たとえ夜があけなくても 一日の大半を労働に身を窶せば普通の人間は休みを切望するだろうが、自分からするとひとつの物事に集中している間は余計な思考に囚われないので苦とは感じなかった。寧ろ、暇を与えられると考えなくていいことを考えてしまい、時に頭の奥にある記憶が表層に浮かび感傷だとか未練だとかが顔を覗かせるので厄介だった。
しかし、人間には限界が存在する。脳が疲弊し睡眠や休息を求めて肉体に信号を発する。疲労を抱えた状態では仕事の効率が低下し質の維持も難しくなる。そうなる前に適度に息抜きし、心身を健康な状態に保っておく。例えば一日の終わりに呑むスコッチ、胃袋を満たす有名店のディナー、良い女とのセックス、その時によって解消法は異なるが。
移動中の空き時間に株価のチャートと為替情報を確かめていると視界が霞むのに目頭を押さえる。肉体の発す疲労のサインに手にしていた携帯を伏せると顔を窓に向けて、茜色に紫が混ざる世界を臨む。対向車線を流れる色とりどりの車の群れは、多国籍の人種で溢れる東京の街みたいだと苦笑を漏らしていれば雑多な群れにまたひとつ毛色の違うものが現れた。一台の単車が群れの隙間を縫って擦れ違う、尻を振って踊るテールランプの軌跡に目を引かれる。車種は違った、それでも錆びついた記憶の扉がこじ開けられ懐古の情を溢れさせた。
人生において一瞬の煌めきに満ちていると表現されがちな青春時代。自分にそう呼べる時期はない、そう思っていたが三十を間近に控えるとふとした瞬間に乾青宗と過ごしていた頃を振り返ることが増えた。決して良い思い出ばかりではなかったというのに、歪な関係が齎した甘さと苦さはもう二度と触れられない輝きで彩られていた。あのどうしようもなく稚拙で、暴力的な日々は九井一にとって青春だった。
別々の道を進み結構経つというのに今になって気付くこともあるんだから、本当に人生というやつは儘ならないと、バックミラーから消えたバイクの残像を振り払うよう瞼を閉じた。
梵天という組織は相談役の明司武臣の打ち立てた計画に従って、十年もしない内に裏社会を牛耳るまでの隆盛を極めた。幹部には持ち回りがあって定例幹部会以外で互いの担当区域に緊急時を除き顔を出すことはないが、例外として相談役である明司と金庫番を担う自分は、資金繰りなどの相談を受けて足を向けることが多かった。今日も先月立ち上げたばかりの自身の会社の視察を済ませた足で、三途春千夜に経理の件で呼び出されていた。
都内には梵天のアジトが複数存在する。廃墟となったボーリング場、改装中のモデルルーム、高架下の寂れたバーなど。それらの内の幾つかが幹部らの根城になっていて、歌舞伎町の外れにある雑居ビルには三途の事務所が入っていた。
車に部下を残してエレベーターもないそこの階段を上り、ひびの入るガラス戸をノックすれば柄の悪い男が顔を出しどうぞと頭を下げるのに靴を鳴らして中に入る。紫煙に紛れて香る独特の香りに、ソファに踏ん反り返りテーブルに足を投げ出す男に向かって香でも焚いてんのかと皮肉を飛ばす。
「流行りのアロマ。しらねぇの?」
「違法性があるのは知らねぇよ」
桜色の髪を揺らして、部下に向かって先生に珈琲をお出ししろと声を張るも、出されるのは風味の抜けたインスタントコーヒーで客人に振る舞う代物じゃない。京都でいうところの茶漬けみたいなもんだ。下らない遊びに付き合わず予め用意していた資料を手に対面に腰を下ろした。
「どうだ、九井先生」
小馬鹿にした口調で話しかけるのを黙殺して、項目別に順を追い記された数字を上から下まで視線を移動させてはページを捲るのを繰り返し、要点となる部分を確認してから返事をする。
「今月のクスリの上がり、良い数字出してるな」
「腕の良い運び屋を見つけたんだよ」
