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    まさのき

    とんだりはねたり、もいだりかじったりします。

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    まさのき

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    恋情未満な凛潔のじりじりもだもだ遊園地デートのお話。青い監獄の存在しない世界線につき潔のエゴは未開花、糸師の兄弟仲はふつうです。描き下ろし版権ネタをたくさん仕込みました。

    #凛潔

    またあそんでね①Only if you wish,



     ──次は、◯◯。◯◯遊園地へお越しの方は、こちらでお降り下さい。


     アナウンスとともに、上っ調子な音楽が車内に流れ出す。
     男はすっと背を伸ばして立ち上がり、口元には笑みをたたえながら、こちらを振り返った。
    「凛」
     男が名を呼ぶ。してやったりの、悪ガキのような表情で。
     いさぎ、と。
     凛も呼び返す。それは、数十分前に知ったばかりの男の名だった。


    「……お前、まさか」
    「賭けは、俺の勝ちだし? 今日一日だけは、誰が何と言おうと付き合ってもらうからな!」


     開け放たれた電車のドアから、生ぬるい風が吹き込んでくる。
     流れ出す人々の群れが、車内の空気を押し動かし、佇む二人の前髪をふわりと揺らした。
     大いなる面倒事の予感が胸をかすめ、凛の眉根に深い皺が寄った。




     それは、ほんの小一時間ほど前のこと。
     凛は駅構内の待ち合わせスポットで人を待っていた。
     肩を軽く叩かれる感覚に顔を上げる。
     すると、そこには薄青のデニムにカーキのマウンテンパーカーを羽織った、平凡そうな見た目の男が立っていた。
    『間違ってたらすみません。もしかして、〈Rin〉さんですか? ええと……俺です、〈きんつば〉です』
    『……人を呼び出しておいて遅刻とはいいご身分だな』
    『ごもっともです! いや、その、何かと準備が……』
     ばつが悪そうにはにかんだ男を、凛は無遠慮にじろりと眺め回した。
     見たところ、歳は凛とそう変わらない。背丈は高校生男子の平均くらいはあるだろうか。
     黒目がちで人懐っこい印象の顔立ちは、凛の想像よりも幼げな印象だ。




     〈きんつば〉こと潔と凛の出会いは、約半年前にさかのぼる。
     二つ上の兄である冴の影響で、凛は物心ついた頃からサッカーひとすじのスポーツ少年だった。凛にとって冴の言葉は絶対で、冴が言えば黒でも白になった。
     だから、冴が興味を示した新作ゲームに凛がのめり込むのも、凛にとっては自然ななりゆきだった。


     高い戦術性と没入感が売りのオンライン型サッカーゲーム《BLUE LOCK》はランクマッチ機能を搭載しており、ストイックで凝り性なところのある凛は、玄人はだしの勢いでまたたく間に高ランク帯を駆け上がった。
     初めこそ憧れの兄に追いつきたい一心でプレイしていた凛だったが、次第にゲームそのものに熱中し、対人戦に打ち込むようになった。対戦を重ね、敗因を分析し、必要な労力を割くことで、凛のアバターはいつしか凛そのもののように、自由自在にピッチを駆け回るようになった。しまいには、言い出しっぺの冴がほとんどログインしなくなった後も、凛だけが毎日黙々とやり込みを続ける始末だった。


     そんなある日のことだった。凛は《BLUE LOCK》内ランク一位のプレイヤーと初マッチングし、その実力を目の当たりにすることになる。蓋を開けてみれば、スコアは0対5。完膚なきまでの完敗だった。
     こちらの裏をかくクレバーな位置取りに、確かな状況判断力。勝負を決めたダイレクトシュートは憎らしいまでの鮮やかさ。リアルでは地元サッカークラブのユースチームに所属し、エースストライカーである兄とともに最強兄弟として名を馳せていた凛だけに、敗北の印象は鮮烈だった。
     だが、話はそれだけでは終わらなかった。圧倒的なプレーで凛のプライドを丁寧にへし折ったそいつは、あろうことか試合後にチャットを持ちかけてきたのだ。
     しかもそのメッセージが、

    きんつば:おまえめちゃめちゃ強いな!
    きんつば:ゴールポストの隅をつくシュートがめっちゃ最高だった!
    きんつば:またおれとやろうぜ

     などと煽り満載の内容であったため、凛は腹立ちまぎれに「死ね」「潰す」「次はねえぞ」の三連コンボを決めた。その後、利用規約に反するだの公序良俗がどうこうだので危うく垢BANの憂き目に遭いかけることになるのだが、それはまた別の話。


     閑話休題。
     とにもかくにも〈きんつば〉からのフレンド申請を受け入れた凛は、以来、ログインのタイミングを合わせては対戦に明け暮れた。
     〈きんつば〉はサッカーIQが極めて高く、必要な時に必要な場所に身を置く抜群のポジショニング能力で、トップランクを維持し続けていた。これほどまでにプレー視野が広い選手はユースチームにも存在しておらず、凛は内心舌を巻いていた。
     もしも〈きんつば〉が、自分と同じチームに所属していたら。
     凛はたまにそんな想像をめぐらせて、しかしすぐに打ち消した。
     こんなに食いがいのある選手は、同じチームでボールを追うよりも、敵としてしのぎを削り合うほうがずっといい。
     だが──。内心凛はこうも思っていた。こいつは多分、相当の物好きか、でなければ重度の暇人に違いない。
     なにせ競争激しい《BLUE LOCK》内でランク一位を維持できるような奴だ。いざピッチに立ったとして、凛の相手ではないだろう。四六時中パソコンに首っ引きの、頭でっかちな男を思い浮かべつつ、凛は〈きんつば〉との対戦を繰り返した。
     自分を熱くさせてくれるなら、中身がサッカーマニアの根暗野郎だろうと何だろうと構わないのだ。

     執念深いマッチアップと徹底的な対策が功を奏し、凛が〈きんつば〉相手にいくらかの勝ち星を飾れるようになってきた頃のことだった。
     凛はうっかり身バレした。

    きんつば:Rinって土日は部活なん?
    Rin:ユースで試合
    きんつば:Rinってユース所属なの???どこの?
    Rin:鎌倉
    きんつば:へー
    きんつば:まって
    きんつば:鎌倉って鎌倉ユナイテッドのこと??じゃあRinってもしかして高校ナンバーワンストライカー兄弟の弟のほう?
    Rin:兄貴のおまけみたいにいうんじゃねー ×にてえのか
    きんつば:いや物騒!ていうかやばいな、俺糸師凛だって知らないまま今までさ……

     いくらフレンド同士の個人チャットとはいえ、馬鹿正直に質問に答えてやる義理などなかったのだが、こいつならいいか、となぜかその時は思ったのだ。
     凛の身バレをきっかけに、チャット上のやり取りはお互いの近況やクラブチームの活動にまで及ぶようになった。
     自身のパーソナルな情報を開示することに凛とて躊躇がなかったわけではい。しかし、どうやら〈きんつば〉の砕けた語り口には、人の警戒心を解く何かがあるようだった。

     そんな時だった。〈きんつば〉から奇妙な賭けを持ちかけられたのは。

    きんつば:Rinってこの日ひま?

     ユースの練習から帰宅して食事と風呂を済ませた凛の目に映ったのは、何気ない伺いの文句だった。続けて示されたいくつかの候補日にざっと目を通し、オフの予定を送る。
     数分間のラグの後、送られてきたメッセージは以下の通り。

    きんつば:Rin、俺と勝負しろ。もし俺が勝ったら、一日だけ俺の言うことを聞いてもらう

     常にない挑発的な文言だ。咄嗟に返信を考えあぐねていると、画面上にまた、新しいメッセージが表示された。

    きんつば:まさかとは思うけど、鎌倉ユナイテッドのエースストライカー糸師凛が尻尾巻いて勝負から逃げ出すなんてことないよな?
    Rin:脳みそわいてんのか もし負けたらおまえは一生俺の奴隷な それでもいいってんならのってやるぜ


     こうして売り言葉に買い言葉で始まった賭け試合は、蓋を開けてみれば〈きんつば〉の圧勝で幕を閉じた。〈きんつば〉に終始優位に試合を運ばれた凛は、終盤に多少盛り返したものの結果は惨敗。当初こそ変幻自在のプレースタイルに翻弄されることも多かったが、最近の勝率は悪いものではなかったはずだが。
     〈きんつば〉の鬼気迫るプレイングに気圧されたとは認めたくない凛は、八つ当たり気味にキーボードを叩く。

    Rin:てめーなんだあのシュート まだあんな手札かくしてやがったのかよ
    きんつば:Rinの悪いところが出た試合だったな。俺に勝ち越すにはまだまだ早い!

     うるせえ。一丁前に俺のプレーを語るな。あと煽るなクソ。

    Rin:次はねえからな ぜってーつぶす
    きんつば:賭けは俺の勝ちだな、Rin

     立て続けに、画面上にメッセージがポップアップする。

    きんつば:約束は守ってもらうからな。来週の日曜日、お前の一日を俺にくれ。ユースの練習がオフならいけるだろ

     画面の向こうで、見も知らぬ男がこちらを煽るような言葉を吐きながら、不敵な笑みを浮かべている。上等だクソ、凛はそう吐き捨てて乱暴にノートPCの蓋を閉じた。




     週末の遊園地は、繁忙期を外しているとはいえそれなりに賑わっており、凛たちがチケット売り場に到着する頃には、すでに入場ゲート前に待機列ができていた。

    「うおー……開園前なのにもうこんなに人が! やっぱり日和って昼集合とかにしなくて正解だったわ、なあ凛!」

     潔と名乗った男は、まるで十年来の親友のような調子で凛に話しかけてくる。
     凛は、てっきりサッカー観戦にでも誘われるものと思っていたのだ。指定された待ち合わせ場所が某スタジアムに便のよいハブ駅だったことも手伝って、勘違いと勢いのままにここまで連れて来られてしまった。
     チケット売り場に足を向ける凛を引き留めると、潔はいやに浮かれた様子で、スポーツブランドのロゴが入ったショルダーバッグからファイルを取り出した。
    「ふっふっふ……実は、チケットはすでにここにあるのでした」
     しかも二枚! 誇らしげにコンビニチケットを掲げる潔に、凛は「準備がいいな」と呆れたように返す。

    『どうした、凛。朝っぱらからめかしこんで。デートか?』

     出がけに冴からかけられた言葉が脳裏をよぎり、凛は顔をしかめた。デートなわけあるかクソ兄貴。そう啖呵を切って出てきたのにこれでは、兄の言葉が妙な真実味を帯びてしまう。
    「……おい、はしゃぎすぎだぞ」
    「そりゃはしゃぐだろ! 俺、家族以外の奴とこーゆーとこ来るのはじめてだし! 逆に、凛は落ち着きすぎ。ほんとに高一? 修行僧なの?」
     そう言っておかしげに笑う潔は、とても自分の一つ上とは思えない。男二人で回る遊園地にそこまで浮かれる要素があるのかどうか、兄以外の同年代とまともな交流のない凛にはわからなかった。

    「……あ」

     ふと、潔が顔を上げる。入場口正面に置かれた大時計の長針は0を指しており、待機列の先頭からさざなみのように控えめな歓声が伝播していく。どうやら開園したらしい。
    「始まった……」
     しかし、肝心の潔がなかなか前に進もうとしない。入場ゲートの方を呆けたような表情で見つめる潔に、凛は不審の目を向けた。
    「……遊園地の入場ゲートってさあ、すっごいワクワクするんだけど、でも同時に、めちゃくちゃ寂しい気持ちにもならない?」
    「ならねえよ。さっさと行くぞ」
    「ならないかー。俺なんかは、入る前にもう出るときのこと考えちゃって、ちょっとセンチ」
     凛は、そういうのない? 問いかけには答えずに、凛は大股で歩き出した。ゲートに向かってずんずん歩いていく凛の後ろを、潔が慌てて着いてくる。仲良く手を繋いで、なんてつもりは毛頭なかった。そもそも、これはデートなどでは断じてない。交わされた賭けの、その帰結として、潔のわがままに付き合わされているだけなのだから。




