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    まさのき

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    まさのき

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    アンデルセンの「雪の女王」をわりとまじめにパロったカイ潔(+糸師兄弟)です。藤田貴美さんの漫画版に多大なインスピレーションをいただいてます。中盤までカイザーの気配が皆無ですが、ちゃんとカイ潔です。

    ゲルダ→潔(と冴)、カイ→凛、盗賊の娘→カイザー

    #カイ潔
    chiFilth

    花待ちの窓雪の晩に、枕べで聞く物語



    第一のお話 はじまり


     昔、むかしのお話です。ここではないどこか遠くの国の、知らない土地の、小さな箱庭の村に、ひっそりとよりそい合って暮らす、三人の子どもたちがおりました。三度の春と冬のあいだに生まれた彼らは、名前をそれぞれ冴、世一、凛といいました。赤髪の冴は、三人の中ではもっとも年長で、その下に世一と凛が続きます。泣き虫世一と、やんちゃな凛、面倒見のよい冴の三人組は、遊ぶときも、出かけるときも、眠るときでさえもいつも一緒でした。血をわけた兄弟である冴と凛は、となりの家に住む世一のことを、まるで本当の兄弟のようにたいせつに思っていました。世一だって、冴と凛の二人と血がつながっていないことなんて、つゆとも気にしたことはありません。だって、朝も昼も夜も、扉を開けばそこに冴と凛が立っていて、ふたりといれば、世一に怖いものなんて、なんにもなかったのです。三人は野を駆けて遊び、泥まみれになって眠り、手に手をとって、いつまでもいつまでも仲むつまじく暮らしていました。


     そんなある日のことでした。深い森の奥に住む魔法つかいが、一面の鏡を作りあげました。それは魔法の鏡でした。なんでも、その鏡に映したものは、どんなに美しくすばらしいものでも、まるでみすぼらしくちっぽけに見え、反対に、みにくく悪しきものにかぎって、ひどくおおげさに、にくにくしくうつるというのです。どんなに美しいけしきも、やさしいほほえみも、よりぬかれた宝物も、この鏡にかかればみな、はんで押したように味気なく、ねじくれた、へちゃむくれに映るのを見て、魔法つかいはゆかいでたまらなくなりました。そして、このゆかいな性質をもった鏡をつかって、ひとつ、いたずらを考えつきました。魔法つかいは、この国でもっとも高い山の峰にのぼって、そのてっぺんで、魔法の鏡をこなごなに割りくだきました。鏡は、何千何万何億の欠片となって、地上にふりそそぎます。たった一面きりの鏡では、映せるものもたかがしれていましたから、これは大変いい思いつきだと、魔法つかいはにやりと口もとに笑みをうかべるのでした。



    第二のお話 鏡と少年


     さて、困ったことになりました。鏡の欠片は、せいぜいが砂つぶくらいの大きさしかありませんでしたが、これが人の体に入ると、そのまま中に食いこんで、取り出すことができなくなってしまいます。そのうえ不幸なことに、鏡の欠片を飲みこんだ人は、たちまち心臓が凍てついて、心ない人形のようになってしまうのでした。鏡のかけらは世界中に飛びちっていましたから、当然、冴と世一と凛のいる村にもふりそそぎました。
     ある冬の、夕暮れのことでした。前の晩に、凛が、夢の中でふしぎな女に会ったというので、三人は村はずれの湖までやって来て、女の姿を探していたのでした。

