可愛いのだと言ったらお前は怒るのだろうけれど 深夜の、寝静まったフェルディアの城の執務室。
隣に席を構えて大量の書類と格闘していたフェリクスが、もう限界だと絞り出すようにいった。あまりにも苦渋に満ちた声だったため、ディミトリが体をこわばらせた。
「…ふ、フェリクス」
もう懲り懲りだと怒られたのも懐かしいと言うほど遠くはない。あの頃を思い出したが、今は前より良くなってるはず。それでも自らの不徳故についに見限られたのではないかと心配で、紙で顔を隠しながらおずおずと見ると、フェリクスはなんというか、すごく目が据わっていた。
「眠い」
眠いと彼はこんなふうになるのかとディミトリは思う。いつもは誰かしら、少なくともドゥドゥーが側にいて時間に気を遣っていた。ドゥドゥーは寝れないからと仕事をするディミトリをいつもしかたなく許してくれたから、それはきっとディミトリというよりはフェリクスのためだったのだろうと今ではわかる。フェリクスにはどこか兄姉たちの庇護欲をくすぐる何かがあった。
「もうこんな時間か」
ドゥドゥーとロドリグはダスカーに向かっていて不在、シルヴァンとイングリットもたまたま西部に赴いていて、そのためかここ数日はフェリクスだけが執務室に入り浸っていた。最初は時間があれば鍛錬をとか言っていた彼も、書類の山に屈して無言になった。劣勢の戦場に赴くような起死回生を試みる決死の顔をしていたような気がしたが、きっと気のせいだ。
黙々と励んで書類の仕分けをしてくれたフェリクスだが、眠さが限界になる程働いたことはなかったのだろう。フェリクスはディミトリのように宵越しまで仕事はしないに違いなかった。フラルダリウスは元公爵も代理の叔父君も母君も健在で、若い公爵を支援するに万全な体制ではあった。
まともな判断ができなくなるまで仕事させてしまい、気がつかず悪かったとディミトリは書類仕事に苦戦する武人を労った。これも勤めだとフェリクスは心なしか機嫌の悪そうに答えた。
「そうか、ああ、ああ、ゆっくり休め」
ほっとしたようなディミトリにフェリクスは大きくため息をついた。
「…俺はお前のなんだ」
きたぞ、とディミトリは内心で固唾を飲んだ。
これは最近よく聞かれて答えるようになったやりとりだ。うっかりこぼしてしまった気持ちをロドリグがフェリクスに言うとは思えないが、それを踏まえて息子を何かしら焚きつけた可能性はあった。ロドリグは抜け目なくフラルダリウスとして出来ることは全て実行する男だった。
我が盾、我が王と呼び合うのは戦場で鼓舞する時だけで、気恥ずかしくも気は昂るからいい。平時では、フェリクスはディミトリの。
「右腕」
「そうだ。右腕がないと、武具もにぎれないし、文字も書けないし、飯も食えん」
「ああ、そうだな…?」
正解なのが満足げに漏れた吐息でわかる。以前なんだと問われた時になんだろうと首を傾げたら数日拗ねてずっと敬語だった。平謝りしたり鍛錬したりしてなんとか機嫌を取ることができたが、できれば避けたかった。
そういう意味ではなかったが、そうとまで言ってくれるのはディミトリとしても嬉しい。ディミトリと一緒じゃないと嫌だと言っていた小さなフェリクスを思い出した。変わらぬ思いを実感すると一層微笑ましい。
「俺はお前の身体の一部という事」
「あ、ああ、いつも助かっている…」
フェリクスは首を緩やかに振った。
「自分の身体に礼を言う阿呆がどこにいる」
わるいきはせんが、と彼は舌足らずにいう。ああ、これはもしかして眠すぎて寝ぼけているのではないかと思い至ったのは、フェリクスがディミトリに近づいて左腕をとったからだった。昔もよくディミトリの左腕に縋り付いていた。
「フェリクス?」