    「遊園地といえば、やっぱこれだよな。じゃーん!」
     凛たちが向かった先は、入場ゲート付近にあるグッズショップだった。潔は目を輝かせながら、動物やらキャラクターやらを模したカチューシャを熱心に物色している。
    「凛はこんなんどう?」
     そう言って、凛の目の前に掲げられたのは、遊園地のイメージキャラクターである黒いウサギのカチューシャだった。ぴょこんと上に跳ねた両耳のベロア生地が、店内照明を受けててろりと光っている。
    「……んだよ、それ」
     不機嫌さを隠そうともしない凛の反応に、何が面白いのか、潔はさっきから肩を震わせてくすくす笑っている。
    「んっ、ブフッ! 凛って背が高いから、うさ耳つけるとますますデカく見えて威圧感ハンパねえ……」
     もしかして二メートル超えたんじゃね? 半笑いでウサギの耳を頭に当てようとしてくる潔の丸い後頭部を強めにはたく。
    「人で遊ぶんじゃねえ。欲しいならお前一人で買え、俺を巻き込むな」
    「なんでだよー。こういうのは皆でつけて一体感を楽しむもんなんだろ。俺も買うから凛もつけろって。言うことなんでも聞くんだろ?」
     賭けを持ち出されると強く出られない凛は、あれよという間に黒いうさ耳を買わされて園内を練り歩いていた。凛の少し先を歩く潔の頭では、色違いの白いうさ耳が満足げに揺れている。こんなふざけた格好で外を歩き回るなど、凛の人生史上いまだかつてなかったことだ。
     それなのに。潔のはしゃぎっぷりを見ていると、多少なりとも人目を気にしている自分が馬鹿らしくなってる。


    「凛、見ろよ! でっかい水!」

     潔が指差したのは、遊園地のシンボルにもなっているという噴水だった。園内のほぼ中心部に位置しているそれは、夜になるとライトアップされ、カップルたちのムードを盛り上げるらしい。
    「でかい水ってなんだよ。噴水だろ」
    「滝とか間欠泉とか見ると、固有名詞より先に『でかい水だ!』って感想が先に来るのなんでなんだろうなー」
    「それはお前だけだ」
    「なんでもこの噴水、コインを投げ込んでお願いするとどんな願いも叶うっていうジンクスがあるらしい」
     なんとも信憑性に欠ける話だ。日本全国の寺社仏閣にしてもそうだが、祈るだけで願いが成就するなら、世界は今頃もう少しマシになっているはずだ。いわゆる霊感というものが自身にまったく欠けているという自覚がある凛は、生来この手のジンクスに懐疑的だった。
     凛よりやや小柄な潔が、凛の顔を覗き込むように首をかしげる。
    「凛、小銭持ってる? なかったら俺が貸そうか?」
     それにしてもこの男、こちらの思惑などまるで意に介さずぐいぐい自分のペースに引き込んでくる。驚くべきマイペースぶりだ。こっちはまだ「やる」なんて一言も言ってないだろうが。
    「ほい、じゃあこれ、お前のぶんな。噂では、水の噴出口により近い場所に投げ入れられれば、願いが叶いやすくなるらしい」
     そう言って、「ていっ」だの「とうっ」だのいう掛け声とともに潔がコインを投げ入れる。コインは噴出口のだいぶ手前で軽くしぶきをあげ、すぐに見えなくなった。凛も渋々潔に倣ってコインを放り、おざなりに願掛けのポーズを取る。
    (そこらの有象無象に叶えてもらう願いに、なんの価値があるってんだ。望みは自分で叶えてこそだろ)
     どうにも気が乗らない凛は、途中で目を開けて、隣の潔を盗み見た。

    「………」

     思いがけず真剣な表情で、潔が手を合わせていた。両手のひらを律儀に揃えて一心に祈るその姿は、どこか祈りじみた静けさと、触れたら壊れてしまいそうな繊細さをたたえていた。

    「……よし! 願掛け完了! 凛はどんなことお願いしたの?」

     そう言って凛に向き直った潔の表情は明るい。先ほどまでの空気は霧散してどこかへ行ってしまったようだ。なんだったんだ、今のは──? 凛の訝るような視線に、つゆくさにも似た青色の瞳が、邪気のない仕草でぱちぱちとまばたいた。
    「凛ってさあ……」
    「……あんだよ」
    「めちゃめちゃまつ毛長いのな! モデルみてえ!」
     思ったことを口にしただけ。どこにも他意などないまっさらな笑顔に、なぜだか頬にかっと熱があがって、凛はふいと顔を背けた。
    「凛ってチャットだとめちゃめちゃ口悪いからさー。会う前は内心ビクビクしてたけど、まさかこんな高身長イケメンだとは思わなくてびっくり。凛ってもしかしなくても超モテるだろ」
    「知らねえ。どうでもいい。サッカーに関係ねえ」
     なるべく目を合わせないようにしながら大股で歩く凛につられて、潔が軽く駆け足になる。
    「ユース所属者ってホームページに顔写真が載るじゃん? あれ見て心構えはしてきたつもりだったんだけど、実物はやっぱ迫力がちげーわ」
    「……写真?」
    「あれ知らねえの? お前の兄ちゃんの写真も見たけどさ、すげえよな、イケメン兄弟。サッカーもできて顔もいいとか、前世でどんな徳積んだらそうなるわけ?」
    「?」
     凛はぴたりと立ち止まって、潔のほうを振り返った。
    「ん? お前の兄ちゃん、高校ナンバーワンストライカーの糸師冴だろ?」
     思春期を経て感情表現がややひねくれたものになったとはいえ、幼少のみぎりよりの生粋のブラコンである凛にとって、兄への賞賛は自分への賛辞とほぼ同義だった。兄ちゃんが褒められれば、自分も嬉しい。そのはずなのに、潔の口からいざ冴への褒め言葉が飛び出した今、凛の心に生じたのは、「おもしろくない」という感情だった。
    「……なんで、そこで兄貴が出てくんだよ」
     冴の名前とともに、また(デートか?)という例の問答が頭をよぎりかけ、凛は潔をにらみつけた。
    「え? なんでって何が?」
    「チッ。せっかくの休日に、余計なこと思い出させんじゃねえよ。おい潔。次の行き先は俺が決めるのでいいよな」
    「んぇ? それはもちろんいいけど……」
     潔のショルダーバッグから地図をひったくると、凛は無言で歩き出した。
    「待てって! 凛、さっきから歩くの早いって!」
     背後の潔が、なにごとかわめき立てていたようだったが、凛はすべて無視した。




    「えーと……そのぉ……凛さん」
    「あ?」
    「確かに先ほどは行きたいとこ行っていいと、そう申しましたけれども……」
     ほんとのほんとにここ入んのぉ!? 潔の情けなさ満載の絶叫に、凛はざまあみろの気持ちで内心ほくそ笑んだ。


     凛が次なる目的地に選んだのは、《絶叫! 最恐! 血塗られた隔離病棟からの脱出!》といういかにもな題名を冠したお化け屋敷だった。参加者は、調査の名目で隔離病棟に潜入し、違法な人体実験の証拠を集めながら脱出を目指すという筋立てだ。随所に謎解きの要素が散りばめられているらしく、ホラーゲームを好んでプレイする凛には心惹かれるものがあった。
     ホラー成分と潔のリアクションを同時に堪能することができる、趣味と実益を兼ねた我ながら一挙両得のチョイスだ。思った通り、潔はお化け屋敷に到着してからこっち、あからさまに腰が引けている。
    「さっさと行くぞ、潔」
    「頼みますからほんと……えっやっぱり行く感じ? マジで? マジかぁ〜……」
     入り口で懐中電灯を受け取り、薄暗い通路を進んでいく。潔は胸の前でぎゅっとこぶしを握りながら、おそるおそる凛の後ろを着いてくる。
    「うあ〜……うあ〜うああ〜〜」
    「おい、さっきからうるせえぞ」
    「いやだって俺ほんとこういうの駄目なんだって……あーっ凛! 懐中電灯下げないで! 常に俺を照らし続けて!」
     無視して潔の反対側に光を向けると、「わーっ!!」と大袈裟なくらいのリアクションが返ってくる。
    「ふん、こんなの子供騙しだろ」
     とは言いつつ、内心優越感でいっぱいの凛は、わざともったいつけて懐中電灯を左右に振ったり、思わせぶりに立ち止まったりした。そのたびに潔が「ヒッ!」「何何!?」と引き攣ったような声をあげるので、凛は笑いを噛み殺すのに苦労した。
     ささいな仕掛けにも上を下へ大騒ぎの潔をこづき回しているうちに、お化け屋敷は次なる展開を見せていた。
     凛たちがやって来た病室はしんと静まり返っており、蛍光グリーンの間接照明でぼんやりと照らされた室内にはいかにもそれらしい雰囲気が漂っていた。潔は例のごとく入り口でびたりと立ち止まったが、凛が歩みを止めないので、観念した様子で中に足を踏み入れた。距離を空けられては困ると思ったのだろう。
     もとよりホラーに耐性のある凛は、歩きながらきょろきょろとあたりを見回した。あちこちに黒っぽい染みがこびりついているが、あれはおそらく。
    「おい潔、そこの壁のところ見てみろ」
     そう言って懐中電灯の光を向けてやれば、やけに青白い顔をした潔がこちらを振り返った。
    「えっ何!?」
    「血痕だ」
    「…………!?!?」
     よせばいいのに、ばっちり光の照らす先を直視してしまった潔は、声にならない声をあげて後ろに飛びのいた。
    「ッ!!!」
    「ほら潔、そこにも」
    「……ッ!!??」
     ここぞとばかりに、部屋に入った時からの違和感の元凶に光を当てる。そこには眼窩のみにくく落ち窪んだ変死体が横たわっており、かけられたシーツにはどす黒い液体が飛び散って見るも無惨な状態だった。飛びのいた拍子にベッドに背をぶつけた潔は、至近距離で惨状を目の当たりにしてしまう。
     さぞかし威勢のいい絶叫が聞けるものと期待していた凛だったが、予想に反して潔は声のひとつもあげなかった。
     不審に思い、潔に近づくと、潔は青い目をあらん限りに見開いて、ベッドにやや腰を預ける格好で静止していた。その肩は細かく震えており、凛は思わず「おい」と声をかける。
    「潔。おい、……どうした」
    「……、………、」
     体の震えはしだいに癪を起こしたように激しくなり、ずるずるとベッドからすべり落ちていく。しまいにはぺたりと地面に座り込んでしまった潔の肩に、凛は手を伸ばす。
    「おい、……大丈夫か」
    「あ、……」
     蛍光グリーンにぼんやりと照らし出された潔の顔色は、室内の薄暗さを差し引いても良いとは言えないもので。胸にちくりとした罪悪感が兆したが、凛は見ないふりをした。
    「………いさ、」
    「びっっっくり、したあ……腰ぬけて、たてないかも、凛ん……」
     ぶはあ、と。大きく息を吐き出して、潔はようやく正気づいたようだった。ひとつ舌打ちをして、凛は潔を引っ張り上げる。力の抜けた体はずしりと重たく、湿り気を帯びて、熱かった。
    「あは……ごめん。まだ力はいんなくて……」
     潔が恥じ入るようにへにゃりと笑う。たいしたことじゃねえと、そう言いかけた瞬間、ばちりと何かが弾けるような音がして、あたりが一瞬で暗闇に包まれた。

    「……!」
    「え……ッ」

     これにはさしもの凛も驚きを隠せなかった。続けて、地を這うような異形の唸り声が轟き、それに被せるように、人間の男、おそらくは隔離病棟の主のものと思われるざらついた哄笑があたりに響き渡った。
    「な……ッ」
     だが、凛が驚いたのは、それらの凝った演出のせいではなかった。凛に体を預けていた潔が、かじりつくように凛の胸に顔をうずめてきたからだ。
    「………ッ」
     暗闇のなかで、ふたりの体が、お互いの熱が伝わるほどに、ぴたりと重なり合う。潔の手が、凛の脇の下あたりで、しわになるほど強く布地を握っている。その髪の毛からは、知らない家のシャンプーがほのかに香った。
     なぜそうするのか、自分でもわからないままに、凛は潔の体を抱き寄せた。心臓の、脈打つ音が、潔のものなのか、それとも自分のものなのか、凛には判別がつかなかった。
     永遠のような、長い一瞬ののち、室内はようやくもとの明るさを取り戻した。どきりと、ひときわ大きい音がして、凛は自分の心臓のありかを思い出す。それと同時に、抱き込んでいた体を勢いよく突き飛ばした。無意識の、ほとんど反射での行動だった。
    「あ痛っ!」
    「あ、……わ、悪ぃ」
     再び尻餅をついた潔は、いつもの表情を取り戻しているように見え、凛はひそかに、ほっと息を吐き出した。
    「や、悪いのは俺のほうだから! むしろありがと、凛! あそこで踏ん張りが利かなかったらやばかった!!」
     俺は支柱か何かか? 踏ん張りという言葉に若干引っかかりを覚えるが、口には出さなかった。立ち上がり、衣服についたほこりを払った潔は、急にしみじみとした口調になって言った。
    「思ったより全然怖くてビビるわ……これ持病持ちの人とか、小さい子入ったら危険じゃない? 注意書き出てたっけ?」
    「お化け屋敷で死ぬやつがあるか」
    「まあそうなんだけどさ」
    「おい」
    「んー?」
    「なんだよこの手は」
     本人は素知らぬそぶりをしているが、さっきから右手で凛のジャケットの裾をぐいぐい引っ張ってくるのだ。凛が顎をしゃくって示すと、潔は「ああ!」と明るい声をあげた。
    「そのことなんですが、凛さん! 出口まで先導のほうよろしくお願いします!」
     おろしたてのジャケットに皺が寄るのは正直避けたい。しかし凛が身をよじっても、潔は動きに追従するだけで離そうとしない。さも当然という顔をしているのがよけいに腹立たしい。
    「離せっつうの」
    「やだ! やだ! もう怖いのヤダ! こりごり! 無理! 俺目ぇ閉じてるから凛が出口まで連れてって!」
    「んなことできるか、ガキかよ」
    「こっから一刻も早く出られるならもうガキでもなんでもいいですー! はい目閉じた! もう何も見えません! 凛さんあとはよろしく!」
     聞き分けのない子供よろしく裾を強く握り込んで離そうとしない潔に、凛はこめかみを押さえた。結局、何を言っても潔が頑として聞き分けようとしないので、凛はこの大きなお子様を半ば引きずるようにしてお化け屋敷を後にしたのだった。




    「うお〜〜外界の空気〜〜! 太陽がまぶしい〜……!」
    「お前はさっきから何を言ってるんだ?」
     お化け屋敷を出た潔がなにやら浸っているが、そもそも今日は薄曇りの予報でさほど日は照っていない。潔はきょろきょろとあたりを見回し、「俺、トイレ行ってくるわ!」と一言残してどこかへ去っていった。

    (ったく、調子の狂う……)

     ひとり取り残された凛は、潔から奪った園内マップを特に目的もなく眺めながら、お化け屋敷でのことを思い出していた。
     抱き込んだ体の、思いがけない体格差にぎょっとした。185cm超えの凛と比べれば大半の人間は華奢なほうに分類されてしまうとはいえ、なんというか、幹の太さのようなものに欠けた体だ。凛は当初、潔のことをインドアのゲームオタクとばかり思っていた。ゲームプレイヤーとしての潔は、ピッチに立つ人間にしか知り得ない視点を持っていると思わせられることが多く、その前印象はしだいに覆されることになるのだが。

    (経験者なんじゃねえかと思うことはあったが。にしては細すぎるか?)