ファッションヘルスやホストクラブなんかを通しての売買は警察の取り締まりが厳しくなって、年々顧客が減りつつあった。そこでまずは外部への漏洩を防ぐシステムを構築した。都内にある梵天のフロント企業になる幾つかのバーやレストランといった飲食店で秘密厳守する顧客を見極めてネットワークを作り上げ、そこで頼んだ酒の種類で売るドラッグの注文を受ける。店で現物の手渡しはせず、客側が精算時に薬代を含めた料金を支払い受け渡しの場所を指定する。
この手法はガサが入っても証拠は何も出ないこと、一定の場所で商売するリスクを大幅に軽減できる。前金制であるため信用が物を言うが客からしても安全に買えるメリットがあった。もし、代金だけ騙し取られても一度だけなら勉強料と諦めがつくのもあって顧客は日に日に増えていった。
クスリを捌く範囲は拡大し東京全域にまで及んだ。受け渡し場所も様々で、繁華街から住宅街にオフィス街と幅広く、買い手の職種も疎らなこともあり使う売人も不審に思われない風体の奴を使う。夜の繁華街なら店の呼び込みをする居酒屋従業員、住宅街なら大学生や主婦といった感じに。風景に違和感なく溶け込む人材を厳選して警察の目を眩ませた。
そして、売人たちと組織の中継役が運び屋だ。胴元から受け取った薬を売人に、売人からは手数料を抜いた売り上げを回収する。警察にマークされやすいため、警戒心が強く一部の人間しか素性を知らない。シャブ絡みを取り仕切る三途以外は同じ幹部にも名前が伏せられていて運び屋が居るという事実だけしか分からない。裏切りの被害を最小限にするには、それぞれの受け持ち以外の情報を極力他に漏らさないことだ。
「ソイツ、信用出来んのか。派手に出回れば足が付いて後々、面倒なことになる」
「愛した男のために働く、今時珍しく健気なヤツだ。泣かせるだろ?」
これまで運び屋が居るという情報しか掴めなかった中で、女であるのが判明したのみならず言葉から恋人か夫が働けない状態にあるのが察せた。危険な橋を渡ってまで金が必要となれば男が事故による障害を抱えているか病気の可能性が強まる。ヒモのクズ野郎なんて線もあるが、どちらにせよ従順に与えられた仕事を熟すならば問題ないが愛が絡むと人間は時に思いがけない行動に出るもんだと自らの経験則から自嘲混じりの苦言を零した。
「パクられて吐かなきゃいいけどな」
「絶対ねぇな、それだけは」
組織に盲目的な忠誠を捧げる男は、佐野万次郎以外の人間への関心はない。そんな奴が絶対という強い言葉を使うことへの不信感が眉間に皺を寄せた。
「そんな風に考えてたら足元掬われるぜ」
「ま、裏切ったとしても死体にすりゃいい」
常と変わらない合理的且つ狂信的な音で耳を叩かれるのに、結局運び屋の女も挿げ替えの効く程度の人間でしかないのが分かって、下らない時間を過ごしたと出されたカップに手を付けず幾つかの経営アドバイスを残し三途の根城を後にした。
■□
待たせていた車に乗り込むと上着の襟を緩めてシートに深く凭れた。腹の底から漏れる息と共に飾らない愚痴を吐き出す。
「お喋りなフラミンゴの相手は疲れるな」
運転席の男が表情も変えずにお疲れさまですと定型文を返すのに鼻を鳴らし、窓の外を流れる宵に染まった世界を見つめる。無数のランプが光を放つ中で一軒の喫茶店の看板が目に入り、飲まなかった珈琲のことを思い出して徐に口を開く。
「停めてくれ、少し息抜きしてくる」
車が路肩に停まると助手席のもう一人の部下がシートベルトを外し付いて来ようとするのに手を鷹揚に振り追い払う仕草をする。
「強面が傍に居ちゃ休憩になんねぇだろ」
しかし、と食い下がろうとするのに何かあれば呼ぶとだけ言い残し後部座席から降りた。