    「真っ白な服を着た、こごえるように冷たい瞳の女なんて、どこにもいないじゃないか。凛は、うそをついたんじゃないのか」

     冴が、あきれたように言うので、凛はむきになって言い返します。

    「ちがうよ。おれ、うそなんかつかないよ。真っ白い服の女が、湖の真ん中に立って、おかしなまじないをする夢、きっと見たもの」

     お兄ちゃんの冴に信じてもらえず、しまいに泣き出しそうな顔になった凛を、世一はあわててなぐさめます。

    「ぼく、凛の言ってることはほんとうだと思う。凛はほんとに、ここで女の人を見たんだよ。ほら、もうすこし近くまでいってみようよ」

     三人は、湖のみぎわに立って、どんよりとした冬色の水面をしばらく眺めていました。そうしているうちに、あたりには白いものがちらつきだします。

    「雪だ!」

     はじめに気がついたのは、凛でした。冴と世一も、めいめいに顔を上げて、空からおっこちてくるふわふわの雪の結晶を、目でおいかけました。日暮れを告げる鐘がひとつ、ふたつと鳴りひびいたそのとき、凛がふいに「いてっ」と大きな声をあげました。

    「どうした、凛?」

     冴が心配して、凛のもとに駆けよります。

    「あッ、なんだか、胸がちくっとする。それと、目にもなにか入ったみたい」
    「見せてみろ」

     そう言って、冴は凛の目をごしごしこすります。それから、凛の目をじっと、のぞきこみましたが、目の中にはなにも見えませんでした。

    「凛、だいじょうぶ?」

     しきりに目をぱちぱちさせる凛を、世一は不安げな顔で見つめました。

    「うん……もう、とれたみたい」

     凛はそう答えましたが、じつは、取れたのではありませんでした。例の、魔法つかいが割りくだいた鏡の欠片が、凛のからだの奥ふかいところに刺さって、抜けなくなってしまったのです。

     この日を境に、冴と世一と凛の世界は、いままでとまったく様子のちがうものに、すっかりなってしまったのでした。凛は、わんぱくなところもありましたが、心根のやさしい、家族おもいの少年でした。ですが、心臓に刺さった鏡の欠片は、じきに凛の心を、氷のかたまりのようにしてしまいました。あるとき、冴や凛を追いかけて原っぱを駆けていた世一が転んでしまうと、凛はまるでおもしろくないように舌うちをして、こう言うのでした。

    「ちぇ、どんくさいったら。潔、なんだっておまえは、おれと兄ちゃんにつきまとうんだ。本当の、兄弟でもないってのに」

     潔というのは、世一の上の名前です。世一は、あれだけ仲のよかった凛から、まるで他人行儀に呼ばれたことも、もちろん悲しかったのですが、なにより、本当の兄弟でもないという言いかたに、胸がふさぐような思いがするのでした。それから、凛は、世一に対して、ひどくそっけなくふるまうようになりました。冴は弟を何度もたしなめましたが、凛はいっこうに聞きわけようとしません。そうしているうち、まるで三つ子の兄弟のように仲むつまじく、なにをするにも一緒だった彼らのあいだにも、少しずつ少しずつ、みぞができていきました。世一はもう、前のようには、二人のもとを訪れなくなり、扉の前に、冴と凛が立っていることも、めったになくなってしまったのでした。


     そんなある日のことでした。冴から、「湖を見にいかないか」と誘われた世一は、ふと思いついて、緑のえり巻きをして出かけました。それは、世一のお母さんが編んでくれたもので、冴は赤色、凛は空色の、おそろいのえり巻きです。待ち合わせ場所に走っていくと、二人の首もとには、しめし合わせたようにあのえり巻きがつけてあって、世一はうれしくなりました。こうして三人で出かけるのもずいぶんと久しぶりな気がします。凛は、あいかわらず、ぶすくれた顔をしていましたが、だまって後ろをついてきました。


     さて、湖にたどり着いた三人は、目のまえの光景に、思わず息をのみました。百、千、いいえ……数えきれないほどの白鳥の群れが、湖をおおい尽くしていたからです。冬の盛りに、水面はすっかり凍りついて、いちめんの鏡のようです。たくさんの白鳥たちが、があがあと、やかましい鳴き声をあげるのを、世一はぽかんと口をあけて、冴は翡翠色の目を丸くして、見つめていました。ただ、凛だけが、魅いられたように、焦点の合わないぼんやりとした目つきで、ふらふらと湖のほうへ歩いていきます。冴は、凛を引きとめようとしましたが、白鳥たちのはばたきに阻まれて、なかなか追いつくことができません。世一も、冴のうしろにくっついて、凛の名前を大声で呼びました。