     かりに経験者であるにせよ、一軍で活躍しているというわけではないのだろう。そう結論づけて地図から顔を上げた凛に、「あのぉ、」と声がかけられる。

    「……お兄さん、すみませーん。ちょっといいですか?」

     見れば、凛たちとはまた別のデザインの、うさぎを象ったカチューシャをつけた女性二人組が、なにかを期待するような目つきで立っていた。
    「何すか」
    「えっと、そこの看板の前で、写真撮ってもらえたらなって」
    「……はあ」
     いつにも増して口調がぶっきらぼうになってしまうのは、ひとえにこの手の秋波に凛自身飽き飽きしているからだった。凛と冴は、なぜか昔からこういう手合いに絡まれることがとにかく多かった。面倒臭え……。喉まで出かかった言葉を飲み込んで仕方なしにスマホを受け取ると、きゃあっと黄色い声があがった。
    「……じゃ、撮ります」
    「はーい! お願いしまーす!」
     適当に二、三度シャッターを押してスマホを返すと、「えーすごいよく撮れてるー!」と大げさなリアクションが返ってくる。「はあ、そっすか」と気のない返事をする凛に、女性のうち一人がずいっと距離を詰めてくる。隣でもう一人が「ねえ〜やめなって」などと制しているようだが、お構いなしの勢いだ。
    「お兄さんもしかして一人ですかぁ? よかったら私たちと一緒にこのへん回りません?」
    「──回りません! すんません! こいつ俺の連れなんで!」
    「は?」
     そう言って凛と女性の間に割り込んできたのは、トイレに行っていたはずの潔だった。軽く手を合わせ、片目をつぶる謝罪のジェスチャーには、どこか人懐こい印象がある。割り込まれた女性は、一気に鼻白んだ表情になってすっと身を引いた。

    「……あー、なんだぁ、お友達連れだったんですねー。じゃ、私たちはこれで〜」

     そそくさと去っていく背中を見送る。潔はそこでくるりと凛に向き直ると、少し困ったように眉を下げながら言った。
    「待たせた! 悪い!」
    「タラタラしてんじゃねえよ。さっさと出すもん出して戻ってこい」
    「意外と混んでてさー。にしても凛、お前……」

     潔はそこで言葉を切って、凛の顔をまじまじ見た。

    「ジロジロ見んじゃねえ。言いたいことがあんならはっきり言えよ」
    「俺、ひとが逆ナンされてるとこ見んのはじめてだなって」
    「…………うぜえ」
    「照れんなって! ある意味名誉なことなんだし! で、次は何する?」
     やっぱ凛ってめちゃくちゃモテるんだなー、と感心した様子の潔は脇に放置し、凛は再び手元の地図に目線を落とす。さっきの話をどうしても引っ張りたいらしい潔は、そわそわとした口調で凛に訊ねた。
    「やっぱバレンタインのチョコとかもいっぱいもらう感じ?」
     凛は、凛に近づいてくる「そういう手合い」の考えなど、全くもってどうでもいいし、気にしたこともなかった。その手の人種はだいたい凛の外面に興味があり、凛の関心事は大半がサッカーなのだから、お互い噛み合うはずもない。凛を熱くさせてくれるのはいつでもサッカーであり、その渦中に身を投じる人間なのだ。
    「おい。次はここにするぞ」




     凛が選んだのは、今年の頭に新しくオープンしたというスポーツアトラクションだった。サイバー×スポーツがコンセプトらしいその施設は、一般的なスポーツアミューズメントとは異なり、コートやネットなどの設備が一切存在しない。その代わり、直線的に区切られたいくつかのスペースが点在しており、センサーとプロジェクションマッピングを用いた多種多様なアトラクションが楽しめるのだという。

    「うまく考えたもんだなー。確かにこれなら、省スペースでいろんなスポーツが楽しめる!」

     あたりをぐるりと見回し、凛はさっそく手近なスペースに足を踏み入れる。足元に施設のロゴが投影され、目の前のスクリーンに『GAME SELECT』の文字が映し出された。
    「うおーすげー! ハイテク!」
     凛の後ろで、潔がはしゃいだ声をあげる。
    「……チッ、サッカーはねえのかよ」
    「この期に及んでまだサッカーやる気なん!?」
     ここじゃ狭すぎるから、たぶんあるとしたらあっちの方じゃね? と指差す潔に、そういうもんかと納得する。画面に表示された四種のゲームのうちひとつを適当に選択すると、プロジェクションが切り替わり、画面にカウントダウンの数字が表示された。
    「何やるの?」
    「知るかよ。押したら始まった」
     3、2、1、GOの表示とともに、凛の前方三面に色とりどりのキャラクターが映し出された。ドット調にデザインされた動物たちのオブジェクトは、複雑なグラデーションを描きながら、ふわふわと凛のまわりを浮遊する。
    「……んだこれ」
    「えっこれ何をどうして遊ぶゲームなの?」
    「知らねえ」
     適当に画面を操作したら始まっただけなので、ルールもクリア条件もさっぱりだ。「もー!」と声をあげた潔は説明を見るために手前の端末を操作し始めた。こうしている間にも、上部に表示されたタイマーの数字は刻一刻と過ぎていく。どうやら制限時間は2分らしいが、分かることといえばそれだけだ。
     試しに右手を上げると、その軌道に合わせて、きらきらと水のようなエフェクトが表示された。
    「あっなんか出た!? 凛! なんか出た!」
     再度腕を動かすと、凛の動きに従って画面に水色のラインが引かれ、そのラインに触れた動物がピコッと音を立てて消滅した。
    「あーっ!? 消えた! 凛! ライオン消えたぞ!?」
    「うっせえ潔、見てりゃわかることをでけえ声で叫ぶな」
     どうやらこれは、画面上に現れるラインを操作し、消去したオブジェクト数に応じたスコアを競うゲームらしい。ルールがわかってしまえば単純なもので、凛は遅れを取り戻すように猛然とオブジェクトを叩き潰し始めた。
    「あーっ! あーっ凛! なんかでかいの出た! アハハ! でっかいウサちゃん出た!!」
     オブジェクトは大きさに応じて耐久値が設定されているらしく、ものによっては数度触れないと消去することができない。連打につぐ連打でようやく巨大ウサギのオブジェクトを破壊したタイミングで、『TIME UP』の文字が画面上に表示された。
    「スコア、9750点だって! お疲れ凛!」
    「高いのか低いのかわかんねぇな」
    「最初ロスしたわりにはだいぶ健闘したほうなんじゃない?」
     軽く息をつきながら、スペースを出る。汗をかくほどではないが、ハイスコアを狙うとなるとそれなりの運動量を要求されそうだ。次はお前だとばかりに肘で潔をこづくと、「ええっ?」と素っ頓狂な声があがった。
    「俺もやるの?」
    「当たり前だ。せいぜい無様に踊ってみせろ」
     あまり乗り気でなさそうな潔を無理矢理押し込むと、凛はスペースの手前に設置されている筐体を操作し、歴代ハイスコアの画面に遷移する。24720と、トップスコアはそう表示されていた。
    「チッ、倍以上かよ」
     そうこうしているうちに、画面上でカウントダウンが始まる。潔が腕を振ると、今度は画面上に黄緑色のタイルピースのようなエフェクトが表示された。どうやら、任意でエフェクトのデザインを選べるらしい。
     凛のプレーを見ていたこともあり、潔は軽妙な動作でオブジェクトを消していく。上下左右に腕を振るたび、黄緑色のエフェクトがはじけ、画面にきらきらと光の粒が舞った。

    (……こいつ)

     しだいに、凛の目は潔のプレーに吸い寄せられていく。腕だけではなく、絶えず首を左右に振るその動きは、サッカープレイヤーの周辺視そのものだった。反射神経が頭抜けているような印象はないが、とにかくこいつは、視野が広いのだ。画面端から突如湧いてくるオブジェクトの不規則な動きにも、よく着いていっている。サイドを向いていた潔が、目線を切ったまま逆サイドに出現したオブジェクトに瞬時に反応するような場面が数度あり、凛は内心で舌を巻いた。

    (やっぱり、気のせいじゃねえ。……こいつは確実に、経験者(こっち側)だ)

     『TIME UP』の文字が画面に表示されると同時に、潔はその場に座り込んだ。
    「うはーっ! しんど!」
     首元を仰ぐ潔の、その頬がわずかに紅潮している。
    「その程度で息切れかよ。貧弱潔」
    「はっ! ……そういうことは、これを見てから言うんだな!」
     潔が画面を指差す。そこには、『SCORE 17800』の表示があり、思わず「ああ?」と大きめの声が出た。
    「見たかっ。これが俺の、実力だっ」
     息を弾ませながら潔が笑う。序盤十数秒のビハインドがあったといえ、初見の凛がこのスコアを叩き出せたかどうか正直怪しい。まぐれだろと言いかけて、しかしプレー中の潔の動きを思い出した凛は、非常に不本意ながらも口をつぐんだ。
    「歳下にハンデ戦で勝って嬉しいか?」
    「こういうときだけ歳下ぶるなよ! 俺に敬語のひとつも使ったことないくせに!」
     まあ使わなくてもいいけどな、そう言いながら潔は腰を上げた。
    「……引きこもりのゲーオタかと思いきや、案外動けるじゃねえか」
    「凛って俺のことそんなふうに思ってたの!?」
    「まあいい。次は負けねえ。オラ行くぞ」
     潔相手にダブルスコア近い差をつけられたままでは、凛の気が収まらない。言うが早いか凛は隣のスペースに移動し、ろくに説明も見ないまませっかちに画面を操作しはじめた。
    「おいっ、凛、置いてくなって!」
     追いついてきた潔が文句を言うが、凛は気にせず操作を続ける。長方形に区切られたこのスペースでは、サイバーバスケやサイバースロー──要はボールを使った的当てだ──といったゲームが遊べるらしい。凛は籠に入っているゴムボールを潔に投げてよこすと、『START』の表示をタップした。
    「次はお前が先攻だ」
    「ええっ!? ああもう、これはどういうゲームなんだよ!」
    「ボールを的に当てときゃなんとかなんだろ。あとは知らねえ」
     突然始まったゲームに最初こそばたついていた潔だったが、次第に要領を掴み、壁に表示されたポイントへ順調にボールを当てていった。やはりこの男、運動神経は並だが、飲み込みの早さと視野の広さには見るべきものがある。左右にステップし、時折飛び跳ねながら時間までプレーしきった潔は、つかつかとこちらに歩み寄って軽く凛の肩を押した。画面には『13 POINT』の表示が点灯している。
    「……っ、お前なあ、いきなりやらせんのはナシだろ……ッ」
     息が整わないのか、潔はぜいぜいと肩で息をしている。脆弱な肺活量をはんと鼻で笑い、「次は俺の番だ」と凛は交代でスペースに入る。
     シンプルな内容のゲームほど単純なフィジカル差が出るようで、凛のスコアは潔を大きく上回る24ポイントを記録した。
    「チッ、ダブルスコアは逃したか。次で勝敗決めんぞ」
    「おい! 凛! 今のはどう考えても初見の先攻プレイヤーが不利だろ! せめてお互いにルールがわかってる状態でやろうぜ!」
     ぎゃーぎゃーと不平を申し立てる潔。凛は壁に掲出されたフロアマップにちらりと視線を向け、「ルールがわかってんなら文句はないんだな」と念を押した。
    「お、……おう。それなら俺も文句はないよ」
    「決まりだな。次はあっちだ。着いてこい」


