一緒だと、違う店みたいで変な気分だ」
おいやめろデートの空気を醸し出すな。
伏黒は表情を崩すことなく「そうか」と同じような返しをするのが精一杯で、注文したお好み焼きが運ばれてくるまで会話は一向に盛り上がらなかった。自分は今まで虎杖とどんな会話をしていただろうか。思い返してみても、記憶通りにはできない。
そうこうしている間に、二枚分のお好み焼きが運ばれてきた。皿で持ってきたものを二人の間にある鉄板で焼き直してくれる。じゅうじゅうと生地が焼ける音に合わせ湯気が立ち上る。テーブルのソースとマヨネーズ、鰹節、青のりをかけ、伏黒は真っ赤な紅ショウガも添えた。
「伏黒って紅ショウガも好きなんだ」
「わりとな」
「じゃあお好み焼きで正解だった?」
「正解って。普通に女だったらあんま喜んでないだろ」
匂いもつくし、ソースが飛ぶ可能性だってある。やはりそこまで意識していなかったのだなと呆れながらお好み焼きを切り分けていると、虎杖が「いやいや」と笑った。
「伏黒とのデートなんだから、伏黒の好きなもの食べられるのが正解でしょ」
そう言い放って、俺もかけちゃおー! と紅ショウガの瓶を手に取る。
伏黒はやはり「そうか」と返すことしか出来ず、そこからはほとんど会話も無しに、熱々のお好み焼きをハフハフと言いながら食べた。
顔が熱いのは、いつまでも冷めないお好み焼きのせいだったに違いない。
「はいじゃあ次は~、ここ!」
「ここ、って。うちの体育館じゃねぇか」
あまり利用しない裏門から入ったため最初は気がつかなかったが、さすがに建物を見ればすぐにわかった。サークルや部活に所属していない伏黒も、一回生では体育の授業があったため数回ほど利用したことがある。正確には第三体育館に過ぎないので建物自体は小さいのだが、運動するには十分な広さの施設だ。
「申請したら一般でも使えるの、伏黒も知ってるっしょ。俺らもバスケとかしたいときにたまーに使わせてもらってんだ」
「消防士だけのバスケなんて聞くだけでコエーよ」
互いに施設が近隣にあるため、虎杖が所属している消防署から学内での防災指導を受けることがある。今年履修している講義には該当するものがなかったが、昨年度は受けた覚えがあった。虎杖は来たことがないと言っていたが、それにしても屈強な面々がずらりと並んでいたことは忘れられない。講義後、白い歯を見せて笑う彼らに群がる女子学生たちと、それらを白い目で見ながら無言で去っていく男子学生たちも含めて。
あんな体格の男同士でバスケなんて、パスの威力はもちろんだろうがブロックの圧も凄まじかろう。想像しただけで指が痛い。
虎杖は管理室から借りた鍵で倉庫を開けると、慣れたようにカゴを運び出してきた。
「だーいじょうだって! 今日するのはこっち!」
「…バドミントン?」
虎杖が出してきたカゴの中にはバドミントン用のラケットとシャトル、ネットが入っていた。
「これなら体格差あんま関係ないでしょ」
「どの口が言ってんだよ」
「え、ダメ?!」
確かに直接対抗する競技ではないだけマシだとは思うが、虎杖ならネットを燃やす威力のスマッシュを打ってもおかしくない気がする。もしくはガットに穴が開くのではないだろうか。
半信半疑の伏黒に、虎杖は何故か少しだけ声量を落として「俺、道具が入ると実は結構鈍るのよ」と言った。まるで秘密を打ち明けるみたいに、こっそりと。
「バスケはまだ直接ボール持ってていいからできるんだけど。テニスとかバドみたいにラケットで打つ、ってなると案外難しくてさ」
うーん、と首を捻る虎杖の言葉がどこまで本当かはわからなかった。彼の言う「難しい」と伏黒の想像する「難しい」は果たして同じだろうか。やはりまだまだ疑いながらも、それでも、虎杖のわかりやすいほどの気遣いに絆されつつあるのも確かで、信じてみたくなる。
「そこまで言うなら、勝たせてもらうからな」
手にしたラケットで、虎杖の頭を軽く小突く。わ、と声を溢した虎杖は大して痛くもないだろうにわざとらしく頭をさすって、それから「俺だって負けねぇ!」と快活に笑った。
「でもその前にネットの準備ね、伏黒」
「…わかってるよ」
