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    『橘禍散夢』
    フォルダの片隅から発掘した本編とは違うルートを辿った承和の変短編集(本編とは)
    恒貞親王・逸勢・健岑のお話。

    【断琴】

    「恒貞様」
     恒貞は、己を呼ぶ掠れた声を聞いて、ゆるりと振り返った。
     時は闇の忍び寄る誰そ彼時。周囲には、うすぼんやりとした闇が広がっていた。どこからか、橘の花の香りがしていた。
     年年歳歳花は相似たり、歳歳年年人は同じからず。人は変わってしまうけれど、橘の香りはいつの年も変わらない。それなのに、橘花の香に懐かしさを覚えた。「橘」に、そしてその掠れた声に、故人を思い出したからだ。
    「――怨みを」
     掠れた声は、恒貞の眼前にある老松の向こうから聞こえてくる。ただし、声の主の姿は見えない。橘の木も見当たらない。姿のない橘花の香りに混じって、腐敗した肉と血の臭いがした。
    「生者が口を噤むというのであれば、死者こそが怨みを騙るべきである。生者が報復を胸の内に望むのであれば、死者である私こそが祟りを為しましょう。故に報復を望みなさいませ。怨みを述べなさいませ」
     松が風に吹かれる音がする。蝉の鳴き声が聞こえる。琴の音に響きが通うという、二つの音が。
     恒貞は、かつて自分に琴を教えた男のことを思い出していた。唐に渡り、琴と書を学んだというその男のことを。彼は恒貞の祖母にあたる、橘嘉智子の従兄妹だった。
     だが、彼はとうの昔に死んだ。
     皇太子だった恒貞を担いで乱を起こそうとしたとして拷訊を受け、流刑となり、配流途中に死んだ。恒貞も事件の責任を負って皇太子を廃された。
     松声、蝉声。二つの琴曲は重なり合い、千々に乱れ、不愉快な音を立てた。風に吹かれてぱき、と松の枝が軋む。あの男は、こんな曲を奏でる者ではなかった。こんな音を良しとするような者ではなかった。
    「お前は誰だ」
     恒貞は木々の向こうに問うた。
     声がくつくつと嗤う。蝉が嗤う。松風が嗤う。不愉快な音がする。
     ばきばきと、枝が折れる。常緑の葉が凋む。草葉の露が零れ、空蝉が地に落ちる。
    「私は『非人』である」
     木の向こうから声が言う。
    「私は人に非ざるものである」
     木の上からもその声がする。
    「私こそが、姓を奪われ異郷に死した、『非人』逸勢である」
     地に落ちた枯葉から、空蝉からも、その掠れた声が聞こえた。
     ああ、そうだったな、と恒貞はぼんやりと思い出す。逸勢は、橘姓を剥奪されて「非人」と改められて死んだ。そうであればこの者は「非人」逸勢である。「橘」逸勢という男は、その「人」は、もうどこにもいない。
    「報いが必要である。咎無くして罪せられる者があってはならぬ。人を陥れて呵々と笑う者があってはならぬ。それこそが正しいと、貴方もそうお思いになるでしょう」
     上からも下からも、右からも左からも、何処からもその掠れた声がする。香りだけがする橘花と同じで、姿は見えない。それを見てはいけない。見るな、と言われたわけでもないのに、恒貞はなんとなくそれを理解していた。
    「逸勢」
     恒貞は男の名を呼んだ。
    「私はそれでも、誰のことも怨むことはできない。私には、もう何もできない」
     しん、と声が止む。蝉声も、松声も止む。きっと、木の向こうの彼は目を瞠っているのだろう。己の無念が誰にも理解されぬ絶望に。理解してくれると信じたかった恒貞への失望に。恒貞にはそれがなんとなく分かった。
     けれど恒貞には語れる怨みなどないのである。恒貞の心は何もかも枯れ果てていて、とうに空だった。
    「だからこそお前たちは救われぬのだろうな」
     そう呟いた時、ふつ、と何かが切れてしまったような音が聞こえた気がした。
     もう、声は聞こえなくなった。橘の香も、血肉の臭いもしなくなった。
     ざわざわと松声が聞こえる。蝉声が聞こえる。琴の音に紛うそれらの音が聞こえる。
     夜の風が、身を冷やす。恒貞は踵を返し、自分の房に引き返した。
    「松は年の寒に凋まず、貞節を守る。忠臣は国の厄にも貞節を守り抜く。蝉は清露を飲み、喰らわず。貪らない者は高潔の士である」
     しまっていた自分の琴を手にする。あの事件以降、一度だって弾いていなかった。きっともう良い音は出ない。混ざり合って乱れたあの音のようにしかならないだろう。
    「私に琴を教えたのは、橘逸勢という人間だった。唯の人間だったのだ」
     この音を分かってくれる者も、もういない。
    「それがもういないというのであれば、私の知音はどこにもいない。私も、お前の知音にはなれなんだ」
     ふつり、と。恒貞は琴の絃を断った。
    「……だからこそ救われぬのだ、私も」
     蝉の声が止む。松風の音が止む。がらん、と琴だったものが床に落ちる。
     恒貞もその場に崩れ落ちて、顔を覆った。
    「私は怨むべきだったのか? 私が声を上げれば、何か変えられたのか?」
     それに応えてくれる声はもうない。