     凛が足を向けた先は、施設のちょうど中央部に位置するオープンスペースだった。広さはバドミントンコートの半面ほどだろうか。今までのスペースは三方向が壁で仕切られていたため、面積以上に広く感じる。
     スペースに近づくと、白い床にもやもやとした模様が投影された。どうやら、プレイヤーの接近を自動で感知し、適切な映像を投影する仕組みらしい。

    「これ、ピッチだ……」

     静かな驚きを含んだ口調で、潔がつぶやいた。足下に視線を落とすと、水や煙にも似た緑色の光の波が、風をはらんで音もなくなびいているのが目に入った。
     潔はしゃがみこみ、光の波にそっと手を伸ばした。指先が床と触れ合い、表面をなぞる。
    「あは……そうだよな。それっぽく見せてるだけ……」
    「おい、さっさと始めるぞ」
     言われて、潔がばつの悪そうな表情で顔を上げた。
    「やるの? 本当に?」
    「ルールさえわかれば文句はないって、お前が言ったんだろうが」
    「確かにそうは言ったけども……」
    「さっきまでの威勢はどうした? ビビってんのか」
     うーん、と首をひねる潔は煮え切らない反応だ。一体何を勿体ぶっているのだか。凛は近くのスタンドからARグラスを二つ取って、片方を雑に放った。潔は「うおっ」と慌てたような声をあげ、すんでのところでキャッチする。
    「おまっ、これ、多分めっちゃ高いやつ! 弁償代ウン万するやつ!」
    「落とさなかったんだから別にいいだろ」
     サングラス型の黒いARグラスをかけると、平面の映像にすぎなかった緑のピッチが瞬時に立体感を持って目の前に立ち現れ、凛は目を見開いた。
    「うわっ……すっげ……! ほんとにピッチに立ってるみてえ!」
     隣の潔も同じ感想らしい。二人はしばらく、3Dホログラムの世界を、真新しいおもちゃを買い与えられた子供のように歩き回った。
    「凛! 凛見ろ! 膝つくと芝がフカッてなる!」
    「……動きがリアルタイムで反映されんのか」
    「すげえ、さわれそうなのに全然手に当たんねえの! おもしれ〜!」
    「ボールはこれか? で、四隅のラインをオーバーすると自動で足下に戻ってくる、と……」
     試しに右脚を思い切り振り抜いてみれば、白いボールが低い軌道で勢いよくすっ飛んでいった。そのまま立て続けにボールを蹴る。拾う手間が省けるのは楽でいい。込めた力よりも飛距離が出すぎるきらいはあるが、そこは未経験者に合わせた調整なのだろう。ゴールポストの隅を目掛けて、水を打つようなシュートを決める。ボールは鮮やかな軌道を描いてネットに吸い込まれ、そうしてまた凛の足下に戻った。
     はっとする。気づけば、凛だけがボールを独占するかっこうだ。文句のひとつでも言われるかと、潔のほうを振り返る。潔は凛から少し離れた場所で、両腕をだらりとぶら下げたまま、ただそこに立っていた。

    「おい、どうし」
    「……すっげえ……」

     なあ凛、と。わずかに震える声で名を呼ばれる。なぜだかそのとき、ARグラスに隔てられた瞳に灯る焦げ付くような熱の存在が、根拠はなくとも、凛にははっきりと伝わった。

    「すげえ……お前、天才かよ……! なんだ今の軌道……!? ボールコントロール技術もとんでもねえ! もっかいやってくれ、頼む凛!」

     ばくんと、心臓がまた、おかしな音を立てた。潔の熱が伝播して、凛の体に誤作動を起こさせたのかもしれない。得体の知れない衝動に駆り立てられるように、言うつもりのなかった言葉が口からこぼれ出た。

    「……他のやつにも似たようなこと言ってんだろ、どうせ」
    「えっ?」

     虚をつかれたような潔のリアクションに、苛立ちがこみあげる。凛は3Dホログラムのピッチ上に表示されたいくつかのアイコンに視線を移すと、そのうちの一つを荒っぽく踏みつける。するとモードが切り替わり、ゲームのルールを説明する音声が流れ出した。
    「おい凛、ちょっと!」
    「さっさと配置につけ」
    「俺はまだやるなんて言って……」
     なおもうだうだと言い募る潔に、ぴしゃりと言い放つ。

    「俺のシュートがご所望なんだろ。見せてやるよ、特等席でな」




     このゲームは、攻撃側と守備側に分かれてプレーする対人戦だ。攻撃側は、フィールド中央奥に存在するゴールポストにボールを入れればポイント獲得。守備側は、ボールを奪うことで自らの得点機につなげることができる。要はポイント制の1on1で、ゴールを決めれば三点、相手の守備を抜けば一点など、プレー内容に応じて加算されていくポイントの合計を競うルールだ。
    「制限時間は90秒。せめてものハンデとして、先行はお前にくれてやるよ」
     ルールのアナウンスが流れ終わり、間を置かずにカウントダウンが流れ始める。潔もさすがに観念したのか、素直に初期配置についてスタートを待った。

     ──3、2、1……GO

     合図とともに、潔が飛び出した。危なげないドリブル動作。凛は口元に猛禽じみた笑みを浮かべ、潔を迎え撃つ。
    「そんなヘナチョコドリブルで俺が抜けるかよ」
     それには返事をせず、潔は一度ボールを止め、凛との間合いをはかるようにわずかに顎を引いた。ちらりとゴールポストに視線を向け、軸足に体重をかけて踏み込む。踏み込み、かけた。
    「──見え見えなんだよッ!」
     インサイドにボールを回し、逆側に抜けようとした潔を間髪入れずブロックする。
    「……っく!」
     なんとかボールをキープした潔は、凛に背を向けて機会をうかがう。
    「どうした? 抜けるもんなら抜いてみやがれ」
    「ふっ、俺だって、お前をラクに出し抜けるとは思って、ねえよッ!」
     潔は足裏でボールを引きつけ、角度を変えながら凛の足下を狙っている。軸足にボールを回そうとした、その一瞬の隙をついて、凛は潔からボールを掠め取った。
    「くそッ!」
     そのままくるりとターンし、ゴールを狙う凛に、潔は必死に喰らいつく。ロールタッチや、鋭いカットインにもしぶとく食い下がってくる潔に、凛は舌なめずりをした。
     ──思った通りだ。間違いなく、こいつは経験者!
    「どうした、もっと喰らいついてこいよ!」
    「ッハ、ハァッ、ハッ」
     凛にはもはや、ARグラス越しの潔の表情が手に取るようにわかった。爛とみなぎる晴青の瞳。苦しげに歪められた表情はしかし、どこか明るくて。スニーカーのグリップの弱さも気にならないほどに、全身が昂る。唇に笑みが乗る。血液が沸騰する!

    「んなぬりぃプレスじゃ、俺は止まらねえぞ! 潔ぃ!!」
    「────凛ッ!!!」

     二頭の獣が咆哮する。
     凛は引き寄せたボールを踵で蹴り上げ、そのままノールックでゴールポストに叩き込んだ。


    『GOOOOOOOOAL』


     バーチャルシステムの補正をものともしない痛烈なゴールに、歓呼の演出が応えた。3Dホログラムのピッチが七色のライトで照らされ、勝利者の栄光を讃える。
     凛は振り返って潔を見た。荒い呼吸が伝わり、熱を帯びた視線が交わる。その口元には、凛と同じ笑みが浮かんでいた。かりそめのピッチといえど、胸に湧き上がる衝動は本物だ。オンラインゲームのアバター越しには感じられない生身の躍動に、全身が湧き立つ。
     時計が再び動き出す。潔ボールからのスタート。フィジカルでは敵わないと見たのか、より間合いを意識したポジショニングだ。急加速し、潔の懐に深く切り込む。自ら鍔迫り合いに持ち込むかのように。
     凛の接近に半歩身を引いた潔だったが、
    「……っえ!?」
     かくんと、予期せぬ動きで身体が沈む。愕然とした表情で膝をついた潔に、凛はチッと舌を鳴らす。
    「何やってやがる! 早く立て!」
    「……っお、おう!」
     潔は胸を押さえて立ち上がり、こぼれ球を追いかける。しかし、速度が出ておらず、容易くボールを奪われてしまう。
    「はあっ、……っヒュ、っぐ、ハアァッ」
     凛はそんな潔の隙を見逃さず、再び矢のようなシュートを決める。七色のムービングライトが、凛と潔の表情をくるくると照らし出す。再び潔ボールからのスタート。白い仮想ボールが定位置に表示され、カウントが再開される。一歩、二歩と足を進める潔。その歩みが、ぴたりと止まって。
     ──そのまま、潔がふたたび走り出すことは、なかった。

    「おい、」

    「……おい! 何やってんだ! お前のボールだろ!」

     潔がARグラスを外す。フレームにかけられたその指は、隠しようもなく震えていた。うなだれ、うつむいた横顔。


     ────ピピーーーーーッ!!


     ゲーム終了を告げるホイッスルが、無情にも響き渡った。




    「潔テメエ! どういうつもりだ!?」

     凛はほとんど投げ捨てる勢いでARグラスを外した。つかつかと潔に歩み寄り、乱暴に襟首を掴み上げる。潔はうつむいたままだ。重ための前髪が主張の強い瞳を覆い隠して、感情がよく読み取れない。ひゅうひゅうと、隙間風にも似た音が耳に届く。
    「見ての、通りだよ……お前が勝って、俺は負けた。ただそれだけだろ……」
    「勝負を途中で投げやがったくせに、何を言ってやがる!」
    「勝負……」
     潔の口元が歪む。それは、無理に笑顔を作ろうとして失敗したときのような、屈折した表情だった。
    「とにかく、こんな決着俺は認めねえ。仕切り直しさせろ」
     頑なに目線を合わせようとしない潔に苛立ちが募り、凛はぎりぎりと襟を掴む手に力を入れた。こほこほと、引っ掛けたように咳き込む潔。その肩はいまだに上下し続けている。
    「あ? お前……」
     ひくりと、潔の喉が震える。そこでようやく視線が上を向き、光のない茫洋とした瞳に凛を映した。
    「…………。……凛。ごめん、あと30秒だけ……いや、10秒でいいや。10秒だけ、時間をくれ。そしたらちゃんとやれるから……」
     そう言って、掴みかかる凛の右腕を軽く叩く。渋々腕を外した凛は、どこか様子のおかしい潔をじっと見下ろした。うわの空、とでも言うのだろうか。曖昧なその瞳は、一心に何かを映そうとしているようにも、すべてを拒絶しているようにも見えた。
     ややあって、潔ははああと深いため息をつき、正面から凛を見た。今度は、なんでもないような顔で、口には笑みすら浮かべて。
    「………俺ってさあ、一応ブルーロック内のトップランカーとして多少名を? 馳せてるわけじゃん? だからリアルサッカーもやってみればいけるんじゃないかと思ってたけど、そんな甘くないわな!」
     明るく言い切る潔。しかし凛は、その取り繕ったような明るさに違和感を覚えてしまう。
    「潔、お前、俺に何か隠してるだろ」
    「んー? 何かって何?」
    「とぼけんじゃねえ。大体今日の約束からしてそうだ。ろくな説明もなしに、俺をこんなところに連れてきやがって。一体なんのつも、」

    「──凛」

     縋るような瞳に、言葉を飲み込む。

     ──お願い、それ以上なにも言わないで。

     瞳がそう語っている。脆さと表裏一体の、切実さで。理由は言えないようだが、潔は今、罅の入った陶器に継ぎを当てるように、普段通りの仮面をかぶろうとしている。何も問題などないと、あくまでそういうことにしておきたいのだ、こいつは。
     普段通りの仮面の奥に透けて見えるのは、やんわりとした拒絶だ。
     凛は唇を噛み締めた。

    「……なあ、お腹空かねえ? だいぶ体動かしたし、そろそろメシにしよーぜ」

     な! と歯を見せて笑う潔が、返事を聞く前に凛の腕を引く。水をさされた高揚と、取り繕われた綻びが、胸にしこりのように残っている。
     ──高く積み上がったトランプタワー。
     凛の脳裏にふと、そんなイメージがよぎった。風のひと吹きでばらばらに崩れてしまいそうなそれに手を伸ばそうとして、凛はぎゅっと拳を握った。
     正直、今すぐこいつの襟首を引っ掴んで「吐け」と迫ってしまいたい。だが、もしそれをしてしまえば、危ういバランスで保たれている何かが崩れてしまうような気がした。