    「ねえ、凛、どうしたの……凛!」

     凛は返事をすることもふり返ることもなく、どんどんどんどん湖の中心にむかって歩いていきます。凛には、世一の声なんてひとつも聞こえていないようでした。りん。まって。どこにいくの。おいていかないで。最後のほうは、うまく言葉になったかわかりません。

    「凛!」

     ざわざわざわと、おそろしげな音を立てて、白鳥の群れがいっせいに飛びたちます。何千何万の鳥かげのむこうに、真っ白な衣装を着た、氷の彫像のような女が立っているのが見えました。ふらふらと、女に近づく凛の後ろ姿を見て、世一の心臓はばくばく脈うちました。なにか、とてもよくないことが、目の前で起こりつつあることはわかるのに、得体のしれない不安と恐怖にぬいとめられた世一の足は、その場から一歩も動くことができないのでした。

    「行くな! 凛!」

     そう叫ぶやいなや、冴は、矢のような勢いで世一のわきをすり抜けて、凛のもとへ駆けよりました。あッと、世一は声をあげました。女が、冬そのものみたいな白い手をさしのべて、凛のほほに触れたからです。冴もまた、凛に手をのばしましたが、間にあいませんでした。飛びたった白鳥の群れが、いっせいに引き返し、女と凛のまわりをとり囲みました。白鳥たちはぐるぐると渦を巻くように飛びまわり、それから、ぱっと崩れて北の空へ飛びたちました。

    「凛! つかまれ! 凛!」

     冴はごうごうとうなりをあげる白鳥の群れに体を突っこんで、凛に向かってけんめいに手を伸ばしました。けれど、凛は、白い服の女の隣に立って、ぼんやりとした目をするばかりで、冴のほうを見向きもしません。それでも冴は叫び続けましたが、風に吹かれる浮き雲のように、しだいに白鳥の群れは上空へと流れ、女のすがたも、凛のすがたも、とうとう見えなくなって、あとには、膝をついてうなだれる冴と、世一だけが残されました。冴の手には、踏まれて泥まみれになった、凛の空色のえり巻きが握られていました。凛の残していったものは、たったそれきりでした。
     凛が、白い雪の女王にさらわれてしまったいきさつは、こんなふうでした。



    第三のお話 明暗


     あの、鏡の欠片を飲みこんだ日から、凛はどこもかしこも、まるで一日じゅう冬の海に沈んでいたみたいに冷たくて、それだから、あの白い雪の女王に見そめられて、連れていかれてしまったのかもしれません。ああ、あのやさしかった凛は、いったいどこにいってしまったのでしょう。世一は、それから、凛がさらわれそうになったとき、どうして自分も冴のように、凛のもとに駆けよって、手を伸ばすことができなかったのかと、昼も夜も、そのことばかり考えるのでした。
     それよりもっとひどいのは、冴でした。冴は、凛の手をつかめなかったことをえんえんと、心のそこから、悔やんでいるようでした。凛のいない冴の暮らしは、火が消えたようなさびしさでした。世一は、冴を力づけようと、毎日、冴のもとをたずねました。そうして、むかしのように、二人でいっしょに野を駆けまわったり、おつかいに出かけたり、一枚の毛布をかぶってねむりました。でも、だめでした。冴は、心をなくした人形のように、暗い目をして、日がな一日、窓の外を見てばかりいました。そんな冴を見ていると、世一の心は、引きちぎれるようにいたみます。けれど、世一にはどうすることもできません。

