窓庭の雛 ボクはキミがほんの赤ん坊だったころからキミを知っている。
ボクが世界について知っていることのほとんどは、キミに関することだ。ひとりぼっちだったボクをキミが見つけて、声をかけて、名前をつけてくれた時から、ボクらはずっと一緒だったね。キミが何を喜び、何に怒りを、悲しみを感じ、何を愛して何を憎んできたか、ボクはみんな知っている。キミのことをずっと、いちばんそばで見てきたのはこのボクだ。キミがいたから、ボクは生まれた。キミと出会う前のことなんて想像すらできないくらいに、ボクにとってキミは、世界そのものだ。
キミにはね、ボクのほかにも、素敵な友だちが大勢いたんだ。両手じゃきっと数えきれないよ。その友だちは、デルムリン島で、ロモス領ネイル村で、パプニカ王国で、キミの帰りを待っている。
そしてここ、神秘と伝説の眠るテラン王国にも、キミを想いキミの帰りを待つ人が大勢いる。
外はひどい状況だ。
じきキミの耳にも届くだろう。
キミを知りキミを想う〈誰か〉が、キミを取り戻すために暴れ回ってるんだ。
大事なものを取り上げられて、深く傷つく〈誰か〉の気持ちが、ボクには少しわかるような気がする。
でもね、それでもね。人が大事にしているものを力ずくで取り上げたり、そのために相手を傷つけたりするのに十分な理由なんて、本当は存在しないんじゃないかとボクは思う。キミはキミはボクの、ボクたちの、大事な友だち。キミがたとえ、ボクたちにまつわる思い出をすべて無くしてしまっているとしても、それだけは、本当に本当のことなんだ。
扉の向こう側から、きれぎれに、誰かの叫び声が聞こえる。
「おまえは……、…………どこまでも逃げろ」
大地を揺るがすような雄叫びが響いて、一瞬だけ、嘘みたいな静寂が辺りに満ちた。
ややあって、正面扉がゆっくりと押し開けられる。
扉の向こうから姿を現したのは、キミの大事な……
キミの額から発せられる光が、徐々に強さを増していく。清浄な青い光に目を打たれたのか、扉の前に立つ人は、腕を折り曲げて額を覆う素振りをした。
「ねえ、そこをどいてよ、お兄ちゃん……」
キミはまるで、誰か知らない人に話しかけでもするかのように言う。お兄ちゃん、そう呼ばれた人の顔がくしゃりと歪んで、両目から何かがぼろりと噴き出した。一粒、二粒、粒はしだいに連なって、一筋の水の流れとなって頬をすべり落ちる。
「ぼく、そっちに行かなくちゃならないんだ」
「駄目だ。おまえはおれと一緒に来い」
「呼ばれてるんだよ……だから邪魔しないで」
「なんでだよ、馬鹿! いつまでもとぼけた間抜けヅラしてっとひっぱたくぞ!」
キミはびくりと肩を震わせる。彼は苦い薬を呑み下した時のような顔のまま、つかつかとキミのそばに歩み寄る。それからキミの両肩に手を置いて、そのまま抱き寄せた。
「なあ、いいかげん思い出せよ……。自分が何者で、何のために今、ここにいるのか。そうでなくちゃ、あんまりむごすぎるだろ。このままじゃ、おれたちをかばって死んだ先生に、申し訳がたたねえじゃねえか……!」
キミは彼の腕をいやがって、頭を左右に振りもがくような仕草をする。けれど、キミがもがけばもがくほど、キミの頭を引き寄せる腕に力がこもっていく。よく見れば彼の身体は傷だらけで、特に左肩の怪我は相当の深手のようだ。彼の腕から染み出した赤い血が、みるみるキミの肩口を濡らしてゆく。キミはますます身をよじり、自分を拘束する腕から逃れようとする。血のにおい。生き物の生命が失われていく気配に、キミは目を細める。
「なあ、ダイ……。おれたちどこまでもどこまでも一緒に行こうぜ」
「……」
「おれはいつかきっとおまえの奪われた記憶を取り戻してみせる。だからおまえは何も心配する必要なんてないんだ。デルムリン島を出てから向こう、おれたちずっと一緒だったろ。それと同じだよ。おまえのことは、おれが絶対に守ってやるからさ」
「ねえ、離してよ……」
「………。おれさ、もう決めてるんだよ。大事なものを守るためなら、生命だってなんだってかけてやるって。最低の逃げ出し野郎だったおれが今こうしていられるのは、おまえのおかげなんだよ、ダイ。だからたとえおまえに嫌われても、おまえに憎まれても、おれはおまえを連れてここから出て行ってみせるぜ。
……でもよ、まあ、そう嫌なことばかりでもないと、おれは思うぜ。世界にはおれたちのまだ知らない、面白いもの、綺麗なもんがたくさんあるんだ。二人でそれを見に行こうぜ。おれたちなら、世界中どこだって、トベルーラでひとっとびさ。なあ、いい思い付きだろう?」
キミの飴色の瞳に、力ない笑顔が映りこんでゆらゆら揺れている。彼はさりげない仕草でキミの頭に手を置いて、それからくしゃりと掻き撫ぜた。片方の腕は、やっぱりキミの肩口に回したままで。
それは気安い者同士が内緒の打ち明け話をする時にも似た親密さで、キミたちは遠目に年の離れた兄弟のようにも見えた。
「で、悪いんだけどよ……ほんの少しだけ休ませちゃくれねえか。今おれだいぶまいっててさ。魔法力が戻ったら、すぐにでも出発するからさ……」
触れる指先の感覚に、キミは何かを思い出しかけるけれど、その『何か』は明確な形を取ることはなく、そのまま忘却の暗闇に溶けて消えた。額の紋章が、いよいよ輝きを増して、寒々しいまでの青さでもって辺りを染め抜いていく。光はちょうど、岸辺の大波が無数の小波をひと息に呑みこんでしまうように、キミの脳裡にかすめた小さな思い出の欠片を、残らずかき消してしまった。
「ぼくは行かなくちゃいけない」
キミは肩に回された腕をゆっくりと時間をかけて引き剥がしていく。抵抗する気力もないのか、彼はおとなしくされるがままにしている。解かれた腕がぶらりと垂れ下がり、そのまま彼は崩れ落ちるように地面に膝をついた。肩口に染み込んで消えない血のにおい。すがりつくように震える腕が伸ばされるけれど、キミはそれを無視する。キミの額はますます眩いばかりに輝く。待てよ、と、かすれた声で制止がかかる。キミは答えない。後ろをかえりみることもない。キミは扉の前で立ち止まり、冷たい把手に指をかけて、大きく息を吸い込んだ。…
ボクは祈る。
あの日、あどけない顔で微笑みかけたボクの大事な友だちが、これ以上何一つ大事なものを失うことのないように。ボクは祈る。血塗られた戦いのさだめから、一分一秒でも遠くにあるように。ボクは祈る。心あるキミの友人たちが、これ以上悲しみに胸を引き裂かれることのないように。
ボクはボクの祈りでもって、この一瞬を永遠のものにしてみせる。キミがすべてを取り戻し、ふたたび窓辺から飛び立つその日まで、何人たりともこの箱庭から、ふたりを見つけ出すことは叶わない。