一面分だけポールを立て、ネットを張る。軽くストレッチをしたあといくらか打ち合いをしてみたが、伏黒は思ったよりも自分の体が動くことに驚いていた。バドミントンなんて高校の体育以来だ。定期的に行っているスポーツは無いが、体力づくりを兼ねてジョギングは日課としているのでそのおかげもあるのかもしれない。一方の虎杖は、本人の言う通り、そのフィジカルさに反してバドミントンの腕前は普通だった。打球は全て拾うのだが、やはり道具を使う事には違和感があるらしい。ところどころラケットではなく手そのものを出して打ち返そうとする素振りが見えて、ネットを挟んで相対する伏黒はいつラケットが飛んでくるかと内心ヒヤヒヤでもある。
そうして二十分ほどラリーをしたところで、虎杖が言った。
「試合とかしてみる?」
「細かいルール忘れたぞ」
「いいよ、簡単で! 俺、得点板持って来る!」
虎杖は伏黒の返事を聞かずに倉庫に引っ込むと、すぐにキャスター付きの得点板を転がしながら出て来た。明らかに、学生である伏黒よりもこの体育館を使い慣れている。先ほどもネットを張るためのポールの場所も知っていたし、空調についての心配もされた。以前からロードワークのためにキャンパスも出入りしていたというし、何より、この近さである。通学路を含め、もしかすると動物病院で出会うずっと前から何処かですれ違っていたかもしれない。
そんな相手と今になって出会い、どういうわけか、自分の大学の体育館でバドミントンをしている。しかも向こうは今日のこれを「デート」と言って誘ってきた。到底デートは思えないスケジュールだが。
虎杖は唯一デートらしさを感じられた洒落た服(今やソースと鉄板と汗の匂いが染み付いているだろうが)さえ脱いで、濃紺のシャツ一枚になっていた。そのシャツも、豪快に腕捲りをしている。
「伏黒も脱いだら? 流石に動いてるとあちいっしょ」
「虎杖」
「んー?」
どう考えても、今じゃない。こんなことは帰り際、そういうムードにでもなったときに聞くべきである。理解していても、どうしてか伏黒の口は動いた。開け放った窓から風が吹き込んで、額を流れる汗を冷やす。
「オマエは、俺とどうなりたいんだ」
しん、と突然静寂に包まれた体育館に、遠くからどこかの運動部の掛け声が聞こえてくる。差し込む太陽に照らされて、オレンジっぽく光る瞳をばちぱちと瞬かせると、虎杖は「今聞くぅ?」と笑った。
「悪い。オマエの中にも多少…プランみたいなものはあったかもしれないけど。どうしても今聞きたくなった」
「プラン…って言われると恥ずいな。なーんも考えてなかったのがバレそうだし」
何を今さら、ここまで来て最後に何処でどうするかは決めてないなんて筈がない。伏黒はそれを壊してしまうのは申し訳ないと思いつつも、同時に、そこまでしてもらって自分が彼の気持ちに応えられなかったときのことを考えて恐ろしくもなっていた。
これまで友人として過ごしてきた時間と、今日のこの、「デート」まで。虎杖と一緒にいるのは楽しい。気難しいところのある伏黒は、学内でも友人は少ない。日常は勉強とバイトと愛犬たちと過ごす時間だけで回っていて、遊びに出ることは滅多になかった。
そこにいきなり現れて、伏黒の日常に無理矢理割り込んできた虎杖は、自分にどれだけ笑顔を向けてくれただろう。そして自分は、彼にどれだけの笑みを返しただろう。ほとんど動物と家族にしか開いていなかった心を、虎杖の前では同じように見せることが出来る。これからも、彼と過ごす時間は大切にしたいし、伏黒が人間らしく生きていくなら、きっと必要な存在だ。
そこまで考えても、この気持ちが友人としてなのか、恋人としてなのかははっきりと定まっていなかった。
「俺はまだ、自分の気持ちが何もわかってない。でもそれは、虎杖の口からもまだ聞いてないからだと思う。俺は……デートがしたいなんて言われて、勝手にそういうことなんだろうと思った。なのに、全然いつもと変わらねぇ態度だし、そうだと思ったらいつもと明らかに違うことも言って来て……。正直、俺はオマエがわからない」
だから教えてくれ。虎杖。オマエは俺に何を望んでいる?
