夢を見た。
上下左右、周囲三百六十度、その全てを燦然と煌めく星に囲まれて、宇宙に立ち尽くしている。あたりをぐるりと見回しても、他のものは見当たらない。
一歩踏み出してみればそのまま歩けたので、司は床も何もない宙ぶらりんの空間を真っ直ぐに進んだ。足音は当然の様に聞こえない。
どこまで続いているんだろうか、と夢の中だというのに漠然とした不安が胸を占める。突如として足元の風景が一変した。
膝から下の空間に、乳白色の川が流れている。これは天の川なのだ、と考えるよりも先に頭が理解した。夢なので濡れる感覚はない。けれどただただ冷えていく足さきを見つめてみたけれど、時折きらきらと水面がひかるばかりで何も分からなかった。
止めた足どりを再開させれば、音もなく波が立った。目的もなく、上流と思しき方向へと進んでいく。どのくらい経ったかも分からない頃、不意に人の姿が現れた。少し先の川べりに座り込んだその姿に、司は見覚えがあった。
声を掛けようとした瞬間、踏み出した右足の脛に何かがこつりとぶつかった。何だろう、と手を伸ばす。掴んで、引き寄せてみれば、指先に伝わったのは刺す様な冷たさで。
再び水面へと目を向ければ、先ほどまで不規則に煌めいていた水面の全てが、正方形の氷へと姿を変えている。水が冷たかったのはこのせいか、と夢の中の思考はどこかオートマチックに進んでいく。
視線を感じて顔を上げれば、いつのまにか立ち上がった人影が、じっとこちらを見つめていた。それと同時に音のなかった宇宙に、ざく、と軽くて涼しい音が響いた。その人の薄く開いた口に、半透明のミルク色が放り込まれる。
その人影——神代類は、天の川のほとりでかき氷を食べていた。
▽
目覚めと共に司を迎えたのは、朝を迎えた現実だった。目覚ましの鳴る五分前という、いつも通りの朝。
「変な夢だったな……」
ひとりごちたその言葉は、朝の澄んだ空気に転がって溶ける。
類に話をしたらどんな顔をするだろうか。想像上の彼は、へぇ、と一言口にしてドローンを上空へと飛ばした。
流石にもうちょっと違う反応をするだろうか。どう返ってくるのか知りたい、と司は勢いよくベッドから起き上がった。
休日の朝は往々にして静かだ。今日も平均的な静寂に満ちた街並みを、フェニックスワンダーランドへと急ぐ。
本来の集合時間にはまだ随分と余裕がある。けれど、類に話をしたいのだと浮き足立つ思考は一刻も早くと言わんばかりに、身体を玄関の先へと突き動かした。
たどり着いた従業員用の出入り口を足早に駆け抜ける。園内にはまだ朝の空気がたっぷりと残っていた。
この時間ならばきっと一番乗りだろうか、とステージへと急ぐ。けれどふと視界に入ったそれに、司は思わず足を止めた。
案内センターの横、東向きのそのスペースに、青々とした笹がいくつも並べられている。
「そうか、七夕か」
朝食の共にしていたニュースでも、今日が七夕だという話題を取り上げていたのを思い出す。
近寄ってみれば笹の横にはテーブルが設置されている。『七夕のおねがいごとをかいてね!』のポップと共に、マスコットキャラクターであるフェニーくんの印刷された色とりどりの短冊と、いくつかのカラーペンが束になって置かれていた。
ぬるい風に吹かれた短冊が、かさりと音を立てて宙を泳ぐ。足元から、司の頭頂部よりも高いところにあるてっぺんまで、カラフルな願いが所狭しと並んでいた。
子どものおおきく角ばったひらがなに、流れるように連なった美しい文字。
遠目に見えるだけでも、十人十色の言葉と願い事にあふれている。再び風に靡いた短冊に、そろそろステージに向かうか、と立ち去ろうとして。
けれどその足は、背後からの
「やあ」
という声に押し止められた。
「おはよう、類」
「おはよう、司くんはこの短冊書いたのかい?」
隣に並んだ横顔を、挨拶と共にちらりと見遣る。先刻の司と同じように笹と短冊の群れを見つめる目元には、薄く隈が浮かんでいた。
「いや、書いてないな。というか類、お前徹夜してきただろ」
「徹夜はしてないよ、これは本当」
「じゃあ何時に寝た?」
「ご……四時半くらいかな」
「それはもう仮眠だろ!」
「でも寝た、ということに変わりはないよ」
「百歩譲って入るとしても身体に悪いぞ」
司の言葉に、類はどこ吹く風といった様子で笑っている。時間の使い方は個人の自由であることを分かってはいるけれど、その月色の下に隈が出来るたびに、心のどこかがざらつくのだ。