    「……チッ。後で覚えとけよ潔」

     貸しひとつだ。追求の言葉を飲み込んで、腕を引かれるままに歩き出す。順番待ちをしていたペアが、凛たちと入れ替わりでボールを蹴り始めた。定型文のアナウンスを背に聞きながら、二人は施設をあとにした。




    「あーなんかどれも美味そうで悩むなー! 凛は何にすんの?」

     スポーツアトラクションを出た凛たちは、フードワゴンや屋台の立ち並ぶ通りにやって来ていた。多少は体を動かしたことだし、和食派の凛としてはがっつり膳でご飯といきたいところだったが、あいにく見かけるのはホットドッグのような軽食や、チキンだのポテトだの体に悪そうな揚げ物類ばかりだった。
    「あっちの店はチーズがけポテトかー。シンプルに美味そうだな……買ったら凛も食べる?」
    「いらねえ。ひとりで食ってろ」
     フライドポテトなんか食ってるやつはいいサッカー選手になれねえ、とは兄である冴の談だ。正直死ぬほどポテトはうまいが、幼少期からの兄の刷り込みを凛は鵜呑みにしていた。ましてやチーズがけなどもってのほかだ。
    「うあ〜ピザうまそぉ〜! 骨付き肉なんてのもある! やーでもここはあえて甘いものをガッツリいくのもありか……?」
     腹が減ったと言う割に先ほどからやけにはしゃいで見える潔に、凛はため息をこぼす。
    「食うもんくらいさっさと決められねえのかよ」
    「だってせっかくなら後から振り返って『あれ美味かったな』って思えるものを食いたいじゃん!?」
     そういうもんか、と凛はあたりを見回す。メインを決めてすらいないのにアイスクリームのフードワゴンに吸い寄せられていく潔を尻目に、凛は近くにあったドリンクスタンドに足を向けた。
    「いらっしゃいませ! こちら、期間限定フレーバーになります! よければ試飲されていきますか?」
     朗らかな笑顔とともに、店員が凛にカップを差し出す。カップに注がれていたのは海のような深い青色のドリンクだった。一息に飲み干すと、爽やかな柑橘の香りとともに、どこかほろ苦い味が口内に広がった。
    「味はレモネードがベースなんですけど、苦味を残して大人っぽい風味に仕上げました。クールなお兄さんにぴったりのお味ですよ!」
     グラデーションが綺麗で映えもバッチリです、お好みで炭酸をお入れすることもできますよ、などと滑らかな口上に押された凛は、深く考えずに「……じゃあ、それください」と答える。
     炭酸のはじけるカップを片手に、凛は軽食の屋台を数軒回ってハンバーガーを購入した。一足先にテーブルにつくと、潔の合流も待たずにハンバーガーにかぶりついた。フライドポテトは悪しき食べ物だが、ハンバーガーについては特に言及がなかったのでセーフのはずだ。

    「あーっもう食べてる!」

     もごもごと口を動かしていると、ようやく目当てのものを購入できたらしい潔から声をかけられる。潔は凛の正面に回ると、メロンソーダの入ったカップをテーブルの上に置いて着席した。
    「んだそのゲテモノは。食えんのか」
    「なんだよー美味そうだろー! てか凛ハンバーガーにしたんだ。あとで一口ちょーだい」
    「誰がやるかバカ」
     大口を開けてハンバーガーにかぶりつく。胡椒のきいた粗挽き肉はいかにもジャンクな味付けで、ガッツリいきたい高校生の欲望にかなう仕上がりだ。
     ちぇ、と言って潔が袋から取り出したのは、大粒の砂糖と蛍光色のソースがゴテゴテにトッピングされたチュロスだった。こんなもん食うやつの気が知れねえと初見パスを決めていた凛は、実物を目の当たりにしてぎょっとする。
    「あ、んま〜♡ 甘くて香ばしくておいひい!」
    「カスの食レポかよ」
     砂糖の塊みたいなチュロスをぱくつきながら人工甘味料の権化みたいなメロンジュースを啜る潔は、幸せそのものの呑気な表情だ。
    「よくその化け物チュロスに甘い飲み物を合わせようなんて発想になるな」
    「いいだろ飲みたかったんだから。凛のそれなに? ブルーハワイ?」
    「レモネード」
    「ふーん。綺麗な色だな。味見さして」
    「却下」
     ぶうぶう言っている潔は無視して、二口三口とハンバーガーにかぶりつく。それなりに腹が減っていたからか、食べ始めればなくなるのはあっという間だ。ぺろりと口の端についたソースを舐めとると、潔の青い両目が凛をじっと見つめていた。
    「なんかさあそのレモネード、凛みたい」
    「は?」
    「凛の目ってさ……何色っていうんだ? 青と緑の間の色だろ。前にテレビで見た、珊瑚礁が広がる海みたい。うん、すげー綺麗」
     あどけない笑みを浮かべる潔に、うっかり素のポカン顔を晒してしまいそうになって、凛は眉間にぎゅっと力を入れた。
     海みたいってんなら、お前の目のほうがよっぽど──
    「!? どういう意味だよ!」
    「えっそんなに怒る?」
     ただの感想だよ、そう言って潔はメロンジュースを啜る。凛は内心の動揺を気取られないように、ハンバーガーの包装紙をぐしゃりと丸めて潔に放った。
    「うわ何!?」
    「捨てとけ」
    「もー、ゴミくらい自分で処理しなって……」
     そうは言いつつ、紙袋にゴミをまとめ入れる潔。凛はふん、と鼻を鳴らした。
     チュロスをかじりながら、潔が話を振る。
    「次さあ、俺はお土産見るとかしたいんだけど、凛はどっか行きたいとこある?」
    「土産なんざ、外に出てからでも買えんだろ」
    「いやいや! 園内でしか買えないものもいっぱいあんの!」
    「ここまで来たら、乗れるもんは全部乗っちまいてえな」
    「あー、そういやあっちにコーヒーカップあったな」
    「乗るかよんなガキくせーもん。乗るっつったらもっと──」

     瞬間、わあっという歓声が上がり、凛と潔は声のする方に顔を向けた。さっと顔を青ざめさせる潔。それとは対照的に、凛の目じりが獲物を見つけた猛禽のように吊り上がっていく。

    「決まりだな」
    「ちょちょちょ待って凛待って! 乗るの!? あれに!?」
    「あれが俺の『行きたいとこ』だ。そうと決まりゃさっさと行くぞ」
    「んぇー……んん……」
     二人の視線の先には、レールに沿ってくるくると回転しながら宙を駆けるジェットコースターの姿があった。パンフレットで見た情報によると、ここのコースターは全国三位を誇る最高速度が売りらしい。これに乗ったら、さぞかし愉快な反応が見られる──もとい、爽快感を味わえるに違いない。
     違いないのだが、当の潔はいつまで経ってものろのろとチュロスをかじったまま立ち上がろうとしない。乗り気でないのが態度から滲み出ている。
    「おい、そんなもんさっさと食い切っちまえ」
    「……凛が絶叫系に乗るなんて言い出すから。食欲が吹っ飛んじゃったよ」
     ん、と潔がチュロスを差し出す。よく見ると、化け物チュロスは半分ほどしか口をつけられていなかった。
    「責任取って凛が全部食べ切ってよ」
    「はあ? 誰が食うかそんな砂糖のかたまり」
    「そこがいいんじゃん。ほら、早く」
     立場が逆転しているような気がしないでもないが、仕方がないので差し出されたチュロスにかじりつく。食べ物を粗末にすることは凛も望むところではないのだ。がりがりと砂糖の塊を噛み砕き、ぽつりと一言。
    「……甘ぇ」
    「はい、ごちそうさまでした」
     にこりと笑った潔は、「じゃ、俺トイレ行ってくるから」と席をあとにした。こんなクソ甘いものを好んで食おうとする奴の気が知れねえ。潔の背中を見送りながら、凛はそんなことを思った。




     園内きっての人気アトラクションということもあり、凛たちが到着する頃にはすでにそれなりの待機列ができていた。列は次々伸びていき、しばらく停止しては、どっと前に進むことを繰り返した。
    「この分なら、そう待たされずに乗れるか」
     凛はつぶやく。潔は相変わらず気乗りしない表情で、きょろきょろとあたりを見回していた。
     凛たちがつづら折りの待機列のちょうど真ん中あたりに来たとき、列の前方から大きな声があがった。
    「ん? 何? なんかあった?」
     潔がひょいと背伸びをして前列をうかがう。どうやら、家族連れが搭乗口で係員ともめているらしい。

    「やあだ! 乗りたい! 乗りたいの!!」

     大声をあげているのは、未就学児くらいの小さな子供だった。身長制限に引っかかって搭乗を断られたものの、どうしても乗りたいと言って駄々をこねているらしい。「私がよく見ていますから」と母親が頭を下げて頼み込んでいるが、規則は規則だ。
    「いぃぃやぁだあああ!! 絶対乗るの!!!」
     ただ、子供を列から出そうとするたびに子供がぎゃんぎゃん大声で泣きわめくので、係員も閉口している。子供の甲高い声がやや離れているこちらの耳にまで突き刺さるようで、凛は顔をしかめた。
    「あー……気持ちはわかるけど、ルールはルールだからなあ」
     フェンスに掲出されている注意書きを横目に、苦笑混じりの潔が言う。
    「お前はちゃんと140cmあんのか?」
    「あるよ! 見ればわかるだろ!」
     結局、子供の駄々は聞き入れられなかったらしく、母親と一緒に列を抜けたらしいのが遠目に見えた。ぎゃあぎゃあと泣きわめく声に、列に並ぶ人々も呆れ半分微笑ましさ半分の表情だ。
    「フン、当然だろ」
     コースターが出発したことで、待機列がまたぐっと前に進んだ。このペースなら、次の次くらいには順番が来るだろう。スマホを取り出して時計を確認する凛の袖を、くん、と潔が引いた。
    「あ、のさ、凛。俺、ちょっとトイレ行きたくなったかも」
    「ああ?」
     顔を横に向けると、おずおずとこちらを見上げる血色の悪い顔と視線がぶつかった。
    「さっきも行ってただろうが」
    「あー、うん、そう、そうなんだけどね」
    「お前まさか、ここまで来て逃げるつもりじゃねえだろうな?」
     このビビり野郎がと吐き捨てれば、潔はなにやら歯にものが挟まったような、どこか困ったような顔で、へらりと眉根を下げて笑った。
    「……うん! じゃ、まあそういうことだから!」
     あとで合流しよう! びっと手を掲げたかと思うと、潔はあっという間にパーテーションの下をくぐって待機列の外に出てしまった。
    「な、おい潔! 勝手に……」
    「俺トイレ終わったらこのへんうろうろしてるから〜。楽しんで!」
     ちょうどそのとき、次発の案内が始まったのか、列移動の流れに巻き込まれた凛は潔を引き留めそこねてしまった。ぷらぷらと手を振って遠ざかっていく潔を見送りながら、ぎりりと歯噛みする。

    (クソ! 逃げやがって! ふざけんな潔覚えとけ)




    「あ、戻ってきた! どうだった?」

     ひととおりコースターを楽しんだ凛を出迎えたのは、ベンチに腰かけて呑気にスマホをいじる潔だった。
    「どうもこうもねえよ。あんなん始まりゃすぐ終わる」
    「とか言って、結構満喫したんじゃない? なんか機嫌良さそうだし」
    「あ? んなわけあるか」
     実際は、始めこそ憤怒の形相で周りをビビらせていたものの、終わってみればすっかり満喫ムードの凛であった。特に終盤付近、急降下からの二連続大回転には驚かされた。ホラーゲームのヒリつくスリルと高速で推進する機体に振り回される感覚には似通うものがあり、クセになりそうだと凛は心中で思う。
    「次なんだけどさ……もうじき入場ゲート付近でパレードやるんだって。一緒行かない?」
     ベンチに座ったままの潔が、うかがうように上目でこちらを見る。行きたいなら行きたいとそう言えばいいものを、そこで一歩引くのはなんなんだ?
    「女子供の好きそうなモンばっか行きたがるよな、お前」
    「そっ、そんなことないだろ! パレードはみんな好きでしょーが!」
    「……何時からだ?」
    「えっ? じゅ、14時」
     凛は手元の時計に目を落とす。デジタル画面には13:48と表示されており、入園から四時間近く経過していることを知る。
    「おい、いつまで休んでるつもりだ。さっさと行くぞ」
     潔の表情が、ぱっと明るくなる。ショルダーバッグを胸元に引き寄せ、弾むように立ち上がった。
    「……おう!」