    【橘禍】

     もう歩くことはできなかった。私は地面に倒れ伏していた。一面に、闇が広がっている。死んだのだ、と思った。死した体でもなお、鞭打たれた傷が酷く痛かった。
    「――人に非ず」
     闇の中に、鈴を転がすような声だけが聞こえた。「非人」。橘姓を剥奪され、私は姓をそう改められた。人に非ず。人よりも卑しい存在に私は貶められたのである。
    「違う、私は左大臣・橘諸兄の曾孫にして橘入居が末子、橘逸勢だ」
     闇に向かって、私は掠れた声を絞り出した。せめてもの矜持だった。声はくつくつと笑っていた。
    「いいや。橘の姓はすでに奪われたもの。非時香菓は零れ落ちたもの。非人逸勢。それが今のお前だよ」
     冷たい指が私の頬を撫でる。耳元で声が聞こえる。
    「名は言祝ぎにして、その反面、呪いでもある。『非人』という姓を、その呪いを、その身に、その魂に――」
     からからと、甲高い声が煩いくらいに響く。その時、何かが私の中に這入ってきた。
     圧迫感で喉が詰まる感覚があった。屍ならばとうに朽ち果てたはずの臓に何かが満ちる感覚があった。耳から。口から。眼窩から。鼻から。膿んだ傷口から。穴という穴から、ぎちぎちと、何かが詰め込まれる。私の中身が増える。骨の折れる音がした気がした。皮のさける音がした気がした。何か、あってはならない音が聞こえた気がした。私は言葉にならない呻き声を上げたと思うが、声になったのかは分からなかった。
     腸に唐で目にした、腸詰めという料理を思い出した。豚の腸に肉や香辛料を詰める。これは、そういうものにも似ていた。
     帰りたい。帰れるものならば、あの日々に帰りたい。あの日々とはいつだ?
     誰かが経を読む声が聞こえる。ぶつり、ぶつりと肉の裂ける感覚がある。橘の花の香がする。鉄の味がする。女の面影がちらつく。幾重にも重なる女たちの幻影が見える。女が鈴を鳴らしながら舞う。女が夢から覚めて身を起こす。女が橘の木を手折る。女が糸の切れた数珠を拾い集める。
     そして女は、物語を語り始める。
     記憶が。最早どこまでが元の私のものだったのか分からない。
     彼女が最後に何と言ったのか、思い出せない。彼女の顔が思い出せない。
     どれが彼女だったのかも思い出せない。
     私の帰る場所など、もう何処にもなかった。
     何かが私に混ざる。何かが私を侵食する。私だったものが、はち切れそうなほどに満たされ、中身が攪拌される。
     お前は誰だ。内側から怒声が聞こえる。お前は誰だ。枯れた喉から啼き声が聞こえた。お前は誰だ。蠢く肉からうめき声が聞こえる。お前は誰だ? 頭の奥で、鈴のような笑い声が聞こえた。私は憎悪を抱く。私は悲歎を覚える。私は苦痛を感じる。私は怨恨で満たされていた。
     私は何か叫んだのかもしれない。泣いて助けを求めたのかもしれない。縋るように手を伸ばしたのかもしれない。誰かの名を、呼んだのかもしれない。
    「  」
     分からない。あれは誰だったのだろうか。思い出すべき人間は、誰だったのだろうか。私は今、何と言った? ■■で埋め尽くされる。怨まねばならぬ。私は誰だったのだろうか。■■が溢れかえる。せめて私が祟りを起こさねば、奴らに報いがなくては、彼らの胸の傷は癒えぬではないか。私は何だろうか。■■が氾濫する。口を閉ざした生者に代わって、死者こそが罰を為さねばならぬ。私が塗り替えられる。自我だったものを侵しつくされる。存在を嬲りつくされる。
     一つだけ、分かったことがある。
     人ではない。人であっていいわけがない。人に非ず。ああ、これはそういうものである。
     私は「非人」である。
     「非人」逸勢。なるほど、これこそが私である。


