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    まさのき

    とんだりはねたり、もいだりかじったりします。

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    まさのき

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    海馬城之内チャリ2ケツのための一万八千字です。めざせ青春一直線!

    #海城
    seaCity

    くじらのナイフ①introduction



    「なんスか、これ」
    「決まってるでしょ。居眠りの罰」
     封筒の山ともに差し出された刃物は、一風変わった形状をしていた。
    「フリーマーケットで見つけたの。なかなかいいものでしょ?」
    「はあ、まぁ……」
     指示に従い、城之内は糊付けされた封筒の閉じ口を手当たり次第に裂いていく。なんでも、保護者に発送する書類の内容に不備があり、中身をすべて新しいものに入れ替える必要があるのだという。
     城之内は青みがかった銀色のナイフを手元でてきぱき動かしながら、からかいの気持ちをこめて口を開いた。
    「センセーが生徒にこんなことさせちゃっていいわけ?」
    「それを言うなら、あなたも授業態度の件で保護者を呼ばれてもいいわけね」
    「うあーっ! 勢いあまって中身まで切っちまうとこした! ……最近一階にある自販機のラインナップが変わったんだぜ。センセー知ってる?」
     切られてはまずいカードを鼻先でちらつかせられ、城之内はあわてて話題を切り替えにかかった。とりとめもない会話をかわしながら、左手を封筒に添え、右手でナイフをすべらせる。淡々とした作業の繰り返しに、次第に瞼が落ちかかる。けだるい下校時の、暮れなずむ教室の中で、くじらにも似た形のペーパーナイフが、白い紙をきって泳いでいる。


    ②Side J



     抜き身のナイフのような男だ。海馬瀬人という人間は。
     ナイフは鋭くあってこそナイフなのだから、不用意に刃に触れれば、血が流れもするだろう。
     城之内は期せずして、その鋭さを体感することになった。あの悪趣味なテーマパーク——〈DEATH-T〉で命を狙われたさいに。海馬瀬人というナイフは、武藤遊戯に向けて情け容赦なく突き出され、遊戯の隣に立っていた城之内にまでもそれなりの手傷を負わせた。良心をかけらほどでも持ち合わせている人間であれば、あんな風に執拗に、しかも明確な殺意をもって他人に刃を向けたりはしないだろう。城之内は、良心ある使い手を伴わない道具は、ただの凶器だと、心の底からそう思った。実際、あの時の海馬は最後まで遊戯たちへの害意を貫いた。そうして、振り下ろした刃の勢いのままに、こなごなに砕けちった。あとは言葉もなかった。ナイフの鋭さを失った海馬瀬人は自失状態のまま、城之内たちの日常からいっとき姿を消した。
     その海馬が、みずからの鋭さを取り戻すためには、〈決闘者の王国〉の開催を待たなければならない。砕けた欠片を拾い集め、ふたたび組み上げた海馬は、元来の鋭さはそのままに、しかしそれまでとはどこか異なったなにものかとして、城之内たちの前に姿を現した。高慢な態度と、傍若無人な言動は相変わらずだったが、海馬の持つ鋭さは、もうひとりの遊戯に心を砕かれた前と後で、質的な変貌を遂げているようだった。そしてそのことを、城之内は理屈ではなく感覚に根ざした本能で嗅ぎとっていた。
    (あいつ、……変わったよな)
     ちょうど、ちぎれた筋繊維がつなぎ合わされる度にその強度を増すように、海馬瀬人というナイフも、一度砕けたことによって、以前とは異なる強さを手に入れたのかもしれない。