「……伏黒」
「ああ」
「どうしても、知りたい?」
「…は?」
「俺の気持ち! どーしても、知りたい?」
ネットの向こうで、虎杖が声を張る。十分すぎるほど声は届いているのだが、その言葉の意味が理解できない。伏黒が戸惑いながらもこくりと頷くと、虎杖はニッと歯を見せた。その瞳に何か、炎のようなものが宿る。
「教えてやるよ。ただし……俺に勝負で勝ったらね!」
パシュ! と発射音のようなものが響いたと思えば、遅れて、伏黒の右半身を一陣の風が撫でる。慌てて振り返ると、後方、コートラインの内側ぎりぎりにシャトルが転がっていた。
「十五点マッチの三ゲームでどう?」
虎杖の手の中で、ラケットがくるくると回る。伏黒は羽織っていたシャツを脱いで雑に丸めると、コートの外へと投げた。
「やってやるよ」
明日は絶対筋肉痛だ。ふくらはぎはすでにパンパンで、体を投げ出して寝転んでいても全身がだるさを訴えてくる。途中から妙な癖がついてしまって、手首の内側にはあざが出来ていた。ラケットの下先が何度もぶつかっていたせいだ。明日はバイトも実習もなくてよかったとぼんやり考えていると、外階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
「伏黒、アイス食うでしょ。下の自販機で買ってきたよ」
「ああ…さんきゅ…」
にこにこと笑う虎杖が、どっちがいい? とバニラとチョコのアイスバーを差し出してきたので、伏黒は少し迷ってからチョコの方を受け取った。
「体育館のすぐそばにアイスの自販機置いてるの、めっちゃいいよね。俺らも体育館借りたあとよく食べるわ」
「オマエ、ほんと学生より学生らしいよな」
「そーかな?」
同じだけ動いたはずなのに、やはり日頃の運動量と筋力が違う。ろくに立ち上がれる気もしない伏黒はどうにか上半身だけ起こしたが、その背も壁に預けてしまった。一方の虎杖は、包装を剥がしたアイスを咥えて運動後のストレッチをしている。
勝負は途中まで互角だった。伏黒が一セット目を先取し、二セット目はデュースにもつれ込みながらも虎杖が取り返し、迎えた三セット目。しかし後半になると伏黒のスタミナが切れ始め、どんどん点差がついてしまった。最終結果は十五対八で虎杖の圧勝。ほとんどダブルスコアである。
スポーツで虎杖相手に勝とうなど、やはり無謀だったのだ。
「でも伏黒もやっぱ上手いよな。器用っていうか……途中まじで負けるかと思ったもん」
「ハイハイ」
慰めてくれるな、余計に惨めになるだろう。適当に返しながら、伏黒もチョコアイスに齧りついた。ろくに水分も取らずに動き続けていた体に、冷えたアイスと甘いチョコレートが染み渡る。
「それに勝負のことなんてすっかり忘れてたし、俺」
「ああ…そういやそんな話だったな」
「って、伏黒も忘れてたんかい!」
ビシっとツッコミを入れた虎杖は、そのまま「俺の気持ち知りたくないのぉ」とわざとらしい泣き真似をする。
「よし、せっかく勝ったんだから伏黒には俺のプラン通り、最後までにデートに付き合ってもらう! ってことで、どう?」
「別にいいぞ。どうせそのつもりだったし」
「そこをなんとか……って、え、いいの?」
「ああ」
「え、じゃあ勝負は」
「オマエが勝手に盛り上がり出したんだろう」
伏黒はただ、虎杖が予定していたよりも早いタイミングで彼に気持ちを聞いただけだ。このまま帰ろうとしていたわけでは――虎杖の返答次第ではその可能性もあったかもしれないが――なく、最後まで付き合うつもりではあった。伏黒が勝ったらデート終了、なんて話は誰もしていない。
「じゃ、片付けするか」
アイスのおかげもあって、いくらか体力も回復した。よろよろとしながらも立ち上がってコートの片づけを始めた伏黒を、虎杖も慌てて追いかけた。
大学の正門前で待ち合わせ、虎杖行きつけの店で昼食をとり、大学内施設の体育館でバドミントン。ここまで来れば、最後の行き先も近場だろうという事は予想できたし、実際、伏黒の読みは当たっていた。
