果たして叶うものならば「朔間くん、起きているかい」
　控えめながら確固たる意図を以て宙に投げかけられた言葉が、互いの空間を隔てる間仕切り越しに聞こえたのは、今に意識が虚無に拭い去られようとしたまさにその瞬間だった。底なしの泥濘に沈みかかっていた四肢が小さく痙攣し、のろのろと目覚めへ向かう。あたかも重力に逆らおうとしているかのような重みが仰向けの胸にのしかかり、我ともなしに物憂い溜息を漏らした。それが向こう岸に届いたのか、微笑とも、衣擦れの音ともとれぬ微かな物音が遠く返る。気疎い呻き声で返事をすると、少し話をしてもいいかなと、まるで是非を問わぬ口ぶりが続けた。
「——映画を観たんだ。いや、あれは夢だったのかな。それとも、夢のなかで映画を観たのか、映画のなかで夢を見たのか……よく思い出せないのだけれど、とにかく奇妙な記憶でね。朔間くんは、『ファウスト』という話を知っているかい」
　小波のように寄せ来る睡気が時折心地良くざわめいて耳を塞ぎ、隣人の虚ろな、しかし歌うように軽やかな声を遮る。寝際の歓談を迷惑に思うはずのもう一人のルームメイトは、あいにく今夜は留守にしていた。『ファウスト』というのは、異国の伝説上の人物だったか、それを擬えた戯曲や演劇、物語のことだったか、果たして。何度かまばたきをして睡魔の魔手を振り払おうとするが、まぶたは重たく蕩け、眸を覆おうとする。深更にこれほどの睡眠欲求を覚えたのはいつぶりだろうかと、危うく逸れゆく思考のベクトルを無理やり話中へ引きずり戻した。
「朧げには」
「そう、確か悪魔に魂を売った学者の話だったよね。哲学医学法学神学と様々な学問に精通し、野心的に向上し続けてきた老学者のファウストはある日、これまでの己の人生とは何だったのだろうとすべてを悲観して、黒魔術に手を出す。呼び声に応えた誘惑の悪魔メフィストフェレスはファウストの渇望に付け入り、彼の願いを叶える代わりに、魂を求める。……これは伝説ではなくてゲーテの長編だったかな、細部まではよく覚えていないけれど」
　耳の痛い話だと言えば自惚れになるだろうか。手当たり次第に知識を貪り、創造と芸術に没頭し、夜に惑う人々に救いの手を差し伸べ、あらゆる領域でふさわしい天稟を遺憾なく発揮するうちに俗世を離れ、孤独を極め、己が天与の才にすら倦んだ傲慢な魔王の独り善がりなそびらが脳裡に浮かぶ。鬱然とした睡気がいたずらに強まった。
「悪魔と契約を交わした彼は若返り、女性と恋に落ちるけれど、悉くうまくいかないんだよね。第一部ではグレートヒェンという街娘と情を交わすものの、彼女は気が狂ってしまって、その身に孕んだ子を殺し、その罪で投獄されて、獄中で死んでしまう」
　せっかく睡魔の健全ないざないのある夜に、いったいどうして救いようのない愚か者の話を聞かされているのだろう。いっそのこと寝入ってしまおうか、その前に一言断るのが最低限の礼儀かと暗澹たる道に迷い始めた時、隣人との間に起こった日中の出来事が俄かに思い起こされた。明日の夕方に戻ると言いおいて三人目のルームメイトがやたらと大きなスーツケースを手に出ていった後、最愛の弟が出演しているドラマの特集が組まれた雑誌を手に寛いでいたところに帰った、いつにも増して顔色の悪い天使のような男が斃れるように彼の寝台へ頽れて訪れた、夕刻の不穏な静寂の結末。
「天祥院くん、」
「僕が夢に見たのは、というか記憶に残っているのは第二部に出てくる女性、美の化身ヘレネーの方なんだ。ファウストは彼女に惚れ込み、悪魔メフィストフェレスと結託して策を弄し、女神の身も心も我がものにしてしまう。僕はそのシーンを鮮明に覚えていてね……ファウストがヘレネーを追いかけて、壁に追いつめ、彼女に熱い接吻を浴びせるんだ」
　寝苦しそうに寝返りを繰り返して気息奄々、堪らずに間仕切りの向こうを覗けばびっしりとかいた寝汗にしとどに濡れて、その後幾許も眠らないうちに天祥院英智は飛び起きた。虚ろな碧眼を瞠って、病的に頬を紅潮させて、全身に良からぬ熱を帯びているのは明らかだった。自分のカップに水を注いで差し出すと、彼は飢えた子どものように無我夢中で中身を空にし、ようやく我に返ってまったく気迫に欠ける、その場凌ぎの悪態をついた。冷酷無比に君臨する皇帝で在ろうと努めた男である、欠陥を気取られることを本能的に忌避したのだろう、殊にかつて敵として相対した相手には。その痛々しいまでに気高い自尊心を尊重し身を引いたが、本当は、あの時点で有無を言わせず医者を呼ぶべきだったのかもしれない。
「彼は、彼女をその場にゆっくりと押し倒して、情を交わす。そこかしこに行儀よく設えられた調度品だけが沈黙して、彼らを淡々と眺め下ろしている。彼は彼女に覆い被さって、彼女のほとに性器を突き立てる……」
「天祥院くん、おぬし、なぜ」
　浴室を出た隣人はだいぶすっきりとした風情だったが、頬にはまだ鮮やかな火照りが残っていたし、瞳は熱に浮かされて昏く潤んでいた。一切の同情を寄せつけぬ、近寄りがたい雰囲気をまとっているくせに人懐こい笑顔を装って相伴に与った彼の、ティーカップの取手を摘む指先は幽かに慄えていた。罅の入った粗末な仮面を隠す金糸のあわいに香ったにおいは、知っているようで、知らぬようで。
「……でも、事が済んだ後に彼ははっと気がつくんだ、これはヘレネーなどではないと。彼がヘレネーだと思って抱いたものは、実はヘレネーに化けた悪魔だったんだよ。ふふ、美神と交わったつもりが、実際のところ、悪魔と交わっていたんだ。悪魔に欲情して、みっともなくものを膨らませて、情を募らせて……彼を誑かし、堕落せしめた悪魔に」
　ねえ、その絶望は、どれほど甘美なんだろう。隣人は、仄かな悪意の滲む声色で皮肉げにそう言ったきり、口を閉ざした。呼びかけたところで返事があるわけもない。あの時不意にあてがわれた手先に宿っていた、据わりの悪い熱さが生々しく片頬に蘇る。彼は何を知られたくなくて、何を知らしめたかったのだろうか。隣で上等の羽毛布団が密やかに立てる擦過音がやけに重たく腹に響いて、何とはなしに漫ろな心地がした。