雲間の光 この先に負傷した帝国兵がいることくらいディミトリにはわかっていた。その上で、先生は一旦退けとディミトリに叫ぶが、聞き入れることはできなかった。後少しで殺せる者たちを見過ごして何になる。ここで逃せばいずれ数倍になって仇なす存在になるかも知れなかったし、追撃できる範囲であった。どうせ怪我がとか、周りの仲間がとか、深追いするなとかそういう甘い類の指示だろう。先生の指揮能力に異論はないが、戦場での慈悲深さには腹立たしいことも多かった。畜生にかける慈悲はない。殺意が膨れ上がり、抑えることはできないし、する気もない。殺せと幻影たちが背中を押すように叫ぶ。
ならばさっさと首を取るだけだ。すぐ戻れば支障はない。
先生の静止の声を振り切って、ディミトリは単騎で駆け出した。先生の言葉に従わなかったのは初めてだと片隅で思った。
どこまで先生が想定していたかはわからないが、思ったより追撃に時間がかかってしまった。断末魔を幻影に捧げながら畜生どもの首をとった後、振り返るとディミトリは思っていた以上に遠くへ来てしまったことに気づく。単騎でいく距離ではない。
後で苦情を言われるかもしれないとチラリと頭によぎるが、知ったことではないと息を漏らして身を翻した。早く戻らねばという気持ちになるくらいには、慣れてしまった。
その時だった。
伏兵の弓矢がディミトリの肩に刺さった。ぐっと奥歯を噛み締めて踏みとどまる。奥から数人が現れ、ディミトリは眉間を寄せた。まだ死にたいのか。まだ殺さねばならないのか。永久に終わらないこの骸の山とこの世の地獄を思い、嘆息した。
傷の痛みはディミトリの殺意を増幅させる。痛みが終わらないのも、殺し続けるのも、全てはあの女のせいだ。このような首をいくら捧げても死者の嘆きは止まらない。骸を積み重ねないとあの女に届かない。
とはいえ弓兵の支援のあるまま囲まれるのは流石に不利だった。理性の片隅に従いながら退却の姿勢をとりつつ数人を切り伏せていく。自分のものとも敵のものともわからない血飛沫が風のように舞い、ディミトリを酔わせた。
殺せ、殺せ、頭の中で叫ばれる度に目眩と頭痛がする。恐らく酸欠に近く、息するのにも苦労する。肉体を酷使し飛び跳ねる合間に深く吸うと血の匂いに吐き気がした。それなのに手足は勝手に新たな血潮を求めて敵を屠った。意思はなく、ただ獣のように切り結ぶ。
敵は単騎だという声に嘲笑って槍を構える。手負いの単騎に随分と及び腰だな。
澱んだ空気を引き裂くような、風が一陣吹いた。
「…聞け、この馬鹿猪がッ!」
狭まっていた視界の端に夜色がちらりと見え、何かがディミトリの鎧に当たる。
その声は、フェリクスのものだった。当たったのは、フェリクスの体だった。
間違えるはずもない。だが何故ここに。
敵とディミトリの背の間に彼はスルリと入り、敵にとどめを刺していたようだった。アサシンは死角から渾身の一撃を放ったものの、その剣がディミトリに届くことはない。
余計なことをと舌打ちをするが、それだけでない異常にようやく気づく。崩れ落ちる敵と共に、フェリクスの体がずるりとディミトリの鎧をなぞるようにずり落ちた。
隻眼がこれ以上なく開かれた。凶刃はディミトリには届かなかったが、彼の盾には届いていた。
フラルダリウスという、盾に。
「フェリ、クス…」
咄嗟に身体を支えると、好機と見たのか敵が一斉に飛び掛かってくる。咄嗟に足元にうずくまるフェリクスを庇うように立ち、動揺を押し殺して槍を構えて一気に薙ぎ払った。あれほどうるさかった幻影は一挙にとび、視界はクリアだった。騒つく戦場の中で自分の心臓の鼓動だけが強く聞こえる。戦技をモロにくらい大きな手傷を負った一味は、そこにたちすくむディミトリを見て、これ以上の追撃はないと引き下がった。あっさりとした引き際だった。