     と、そこまで考えて、城之内は眼前の光景に意識を集中させる。昼下がりの童実野町、ほどほどに人の行き交う目抜き通りに、十把一絡げのチンピラたちが鼻息も荒く集結していた。一ダース百円で売られていそうなそれは、黄色くねばついた眼で、城之内をねめつけている。おおかた、蛭谷の筋の人間が、城之内憎さによしなきイチャモンをつけに来たのだろう。面倒事はごめんだとばかりに無視して通り過ぎようとすれば、チンピラ集団の先頭に立つ刈り上げに「オイ城之内ィ!!」と唾を飛ばしながら叫ばれた。
     城之内は嘆息する。オレはただ、遊戯ん家に寄る前に、靴屋で新しいシューズを冷やかしに来ただけなのに。どうしてこんなことになっちまったんだ。
    「オイ城之内ィ、俺のこと覚えてっかよ」
     道行く人々が、迷惑げに城之内たちを一瞥して通り過ぎてゆく。
    「蛭谷の金魚のフンの顔なんざ、いちいち覚えてられっかよォ」
    「テメエッ……それ以上無駄口叩いたらどうなっかわかってんのか!?」
    「叩いたらどうなんの?」
     城之内の挑発に、場の空気が瞬時に剣呑さを帯びる。今すぐにでも往来でおっぱじまってしまいそうだ。これはまずい——そう判断した城之内は一歩二歩と後じさりながら、ギラギラとした目で睨みを利かせてくるチンピラたちを、密かに細い路地に誘い込む。
    「オイ城之内ィ、腰が引けてんじゃねえのか」
    「てめーらはもうちょっと引いてモノを見ることを知るべきだ、ぜっ!」
     言うや否や、路地に面する勝手口に積まれた段ボールを、城之内は派手に蹴倒した。
    「おわっ! コイツ、やりやがった!」
     そのまま、後ろも見ずに隘路を駆け出した。封の甘い段ボールは、倒された拍子に大量のシューズを周囲に散乱させ、チンピラたちの行手を阻む。
    「クッソ! 待ちやがれ城之内ィ!」
     薄暗い路地に配置された障害物を右に左に避けながら大通りを目指す城之内の背に、数拍遅れて荒くれた口調で指示を飛ばす刈り上げの声が届く。
    「なにやってんだ、わざわざ狭ぇ道を追っかけて行く必要がどこにある! 外を回って出口を塞ぐんだよ!」
    「おっとっと……それされるとちょっとヤベーのよ」
     城之内は咄嗟に壁面に設置されている室外機を蹴ってダクトを掴み、はずみをつけて産業ビルの屋外階段のステップに降り立った。あごの下を流れ落ちた汗をぬぐい、そのままの勢いで階段を駆け上がると、屋上に続く扉を蹴破った。
    「撒いたか……? ったく、人のこと言えたもんじゃねえかもだけど、不良ってヒマなのな」
     息を整えながら街並みをひととおり眺め下ろした城之内は、ほとぼりが冷めた頃を見計らって一階へと降り立った。もちろん今度はエレベーターを使ってである。何食わぬ顔で産業ビルを後にし、城之内は軽くため息をつきながら、親友である遊戯の自宅を目指そうと歩を進めた。しかしそうは問屋がおろさないらしく、
    「げ」
    「いたぞ! 城之内だ!!」
    「だあっ!? マジでお前らしつっけーよ!!!」
     不運にもチンピラたちと鉢合わせしてしまった城之内は、繰り出される拳から低く身をかがんで咄嗟に身をかわし、そのままお留守になっている不良たちの足元を払いにかかった。
    「とうっ」
    「いで」「あだっ」「うおああああ!?!?」
     一人、二人、三人と素早くチンピラを積み上げた城之内は、こきりと首を鳴らしながら、胸中ひそかにため息をついた。
    (こういうのじゃねえんだよなあ)
     あいつの——海馬瀬人の鋭さっていうのは。城之内は思う。こいつらのはナイフでもなんでもない。いきがったガキが虚勢を張っているだけで、最大限譲歩したとしても、せいぜいなまくら刀がいいところだ。これで悪ぶっているつもりなのだから笑わせる。だいいち、束にならないと用をなさない刃物などあってたまるものか。お前たちはリンゴを剥くときに、ナイフを三本握るのか?
    「あのさ、オレ今、ダチと会う約束してんの。だからてめぇらの相手してるヒマはねえわけよ。わかった?」
     かがみ込んでそうすごむが、頭を打って目を回している彼らに伝わっているかどうかはあやしいものだ。だが、この場合致し方あるまい。奴らのせいであやうく貴重な休日のオフが無駄になるところだったのだ。タンコブの一つや二つは迷惑料の範疇だろう。膝を払って立ち上がった城之内は、そこで場違いに高い声に呼び止められて振り返った。
    「城之内ィ? こんな所で何してるんだ?」
    「げ、モクバ!?」
     道路向こうに立っていたのは、伸ばしっぱなしの黒髪から覗く瞳に油断のならない雰囲気を感じさせる少年——海馬モクバだった。城之内は意外な知り合いとの遭遇に、なんとなくバツの悪い思いで頬をかいた。モクバは横断歩道を小走りで渡り切ると、城之内に訝しげな視線を向けてきた。
    「これ、どういう状況?」
    「日曜日の真っ昼間からゴキゲンな連中に絡まれちまってな。お前こそ珍しいじゃねーか。副社長サマがお供も連れずに散歩なんてよ」
     海馬モクバは、言わずと知れた海馬瀬人の弟である。海馬姓を持つ者の例に漏れず、モクバもかつては城之内たちと敵対し、しのぎを削り合った浅からぬ因縁がある。しかし、〈決闘者の王国〉以後、どうやらこの歳に見合わず居丈高な少年は、城之内たちに少しずつ心を開きつつあるようだった。過去のことはお互い水に流そうとはっきり取り決めたわけでもないが、相手が自分に敵意を抱いているかどうかは、口にせずとも肌感覚でわかるものだ。敵意を向けられていないことが明らかである以上、自分よりはるかに年少の相手を無闇に邪険にするという選択肢は、城之内のなかには存在しないのだった。
     モクバはフン、と鼻を鳴らし、倒れ込んでいる不良たちを一瞥した。
    「不良の喧嘩と一緒にされたくはないぜぃ。オレは散歩がてら、自社製品の流通状況を確認しに来たんだ」
    「ジシャセ……って、海馬コーポレーションが出してるオモチャのことか?」
    「そ。最近はドラッグストアなんかにも、ガシャポンの筐体を置いてる店が多いからな。ホラ、そこの店にも」
     そう言って、モクバが指差した店の軒先にも、三台ほどの筐体の姿を確認することができた。
    「このシリーズの新弾はオレの監修だからな。どのくらい回ってるかチェックしないとな」
    「おっ、マジック&ウィザーズのガチャガチャもあるのか」
     ガシャポンのラインナップには、青眼の白龍、ブラック・マジシャンにカース・オブ・ドラゴンなど、M&Wシリーズの中でも人気の高いカードのキャラクターたちが肩を並べていた。低価格ながらも緻密に作られたカプセル・フィギュアに、城之内は思わずといった様子で吐息を漏らした。
    「最近のフィギュアってのは、よくできてんだなー。へー、エクゾディアがいる! いいなコレ、ちょっと欲しくなっちまうかも。こういうのって、色とかデザインとかもモクバが決めてんのか?」
     レッドアイズは? いねえの? 興奮気味にガシャポンの筐体をためつすがめつする城之内だったが、横から妙な視線を感じて、くるりとモクバに向き直った。モクバは歯にものの挟まったような微妙な表情で腕を組みながら、城之内の顔色をうかがっている。腹でも痛いのだろうか。
    「何だよ、さっきからジロジロ見て」
    「いーや、別にィー。見え透いたお世辞なんか言われても、全然うれしくないし」
     モクバはなぜか、少し不機嫌そうな口調でそう言った。
    「はあっ? 世辞だなんて、オレはそんなつもりねーし」
     鼻白む城之内をよそに、モクバはポケットから小銭入れを取り出すと、コインを数枚取り出し、勢いよくガシャポンのレバーを回した。筐体はガチャリと小気味よい音をたてて、小さな丸いカプセルを少年の手に吐き出した。
    「ホラよ」
    「……なんだよ、コレ」
     モクバが城之内に押しつけてきたのは、メタリック塗装の小さなフィギュアだった。
    「城之内って、運だけはやたらといいよな。じゃ、オレはもう行くから」
    「おい、モクバ! いくらなんでも小学生のガキにたかるような真似は……」
    「それ、オレも持ってないやつなんだ。……シークレットだから! なくすなよ!」
     雑に扱ったり、人にあげたりすんなよ! 言うだけ言ってモクバはさっさと歩き去ってしまった。その場に取り残された城之内はすっかり面食らって、モクバの背中と掌の上でとぐろを巻いている小さなドラゴンとを交互に見つめた。ミニサイズながらも精巧に作り込まれたそれは、誰かさんとそっくりな青い眼をしていた。
    「いや、オレが欲しいのはブルーアイズじゃなくてレッドアイズ……っておい待てよモクバ! ……おぉーい!!」