    「本当の、兄弟でもないくせに」

     凛に言われたことばが、頭のなかをぐるぐるめぐります。冴と凛のあいだには、兄弟の、ほんとうの絆があるのに、世一だけが仲間はずれで、糸を切られた風船みたいに、たよりなくてやるせない、ひとりぼっちです。こうなってしまうと、世一は、冴と自分の、違うところばかりが、いやに目につくようになりました。冴と凛は、おそろいの、美しい翡翠色のひとみをしていました。世一はそれが、自分だけの宝箱に入れた宝石のように、誇らしかったのですが、今はもう、冴の目を見るだけで、胸がつぶれるようです。しまいに世一は、冴と顔を合わせるだけで、ここにはいない凛から、責められているような気さえしてくるのでした。


     厳しい寒さもしだいにゆるみ、春の訪れを日ましに感じるようになったある夜のことです。寝苦しさに目をさました世一は、暗やみに立つ人かげに、あッと声をあげました。そこには、えんじ色の外套を羽織り、すっかり旅支度を整えた冴が立っていました。
     世一は寝ぼけまなこで冴を見つめました。きれいな翡翠色の目が、暖炉のわずかな明かりをうけて、重々しく光っています。世一には、冴がどうしてそんな苦しげな顔をして立っているのか、わかりそうで、けれどもやっぱりわかりませんでした。

    「世一」

     冴の口ぶりが、なんだか悲しげなので、世一はごくりとつばを飲みこみました。

    「おれは、凛をむかえに行こうと思う」

     ああ、いよいよだ、と世一は思いました。冴が、窓の外を眺めているときは、いつもきまって、その目のさきにかわいい弟の凛を探していることを、世一はとっくに知っていたのです。

    「ぼくも、一緒にいく」
    「だめだ」

     そうつっぱねる冴の声が、真冬の湖のようにつめたいので、世一はひゅっと、ほそく息をのみました。

    「どうして、一緒ではだめなの!」

     悲しいやら、くやしいやらで、世一はぽろぽろ涙を流しながら、冴につめよりました。冴はますます眉をひそめて、説いてきかせるように世一に言います。

    「おれたちが、三人ともいなくなるのでは、村の人間も悲しむだろう。だから、おれはひとりで行く」
    「そんなの関係ない! ぼくも、凛をさがしに行く!」

     冴が、どうしてもひとりで行くと言ってきかないので、世一は冴のふところに飛びこんで、むちゃくちゃに暴れまわりました。ですが、どんなに世一が頼みこんでも、胸をどんどんと叩き、泣きわめいて、すがりついても、冴の決心がゆらぐことはありませんでした。きかない弟を見るときのように、ほんの少しだけ、冴の目つきがやわらいで、それからまた、例の重々しい顔にもどりましたが、世一がそれに気がつくことはありませんでした。

    「世一がついて来るのでは、足手まといだ。おまえはここにいろ。何があっても絶対に、おれを追いかけたりするなよ。おれは、凛を見つけ出して、必ずここに戻って来る」

     そう言って、冴は世一の腕をほどき、そのまま、暗やみのむこうに、姿を消してしまいました。暖炉のつくる影が、長くのびて、部屋のぜんたいを、圧しつつむようです。世一は息をするのもわすれて、無情にも閉じられた扉を、じっと見つめているのでした。



    第四のお話 旅立ち


     春がきて、夏がすぎて、みじかい秋がやってくるころになっても、冴は村に戻ってきませんでした。村の人たちのうわさでは、凛は、あの冬の日に、湖に足をすべらせて、おぼれてしまったのだろうということでした。凛のゆくえも、冴が今、どうしているのかも、誰ひとり、正しいことはわかりません。世一は、くる日もくる日も、泣きくらしました。枕をつめたくぬらして、目をまっ赤に腫らしながら、冴の帰りを待ち続けました。一生ぶんの涙を流しつくしてしまったころ、世一はようやく、悲しむのをやめて、顔をあげました。たったひとりで、声も枯れるほどに泣いたあと、世一の胸に残ったのは、ひとつの決意でした。