時代に取り残されたような古びた店構えは、どこか懐かしさを感じさせドアを潜ると老齢の店主がこちらを一瞥し表情を変えずにいらっしゃいと簡潔に来店の挨拶を述べる。客商売とは思えない態度が逆に清々しくて窓際の席に腰を落ち着けると珈琲を注文した。それにも相槌を打つだけでどっちが客か分かったもんじゃないと苦笑が漏れたが、十分ほどしてテーブルに置かれた陶器のマグカップに店主のぶっきらぼうな接客態度に納得がいった。
立ち上る湯気と芳醇な香りを楽しんでから、口に含む。広がる豆の特徴がわかる繊細な味わいに唇が綻んだ。どんなに愛想を尽くしたところで出されるものがマズければ客足は遠退くし逆も然りだ。
淹れ立ての珈琲の香りと味を堪能しながら流れるジャズの音楽を耳に、通りを行き交う雑多な人種の波を何の気なしに見やる。時間もあってか陽気な雰囲気を纏い、音は聞こえなくても目から騒がしさを感じられた。
どれほどそうしていたか、途切れることのない人波を追っていた視界が急に翳り、遮る存在に焦点を合わせると目まぐるしく流れていた時が止まったかに目の前に立つ男に釘付けになった。最後に会った時よりも髪が伸びていたが顔に奔る火傷痣、自分たちの過去を繋ぐ印に息をするのを忘れて見つめていると厚みのある唇が開く。音は聞こえなかったが、口はオレを呼ぶ二文字を象っていた。
こんな日が来ると思わないでもなかったが、十二年も上手いこと会わずに過ごしてきただけに、神って奴が居るとしたら相当に底意地が悪く性根の曲がった存在だろう。どうあっても九井一の邪魔をしたい、そんな糞野郎に違いない。
ガラス越しに見つめ合っていた男がコマ送りで再生したみたいにゆっくり動き出す。中に入って来ると分かっても椅子から腰を上げなかった。会いたい気持ちが勝ったわけではなく単純にこの店の出入り口はひとつしかない。どう足掻いても鉢合わせする。早々に逃げるのを諦めて店内に入ってくる人物が自分の元に近付いて来るのを待つと程なくして席に辿り着いた。
頬を紅潮させ薄っすらと汗を浮かべた幼馴染は少年から青年へと成長を遂げたのに、良い男になったなんて有り触れた軽口を叩けない美しさを宿していた。実際目にすると様々な感情が湧いてきて思考を蝕まれそうになる、視線をずらして細く息を吐き出すと気を取り直し、なんと挨拶するべきか考えていれば懐かしさを覚える声が耳をなぞった。
「久しぶり、だな」
「よくオレだってわかったな」
「何年経ってもココを見間違うことはないよ」
「会わない内に口説き文句を覚えたのか」
低く抑揚のない音は感情が読み辛いが少しばかし高く上がる語尾に、再会への喜びめいたものを感じているのが伺い知れてくすぐったい気持ちにさせられる。幼稚な感傷を無視して、同じもので良いか幼馴染に尋ねれば顎を引くのにマスターに注文する。さっきと変わらず会釈するだけの機械的な動きが頭に冷静を呼び込む。珈琲が運ばれてくるまでの間、沈黙が落ちるかと思っていたが青宗の舌は錆びつくことなく油を注した。
「今はなにしてるんだ?」
「そんな顔するなよ、これでも真っ当に生きてるんだぜ」
自身の過去を知っているのに加えて、共に歩んでいた頃とは様変わりした容姿も手伝って今のオレに対して不安を感じるのは当然の流れだ。端的な問いかけに大仰に肩を竦めれば慌てて首を横に振った。
「別に、疑ってるわけじゃない」
「心配してくれたんだよな」
「悪い……久しぶりに会うのに」
「イヌピーが不安を感じるのも仕方がない話だ」
「本当に悪かった」
「いいよ、連絡入れなかったオレも悪いし」
眉尻を下げて曖昧な笑みを浮かべるのに、重苦しい空気を払拭するよう口調を明るくし声を紡ぐ。
「個人の資産運用を主にした投資会社やってる」
嘘ではなかった。あくまで表向きの商売のひとつという点を除けば。言葉だけでは信憑性に欠くから、ジャケットに入れてある革のケースを取り一枚の台紙を引き抜いてテーブルの上を滑らせる。