    ③Side K



    「でさ。オレと城之内が対戦することになったんだけど、へへっ、あいつってカードゲーム以外の腕はからきしなのなー。当然、オレの三タテ! 小坊に負けて終われるかーってムキになってたけど、せいぜい勝率三割ってとこ。あの手のゲームで城之内に負け越すビジョンが浮かばないぜぃ」
    「……ああ、そうだな」

     楽しげに話すモクバに相槌を打ちながら、海馬は手元のフォークとナイフに視線を落とした。

     このところ、モクバとの会話の中でしばしば持ち上がる名前がある。
     男の名は、城之内克也。武藤遊戯の脇をうろちょろしている、しようもない凡夫だ。少なくとも、海馬はそう認識している。
     海馬の世界には二種類の人間がいる。
     一つは、役に立つ人間。もう一つは、敬意を払うに足る人間だ。
     海馬は幼少のみぎりより、厳しい競争の世界に身を置いてきた。隙を見せることが即座にポジション失墜に繋がる弱肉強食の世界で、海馬は他人の価値を見定め、評価するための審美眼を身につけた。すなわち、与するに値すると判断した人間以外との接触・交流を極力排除することによって、合理的な人間関係を築くすべを手に入れたのだ。海馬はそうして生き馬の目を抜く業界を生き延びてきた。凡愚と口を利くことはもとより、視界に入れることすら煩わしい。このやり方は、海馬の十数年の人生の中でそれなりに成果を上げていたし、人に言われたところで今更揺らぐようなものでもない。
     だからこそ、海馬の視界にははじめ、城之内克也という男は存在すらしていなかった。
     海馬の興味は自らを知的に興奮させてくれるゲームにしかなく、そのM&Wを介して海馬の前に立ちはだかったのが武藤遊戯であったのだから、城之内のことなぞはじめから念頭にない。海馬にとっては、小うるさいハエが飛び回っているなという程度の認識で、そんな路傍の石ころにも等しい存在だったはずの城之内が、一体いつの間に、海馬の世界の内側に侵入を果たしたというのだろう。

    「……で、城之内がオレに会うたび言ってくんだよ。レッドアイズは作らないのか、オレのエースカードも出してくれーって。図々しいにも程があるよな。なあ兄サマ?」
     
     負け犬、馬の骨、凡骨決闘者。城之内に対する海馬の認識は、精々がそんな所だ。初めてモクバの口から(しかも割合好意的な文脈で)奴の名前が上がった際には内心耳を疑ったものだが、海馬の勘違いでなければ、どうやらこの少し歳の離れた弟は、城之内という人間のことをそれなりに気に入っているらしかった。そして、そのことに対する海馬の率直な反応は、

    「まったく、理解に苦しむな」

     この一言に尽きるのだった。
     自分の望む反応が得られたのか、モクバは満足げに鼻を膨らませながら、手に持ったスプーンでスープ皿の中身をもてあそぶ。海馬がテーブルマナーを咎めると、黒髪の弟からははあい、と上機嫌ないらえが返った。
     武藤遊戯の金魚のフン、運任せでお粗末な決闘しかできず、愚昧で、軽率で、お寒い絆とやらを後生大事に吹聴している、海馬瀬人という個人の信念の極北に位置する不可解な存在。——城之内克也。
     奴の処遇を、据えるべき適当なポジションを、海馬はまだ決めかねている。



     七月の空は抜けるように青く、立ちのぼる入道雲は空の深さに反してどこまでも白くまばゆい。
     夏休み前最後の登校日である今日、海馬は珍しく白の詰め襟に身を包んで学校に登校していた。学校側からの些末な申し送りを確認するため、それから、ロッカーの中に置いたままだったいくつかの荷物を引き取るため教室に顔を出した海馬に、クラスの人間たちは幽霊でも見るような視線を送ってきた。海馬は不躾なそれらを意にも留めずに(ありていに言うならば無視をして)、さっさと自分の目的を果たして教室を後にした。武藤遊戯が何事か声をかけてきたようだったが、海馬はそれも無視した。
     去りぎわに、窓辺の席に座っていた城之内が、海馬に視線を投げかけてきたような気もしたが、海馬は振り返らなかった。

     理事室に呼ばれ、必要なやりとりを済ませた頃には、あたりに人影はほとんどなくなっていた。ホームルームを終えた教室から、三々五々帰路につく人間たちを吐き出した校舎は、ひっそりと静まりかえっていた。ジュラルミンケースを片手に提げ、昇降口で外履きに履き替えた海馬は、何者かが言い争うような声を聞きつけて、ふと立ち止まった。

    「……しに来たって言うのかよ。てめえらって、……」

     玄関を出ると、駐輪場のそばで、場違いに明るい金髪が、複数人に取り囲まれているのが見えた。金髪は自転車のサドルに腰をあずけて、どこか上の空な様子で男たちの話を聞いている。

    「落とし前はつけてもらえるんだろうな、ああ?」
    「……オレ、今日このあと用事があっから……」
    「城之内ィ、俺たちを舐めンのも大概にしろよ。一月足腰立たなくなるくらいボコしてやってもいいんだぜ?」