    「泣き虫世一は、もうおしまい。凛と冴をむかえに行けるのは、ぼくしかいないんだ」

     その日から、世一は、また前のように、家から出て歩くようになりました。新しい、革のくつをおろして、村人のひとりひとりに、凛と、冴のことを聞いてまわりました。そのうち、村の人に聞くのではらちがあかないので、いよいよ村の外にも足を伸ばして、二人の手がかりを探しはじめました。

    「凛と、冴のことを知りませんか? ぼくのだいじな友だちなんです」

     と、世一がたずねます。

    「誰だい、それは? わたしはいそがしいんだ。他をあたっておくれ」

     馬を引いた男は、にべもなく答えました。

    「凛と、冴のことを知りませんか? きれいな翡翠色のひとみの、兄弟です。ぼく、そのひとたちのこと探してるんです」
    「あら、ぼうや、ごめんなさいね。あたくしにはわかりませんわ」

     上等なドレスを着た貴婦人は、すまなそうに答えました。

    「だれか! だれか、ぼくのだいじな友だちのこと、知りませんか? ぼく、ちゃんと、彼らにあやまりたいんです。ですからどうか、教えてください。凛と、冴は、いま、いったいどこにいるんですか?」


     世一は、川ぞいの道をどんどん歩いていきました。じきに小さな渡し場に突きあたり、そこには木でできた小舟がつないでありました。そこで、世一はひとつ、よいことを思いつきました。この舟に乗れば、川下にある大きい町まで、ひとっとびにたどり着くことができます。世一は、小舟に乗りこんで、ともづなを外しました。小舟は勢いにのって、ぐんぐんと川を下ってゆきます。そのあまりの速さに、世一のおくびょう心が、ほんのすこしだけ顔を出しましたが、世一は怖いのをぐっと飲みこんで、きっと、前を見すえました。

     そうしているうち、岸に着いたので、世一は小舟を降りて、また、歩きだしました。岸のまわりは、さっぱりとしたけしきでした。あたりいちめん、立派なれんが造りの花壇が広がる、大きな屋敷のそばを通りがかった世一は、ああ、もし今が春だったら、どんなにか美しいけしきが見られたことだろうと、ため息をつくのでした。花壇のむこうでは、屋敷の主人と思われるおばあさんが、花を落としたバラの垣根に水をやっているところでした。

    「こんにちは、おばあさん。ぼく、人を探してるんです。おばあさんは、翡翠色のひとみをした男の子ふたりを、見ませんでしたか? ひとりは、かみの毛が炎のような赤色で、もうひとりは、からすの尾ばね色です」

     おばあさんは、春の日差しのような、やさしい顔で、世一にほほえみかけましたが、すぐに、申しわけなさそうに首をふりました。

    「こんにちは、ぼうや。残念だけど、そんなすてきな男の子は、ここを通りがからなかったみたいだわ」

     世一はがっかりしましたが、おばあさんは、思いがけないうわさを、世一に語ってきかせてくれるのでした。

    「こんなうわさを、耳にしたことがありますよ。ここからもっと西に行ったところに、大きな国があって、そこの王女さまが、最近、結婚式をあげたというの。その、王女さまのお相手というのが、宝石みたいにきれいな翡翠色のひとみをした、若い男の子だったそうだわ」

     世一は、跳びあがってよろこびました。おばあさんへていねいにお礼を言って、さっそく西の大国にむかって歩きだしました。世一は、王女さまというのは、あの白い服の女で、女にみそめられた王子というのが、きっと凛にちがいないと、そう考えました。それなら、結婚式のうわさを聞きつけた冴も、近くにやって来ているかもしれません。そう思うと、世一の心はまりのようにうきうきはずむのでした。


     さて、西の大国にやって来た世一は、さっそく王子のいる宮殿にむかいました。凛と、冴に会えたら、どんなにかうれしいことでしょう。世一の胸は、期待にどきどきふくらんで、今にもはりさけそうでした。うきうきと、軽やかな足どりで、宮殿の前にたどり着いた世一でしたが、しかし、そううまくはいきません。