大学から、伏黒のバイト先である動物病院まで続く道。そこに流れる大きな川。毎日のように通る、伏黒にとっては通い慣れた道だ。
「ここ、タカを拾ったところなんだ」
徐に足を止めると、虎杖が言った。
「川のさ、あのでっかい岩のとこ! あの岩の上で動けなくなってぷるぷるしてて。なんであんな所にいたのかわかんねぇけど、前日の雨のせいで川の流れも早くてさ…俺は夜勤明けだったんだけど、そんなの見つけたら、もう放っておけねぇじゃん」
「ああ…そういえばそんなこと言ってたな、最初」
もう随分と前の出来事となる記憶を思い返す。病院へやって来た虎杖の足元はズボンの裾までびしょびしょで、受付スタッフの年配女性がまずはその足を拭いてくれと慌てていた覚えがあった。一方で伏黒は、事情を聞く夕香里の後ろで器具の準備をしていたから、虎杖が犬を拾うに至った経緯を詳しくは聞いていなかったのだ。
消防士といえば、人だけではなく、ときには動物の救助に当たることもあるだろう。だが、虎杖は自身の職業が何であれ、同じ場面に遭遇すれば迷わず川に入る。そういう人間だと、伏黒はもう知っていた。
「本当はここも、別に通り道ってわけじゃないんだけど」
「署もオマエの部屋も反対方向だな」
「うん。…ここの川、春になったら土手沿いに桜が咲くだろ?」
川は桜土手として有名で、今は紅葉しかかった葉ばかりだが、春にはずらりと並んだ桜の樹々が国道も川もピンクに染め上げる。川面に映った桜も美しく、シーズン中はカメラを手に歩く人も多い。
「雨で花もだいぶ落ちちゃって、そろそろ見頃も終わりだって聞いたから、あの日は今年最後の桜を見るために遠回りしてたんだ。そしたら、偶然アイツを見つけた」
虎杖がやって来たのは平日の午前中だった。いくら花見の時期とはいえ、終わりごろ、しかもそんな時間帯となると行き交う人も少なかっただろう。
「ずぶ濡れだったし、弱ってることはすぐわかって慌てて一番近い動物病院探したんだよ。本当は評判とかもちゃんと見るべきだったんだろうけど、もうそれどころじゃなくてさ! とにかく近いとこ……て思って行ったのが、夕香里先生と伏黒のところだった」
「…うちの先生は評判も悪かねぇぞ」
「それはもちろん! むしろあそこでよかったよ」
おかげでタカももうぴんぴんしてる、と嬉しげに言う虎杖のボディバッグには、愛犬によく似た犬のキーホルダーがついている。伏黒が言えたことではないが、すっかり犬バカになっている証だ。自然と表情を和らげる伏黒を見つめ、虎杖は眩しそうに続けた。
「俺、この場所に感謝してるんだ。新しい家族と、それから、伏黒に出会わせてくれたこの場所に」
「なんで俺まで」
「なんでって、決まってんじゃん。好きだからだよ、伏黒が」
虎杖の琥珀色の瞳が細められる。
――好き。初めて彼の口から聞いた、虎杖の気持ち。
「俺、ほんとは伏黒のこと前に見たことがあったんだ。大学の中、勝手にロードワークに使ってたって話はしたじゃん? それで、一度だけ伏黒が犬連れて歩いてるの見かけて」
「ああ……確かに、何度か連れて行ったことはある」
「でしょ? しかも白と黒の二匹連れてたから、目に止まっちゃって…でも、何より印象的だったのは伏黒の笑顔」
「え、がお…?」
自分には縁遠い言葉に戸惑ってると、虎杖の方も「驚いてる?」とくすくすと笑った。そりゃそうだ、学内の友人や知り合いにも、バイト先のスタッフにも、もっと笑え、にこやかにできないのか、せめて愛想を覚えろなどと散々言われてきた人間である。親しくなった今ならまだしも、初対面どころか一方的に見かけただけの存在で、そんなに印象に残る表情をしていただろうか。
「うーん、ちょっと違うか。正しく言うなら、動物に向ける笑顔?」
「動物」
「そ。俺が見かけたとき、伏黒は誰かと…多分同級生とかだと思うけど、話してて。周りがめっちゃ笑ってるのに、伏黒は全然表情変えてなくてさ。クールな人だなって俺も思ったよ。でも、そのあと…話してた相手と別れて二匹を撫でてるとき、すっげーいい顏してたんだよオマエ」