「それ、名刺」
「代表……社長なのか」
「社員はオレを含めて片手の数しか居ない弱小だけどな」
「充分すごいよ」
両手で大事そうに持ちながら、花が開いたみたいに表情を咲かせるのを目にすると後ろ暗いところがなければ素直に喜べるのに、なんて厚かましい考えを浮かべる自身に呆れつつ話題を振る。
「そっちはどうなんだ」
「なにしてると思う?」
「んー、そうだなぁ」
聞かなくても知っている。龍宮寺堅と共同経営しているバイクショップのオーナーだというのは。けれど、それを億尾も匂わせず思案する素振りを見せ正解から少し外した答えを口にする。
「顎にオイルの汚れがあるから、整備工とか」
汚れなんてなかったが、オレの言葉を素直に受け止めて慌てて手の甲で顎の付近を擦る青宗に小さく笑う。そういうオレの言うことを疑いもしないところは昔と変わらない。その一方で、屈託のない姿に別の世界に居る現実を突きつけられ寂しさにも似た感情が胸を通り抜けた。
「整備もするけど、工場勤めじゃない」
「もしかして、店持ったのか?」
「うん。共同経営だけど」
「もっと詳しく聞かせてくれよ」
興味を惹かれた風を装い笑いかければ、くすぐったそうに口元をもぞもぞ動かしてから弾む声を唇から跳ねさせた。口重だった幼馴染が饒舌に喋り、乾青宗を包む日常の世界を紡いでいく。印刷された報告書に並ぶ事実を淡々と記した無機質な文字列からしていた想像に、血が通い肉が付いていく。ああ、そんなことがあったのか、そうしてオマエは歯車が狂う前の無垢だった頃の自分に戻ったんだなと感慨深い想いから話の合間に相槌を打ち続けた。
やがて、青宗が舌を止めて自分の方を伺うのにどうかしたかと首を傾げる。
「オレばっかり話してるな……ココは?」
耳に入れられるような話はなかったが、聞いてばかりだと完全には晴れてない疑いを再び持たれる。詮索する性質ではないが、思い切った行動に出る男だ。適度に安心させる材料を与えれば深くは考えないと舌を滑らせる。
「同僚と飲みに行ったりしてるよ」
「へぇ、どういうヤツらなんだ」
「どう、って……癖のある連中だな」
「楽しいか?」
「良くも悪くも、退屈はしない」
幹部に抜擢されたのは元天竺の面々が半数を占めていて、青宗の知った顔もある。同僚とは言い得て妙だが、似たようなものだ。世間一般の飲み会とは異なり、主に上納金の内訳と受け持ちのフロント企業の収益について話し、内部抗争に発展しないよう互いの腹を探り合う殺伐とした空間だが。
「悩みとかないのか」
「人生相談に乗るなんてイヌピー大人になったな」
「そんなつもりじゃ、ただ」
「ありがと、な。何かあったら電話するよ」
ジャケットの裾を持ち上げ腕時計を示し、そろそろ仕事に戻る時間なのを告げれば青宗は慌ててペーパーナプキンを取り作業着の胸ポケットに挿したボールペンで見覚えのある十一桁の数字を書いた。
「これ、オレの番号」
「今度は失くさないようにする」
白々しい台詞だ。自ら繋がりを切ったというのに、さも手違いがあったかの口ぶりに、見間違いかと錯覚するほどの一瞬、青宗の瞳が翳りを帯びたが直ぐに目尻を柔らかくして待ってると言うのに、またなと社交辞令に近い口約束を交わして伝票と一緒に握り席を立った。
連絡先を交換したが、番号を登録するつもりはなかった。更に言えば電話を掛ける気も掛かってきた電話を取る気もなかった。偶然を必然に変えてしまえば積み重ねてきた十二年が脆く崩れ去るのを知っていたからだ。
神の気紛れなんていうのは二度起きるべきじゃない。今になって壊れた青春の続きを与えられて堪るか、こっちから願い下げだと刹那の現実を噛み砕き永遠の夢幻として心の奥底に沈めた。