    【忘却】

     橘の花が風に吹かれて散っていました。その中で、ぱちり、ぱちりと音がしています。私は、死んでしまったはずの友と碁を打っていました。どうして彼と碁を打っているのかは知りません。
    「すみませんね、私などで」
     そう言いながら、私は白い石を盤上に置きました。
    「他に誰がいるというのだ」
     彼はそう答えて、盤上に黒い石を置きました。私と彼は、一度だって共に碁など打ったことなどありません。私も彼も、特別うまいということもないと思います。だから囲碁などしたところで意味はありません。きっとこの場にいるべきだったのは私ではないはずです。
    「いえ、やはり私には」
     碁石を持つ指が震えてしまいます。緊張ではないのです。ただ、傷が痛むのです。訊問の傷が、未だに癒えないのです。彼のほうは、その尋問の傷が一因で死んだのだと思います。
     私はこの傷の痛みを知っています。だから彼の苦痛が分かるでしょう。……などということが私の呼ばれた理由なのだとすれば、浅はかにもほどがありますけれど。
     死者の苦痛が生者に分かるものですか。生者の苦悩が、死者に分かるものですか。他人の痛みなんて、誰がちゃんと理解できるものですか。
     だからこそ、私などでは彼を救えないでしょう。この苦痛を晴らす、正しい方法など私には分からないのです。私の傷はまだ癒えず、足掻くことも諦めてただこの痛みに喘いでいるのです。
     救ってほしいのは私のほうだというのに。
    「  」
     妙な胸騒ぎがしました。彼が私の名を呼んだのでした。呼んだのだと思うのですが、音にはなっていませんでした。だから私は返事をできませんでした。けれど、彼が私の名を呼んだことだけは分かっていました。
     傷が痛みました。応えてはいけない。それだけは不思議と分かっていました。
    「おい、どうした、  」
     また名を呼ばれたような気がしました。彼が、返事をしない私を怪訝そうに見ていました。
    「すみません、少し考え事を。私に何か?」
     気が付けば、盤上は黒が優勢になっていました。次は私の番でした。
    「一つ、聞いても良いだろうか」
    「私などが答えて良いのであれば」
     彼の言葉に私は頷いたのですが、その実、嫌な予感がありました。寒気がして、震えが治まらないのです。恐らくもうこれ以上私は碁を続けられません。冷汗が止まりません。
     彼の唇が動きます。それが何故だか恐ろしくてたまりません。本当は何も聞かれたくありませんでした。
    「――お前は誰だ」
     私は、思わず震える指から碁石を落としてしまいました。
     それは彼が置いた黒い石の上にぶつかって、そして、黒い石に代わりました。からりと、黒く変わった私の石が、空いた枡の上に収まってしまいました。気が付くと、盤上は全て黒い石で埋め尽くされています。散り乱れる橘の花さえも黒く染めあげられていました。
     分からないのです。今、私の目の前にいるそれは、私の友――橘逸勢という人――なのでしょうか。その目の前にいる者が、本当に私であっていいのでしょうか。彼はもしかしたら別の人間をここに見ているのではないでしょうか。別の誰かの名を呼んでいたのではないでしょうか。私が答えてはいけないのではないでしょうか。