思わず見とれちゃうくらいに、と呟く虎杖も、こちらが恥ずかしくなるくらいに優しく微笑む。もしやこれが恋する人間の顏なのかと考え、その相手が自分であることを思い出して頬が熱を持つ。なんなんだ突然。
虎杖はそんな伏黒には気がつかないまま声を弾ませ、興奮したように「だから病院であったとき、運命じゃんって思って!」と叫んだ。
「伏黒は、やっぱりあんときも動物には優しく笑うのに人間には全然冷たくて。俺は伏黒のそういうはっきりしてるところも、今は好きだけどさ。でもやっぱ悔しいじゃん? あの笑顔を、こっちには向けてくれないのかーって思ったら」
「それで、友達にって?」
「応! まずは友達から! ていうか、最初は親友になってやろうと思ってたんだよ。それなら伏黒の笑顔も見られるはずって」
親友のポジションを狙っていたというなら、虎杖は極めて順調だった。ここまで伏黒が心を開く人間は少ないし、この半年の付き合いでいえば一緒に過ごした時間は家族の次に虎杖が多いだろう。
それがどうして、デートになる。
伏黒が疑問をぶつけると、虎杖はあー、と声を漏らしながら照れた様子で言った。
「焦っちゃって」
「…何を」
「伏黒のこと。他の誰かに、伏黒の特別なポジション、取られちゃうかもって思ったら」
「はぁ?」
虎杖曰く、デートを申し込んだあの日、待合室で話していたペット仲間の婦人たちが伏黒の話をしていたということだった。それも、「前からイケメンだと思っていたけど最近は表情も柔らかくなった」「無愛想だったのが雑談にも応えてくれるようになって」、「あれなら自分の孫を紹介したい」……などという、待合室では毎日のように繰り広げられる会話だったのだが、虎杖はそれを聞いて、伏黒に恋人が出来ることを想像したらしい。
「俺は、伏黒の親友になればあの笑顔も周りの人よりたくさん見てられるんじゃないかって、勝手にそう思ってたんだよ。でも例えば、伏黒にかわいい彼女でも出来たらそんなこと言ってられないだろ? 伏黒の、あの愛しそうな…信頼と愛情のこもった笑顔を、俺より近くで俺よりたくさん見る人がいる。そう考えたら、なんつーか悔しくって」
居もしない相手に嫉妬して、焦って。何より、虎杖の目には、伏黒の不器用な笑顔が「信頼と愛情」の証に見えるという。同じ笑顔を自分にも向けて欲しいと、誰よりも見ていたいと。
そんなこと考え始めた時点で、とっくに答えは出ていて。
「あー俺、伏黒が好きなんだなって」
――そのとき、ようやく気付いたんだ。
「俺は伏黒とどうなりたいのかって聞いたでしょ? 俺は、伏黒の親友でもいたいし、恋人でもいたい。いつかは……家族になりたいとも思う。とにかく、伏黒の笑顔を誰よりも近くで、誰よりもたくさん見ていたい。そういう存在になりたいんだ」
ぴんと背筋を伸ばした虎杖が、そのまま腰を曲げて頭を下げる。そして、ごつりと大きく、日に焼けた右手を差し出した。
「伏黒が俺とどんな関係になりたいか、伏黒の俺に対する気持ちがどんなものか、今はまだ定まってなくていい。だから、」
「伏黒恵さん、俺と、これからもデートしてください。伏黒の傍に、隣に、いさせてください」
親友として、恋人として、家族として。全部のポジションに立って、伏黒の隣にいたいと虎杖は言う。この欲張りな男を、さて、自分はどう受け止めるか。
伏黒はしばらく虎杖のつむじを見つめ、この鴇色の髪は一体どういう仕組みなのだろうと余計なことを考えた。地毛だと聞いたが、こんな頭でよく消防士をやっているものだ。
どうでもいいことをひとしきり考えたあと、やがて伏黒は現実に向き合う覚悟を決めて言った。
「顏、上げろ」