     男のひとりが、城之内の胸ぐらを掴みあげる。自転車がガシャンと耳障りな音を立て、城之内の体がわずかに持ち上がったが、腕はだらりと両脇に垂れたままだった。そんな城之内の様子が気に入らないのか、首元をぎりぎりと締め上げながら男が大声でなにごとかわめき立てている。
    (つまらんな)
     海馬の胸中をわずかによぎったのは、そんな感情だった。
     海馬の知る城之内は、海馬のささいな言動にも歯を剥いてつっかかるような人間だった。どんなに罵倒しても、叩き伏せても、しつこく追いすがって一矢報いるために拳を振り上げる。諦め知らずの生命力、その一点でもって海馬の記憶に刻み込まれた城之内が場末のゴミどものなすがままになっているさまは、必ずしも愉快ではない感情を海馬にもたらした。
     海馬はジュラルミンケースを持ち直し、足早に城之内たちの横を通り過ぎようとした。
     通り過ぎる一瞬、興味本意でちらりと城之内に目をやった。不良どもにねじり上げられたままの城之内と、目線が交錯する。
     瞬間、城之内の眼のなかに、雷光めいたものがひらめいた。
     城之内はぶるぶるぶるっと獣のように体を震わせると、しなやかに半身をひねり、胸ぐらを掴みあげていた男に体当たりを喰らわせた。
     男は派手に吹っ飛び、遅れて自転車が地面に叩きつけられる音があたりに響いた。
     取り巻きたちが倒れ込んだ男に気を取られた一瞬、城之内はふたたび海馬を見た。やつの薄いくちびるが、息だけで短い言葉を形づくる。

    (『舐めるな』、——だと?)

     城之内はすばやく倒された自転車を引き起こすと、そのままの勢いでペダルに足をかけて走り出した。自転車はあっという間に校門の塀の向こうに消え、遅れをとった不良たちは愚にもつかない言葉を吐き捨てながら城之内を追った。
     ——あの、眼。
     一部始終をつぶさに見つめていた海馬は、喉の奥に、熱を持った塊がじわじわと形を成していくのを感じていた。あの一瞬、海馬の存在を認めた瞬間に、燎原の火のごとく燃え上がったそれは、少なからず海馬の興味を引いた。懐から携帯電話を取り出し、磯野に命じて車を用意させる。ほどなくして校門の脇につけた車に乗り込むと、海馬は権高な調子でぴしゃりと一言、言い放った。

    「凡骨を追え。面白いものが見られそうだ」


    ④Side J



     重たく熱っぽい夏の空気が、遠くの蝉の鳴き声を何重にも反響させながら地上にわだかまっている。肌に触れるこもった風を置き去りに、城之内は十年ものの自転車を漕ぎながら脇目もふらず駆けていく。雨が近いのだ。
     校門を抜け、通学路を抜け、登っては下り、なるたけ信号機も無視して走る城之内の頬は、まるで内側に別の生き物でも飼っているみたいに、熱っぽく拍動を続けていた。
     ——見られた。海馬に、見られた。
     その視線を感じた瞬間、理解よりも先に体が動き出していた。
     蛭谷たちと手を切った今、チンピラどもと事を構えるのは城之内の望むところではなかった。だからこそ、道で因縁をつけられても、逃げるなり追い払うなりなるべく穏当な方法でやり過ごしてきたのだ。これでは奴らに目をつけてくれと言っているようなものだ。
     だが、海馬のあの目が。研ぎ澄まされた刃物のような鋭さが、城之内が固く閉じていた何かをこじ開けた。そうしてこじ開けられた場所に、名前も知らない感情が、ことん、と音をたてて落ちてきた。オレは、あいつに舐められたくない。少なくともあの場で、安っぽい不良どもに小突き回される姿を見られることは、城之内にとって耐えがたい屈辱だった。城之内はあの時、奴らに掴みかかられることよりも、海馬に見損なわれることを嫌ったのだ。オレが、海馬に? ——それを考えると、わけのわからない衝動に胸をかきむしられて、叫び出しそうになる。
     見えない何かに急き立てられるように、城之内はペダルを漕ぐ脚に力を込める。襟足にぽつりと冷たいものが当たったかと思うと、アスファルトの舗装路がさっと黒く染まった。その背後から、がなるようなエンジン音が、雨音に混じって近づいてくる。城之内はなるべく人通りの少ない、速度の出しやすい道を選んで自転車を走らせたが、あるいはそれも連中の思惑のうちだったのかもしれない。追跡者たちを乗せたバイクは入れ替わり立ち替わり現れては行く手を塞ぎ、鉢合わせを避けて進路を変えるうちに、城之内は次第に袋小路へと追い込まれはじめていた。
     錆の浮いたハンドルを握る両手がやけに冷たい。前髪からしたたる雨水が視界を遮り、全身が酸素を求めて喘いでいる。住宅街を抜け郊外にある工場区に出た城之内は、さすがに疲労を感じてペダルを漕ぐ足を止めた。倉庫らしき建物の陰に自転車を寄せ、あたりに誰もいないことを確認してから、自身も身体を白けたコンクリートにもたせかけた。