     これ以上は続けられないと思いました。盤上は埋め尽くされて、新たに石を置く場所も残っていないのですから。私にはどうすることもできないと思いました。私は誰も救えないと分かってしまいました。ええ。分かっています。
     私では、どこにも爪痕を残しえなかった。
     きっと彼らも私のことを忘れる。彼のことを忘れる。何事も片付いたと、また日常に戻っていく。犠牲者の声は、彼らには届かない。
     すべて無意味でした。意味があると信じ、あの方を救えると過信したことが愚かでした。
     私は少しばかり、死んでしまった彼を、憎いと、思いました。この苦悩を背負うこともなく、死んで、こんなものになり果てて、そうして私のことも何もかも忘れてしまった彼を、私は怨みました。
     怨んだのは、私のほうなのです。
     私は盤を覆しました。無意味だからです。私にとっても彼にとっても、それは意味がないものだからです。石がばらばらと零れ落ちていきました。糸の切れた数珠のようでした。どこか遠くで、不如帰の声が聞こえた気がしました。血を吐くような声でした。
     貴方の――違う。お前の悲しみなど、私には分からない。分かってたまるものか。
    「貴方は誰ですか?」
     私の言葉に、はたと彼は目を瞠りました。その目から涙が零れ落ちました。血の涙でした。
    「ああ、そうだ」
     彼はとても苦しそうでした。死者の苦しみなど、私には分かりませんが。どうせ彼だって私の苦しみを理解などしやしないでしょう。だからどうでもいいことです。
    「誰だ。私は、誰なのだ?」
     ……いいえ、これは彼ではない。死者でもなく、生者でもない。彼の名を、こんなものにくれてなどやるものですか。彼の姿を、見出してなどやるものですか。
     こんなものに、私の怨みが解るものですか。誰にも、私のことなど分かるものですか。
     この怨みは、私のものです。正しく私だけのものです。死者に肩代わりさせてなどやりません。誰にも共感などさせません。
     これだけを、私は噛みしめて生きていきます。
    「失せろ」
     そう言った私は、どんな顔をしていたでしょうか。泣きそうだったようにも思います。怒りがあったような気もします。
     ああ、けれど、どうしようもなく、いつも通りに笑って見せたのかもしれません。
     ふつ、と何かが切れたような音がしました。

     私はそこで目を覚ましました。
     相も変わらず、酷く乾いた朝でした。
     何か、夢を見たような気がします。悪夢だったと思います。けれどあまり覚えていません。思い出す必要もないでしょう。夢を見たところで、きっとこの渇きは癒せないでしょう。
     彼を救えると、そう思ったのはすでに零れ落ちた遠い夜の夢。もうすでに目は覚めました。夢はとうに褪めてしまいました。
     外では霍公鳥が鳴いています。血を吐くような声でした。
     この終わりの見えない、虚ろな日々はまだまだ続くのでしょう。
     ふと見ると、枕元に、黒い石が落ちていました。碁でも打つような石でした。
     何か意味のあるものだったのでしょうか。けれど、私はそれに何の意味も見いだせませんでした。何の感慨もなく、それを外に放り投げて、私は呆然と、未だ明けきらぬ空を眺めていました。
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