     こうして誰かとテーマパークをそぞろ歩くのは、一体いつぶりだろうか。生粋のサッカー小僧である凛にも、両親や兄に手を引かれて歩いた思い出がないではない。幼い人間なりの感性でその時々の余暇を楽しんでいたはずなのだが、いかんせん凛の人生におけるサッカーの比重が大きすぎ、その後ろに積んである娯楽の記憶はぼやけている。
    「俺さ、実はここのパレード楽しみにしてて……」
     上機嫌に腕を振って歩きながら、潔が言う。
    「前から行ってみたいって思ってたんだ。でも、ひとりだとちょっと気恥ずかしくて」
    「んな恥ずかしいもんに連れてくつもりなのかよ」
    「あっ、いや、そうじゃなくて! ……んん、でも、そういうことになっちゃうのか?」
    「どっちだよ」
     呆れ混じりの突っ込みに、ふは、と潔が息を吐いて笑う。風に乗ってどこからか漂ってくるキャラメルの甘ったるい香りが凛の鼻先をくすぐる。非日常の匂いだ、と思った。
     そんなに難しいことじゃないんだ、と、どこか遠くに投げかけるような口調で潔は言う。
    「ただ、凛と一緒に行けたら楽しいだろうなって、そう思ったんだ」
     潔の横顔を見る。こんな時、凛はどういう言葉を返せばいいのかわからない。気の利いた返しのひとつやふたつ、冴ならばと思いかけて、兄貴も俺と似たようなもんか、と思い直す。サッカーばかりの少年には、この手の感情の機微をすくい上げることは難しい。兄弟ともども、人の好意や期待を正面から受け止めるにはひねくれ過ぎていた。
    「オンラインゲーム上で知り合っただけの相手とかよ」
     そうして、口からこぼれるのはまた、つっけんどんな皮肉ばかりだ。
    「そうだな。でももう俺たち、ただのネット上の知り合いじゃないだろ?」
     潔のこういうてらいのなさが、凛にはもどかしい。
     凛はただ、潔の歩調に合わせて足を動かしながら、胸の裏側を指先でくすぐられるような落ち着かない感触を持て余すばかりだった。




     徐々に人が増えてきた。パレードの開始を今か今かと待ちわびる人々の群れが、いくつもの支流が一本の川に流れ込むように、しだいに広がっていく。背の高い凛は、遮られることなくパレードの待機列を見通すことができたが、潔はそうもいかないらしく、人混みに巻かれるかたちで、前へ前へと押し込まれていく。
    「り……」
     潔はこちらを振り返って、凛の名を呼ぼうとしたようだった。しかし押し寄せてくる人波に遮られて踏ん張り切れず、しだいに遠ざかっていく。伸ばされかけた腕が空を切って、人混みに沈んでいくのがわかった。
    「潔?」
     理由のわからない焦りに駆られて、名前を呼び返す。
    「……潔!」
     瞬間、パンパンパン! と大きな破裂音が立て続けに鳴り、あたりに色とりどりの煙が広がった。パレードが始まったのだ。
     入場ゲートでさんざん耳にしたテーマソングが、あふれるように流れ出す。陽気な曲調のオーケストラを背にして、船を模したフロートがゆっくりと動き始めた。フロートの周りには、ウサギやリス、犬などのマスコットキャラクターたちと、カラフルな衣装を身に纏ったキャストが勢揃いし、道の両脇に向けて手を振ったり飛び跳ねたり、賑やかに動き回っている。時折、きゃあっという子どもの歓声があがり、行進に更なる賑わいを添えていた。
     凛はしかしそんな光景には目もくれず、遠くへ遠くへ押し流されていく潔の後ろ頭を、人混みをかき分けながら必死に追いかけた。
    「おわっ!」
    「ちょっと! 押さないでよ!」
     肩がぶつかり、手や足が当たっても、かまわず人混みをかき分け続ける。パレードの後方では、二つ三つと新たなフロートが登場したらしく、ひときわ大きな歓声があたりを包んだ。大音量をまともに受けた耳の奥がきん、と鳴る。凛は顎を引いて、大きく舌打ちをした。

    「……ん、りん……」

     細く、しかし必死さのにじむ声が、不意に凛の耳に届いた。情報の濁流に麻痺しかけた耳にも、なぜかその音だけは、はっきりと聞き取れた。
     ぐらつく足元に杭を打ち込むように、凛は声を張り上げた。
    「おい! 潔! ……こっちだ!」
     そうして手を伸ばす。指先に熱を感じ、そのまま強く引き寄せた。
     迷子の子どものような、不安に揺れるつゆくさ色の瞳。
     はなさないでと唇が動いた。
     わななく手のひらごと固く握り込む。
     触れた肌が熱い。──潔は発熱していた。
    「あ、お、俺……」
     潔の表情が、泣き出しそうにくしゃりと歪んだ。
    「来い。ひとまず人混みを抜ける」
     腕を引いて、パレードから遠ざかるように二人で歩いていく。なんとなく、この場所に留まり続けるのは潔にとってよくないことのような気がしたから。流れに逆らって歩くというのは、それだけでかなり体力を消耗する。背中に感じる沿道の熱気よりも、真後ろを歩く小さな熱源のことを気にかけながら、人混みを抜けた凛は手近なベンチに潔を座らせた。

    「………」

     うつむき加減の潔のつむじをじっと見つめていると、不意に顔が上がって、視線がまた右腕に移される。その意図を正しく汲み取った凛は、握っていた手をぱっと離した。手のひらを、ふわりと空気がかすめる感覚がした。
    「……ごめん」
     俺が見たいって言ったのに、そう口にする潔はすっかりしょげかえって、力なく肩を落としている。
    「遠足の前日に熱出すガキか、おまえは」
    「はは……返す言葉もないや」
     それでも潔が笑うようなそぶりを見せたので、凛は短く息をつき、体ひとつぶんの間隔を空けてベンチに腰を下ろした。
    「俺はここで待ってるからさ。凛は行ってきていいよ」
     パレードの喧騒を、どこか別世界のことのように背で聞きながら、凛は石畳に目線を落とした。
    「俺もここでいい」
     隣で空気の揺れる音がした。笑ったのか、しゃくりあげたのかはわからない。
    「なんか飲むか」
    「いや、いい」
     器用に言葉を選べないから、詰問にならないように、小さく区切った問いを投げる。
    「腹は」
    「空いてない」
    「歩けんのかよ」
    「うん。もう大分、平気になった」
     嘘だ。それくらいは凛にもわかる。と同時に、潔がそれを暴かれることを望んでいないのも。
    「……もう帰るか」
    「まさか!」
     強い語調で、潔が否定する。凛はそれもわかっていた。否定されるために投げかけた、意地の悪い問い。
    「凛。俺は大丈夫。大丈夫なんだ。だから……」
    「わかってる」
     噛んで含めるように、ゆっくりと口を動かす。
    「今日一日だけは、おまえに付き合う。そういう約束だ」
    「はは……」
     潔の体が沈み込んだ。肩が細かくふるえている。その顔が涙で歪んでいないことを凛は願った。ややあって顔を上げた潔は、泣き顔の上に無理やり笑顔を貼り付けたような不細工な表情で、あえぐようにつぶやいた。
    「やっさしいのな、おまえ……」
     潔の肩を強めにどつく。うすら寒いこと言ってんじゃねえ、の気持ちをこめて。潔が負けじと凛の肩をどつき返してくるので、しまいには喧嘩のようになって、潔は嵐のあとの晴空にも似た笑顔で、あはは! と声をあげて笑った。




     パレードが通り過ぎるのを遠巻きに見届けて、あとは気の向くままに、ゆっくりと園内を散策した。しかしすぐに見るものがなくなり、アトラクションを楽しむ気分でもなかったので、凛たちは最寄りのショップに入ることにした。
     ぬいぐるみにキーホルダー、文房具。ぽいぽいと手当たり次第買い物かごに放り込んでいく潔を見て、凛は呆れたようにため息をついた。
    「いくらなんでも買いすぎだろ」
    「えー、だって……かわいくね? これとか」
     ほれ、と潔が手に取ったのは間抜け面をしたウサギのぬいぐるみだった。人を疑うことを知らなさそうな能天気な表情が、どことなく潔に似ている。
    「金なら貸さねえぞ」
    「それは大丈夫。けっこう持ってきてるから」
     どや顔の潔がショルダーバッグをぽんぽん叩いてみせる。顔がうるせえよ、顔が。
    「へええ、ペアチャームだって。最近はこういうのもあるんだな。俺が買ったら、凛もつける?」
    「いらねえ」
    「せっかくだから! 記念に!」
     無視。だいたいこういうのはカップルがつけるもんだろ。冷静な凛はそう思ったが、口には出さないでおいた。レジで潔の財布から諭吉が数枚無造作に取り出された時はさすがの凛も目を剥いたが、本人がいいと言っているのでまあ大丈夫なのだろう。マチ付きの大きなショッパーバッグをもらった潔は、ニコニコと満足そうに笑っていた。


    「よくもまあそんだけ買い込めたもんだな」
    「凛だって。一ミリも興味ありませんみたいな顔して、こっそりピコるんのぬいぐるみ買ってたの俺知ってるからな」
     ピコるんというのは、園内のあちこちで見かけるウサギのマスコットの名前だ。顔が間抜けなら名前まで間抜けだ。
    「……これがあれば、今日一日どこ行ってたかの証明になるだろうが」
    「ふーん? とか言って、普通に欲しかっただけだったりして」
     からかうような目線を向けてくる潔を、しっしと手で追い払う。もちろん、証明云々は建前だ。休みの日に遊園地なんぞに行ったことが兄や家族に知れたら、面倒なことになるに決まっているから。

    「あ」

     潔が立ち止まる。視線の先には、年季の入った記念メダル販売機があった。その隣にはこれまた古びた刻印機が並んでいる。吸い寄せられるように近づいた潔は、うわなつかしい、と言いながら画面を覗き込んだ。
    「こういうのたまにあるよなー。むかし行った水族館にも同じ機械があってさ。親に無理言ってやらしてもらったんだけど、なんでか家帰る前になくしちゃったんだよね」
     あのメダル、どこにいっちゃったんだろうな?
     首をひねる潔をよそに、凛は財布を取り出して硬貨を投入する。数枚のコインを飲み込んだ機械は、かろんと金色のメダルを吐き出した。
    「ちょ、え、凛?」
     凛はそのまま隣の機械に移動し、小さな受け口にメダルを押し込んだ。テンキーを操作してローマ字を打ち込み、スタートボタンを押すと、ガシャンガシャンガシャン! と派手めな打刻音があたりに響いた。潔が目を丸くしながらその様子を見つめている。音が止み、凛は受け口からコインをつまみ上げた。潔の手を取る。

    「やる。今度はなくすなよ」

     ひんやりと冷たい感触のメダルが、潔の手のひらの上で、照明を反射してぴかりと光る。そこに刻まれていた文字を見て、潔はあっと声をあげた。しばらく惚けたようにまばたきを繰り返したかと思うと、やがてこわごわと金色のメダルを握り込んだ。どこかいとおしげに、壊れ物に触れるような手つきで。
    「うん。……俺、なくさないよ。もう絶対に」
     大きな瞳いっぱいに喜びの色を満たした潔が、凛の顔を見上げた。
    「へへ。なんか、あの時のメダルが、何倍もすごい宝物になって戻ってきたみたいだ!」
     そう言ってくるりと背を向けた潔は、先ほどと同じ手順を猛スピードで反復し、ひったくるように取り出したメダルを勢いをつけて凛に差し出した。
    「俺も、これ……凛に!」
     ──「ISAGI」と「RIN」。互いの手のひらの上で、一対のコインが誇らしげにきらめいている。
     凛は、そこで、急激な照れに見舞われて眉間の皺を深くした。自分が先にふっかけたこととはいえ、互いの名前を交換するなんて、側から見たらかなり恥ずかしいことをしているのではないか。自意識に苛まれる凛をよそに、潔はさっきから嬉しくてたまらない犬のように、へにゃへにゃと口もとをゆるめて笑っている。
    「やばいな、これ。今まで人からもらったものの中で、いちばん嬉しいまである」
    「クソアホ間抜け面潔」
    「なんで罵倒!?」




     ショップを出る頃には、日はずいぶんと西に傾いていた。まだらに切れた雲の端々が、薄いオレンジに染まっている。すれ違う人の数も徐々に減ってきているようで、屋台や園内照明に、少しずつ明かりが点り始めた。両手に荷物を提げた潔がやや歩きづらそうにするので、無言で片手のぶんをひったくる。悪いよ、潔はそう言ったが、凛は取り合わない。
     あのさ、と潔が切り出す。
    「最後にどうしても行きたいとこがあるんだけど」
    「いちいち伺いを立てなくても、好きにしたらいいだろ」
    「そう?」
     少しずつ園内が薄暗くなってきた。潔は曖昧な表情で微笑むと、ある一点を指さした。
    「観覧車。一緒に乗ろう、凛」