静かに、ゆっくりと虎杖が頭をあげる。気を抜いたら洪水でも起こしてしまうのだろうか、眉間には皺が寄っているし、唇を強く噛み締めているのがわかる。酷い顔だ。今日一日、どれだけ余裕のあるフリをしていたのかと思うとなんだか可笑しくて、散々戸惑わされた分、少し仕返しでもしてやろうかなんて悪戯心が浮かぶ。
きっと、こんな気持ちになるのはコイツだけだから。
伏黒が川の方に体を向けると同時に小さく風が吹いた。並木の葉が揺れて、川の流水のようにザァと音を立てる。
「俺も家からだと少し遠回りになるけど、春はここの桜沿いを散歩コースで歩いてる。同じように散歩させている人も多いから、犬同士の交流もできるし何より気分がいい」
伏黒の言葉に、虎杖は「ああ…」と数瞬遅れて反応した。
「あー…それ、いいね。うん。俺も休みの日は連れてこようかなーなんて、」
「虎杖」
「…うん?」
「春になったら、今度はこの桜沿いをデートしないか?」
薄らとピンクに色付く花をつけた桜並木の下を、互いの大切なパートナーを連れてみんなで歩く。もちろん、二人だけでこっそりと花見をしたっていいし、シーズン中はライトアップもされるから、夜桜を見るのも乙だ。
すっかり振られたと思っていたのだろう、振り返った先の虎杖は、あんぐりと口を開いて間抜けな顔で突っ立っている。
その瞳から、ぽろりと一滴零れた。
「は?……ったく、人の笑顔が見たいだの言っておきながら何泣いてんだよ」
「だって伏黒……だってさぁ」
いいの、と訴えてくる虎杖の背に手を回し、優しくさすってやる。時折二人の後ろを通り過ぎていく人々が、何事かとこちらを見ていることには気づかないフリをした。
「俺、すげー我儘なこと言ってるよ? 自分でも勝手だってわかってるし、こんなのデートの最後に言うなんて、順番も無茶苦茶じゃん」
「わかってんのにやったのかよ」
「うう、ごめんんん」
ぐすぐすと鼻を啜る虎杖に、伏黒は自分の鼻の奥もなんだかツンとする、ということは悟られないようにしながら、出たばかりの答えを彼に教えてやる。
「いいんだよ、それで。我儘で、自分勝手なところがあって、こっちの話も聞かずに走り出して…でも、絶対に裏切らない。それくらい無茶苦茶な――俺の狭い世界を壊してくれるような、オマエが、きっとこれからも必要なんだ」
涙の膜でぼんやりと滲んで、水面のように揺れる虎杖の瞳に、伏黒の姿が映る。
ああ、やっぱり。
「伏黒の笑顔、好きだなぁ」
◆
待合室からは、存在を主張するかのように動物たちが元気に吠える声がする。煽られたように負けじと吠える犬の鳴き声と、不満と不安を訴える猫の鳴き声、賑やかしに参加するかのごとく鳥のさえずりも聞こえてきて、カオスな空間になっていることは診察室にいても察することが出来た。
「あらら、今日のお客さんはみんな元気ね〜。さて、次のお客さんは…」
夕香里がじっとカルテを見つめた先で、診察室のドアが開いた。こげ茶のハーリアを抱えた青年が「失礼しゃす!」と運動部の部室のようなノリで入ってくる。
「はいこんにちは、虎杖さん。それにタカくん。風邪はすっかり治ったかな?」
「おかげさまで!」
「よかった。こじらせると大変なのは、人間も動物も同じだからね……さて、今日は予防接種ね? ふしぐろくーん、準備お願い!」
夕香里が声をかけると、すぐにカーテンの奥から青いスクラブ姿の伏黒が姿を見せた。
「まずは体重測定からですね。虎杖さん、落ち着くようにタカくんに声かけてあげてください」
「おっけー」
「……」
「あ、ハイ」
伏黒の無言の圧に、虎杖がすぐに言い直す。そんな二人の様子を眺めて夕香里はわざとらしくため息をついた。
「伏黒くんったら、冷たいなぁ。仲良しなんだからそんな顔しなくてもいいのに」
「なっ、変なこと言わないでください!」
「あれ、夕香里先生知ってんの?!」
「オイばか、余計なこと言うな!」
「知ってるわよぉ。君ら、桜土手の川沿いで肩組んで泣き合ってたんでしょ?」