「こうなったら短冊に類がちゃんと十時に寝ますように、って書いてやるからな」
「十時に寝る男子こうこうせは司くんだけだと思うよ、あとそれ僕に直接言った方が良くないかい?」
「言ったところでやるとは思えん」
「まあそれは確かに」
テーブルの上、桃色の短冊を引っ掴んで、ペンのキャップを外す。少しだけ悩んでから『類の徹夜の回数が減りますように』と書き上げた。
「ほら、書いたぞ!」
ずい、と見せつけるように眼前に差し出せば、瞬きと共に感嘆の声が帰ってくる。
「内容、少し優しくしてくれたんだね」
「達成可能な内容の方がいいかと思ってな。高望みするよりもまずは初めの一歩から、だ」
そのまま踵を返して、僅かに空いたスペースに桃色をくくりつける。
これでよし、と後ろを振り返ると、類の姿はなかった。反射的に反対側をみれば、彼はテーブルの上の短冊を一枚手にしたところだった。
「類も書くのか」
「僕もまだ書いてなかったからね。それに司くんが折角僕のことをお願いしてくれたんだから、僕も司くんのことを書こうと思ってね」
「ほう、なんて書くんだ?」
「それは叶ってからのお楽しみかな」
ペンが黄緑の短冊の上をさらさらと滑る。キャップの閉まる音と共に、類の手元でひらりと短冊が揺れた。
「本当になんて書いたんだ⁉︎」
「フフ、何だろうねえ」
たっぷりの余裕を見せつけるように類が笑う。そのまま笹のてっぺんに裏向きに括りつけられてしまって、司は思わず唇を噛んだ。八センチと腕の長さの差を、如実に示されてしまっている。
「風が吹いたら見れるかもね」
「くそっ、とんでもないことを書いてないだろうな?」
「ほら、早くステージに行こうじゃないか」
類はそう言うと、足早にステージのある方向へと進んでいく。あの薄緑に、一体何が記されているのか。できれば願い事が織姫と彦星に届く前に知れれば、と思ったところで、唐突に今朝の夢の存在を思い出した。短冊の話ですっかり頭から追いやられていたそれを伝えようと、司は口を開いた。
「そうだ、類」
「短冊なら、また休憩の時にでも見に行くといいよ」
「いや、その話もしたいが一旦関係ない話だ」
ふうん、と帰ってきた声に、そのまま言葉を続ける。
「今日夢に類が出てきた」
「へえ、何かショーでもしてたかい?」
「いや……天の川の氷をかき氷にして食べてた」
言い終えてから、ちらりと類の表情を伺う。淡い色の瞳が心底不思議そうに開かれては、瞬きに閉じている。何とも表現し難いその顔に、彼の新しい表情を見たような気さえした。
「それは何というか、夢だね」
「ああ、しかも類がかき氷を食べた瞬間に目が覚めた」
「それはまた。司くん、もしかして夢の中で僕に食べさせる位に、かき氷のこと食べたいって思ってたりたのかい?」
「そんなことはないと思うぞ」
「ならかき氷じゃなくて僕のことが恋しかった?」
「そんな事は……どうだろうな」
考える仕草を見せた司に、類の目が今度こそ驚いたように丸くなった。
「そこ、考えるところかい?」
「いや、オレは常々ショーのことを考えている自覚があるからな。我がワンダーランズ×ショウタイムの演目は当然一人ではなし得ない、だからこそ共にショーを作り上げる仲間のことを恋しいと思うのは、おかしな話ではないと思ったんだ」
その言葉に、類の足が止まる。つられて司も立ち止まって、その顔を見つめた。
ゆらゆらと視線が揺れる。それから返ってきたのは、珍しくどこか歯切れの悪い声だった。
「……そうだね」
「ああ」
「でも、それだったらえむくんや寧々も出てくるんじゃないかな?」
「む、それはそうだな」
類の目元は穏やかに細められている。
「まあでも、ショーメンバーの中でたまたま僕が一番にでた、ということにしておこうか」
そう笑う声色にも、類にしては珍しい喜色が滲んでいて。今日は珍しい表情がよく見れるな、なんて思った。
「そうしておいてくれ」
「じゃあ折角だし、記念に今日の休憩の時にでも食べようか、かき氷」
「今日も暑くなるみたいだし、アリだな」
「もちろん、我らが座長の奢りでね」
「おい!」
よく通る声が、まだ淡い空に響く。七夕の一日は、まだ始まったばかりで。ショーの練習に短冊のチェック、それからかき氷。
本来の予定から随分と増えたその内容に、これはこれで楽しいかもしれない、と思った。