    「くっ……そ……あいつら、マジでしつけえ……」

     整わない息もそのままにずるずると地面に座り込むと、ぐしょ濡れの制服が鉛のように重たく感じられた。上空には灰色の雲が傘状に垂れ込め、町全体を押し包むように広がっている。雨足はいよいよ強まり出し、針のような水滴がそこら中を跳ね回ってばちばちと引っ掻くような音を立てている。
     ——雨。
     どうして自分はこんな雨の日に、傘もささずに、くだらない連中とくだらない逃走劇に興じているのだろう。適当に笑って、受け流せばよかったではないか。それをわざわざ、あんな風に、事を荒立てるような真似をして。だが、あの場には海馬がいた。海馬の前で、無様な姿を晒すのは、城之内のプライドが許さない。
     なぜ海馬は、今日のこの日に限って学校にやってきたりなどしたのだろう。城之内にとっては最悪ともいえるタイミングで、あの場を通りがかったりなどしたのか。そうしてなぜ、あのとき海馬は、城之内と目を合わせたのだろう。……堂々めぐりだ。生ぬるい雨は、城之内の混乱に水をさしてはくれなかった。城之内は濡れた前髪をぐしゃりと掻き回し、何かを追い払うようにかぶりを振った。
     敵意を向けてくる人間と対峙するたび、海馬のことを思い出す。そうして比較する。あいつはこんなものではなかったと。そういうとき、城之内はいつも物足りなさを覚える。それは、あの苛烈なまでの鋭さにたいする、ある種の渇望だった。海馬はかつて、殺意をもって城之内を害そうとした。人殺しのテーマパーク、悪趣味なアトラクションの数々。しかし謀略は失敗に終わり、長い中断の期間が明けて、再び顔を合わせた海馬を城之内は憎み、海馬は城之内を見下した。それだけだ。二人の間にあるものは。
     海馬瀬人というナイフに貫かれて、自分もおかしくなってしまったのかもしれない。
     世を拗ね、暴力的な衝動に身を任せる生き方ときっぱり決別できたのは、遊戯が城之内に大切なものを分けてくれたからだ。それから、もう一つ——かつての自分が求めていたヒリヒリするような感覚の、その最上をもたらしてくれるものを、城之内は海馬を通してすでに見つけてしまっていた。刃の光輝を知ってしまった者が、どうしてなまくらの暗がりに戻れよう。
     ひやりと冴え渡った光があたりを照らす。いくぶん間を置いて岩を転がすような音が遠くに響き、それと同時に城之内は周囲にいくつかの気配を感じ取った。倉庫の壁を背に立ち上がり、強気にうそぶく。

    「てめーらに耳寄りな情報をプレゼントしてやるよ。しつこい野郎はモテねえんだと」
     素早く左右に視線をめぐらせば、見覚えのある面相が、ぞろりと半円を描くようにあたりを取り囲んでいた。己の絶対的優位を確信した人間の余裕ぶった笑みが、城之内の神経を逆撫でする。

    「俺らはオンナにモテてえんじゃなくて、城之内、お前を地べたに這いつくばらせたいのさ」
    「それ、プロポーズのつもりかよ? 落第点だぜ」

     城之内を取り囲んでいた男のひとりが、金属バットを振り上げた。初撃を辛うじてかわした城之内に、連中が奇声をあげて飛びかかる。拳を避け、蹴りをいなし、いきおい数人を地面に引き倒すも、数上の圧倒的な不利は揺るがず、また先刻の疲労も手伝って、かわしきれない打撃のダメージが身体中に蓄積していく。揉み合いのなか、顔ごと壁に叩きつけられ、鼻からぱっと鮮血が吹き出した。倒れざま地面に手をついて背後の敵を蹴り上げた城之内は、次の瞬間蹴り上げた右足に破裂するような痛みをおぼえ、思わず苦悶の声を漏らした。

    「あっ、ぐ……!」

     苦し紛れに振り回された金属バットが右足首に直撃し、城之内は受け身も取れず地面に倒れ込んだ。男たちはこれ幸いにとばかりに金髪の少年に殺到したが、リーダー格らしき刈り上げの男は手を振ってそれを留め、もったいぶった動作でかがみ込む。

    「いいザマだなぁ、城之内ィ」
    「………」
    「俺はさぁ、ケジメとかナワバリ争いとか、正直どうでもいいわけよ。蛭谷さんに言われて、断る理由もないからやってるだけ。でもよ、」

     そう言って、男は城之内の前髪を掴み、乱暴に引き上げた。

    「お前をこうやってボコしてやるのは、俺がやりたくてやってんだぜ、実のところ。いいカオだなァ、城之内」
    「るっせえ……離せ、よ……」
    「なあ、お前、どこまで行っても逃げられないぜ。俺たちから」

     ほとんど気力だけで拳を振り上げるも、やすやすと受け止められ、さらに一、二の反撃をもらってしまう。城之内の意識は今や朦朧としており、連中に小突き回されながらずるずると引きずられていく途上にあっても、反射のように力なく身体を震わせるだけで、ほとんど抵抗らしい抵抗ができないままだった。去り際に、よろりと宙に向かって伸ばされた腕が、壁に立てかけてあった自転車を引っ掛けた。派手な音を立てて横倒しになったそれは、今なお勢いを緩めず地上に注ぎ続ける雨を受けて、鈍い金属の色に光っていた。


     薄暗い室内に、冴えない光が一筋差し込んだ。がたついた錠を叩き壊して内部に侵入を果たした彼らは、倉庫の床に荷物でも放るように城之内を投げ込んだ。あたりには長方形のコンテナが所狭しと積み上げられており、のっぺりと無機質な印象を与えている。手荒く転がされた城之内は、肘をついて激しく咳き込んだ。打たれた右足首がひどく熱かったが、おかげで気をやらずに済んでいるのだから不幸中の幸いというべきか。
     男たちは動けずにいる城之内を尻目に、小声で何やら相談をしているようだった。連中のひとりが携帯で誰かと連絡を取っている。——蛭谷か。ぼやけかけた頭で城之内はそう思った。

    「童実野の猛犬がこのザマたぁ、メンツ丸潰れだな」
    「蛭谷さんも、なんだってこんな奴にこだわるんだろうなぁ?」

    (どこまで行っても、か……)
     城之内は、先程リーダー格の男に投げつけられた言葉を思い出していた。遊戯と出会って、自分は変わったつもりでいた。だが、一度に清算するには重すぎるしがらみが、城之内をとらえて離さない。変わること、何かを前に進めることは、過去から伸ばされる逆向きの引力を振り切って、それでも前を向こうとすることだ。そしてそれは、時に大きな痛みを伴う歩みでもある。
    (あの時のオレは何にも持っちゃいなかった。でも、今は違う)
     城之内は目だけ動かして出口の方向を盗み見た。鉛色の扉は押し戸式で、錠は壊されているため動線さえ確保できれば脱出できるはずだ。問題は、行く手を塞ぐように立っている数人をいかに処理するかだが——城之内はいちど瞼を閉じて、肚にぐっと力を込めた。痛めつけられた内臓が引き攣るように痛むが、こんな痛みはなんでもない。心を枉げて生きることに比べれば。
     