     乗り場に到着すると、順番を待っているのは二組のみだった。そのおかげで凛たちはほとんど時間を置かずに観覧車に乗り込むことができた。
     ゆったりとした速度で乗り場にゴンドラが到着し、扉が開く。喜び勇んで乗り込む潔に凛も続いた。踏み込んだ瞬間、ゴンドラがゆらりと揺れ、予期しない動きに潔がつんのめった。
    「おっわ」
     思わず腕を伸ばすが、自力でバランスを取ったらしい潔が、凛のほうを振り返ってピースサイン。
    「意外と揺れるもんだな」
    「体幹がカス」
    「なにおう!?」
     入口側から見て右手奥の席に陣取った潔は、足元に荷物を置くとさっそく外の景色に見入っている。少し悩んで、凛は潔の斜向かいに腰を落ち着けた。ゴンドラがゆっくりと上昇していく。


     窓ガラスに両手をつけ、前のめりで外を眺める潔の後ろ姿をまじまじと見た。初対面、男二人で遊園地というだけでも突っ込みどころ満載なのに、果ては夕日を眺めながらの観覧車ときた。色々なことが起こりすぎて、朝、家を出たのがずっと昔のことのように思える。

    (なんか、一ヶ月分くらいまとめて喋った気がすんな)

     元来凛は口数の多い方ではない。家での日常会話は「うん」「いい」「メシ」「フロ」の四つがあればおおむね事足りたし、そのことに特段不便を感じたこともなかった。多少なりとも会話ができるのは兄の冴ぐらいで、交友関係も狭く、ユースチームでも最低限の会話しかしない凛のパーソナリティにここまで深く踏み込もうとしてきたのは、正真正銘、潔が初めてだった。
     凛を遠巻きにする人間が感じているらしい壁や垣根──凛にそんなつもりはないのだが──を、潔はスキップでもするように軽やかに飛び越えて、思ってもみなかった場所に連れてきた。潔と一緒にいると、喜怒哀楽の喜と怒と哀と楽のあいだにさらにいくつもの感情があって、人間ひとりひとりの内や外で渦を巻きながら光を放っていることを、まざまざと思い知らされる。潔はせわしなくて、鬱陶しくて、まぶしくて、だからこそ放っておけない。こんな気持ちは、他の誰にも抱いたことのない、凛にとって未体験の感情だ。


     ゴンドラはいよいよ地上から離れ、眼下には遊園地の外の街並みが広がり始めた。深く傾いた太陽を乱反射して、西の空が冗談みたいに赤く燃えていた。
     窓の外に視線を向けたまま、潔が口を開いた。
    「俺さ、最近ちょっと……いや、かなり嫌なことがあってさ」
     凛は黙って潔の言葉の続きを待った。
     潔はためらいながら、ゆっくりと言葉を選んで言った。
    「ほんとはちょっとくさくさしてたんだ。今日ここに誘ったのも、最初はそういう、凛に対する意地悪な気持ちがあったからなんだ」
     でもさ、と潔が続ける。
    「おっかしいよな。凛と会ったら、そんな気持ち全部どっか行っちゃったんだ! これまでとこれからの嫌なこと全部、どうでもいいやって思えちゃうくらい、ほんとにずっと、ずっと楽しくて……凛のこと誘ってよかったって、今は心から、そう思ってる」
     モーターの駆動音が、低く遠く空間を満たしていた。凛は潔に聞こえないよう、ひどく慎重に唾を飲み込んだ。
    「だから、ありがとう、凛。俺の賭けに乗ってくれて」
     潔はそこでようやく振り返って、凛のほうを見た。晴れやかな表情だった。沈んでいく太陽が、最後に水平線を燃やし尽くす時のような、強い輝きを内に秘めた眼。咄嗟に言葉が間に合わず、凛はただ目を細めて潔を見つめ返した。潔の表情がやわらかくほどけて、いつしか笑みの形になった。凛は無言で腰を上げ、潔と向き合う位置に座り直した。二人並んで夕焼けを眺める。
     終わらないでほしい。凛の胸をまた、体験したことのない感情が打った。明日なんて来なくてもいい。このままいつまでも、二人でゴンドラに揺られていたいとさえ思った。
     ごん、と音を立てて潔の額がガラスにぶつかった。ずるずると座席にずり落ちながら、潔はこんなことをつぶやいた。

    「終わりたくないな……」

     潔も自分と同じことを考えていることがわかって、なぜだか凛は泣きたくなった。だから無理をしてはん、と鼻を鳴らした。ゴンドラはじき音もなく頂点に達し、行きと同じ速度でしずしずと地上に降りてきた。眼下に広がる街並みに、ひとつ、ふたつと明かりが点っていく。太陽はほとんど沈みかけ、空は夜の気配を濃くしつつあった。
     始めと同じように、不意にぱかりと扉が開き、係員に誘導されてゴンドラを降りた。潔はもう、バランスを崩したりはせず、しっかりとした足取りで地上に降り立った。順番待ちをしていたカップルが、手を取りながらゴンドラに乗り込んだ。潔も凛も、ふたりとも、無言だった。




    「もう18時だって」
    「ああ」
    「凛はなんか、やりそびれたこととかある?」
    「……いや、特に」
    「そっか」

     どこか寂しげに、潔がつぶやいた。

    「……帰ろっか」
    「……ああ」

     観覧車を背に、どちらともなく歩き出す。園内のメインアトラクションは徐々にクローズし始め、かすかに聞こえてくる園内のBGMも、どこか甘く落ち着いた曲調に変わっていた。出口方面に向かう人の流れと少しだけ距離を取りながら、肩を並べて歩く。今日起きたことの一つ一つを反芻するように、静かな足取りで。
    「……凛は、何がいちばん面白かった?」
    「あー……廃病院でのおまえの腑抜けっぷり」
    「おい! それは言わない約束だろ!」
     むきになる潔がおかしくて、凛はくつくつと喉の奥で笑った。
    「俺はやっぱりあれかな……凛がでっかいウサちゃんをマジ顔でしばき倒してたとこかな。スコア的にも俺が勝ったし?」
    「潔テメェ……」
    「うはは! もうちょいお腹に余裕があったら、フード系もあれこれ試したかったけどな〜」
    「あの化け物チュロス、思い出しただけで口ん中が甘ぇよ」
    「普通にめっちゃおいしかったけどな。凛って甘いもの嫌いなの?」
    「嫌いじゃねえが、あれはさすがに品がなさすぎる」
    「品ん〜〜? それ言ったら世の映えスイーツ系は大概下品だってことになんじゃん!」
    「事実だろ」
    「……凛ってもしかして、かなりのお坊ちゃん育ちですか?」
    「あ? 知らねえよ。普通だろ」
    「ふーん? へええ? 鎌倉ユナイテッド所属ってことは、家もそのへんなんだろ? 結構いいとこ住んでんじゃないかと踏んでるんだけど」
    「おまえのほうこそどうなんだよ」
    「俺? 俺はほんと、マジの一般家庭だよ。面白みゼロ」
     凛は途中から、どうにかして潔との会話を途切れさせないようにと、そのことばかりを考えていた。そうすることで、迫り来る何かをなるべく先へと引き延ばすことができるような気がしたから。しかし期待もむなしく、二人はあっという間に入場ゲートの前──自分たちは今からここを出るのだから、退場ゲートと言うのが正しいのかもしれないが──に辿り着いてしまう。

    「あー……」

     ゲートの前で、潔が立ち止まった。肩越しに後ろを振り返って、園内を望み見る。凛はそれを黙って見守った。それもまた潔のために必要な一種の儀式なのだろうと思った。
     ──入場ゲートってさ、なんだか寂しい気持ちになるよな。
     あのとき即座に否定した言葉の意味が、今なら少しだけわかる気がした。始まったら、いつかは終わりが来る。それはある種の達成感とともに、過ぎ去るものへの哀惜もまた連れてくる。終わってほしくない。そんな言葉が再び胸に湧き起こって、詮ないことだと即座に打ち捨てた。こんなものはくだらない感傷だ。そう思うことで、痛みに目を背けた。
     やがて潔は前に向き直り、特に言葉もなくゲートを通過した。凛もそれに続いた。現地解散とは、どちらも言い出さなかった。




     ざわめく駅のホームで、電車を待つ。
     時刻表によると、潔の帰る方面の便のほうが早く到着するようだ。行き先は反対方向だが、お互いスマホをいじりながら、なんとなく一緒に電車の到着を待つかっこうだ。
     スマホから顔を上げずに、潔が言う。
    「ほんと……俺、今日のことずっと忘れないと思う。しんどいことがあっても、今日のこと思い出したら頑張れそうだわ」
     ささやくような口調だった。大袈裟だな、と茶化す気持ちで言葉を返す。
    「勝手に過去にしてんじゃねえよ、ぬる雑魚」
    「……え?」
    「これからいくらでも機会はあるだろうが」
     潔の丸く青い目が、いとけない仕草でまたたいた。伏せたまつ毛が細く震えて、息を吐き出すように潔は言った。
    「……じゃあ、その『いつか』がもしあったら、その時は凛も付き合えよな」
    「知るかバカ。一人で行け」
    「あはは! 男一人で遊園地はさすがにキツくないか!?」
     電車の到着を伝えるアナウンスがホームに響く。潔と凛は同時に顔を上げて、電車のやってくる方向を見つめた。暗がりの向こうから細い光がたなびいて、夜闇をすべるように、ホームに強い風が吹き込んだ。横方向に引っ張られるように髪の毛がなびいて、腕で顔を覆う。
     手櫛で髪を整えた潔が、ひらりと片手をあげて言った。
    「じゃ、俺、こっちだから」
     電車に乗り込もうとする潔の腕を、思わずといったそぶりで凛は掴んだ。
    「……な、何?」
     言葉が胸につかえて、言いたいことの百分の一も形にならない。それでも必死に凛は口を動かした。
    「いや……忘れ物とかねえのかよ」
    「え!? 大丈夫だよ。さっき何回も確認したし」
    「……そうかよ」
     頑なに腕を離そうとしない凛に、潔は少し改まった様子でこう言った。
    「あのさ、凛」
     潔の薄い唇から放たれる言葉を、固唾を飲んで凛は待った。潔は例の、少し困ったような眉根を下げた笑いかたで、凛の右手をかすめるようになぞった。
    「なあ凛、また……」
     語尾がかすれて、何かを飲み込むように潔が目を伏せた。そうして口を開いた。
    「……また今度、彼女と来る時は、もうちょっと愛想良くしないとな。いくら凛がイケメンでも呆れられちゃうかもだぜ!」
     努めて明るく言い切る潔。こちらが何かを言う前に、潔はそっと凛の腕を外して、そのままくるりと身を翻した。

    「……じゃあな、凛」

     潔が電車の中に体をすべらせる。生ぬるい空気を吹き出しながら扉が閉まり、ふたりを内と外とに隔てた。何か、重大なことを聞きそびれたような気がして、凛は一歩二歩と電車に近寄る。〇番線から電車が発車します──出発を告げるアナウンスが鳴り、電車が少しずつ動き出す。凛はそれをゆるやかに追いかけながら、ホーム側の扉ぎりぎりに立っている潔の顔を見た。つゆくさ色の瞳から、こらえきれないとばかりにこぼれ落ちる涙の粒。ほのかに上気した頬に、いく筋もの尾を引いて。

    「──潔ッ!!!」

     口をついて、思いがほとばしった。
     突然大声をあげた凛に、周囲の人間の怪訝そうな視線が集まる。行くな。ここにいろ。追いつけるはずもないのに、なぜだか足が前へと動いた。
     しかし電車は、鉄のかたまりとは思えないようななめらかさで、凛の家とは逆の方向へ、あっという間に走り去っていった。行った。行ってしまった。終わってしまった。
     ──なんで、涙なんか。
     不意の涙に、凛の心臓がからだの中心で激しく脈を打っていた。あんな、取り繕った別れの言葉などではなく、何か他に言いたいことがあったんじゃないのか。おまえは一体、俺に何を隠していたのか。喉の奥で、引き出されるのを待っていたその言葉を、どうして自分は待つことができなかったのか。


     凛はしばらく、呆然と電車の去ったホームを見つめていた。家に戻り、兄に今日の経過を訊かれたが、とても説明する気にはなれなかった。夕飯も食べずに部屋にこもり、気絶するように眠った。気がついた時には、もう朝だった。





    ② ─ maybe we could play again.