あの道、犬の散歩させてる人多いからねーと歌うように夕香里が語る。そう、あのとき気付かないフリをしてスルーしていた通行人の中には、この動物病院の常連患者も複数いたのだ。おかげでこの一ヵ月ほど、伏黒は「川沿いで男二人肩を組んで泣いていた」というネタで、病院関係者からも患者からも散々絡まれ続けている。
「組んでないし泣き合ってもないです! 泣いてたのは虎杖だけで…!」
「まあ二人がデートの約束してるとこも、見てる人多かったしねぇ」
「うわーハズ!」
「言いながらニヤニヤしてんじゃねぇ!」
「それでそれで? 結局二人はどこに落ち着いたの? 伏黒くんったら全然教えてくれなくて…」
「え〜? それはそのぉ…」
「ひとつでも余計なこと言ったら俺はオマエと縁を切る」
「ちょ、伏黒ひど!」
「やだもう余計に気になる〜!」
「先生、待合混んでるんですからほどほどにしてくださいよ」
きゃー! と夕香里が声を上げたところで、受付側のカーテンから他のスタッフが顔を出した。先程までのはしゃぎっぷりが嘘のように、一斉に全員が口を閉ざす。そのまま業務的な会話のみで進めれば、タカも声をかけてやる必要がないほど大人しく体重を測られ、注射をしても無駄に吠えたりはせずに落ち着いていた。
「本当に賢い子ね」
それでも心なしかしょんぼりとした頭を撫でてやり、夕香里がにっこり微笑んだ。ぶん、と少しだけ元気を取り戻した尻尾が揺れる。
「伏黒くん、午後は大学よね」
「はい」
「じゃ、もう上がっていいわよ」
「え? でもまだ…」
時計を確認するが、交代にはまだ時間があった。他のスタッフもいるとはいえ、待合室の込み具合を考えると当分忙しいのではないだろうか。
心配する伏黒を半ば追い出すように、「いいから!」と背中を押す。
「こういうときは素直にありがとうございまーす、でいいの。虎杖くん、今日はオフ?」
「あ、ハイ!」
「じゃあ伏黒くんのこと、よろしくね」
ぱちん、と華麗なウインクが決められ、揃って待合室に出される。スタッフルーム向こうなんだけどな、と思いつつ、伏黒が「着替えて荷物取ってくる」と伝えると、虎杖も「支払い終わったら外出てるよ」と返した。
「うーん、肌寒いけどいい天気」
「日差しがあると充分だな」
リードの先のタカは道端の草に時折気を捉えながらも、二人の邪魔はしないように足を止めずにせっせと歩く。病院に行くときにしか通らないルートなので、普段よりはやはり落ち着きがないのだが、しっかりと空気を読んでいる。
「桜が咲くまではまだまだだなぁ」
「気が早いな。本格的な冬もこれからなのに」
くす、と笑みを溢した伏黒の顏を、虎杖が嬉しそうに覗き込む。信頼と愛情を浮かべて、僅かに上がった口角が愛おしくて仕方がない。
「…なんだよ」
「ん? いい笑顔~と思って」
「っるせぇ」
「おわっ」
照れ隠しに伏黒が出した拳を避け、虎杖の体がバランスを崩す。咄嗟にリードの持ち手を伏黒に投げると、そのまま草が茂る土手を転がっていった。「わわわわ……」と慌てふためく声が段々と小さくなり、投げられた持ち手をしっかりと掴んだ伏黒は、タカと顔を見合わせてから土手下を覗く。
虎杖は、彼愛着の真っ赤なパーカーに草や土埃を纏わせた姿で川沿いぎりぎりに転がっていた。
「ふ、ふしぐろぉ」
転がった拍子にパーカーのフード部分が頭にかぶさっており、情けなさに拍車をかけている。そんな姿を呆れた顔で見ていたはずの伏黒は、さらに「ハックシ!」と妙なくしゃみを溢した虎杖に堪えきれなくなって声を漏らした。
「っ、くく…なんだよ、それ…ぷ、ははっ…」
「ふしぐろ…?」
「どうやったら、んな漫画みてーな…ふ、ははっあはは」
腹を抱えて笑う伏黒に、タカも尻尾をぶんぶんと振ってその場でぐるぐると回っていた。そんな二人の後ろを、何も知らない人々が通り過ぎていく。
眩しい。眩しいなぁ。
こんな姿を、ずっと、これからも。
「ねー伏黒、提案なんだけどさぁ……」
風が吹き、川が流れ、樹々は葉を落としていく。季節は着々と冬に向かって進んでいるが、今年の冬はきっと今までよりも寒くない。
春は、まだもう少し先に。