     不意に会話が止み、己に注がれる視線を城之内は感じた。コンクリートに触れる頬に、歩み寄る誰かの足音が直に伝わる。肩口に伸ばされた腕を、城之内はすばやく掴み返し、流れるような動きで相手の頸を締め上げた。

    「動くんじゃねえ!!」

     かすれる声で一喝すると、彼らの顔からは余裕の色がさっと消え失せ、代わりに怯みを含んだ驚愕の色に染まった。城之内はすかさず懐から鈍色に光る刃物を取り出し、引き寄せた男の首筋に押しあてた。
     いつかの放課後に教師から預かったままの、ペーパーナイフ。
     なんとなく愛着が沸いたそれを、返却を催促されないのをいいことに城之内はそのまま学校の机の中に置きっぱなしにしていたのだった。終業式のあと、家に持ち帰ろうと思って通学用バッグの中に移し替えたものを、城之内は密かに懐に忍ばせていた。
     一触即発の空気に鼻白む不良たちから、じりじりと後ずさりながら距離を取る。時折暴れるようにもがく男を、全身の力を使って押さえつけながら、城之内はなんとか背にした扉ににじり寄るべく骨を折った。怪我を悟られないように立てている右足首が、ずきずきと激痛を訴える。——長くはもたない。背筋を冷たいものが伝う。
     どん、と扉に背がぶつかって、城之内は自分の企ての成功を知る。あとは、どうにかして倉庫を脱出するだけだ。倉庫の中から戸を開けるためには、扉を手前側に引かなくてはならならず、そのためには両手が空いている必要があるのだが、生憎いまはその余裕がない。
    (さて、どーすっかね、この先)
     この睨み合いも、相手が平静を取り戻してしまえば、その瞬間に瓦解する。もとより仲間意識の薄い、場当たり的な集団なのだ。人質を取って脅しをかけたところで威嚇以上の効果はないことを、かつての当事者である城之内は痛いほどに理解していた。
     ずきりと鋭い痛みがはしり、城之内はわずかに表情を歪めた。右足首が脈打つように熱を持っている。骨折まではいかずとも、ひどい捻挫を起こしているのだろう。そのとき、城之内はほんのわずか、おそらく自分でも無意識に右足をかばうように左足へ重心を移動させた。そしてその一瞬の隙を、傍らの男は見逃さなかった。
    「っぐあ……ッ!」
     痛めた右足をしたたかに踏みつけられ、腕の拘束がゆるむ。かしゃん、と音を立ててナイフは倉庫の床を滑り、城之内は自らのもとに殺到する男たちを視界にとらえて目を閉じた。
     そのときだった。
     雨交じりの暴風が倉庫の中に吹き込み、城之内の頬をさっと濡らした。
     乱暴に蹴り開けられた扉が、ぶらんこのように心許なげに視界の端で揺れている。

    「——来い!」

     ひどく冷たい手に腕をとられて、城之内の意識が深海から引きずり出される。


    ⑤Side K



     稲光が、ひとつ。
     陰鬱な雨の眺めをしらじらと照らし出した。
     あっけにとられたような素のままの瞳に、星屑にも似た光が波打って、揺れる。

     不機嫌を隠そうともせず、憤然と腕を引きながら歩く海馬を、城之内は戸惑いもあらわな表情で見つめた。どうしておまえがこんなところに。そういう顔だった。
     勘違いするな。これは断じて貴様のためなどではない。
     第一こんなことをして、オレにどれほどの利があるというのだ。
     部下たちに城之内の足跡を辿らせ、探し当てた先で海馬は雨ざらしになっている自転車を発見した。不測の事態を思ってあたりに注意をめぐらせれば、間断なく地面を叩く雨音に混じって、覚えのある誰かの声が耳に届いた。その途端、海馬の胸中を、むきだしの心臓にやすりをかけられるような、ざらついた不快感が満たした。不快感——この言葉は、海馬をいくぶん納得させた。そうだ——オレは、不愉快の根源を断つべく行動したまでだ。助け舟を出すような真似をしたのは、あくまで自分のためであって、城之内に恩を売るためではない。
    「海馬……海馬!」
     不意に右の二の腕を叩かれ、海馬は立ち止まった。振り向くと、眉根を寄せた苦々しい表情の城之内が、右脚を引きずった格好でうなだれている。
    「……どうした」
    「いつもいつも、唐突なんだよ、テメェはっ……」
     城之内の全身は濡れそぼっていたが、額には雨によるものではない水滴がにじんでおり、何かをこらえるような表情が奴の不調を伝えていた。
    「内臓か」
    「それもあっけど、足……」
     痛みを言葉で直接訴えないのは、奴なりの意地なのだろう。
     城之内はずるずると地面に膝をついた。右足にはほとんど力が入らないのか、地面に触れた左膝に体重を預けるような格好になっている。うつむく城之内のつむじを見下ろしながら、海馬はふと、奴の左手首を掴んだままの己の右手の存在に思い至って、ぎくりとした。触れた皮膚から伝わる温度は熱く、手を放す気になれないのはそのためかもしれない。
     肩で息をつく城之内が、すっと顔をあげて、真正面から海馬を見据えた。
    「どうして助けた」
    「……」
    「オレはてめえに情けをかけられるほど、落ちぶれちゃいねえつもりだぜ」
    「都合よく事実を解釈するな。オレは己の興味に従って動いたまでだ。貴様のためなどでは断じてない」
    「なんだよ、その興味ってのは……」