    『凛ってさ、自分じゃ気づいてないかもだけど多分めっちゃモテるじゃん』
    『んだよそれ』
    『特定の誰かと付き合ったりとか、そういうことはないの?』

     時折、こういうことがある。明瞭な視界。目の前にはわざとらしいほど現実に似せた光景が広がっている。凛は鏡の中を覗くように、もう一人の自分を、少し高い位置から見下ろしている。自分以外の誰かが自分を操っているような奇妙な感覚。夢だとわかって、醒めたままで見る夢。
     凛に限りなく似た、凛ではない誰かが、不機嫌そうに口を開いた。
    『そんなんに時間割くくらいなら一秒でも長くボールを蹴る』
    『うははっ。凛らしいや』
    『おまえは?』
     そこにいるのは凛ではないから、凛には訊けないことも訊くことができる。
    『おまえはどうなんだよ。いるのか、そういう相手』
    『俺?』
     きょとんとした表情。青い目をしたそいつは、口角をきゅっと上げていたずらっぽく笑った。出来の悪い生徒をある一つの答えに至らせようとする教師のように、考えてごらんよ、とでも言いたげに。
    『いるよ、もちろん。凛もよく知ってる人』
     誰だよ、そいつは、と夢の中の凛がじれったそうに噛みついた。青い目のそいつは、凛の頬に指先を伸ばして、はにかむように言った。

    『もうわかってるんでしょ。ほんと、お前ってそういうとこあるよな』

     俺の知るそいつは、決してそんなことを言わない。言わなかった。だから凛にははっきりわかる。これは、夢だ。凛にだけ都合のいい、いたって夢らしい夢。
     目を覚ます。見慣れた天井を睨みつける。顔を横に向けると、ベッドサイドチェストに置かれた金色のメダルが、カーテンから漏れくる朝日を受けてほのかに光を放っていた。




     潔と別れた後、凛はしばらく《BLUE LOCK》にログインすらしなかった。あの日を彷彿とさせるものを徹底的に視界から排除することで、日常に没頭した。そうしなければ、凛はもはや以前までの自分と地続きではいられなかった。それほどまでに、あの一日は凛にとって強烈な記憶として、深く強く焼き付いていたのだ。
     だからこそ、凛は重大な異変に気づくのが遅れてしまった。

    「……あ?」

     久しぶりにログインした《BLUE LOCK》で、いつものように〈きんつば〉のチャットルームを開こうとした凛は、ある異変に気がついた。いくら探しても、フレンド欄に〈きんつば〉の名前が見当たらないのだ。チャット履歴もすべて削除されており、やりとりを見返すことができないようになっている。凛は仕方なしに、マッチング履歴から〈きんつば〉に再度フレンド申請を行った。おおかた、手違いで運営から制裁を食らったか、ボタンを押し間違いでもしたのだろう。このゲームではよくあることだ。

    [このユーザーにはフレンドを申請できません]

    「は?」

     しかし、何度申請ボタンを押しても、表示されるのは[フレンドを申請できません]というシステムメッセージだけ。嫌な予感がし、凛は検索窓に〈きんつば〉のユーザーネームを打ち込んだ。数秒のローディングの後、検索結果に表示されたのは[このユーザーは存在しません]の文言だった。

    「……なんで」

     スマホを取り出し、検索エンジンにシステムメッセージをコピペする。まともにフレンド機能を活用したことのなかった凛は、それらのメッセージが相手からブロックされた際に表示されるものだということを、ようやくここで知る。全身の血の気が、ざあっと音を立てて引いていく。ブロック? なぜ? 何かの間違いじゃないのか。押しも押されぬ《BLUE LOCK》のトップランカーが、誰に一言も告げることなく引退するだと?
     そこまで考えて、凛はかぶりを振った。違う。俺が許せないのは、そんなことじゃない。凛に一言の相談もなく、潔が姿を消してしまったこと。何よりもそのことが、凛を激しく動揺させた。


     その日から凛は、インターネットに張り付きになって、〈きんつば〉こと潔の足跡を探した。空き時間のすべてをつぎ込み、《BLUE LOCK》のユーザーがたむろする掲示板をいくつも当たっては、有力な情報を求めて回った。しかし、広い電子の海のどこを探しても、潔の足跡を知る者は存在しなかった。見つけられたのは、長らくランク一位に君臨していた絶対王者の突然の引退を、驚き訝しむ声だけだった。

    [〈きんつば〉引退ってマ?]
    [これはBLL内勢力図書き換わりますわ]
    [急死説出てるけど実のところどうなんだろうな]

     それら根拠のない憶測混じりのコメントを目にするたび、脳の血管は激しい怒りに焼き切れそうになった。テメェらのような有象無象に、潔の何がわかる。何が──そこまで考えて、凛は胸を突かれるようなむなしさに支配された。凛が、潔の何を知っていたというのだろう? 震える肩、青ざめた唇、何かを言いかけては飲み込んだ危うい立ち居振る舞いに、踏み込むことができなかったのは凛のほうだ。

    『俺なんかは、入る前にもう出るときのこと考えちゃって、ちょっとセンチ』

     潔。

    『すげえ……お前、天才かよ……! なんだ今の軌道……!? ボールコントロール技術もとんでもねえ! もっかいやってくれ、頼む凛!』

     潔。

    『終わりたくないな……』

     潔……!
     



     藁にも縋る思いで《BLUE LOCK》の運営に問い合わせメールを送った凛は、返信が届くまで、まんじりともできず夜を過ごした。そうして受け取ったメールには、〈きんつば〉なるユーザーのアカウントはすでに削除されており、現在はもうコンタクトの取れない状況にある旨が事務的な文章で綴られていた。凛は引き出しの中から例のメダルを取り出すと、痣になるほど強く握り込んだ。鈍く輝きを放つメダルの表面には、「ISAGI」の文字が冷たく刻み込まれていた。
     潔──あいつは確かに「潔」と名乗ったが、考えてみれば、凛はそれがあいつの名字なのか名前なのかさえ知らないのだった。あるいは、本当の名前ですらなかったのかもしれない。明るく、無邪気に振る舞いながらも、こと自分の本心に関しては、何一つ明らかなものとして凛に開示しようとはしなかった。潔と、自分とのあいだに厳然と引かれた境界線に、今更ながら、凛は歯噛みした。
     ──しかし、もう遅いのだ。何もかも。すべてが。
     潔は凛のもとから去って、二度とは戻らない。潔がそれを選んだから。
     次から次から、悔いがこみ上げて、とうとう凛は一歩も身動きが取れなくなった。今はただ、遠く強く明滅する光のような思い出たちの前で、ひたすらに立ち尽くした。




     抜け殻のごとく悄然と日々を過ごす凛を、周囲は遠巻きにしながらも、気遣わしげな目で見守っていた。誰よりも凛の状態を気にかけていたのは、兄である冴だった。図体ばかりが大きく成長した、手のかかる子供のような弟が、あの日以来目に見えて憔悴していくのを、冴は由々しき事態と捉えていた。あろうことかユースチームの練習すら休みがちになった凛に発破をかけてやるつもりで、靴紐を結ぶ後ろ姿に声をかけた。練習に出ない代わり、凛は自分を痛めつけでもするかのように、毎日やたらと自主トレに励んでいる。

    「おい、凛」
    「………」
    「いくらなんでも腑抜けすぎだ。一体何があった」
    「………」

     二つ違いの、背丈だけは自分よりも大きい弟が、しょげかえったように背中を丸めているのを見て、冴はため息をついた。
    「さっさと話せ。そして切り替えろ」
    「……兄貴には、関係ねえだろ」
     またこれだ。わが弟ながら、精神の幼稚ぶりには呆れ返る。冴は凛の真横に移動すると、上り框に腰を下ろした。
    「……女か」
    「ちっ……げえよクソが!!」
     歯を剥いて怒気をあらわにする凛。冴はしかし涼しい顔でそれを受け流した。この程度、それこそ生まれた時から凛を見てきた冴にとっては屁でもない。
    「じゃあ何なんだ」
    「………」
    「おい凛、黙ってちゃわからねえぞ」
     凛は靴紐を結ぶ手を止めて、深くうなだれた。迷子の子供にも、人生に疲れた老人のようにも見える不安定な表情で、ぽつりぽつりと凛は語り始めた。

    「兄貴は……」
    「おう」
    「そいつのこと考えると、夜も眠れなくなって、腹の奥のほうが、吐く直前みたく気持ち悪くなったこと……あんのかよ」
    「……おう」
    「今すぐそいつのとこに行きてえのに、そいつがどこにいるか全然わかんなくて、どうしようもないようなとき」
    「………」
    「兄貴なら……兄貴だったらどうする?」

     深くうつむいたまま、ごくごく小さな声で紡がれる凛の告白に、冴は眉をしかめた。何から説明をしたものかと一瞬気が遠くなり、すぐにすべてを諦めた。そうして、言い聞かせるように口を開く。

    「……よく聞け、凛」
    「……なんだよ」

    「俺には、お前がそいつに惚れてるって言ってるようにしか聞こえねえぞ」




    「…………は?」





























    ③words already lost



    [最近削除した項目]




     凛へ




     別れ際、なんかバタバタした感じになっちゃってごめん。
     今日は一日付き合ってくれてありがとう。
     自分から声かけといてなんだけど、凛と合流する前は大丈夫かな、うまくいくかなーってずっとドキドキしてたから、今はなんか逆に変な感じ。
     体がフワフワしてるっていうか。
     うん。ほんと、さっきも言ったけど、誘ったのが凛で本当によかった。
     凛は思ってた通りに口が悪くて、でも思ってた以上に優しくて。

     なんかこれ以上一緒にいると全部捨ててどっかに逃げ出したくなっちゃいそうで。

     後半ヤバかったな。
     俺と一緒に来てくれる?なんて、映画のヒロインみたいなこと口走りかけた。
     一緒に来てどうすんだって話だよ。
     自分で書いてて自分で笑うわ。

     何から話したらいいか迷うけど、これだけはってやつは先に書いとくね。

     俺、凛に嘘ついてた。
     嘘ついてたっていうか、本当のこと全然しゃべってなかった。
     細かい説明は省くけど、俺本当は今日ここには来られないはずだったんだ。
     めっちゃわがまま言ってもぎ取ったけど。
     こういうのって言ってみるもんなんだな。
     言ってみるもんだっていえば、凛との賭けもそう。
     あれ実はめちゃめちゃダメ元だった笑
     凛だったら断るだろうなって思ってたんだけど、まさか乗ってくるなんて。こっちがびっくりだよ。
     ユースの練習とかで忙しいだろうに、予定空けさせてごめんな。
     でも、そのおかげで、最高の思い出ができた。

     俺今すっごい面倒なことになってて、俺の周りがっていうよりは俺そのものがね。
     だから、ずっとすんごい気分落ち込んでたわけ。
     何で俺が、俺だけがーって、いつも思う。なんなら毎朝目が覚めた瞬間に思ってる笑
     でもしょうがないよな。
     こういうのって、なっちゃったら受け入れるしかないもん。
     でもこわくて、正直めっちゃ、夜も眠れないくらいで。
     そんな時手ぇつないでくれる人がいたらどんなに気持ちが楽だろうってずっと思ってた。
     そんな時に出会ったのが凛、おまえだったんだ。
     凛はそんなこと、思いもしてなかったと思うけど!
     でも俺にとってはそうなの!本当にね。

     これちゃんと読める文章になってる?思ってることそのまま打ち込んでるだけだから、読みづらいとことかあったらごめん。気合いで読んで。

     俺はもうここにはいられないけれど、それでもこの思い出だけは連れていく。
     誰になんて言われようと、これだけは手離せない。手離さない。
     うまい言葉がみつからないな!何を言っても嘘になりそうだし、どんな言葉も的はずれみたい。
     でもこれだけは伝えさせて。

     凛、ありがとう。
     そしてごめんな。

     全部忘れてくれていいよ。
     お前が覚えててくれなくたって、俺が覚えてるから。
     あの一日が、お前と過ごした時間が、俺のぜんぶを照らしてくれる。
     だから、もう何も怖くない。

     でも、もしお前が許してくれるなら。

     もしも俺に「次」ってやつがあるんなら。
     そのときはまたさ










     おれと遊んでね。
     


     潔世一
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    まさのき

    DONEアンデルセンの「雪の女王」をわりとまじめにパロったカイ潔(+糸師兄弟)です。藤田貴美さんの漫画版に多大なインスピレーションをいただいてます。中盤までカイザーの気配が皆無ですが、ちゃんとカイ潔です。

    ゲルダ→潔(と冴)、カイ→凛、盗賊の娘→カイザー
    花待ちの窓雪の晩に、枕べで聞く物語



    第一のお話 はじまり


     昔、むかしのお話です。ここではないどこか遠くの国の、知らない土地の、小さな箱庭の村に、ひっそりとよりそい合って暮らす、三人の子どもたちがおりました。三度の春と冬のあいだに生まれた彼らは、名前をそれぞれ冴、世一、凛といいました。赤髪の冴は、三人の中ではもっとも年長で、その下に世一と凛が続きます。泣き虫世一と、やんちゃな凛、面倒見のよい冴の三人組は、遊ぶときも、出かけるときも、眠るときでさえもいつも一緒でした。血をわけた兄弟である冴と凛は、となりの家に住む世一のことを、まるで本当の兄弟のようにたいせつに思っていました。世一だって、冴と凛の二人と血がつながっていないことなんて、つゆとも気にしたことはありません。だって、朝も昼も夜も、扉を開けばそこに冴と凛が立っていて、ふたりといれば、世一に怖いものなんて、なんにもなかったのです。三人は野を駆けて遊び、泥まみれになって眠り、手に手をとって、いつまでもいつまでも仲むつまじく暮らしていました。
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