「俺がこんなに眠いのだから、お前も眠いはずだ」
「え、いや、俺は」
もう少しやってから寝るから先に休んでくれといつもドゥドゥーにいうようにいうと、フェリクスのせっかく緩んでいた眉間に力が入った。何故そんなことに罪悪感に駆られるのかわからない。
「身体の悲鳴を聞かないから倒れるのだと、怒られたばかりだろう」
「フェリクス」
「お前は右腕の声を聞け」
ディミトリは苦笑してしまった。幾分か理屈っぽいが、無茶苦茶な論理を展開するフェリクスには敵わない。こういう時のフェリクスを宥める役目をいつも担ってくれていた兄貴分の不在を少しばかり恨む。そういう采配したのはディミトリだった。二人だけで政務は大丈夫かと心配そうなシルヴァンの顔を思い出すともうやるせない。
「わかった、わかった」
「お前は何もわかってない」
もはや手がつけられない。もう負けだろうと思ったし、いつまでもディミトリはフェリクスの優しい我儘に屈してばかりだ。なぁグレン、お前もそういう気持ちだったか、などと親友に問いかける。
「何をーー」
諦めた顔で立ち上がったディミトリの腕をフェリクスは引いた。油断していたせいでバランスを崩して、馬鹿力は自分だけでないことを思い出す。離すように告げようとフェリクスを見上げて。
ふに、と唇が触れた。麝香が鼻をくすぐる。硬直したかのように動けなくなった。
生きている証、薄い唇は柔らかくて暖かくて優しい。まるでフェリクスそのものだ。
止まるかのような時。色事というには綺麗な触れ合いで、深くなることもなく、ただただ重なる唇。深い、息ができないほど思いがそれでもそこにあった。
至近距離でしっとりと触れ合った唇が開いて、フェリクスの吐息をもれなく感じる。触れ合ったままフェリクスは、寝ろ、といった。
「…は」
ディミトリはしっかりと足をつけて立っているつもりなのに、天地すらよくわからない。フェリクスはしてやったりという得意げな顔をしたままだ。一体何をしたのか、彼に自覚はないに違いない。口づけの意味さえわかっているか怪しいくらいだった。子どもの頃ならともかくもう双方十分に大人であり、かたや国王とかたや筆頭貴族がまるで稚児の如く振る舞いをしている。
「ディミトリ」
ディミトリが呆然としている合間にこれ幸いと引っ張られて、執務室の隣にある仮眠室の寝台にフェリクスはやんごとなき王の体を投げ込んだ。なんということだろうか、寝かしつけるには雑すぎる。苦情をいうことさえかなわない、それはディミトリが自身の上半身を守る鎧を既に脱いでいることに気付いたからだ。
いつの間に。寝台に返した後はいささか雑に下半身の鎧を脱がして、すぐフェリクスは同じく寝台に潜り込んだ。
「手慣れてる…」
「そんなわけなかろう、お前が呆けてるからだ」
ディミトリの横からだにぴととひっついて寝る様子は猫とも犬とも言えない、小さな獣のようだった。最初からそこにあったかのようだ、まるで半身のようだ。
「右腕なのだからここで休む」
「あ、ああ…」
「ねろ」
もうそう告げた数秒も経たずに寝息に変わって、フェリクスは信じられないほど寝つきが良いのだとこれまた初めて知る。一周回って羨望さえ覚える寝落ちっぷりだった。
「これは、右腕、か…?」
人の柔らかな温もりにディミトリは気持ちが和らぐのかわかる。復讐にかられるディミトリを受け入れない気持ちは未だにフェリクスからは伺えた。それでも互いに一歩譲り合えば、きっと隣に立つことはできる。信じてそばに居てくれる。
右腕でも半身でも、そうだな、伴侶でも。ディミトリをフェリクスが望むならそれでよかった。
「しかしこれは随分と」
見ているだけで穏やかな眠りがきそうな気がしてディミトリは微笑んだ。