     海馬は冷然と——あくまで表面上は——城之内と向き合いながら、いつかのモクバとの会話を思い出していた。庇護すべき肉親の、喜色を隠しきれていない語り口が頭をよぎり、それから、打ち倒すべき宿命のライバルと、その隣を陣取る小うるさい雑魚の顔が浮かんだ。
     手負いの野生が放つ、まつろわざるその眼光は、海馬をいま、たしかに貫いていた。
     喉の奥からどうしようもなく笑いがこみあげてきて、海馬の口唇をひとりでに引き上げた。ああ、そうだ。海馬は思う。この眼だったのだ。はじめから。かつて海馬に城之内という存在を認識させたのも、おそらくこの眼だった。窮状にあって不敵にも敵を睨み上げるこの眼の価値を、持ち主の類なき無謀を、我知らぬ内に海馬は買っていたのだ。
     名づけ得ぬものに付ける名前を知ったとき、人間は笑いがこみあげてくるものらしい。海馬はくつくつと喉を鳴らした。城之内はそれを平生の彼の冷たい笑いととったが、海馬は意外にも、しんから愉快な心持ちでいた。

    「追い詰められた鼠が、袋小路でどんな鳴き声を上げるのか、確かめてみたくなってな」
    「ねず……っ!? 何だと、海馬テメエ!」
    「待ちやがれ、城之内ィ!!」

     ふたりの会話に、破鐘のような大声が割り入った。城之内ははじかれたように声の先へ顔を向け、得物を手にしたごろつきどもをその視界にとらえた。片や海馬は即座に周囲を眺めやり、倒れっぱなしの自転車を引き上げてサドルにまたがる。濡れた地面に膝をついたままの城之内を振り返ると、ふたたび手を差し出して、言った。

    「乗れ!」

     城之内はためらわなかった。海馬は傷だらけの身体を引き上げ、はねた泥水がスラックスの裾を汚すのも構わずに漕ぎ出した。
     硬いゴムが濡れた地面をゆっくりと擦り、しだいに止まっていた景色が動きはじめる。

    「ぷっ……ク、うははははッ……!」
    「何がッ……おかしい!」
    「おかしいに決まってんだろ、こんなの! 天下の海馬コーポレーションの若社長サマが、ママチャリで男と二ケツって……しかも制服で……っ!」
     これが笑わずにいられるかよ——自然なかたちで海馬の腰に伸ばされた手から、小刻みに震えが伝わってくる。海馬は襟元に仕込んである小型無線になにごとかささやきかけると、あとは電源を切ってしまった。
     ざぶりと、自転車が水溜まりを通り過ぎるたび、大量の泥水が跳ね上がってふたりの制服を汚した。城之内はその都度、何が面白いのか声を上げて爆笑し、長めの前髪が覆う額を海馬の肩甲骨にぶつけてきた。
    「ヒーッヒッヒ……バカみてえ……! んっとに今日は厄日だぜ……!」
    「それは、こちらの、台詞だ……!」
    「チャリ爆漕ぎしてる奴がンなこと言っても……くくっ……サマになんねーよ……!」
     いつしか雨は小降りになり、雲の切れ間から射しこむ太陽は夕暮れの気配にやわらいでいた。はね飛ぶ滴がきらきらと夕日を反射して、薄暮の訪れを待つ童実野の街並みに、軽やかな彩りを添えていた。
    「こっち見んなよ」
     そう言って、城之内は不意に海馬の肩へ頭をもたせかけた。
    「……ワリ。正直助かった。さっきのは、ちょっとヤバかった」
     城之内が話すたび、こめかみの動きが肩口に小さな振動を伝えて、こそばゆい。
    「結局、情けねぇとこ見せちまった。ダッセェな。……オレ嫌なんだ、あんま、人に弱みをみせるのとかは。みんなには、オレの強いとこだけ見ててほしい……っつか、それは誰でもそうか。ははっ。変なこと言ってんな、オレ。忘れてくれ」
     城之内はそこで言葉を切って、ふたりはしばらく無言だった。あずけられた体の重みと、その意味をもて余しながら、海馬は無心にペダルを踏んだ。社長の地位に就いてからというもの、低俗なこの乗り物を使用することは絶えてなかった。世の人間は使うものと使われるものに分けられていて、海馬は前者で、運転は後者の仕事だった。最後に乗った覚えがあるのは、モクバとともに施設にいたころだっただろうか。はじめて補助輪を外して走った日の、頬を切る風の涼しさをおぼえている。
    「なあ、海まで走ってくれねえか。頼む」
     返事はなかったが、その代わり、これといった拒絶の言葉もなかった。


     
     ふたりが埠頭に辿りつくころには、雨雲はどこかに姿を消しており、嵐が過ぎ去ったあとのさわやかな空気が海風に乗って頬に届いた。背後の街ではひとつふたつと人家の明かりが灯りはじめ、渚にたたずむ貨物船が、岸辺に長い影を落としている。海馬は自転車を停め、沈みゆく夕日の残照が、金色から淡い藍に色を変えていくさまをしばらく眺めていた。城之内もまた、コンクリートの地面に腰を下ろして、どこか遠くを見ているようだった。
     海から吹く風が隣り合うふたりの髪の毛をかすかに揺らす。いくらかの間があり、それから、どちらともなく口を開いた。
    「これは貸しだ、城之内」
    「借りひとつ、つけとけ海馬!」
     互いの言葉が重なって、城之内は笑った。歯をみせる笑いかただった。海馬はそれを、まぶしい、と思った。
    「海馬、おまえ、……やっぱり変わったよな!」
     変わった? 自分が? 怪訝そうな面持ちで目を細める海馬に、城之内はまた、
    「変わったって」
     そうつぶやいた。
    「かくいう貴様は、出会ったころから何一つ進歩がないようだな。浅慮で、無鉄砲で、学習能力がない」
    「うるせえよ」
    「身の程もわきまえずに、格上相手に啖呵を切る。その結果手痛い打撃を受けようとも、すぐにまた別の相手に食ってかかる。人はそれを愚かというのだ」
    「いンだよ、オレはバカなんだから。バカにはバカなりの闘い方ってもんがあるんだ」
    「開き直りか。愚昧もここまでくれば見上げたものだな」
    「そうそう。だからてめえも物好きだよな、海馬」
     さらりと、ふたりの間を夕風が吹き抜けた。城之内は晴れやかな表情で海馬を見た。海馬は咄嗟に、返すべき言葉を忘れた。生まれたばかりの星が、空の低いところで、小さくまたたいている。
    「……何の話だ」
    「でもオレ、悪くねぇと思うぜ、そういうの」
     帰るか、なあ海馬——城之内が右足をかばいながら立ち上がった。海馬は今さらになって、背に触れた前髪のもどかしいくすぐったさを思い出し、頬にかすかな熱がのぼるのを感じた。だが、そのことはとうとう口には出さなかった。こんな錯覚が起きるのは、久しぶりに自転車を漕いだりなどしたせいで、精神が高ぶっているせいに違いないから。