フェリクスの剣がカランと落ちる音に我に帰る。腹を抑えて苦しそうなフェリクスが切れ切れにつげた。
「ぐ…早く、下がれ」
何故、という疑問よりも前に苛立ちがあった。
「誰が庇えと言った」
どうして放っておいてくれないんだと、胸を掻きむしるような苦しみがディミトリを苛んだ。自分のせいで誰かが傷つくたびに、自身への憎しみが高まるのを知らないのだろう。フラルダリウスはそういう一族なんですよと笑うグレンの顔、どこまでもお供しましょうと笑うロドリグの顔。そんな二人に、死んでは元も子もないと吐き捨てる嫌そうなフェリクスの顔。
「貴様の、ためじゃない…」
そういうのも苦し紛れだった。ゴホと口の端から血が流れるのを、思わず手で拭う。戦闘後の追撃のため、手当てできるものもなかった。血が滲む様子をこれ以上見たくなくて、ディミトリは自らの外套を脱いでフェリクスを包んだ。
槍を背に追い、抱えて立ち上がる。すっぽりと包まれたフェリクスは信じられないほど軽かった。
フェリクスは、こんな風にディミトリを庇うような男ではない。己の信念のため、誰よりも早く先陣をきって敵を屠り、徒歩のくせにまるで飛ぶように道を切り開いていく。強者と戦って死んでいくなら剣士として悔いはないとディミトリにわざわざ告げにくるような男だった。だからこそディミトリはフェリクスを拒まず、やりたいようにすればいいと言ったのだ。
「先生の、いうことくらいは、きけ」
俺にこんなことさせるなと囁く声に、ディミトリは返事をしなかった。だが、やたらと何かが傷に染みた。抱える塊はまだ暖かい。
「ーーディミトリ、こっちだ!」
メルセデスと先生が見えて、ディミトリは足を早めた。先生はディミトリの顔を見て少し目を開いたが、何も言わずフェリクスを受け取った。包まれたフェリクスは意識を失ってぐったりとしており、先生の声にも反応はない。
寝ている姿は年相応であどけない。こんな姿のフェリクスを見るのは初めてだった。ディミトリはメルセデスが眉を顰めて最大の魔力を込めるのを、ただ見ているしかなかった。後ろを振り返り、敵影がないことを確かめた。
「ディミトリ」
同じくフェリクスに回復魔法をかけながら、先生がディミトリに厳しい眼差しを向けた。確かに窮地に陥った失態はあるが、ディミトリからしたらフェリクスが勝手に飛び込んで怪我をしただけだ。無為であり、愚かだと思う。そんな価値はないというのに。勝手にしろ。何故そんな風に思うのか、もはや復讐の鬼たるディミトリには思い出せなかった。
フェリクスを助けるという意味も、戦力という意味以外にディミトリには思いつくことはないというのに、何故臓腑が冷えるような気持ちになるのだろう。
何かがチリチリと焦げ付くような思いが、ここ数節ずっと続いている。
先生はディミトリを睨め付けたが何かを諦めたのか、首を振り嘆息していった。
「指示にはしたがってもらう」
「…ああ」
もう、しない。自分が発した言葉が案外弱々しいことに、ディミトリは気づいて舌打ちをした。
数刻してフェリクスが意識を取り戻した。ああ、よかったとメルセデスの涙声を聞いてディミトリは背を向けた。
「…猪」
背中に声がかかる。俺が勝手にヘマをしただけだ、とフェリクスはいう。そうだと思ったが返事ができなかった。何故淡白で低い、その声色を優しく感じるのだろう。
騎士を嫌悪し、ディミトリの復讐を心から厭う男はそう言って立ち上がった。まだ安静にしていてという押し留める声と、後方からようやく到着した仲間の声。
ああフェリクス、大丈夫か。良かった、生きていて。
ディミトリに、彼らと同じ立場でかける言葉はない。ただ、無事ならいい、そう思った。まだ闇は晴れず、冷たい雨が降っている。