    ⑥outroduction



     ——後日のこと。
     夜間アルバイトの疲れが尾を引いて寝坊した城之内は、愛用の自転車で通学路を爆走していた。午前中といえじりじりとした熱さをはらむ夏の日差しのもと、立ち漕ぎで風をきりながら、点滅する信号機を足早に通り越した城之内の制服が校門に吸い込まれるころ、ホームルーム終了を知らせるチャイムが校内に響き渡った。
     三段飛ばしで階段を登り、猛然と廊下を駆け抜ける。教室のドアを勢いよく引き開けて登場した城之内は、全力疾走の余韻か、頬をすっかり上気させていた。そんな城之内を、馴染みのクラスメイトたちはそれぞれに笑顔で迎えた。
    「だあッ!! 間に合った!!!」
    「バッカ、間に合ってねーよ城之内ー!」
    「おはよう、城之内くん! 先生があとで職員室に来いってさ」
    「ええええセーフだろ今のはよぉ!!」
     肩で息をしながら席についた城之内は、危険運転によりしっちゃかめっちゃかに掻き回された通学用バッグをひっくり返して、机上に中身をぶち撒けた。
    「お、よかった。弁当は無事っぽい」
    「っていうか、城之内、おまえバッグの中身そんだけかよ?」
     城之内の机を一瞥して、本田が肩をすくめてみせた。
    「おうよ。オレは教科書類はぜーんぶガッコに置き勉してっからな。ノートと筆箱しか持ち歩いてねー」
    「マジかよ。せめて、小テストの前の日くらいは持ち帰れって」
    「ン、…………小テスト?」
    「……今知りましたって顔だな。言ってただろ、先週からよ!」
    「だってオレ、座学ってだいたい寝てるしよ……」
     言いながら、城之内は広げていたノート類を机の中にしまおうとした。するとふと、見慣れない白い箱が、押し込むように机の中に入れられていることに気がついた。
    「……ンだよ、これ?」
     いぶかりながら箱に手を触れた城之内に、教科書を胸にかかえた遊戯が声をかけた。
    「そういえば、城之内くんは海馬くんに会った?」
    「海馬? ……なんで今、そいつの名前が出てくんだよ?」
    「ボク、当番の用事でいつもより早く学校に来たんだけど、そしたら海馬くんと、教室の入り口ですれ違ってさ。制服じゃなかったから、授業とは別の用事で学校に寄ったんだろうけど」
     城之内くんの机のところで、何かしてたみたいに見えたけどなあ。遊戯のその言葉を待たずに、城之内は両手で蓋を持ち上げた。手元を覗き込んでいた遊戯が、わあ、とはしゃいだ歓声をあげる。
    「スゴイ、これってM&Wのガシャポンフィギュアじゃない!?」
     箱の中には、色とりどりのカプセル・フィギュアが、透明な包装用ビニールに包まれて、いかにも賑々しいいでたちで並んでいた。城之内はそこではっとして、バッグのサイドポケットに手を突っ込み、アパートの鍵を取り出した。銀色のボールチェーンの先で、メタリック彩色を施された小さな青眼竜が、心なしか誇らしげに揺れている。
    「わっわっ、しかもこれ、新弾だよ! まだどこにも出回ってないやつ! いいなあ、城之内くん!」
    「……あの野郎!」
     城之内は箱の中に収められていたフィギュアのひとつをひったくるように手に取ると、突然立ち上がって窓の外を見た。隣にいた遊戯は、突飛な行動に出た友人の横顔に、あるふたつの表情を見た。ひとつは驚きの色で、これは城之内を少しでも知っている人間であれば、誰でもそうと指摘できる類の表情である。もうひとつは、——これはおそらく、親友である自分にしか判別しえない類の表情だ——困ったような拗ねたような、唇をすこし結んだこの顔は、喜びを素直に表明できないときに彼のする、照れ隠しの表情なのだ。遊戯は笑って、窓の外を睨みつけるように立っている親友に、こう声をかけた。

    「あとでお礼言っとかないとね、……海馬くんに!」
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    まさのき

    PASTポップメガンテ前後のif話です。ディーノは父さんと幸せに暮らすことでしょう。あとたくさん人が死ぬ
    生きもののにおい『まあおまえの匂いは日向のキラーパンサーってとこだな』
    『―――は―――のにおいがするよ』
    『なんだそれ。全然説明になってねえじゃねえかよ』


     
     ぼくが「こわい」って言ったら、〈とうさん〉がぼくをこわがらせるものをみんななくしてくれたので、それで、ぼくはうれしくなりました。
     
     ここに来てからは、こわいことの連続でした。
     知らないおねえちゃんや、おにいちゃんが、ぼくにこわいことをさせようとします。あぶないものを持たされたり、つきとばされたりして、ぼくはすごく心細いおもいをしました。ぼくは何回も、いやだっていったのに。
     それで、ぼくは頭の中で、「こわい人たちがぼくをいじめるから、だれか助けて」ってたくさんお願いしました。そうしたら〈とうさん〉が来てくれて、こわい人たちをみんないなくしてくれました。〈とうさん〉はすごく強くて、かっこよくて、〈とうさん〉ががおおってすると、風がたくさんふいて、地面がぐらぐらゆれます。気がついたときには、こわいおねえちゃんも、よろいを着たひとも、大きいきばのいっぱいついたモンスターも、誰もぼくをいじめなくなりました。
    1965

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