    「なんだ、おまえは? おまえみたいな小さな子供は、この先にゃ進めないよ。さあ、早いとこ、引き返すんだね」

     にび色の服を着た番兵が、柄の長いやりを交差させて、世一を追い返そうとします。世一はあわてて、番兵にこう言いました。

    「ぼく、凛に会いにきたんです。凛っていうのは、最近、この国の王女さまと結婚した、ぼくの大事な友だちのことです」

     世一は、凛を、連れて帰るつもりであるということは、あえて番兵に伝えませんでした。そんなことを言ったら、ますます中に入れてもらえなくなるなんてことは、わかりきっていたからです。

    「おまえみたいなのが、王子さまの知り合いだって? ふん、馬鹿も休み休み言うんだな。とにかく、ここは通してやらないよ。しっしっ、早く、あっちへ行けったら」

     番兵の、とりつくしまもない態度に、世一はしょぼくれましたが、すぐに気もちを切りかえました。世一は、番兵の目をぬすんで、こっそりと凛のすまいを訪ねることにしました。町で、太い大きな縄を手にいれた世一は、近くの木と手すりとをむすびつけて、窓から、宮殿に忍びこみました。ぬき足さし足で、がらんとした広間を抜けて、王子たちの部屋にたどり着くと、黄金の柱に四すみを囲まれた、大きなベッドに、だれかが並んでねむっているのを見つけました。真夜中でしたから、あたりはうす暗く、ベッドのわきに吊るしてある金のランプだけが、ふたりをほのかに照らしています。

    「凛!」

     世一は、力のかぎりに、凛の名前を呼びました。すると、ベッドのなかの影が動いて、世一のほうに向きなおりました。世一はうれしくなって、ベッドに駆けよりました。ばちりと、すんだ翡翠色のひとみと目があいます。世一はまた、息をのみました。

    「……だれだい、きみは?」

     ところがそれは、凛ではなかったのです。似ているのは目もとだけで、そのひとみの色も、ランプの明かりのもとで目をこらして見ると、凛や冴のとはまたちがった、落ちついた瑠璃色なのでした。隣でねむっていた王女も、あの白い服の女などではなく、ウェーブのかかった髪の毛をした、見覚えのない若い娘でした。
     世一は、崖から突き落とされたような心もちで、がくりと膝をつきました。世一の、その様子が、あんまりあわれなので、王子たちは、すっかり気のどくになって、番兵を呼ぶことも忘れて、世一の言葉に耳をかたむけました。

    「凛と、冴のことを……ぼくのだいじな家族のことを、だれか、だれか知りませんか……ぼく、ふたりを探して……はるばるこの西の国まで、ひとりでやって来たんです……」

     おしまいまで世一の話を聞いた王子たちは、このかわいそうな少年に、いつまでもこの宮殿で暮らさないかと、そうもちかけました。平和なこの国であれば、一生食うには困らないし、この国にやってくる旅のものから、翡翠の目の少年たちについて、聞くことができるかもしれません。それは、砂糖菓子のように甘やかな、親切ですてきな誘いでした。世一は、王子たちのやさしい心に、たいそう勇気づけられましたが、それでもやっぱり、うなずくことなどできず、しずかに首をふりました。
     顔をもちあげて、世一は言います。

    「あなたたちの誘いは、とってもうれしい……けれどぼくは、やっぱり、自分の力で、凛と冴を見つけださなくちゃならない……」

     瑠璃色のひとみの王子たちに、ていねいにお礼を言って、世一は宮殿をあとにしました。王子たちは、旅の助けにしてほしいと言って、絹でできた服や、立派な外套や、馬車やコショウ入りのお菓子を、世一に分け与えてくれました。魔法つかいの砕いた鏡のかけらは、ひょっとすると、この国にだけはふりそそがなかったのかもしれません。世一は、王子たちのいる部屋のほうに、何度も何度もおじぎをして、それから馬車に乗りこみました。



    第五のお話 迷いの森のバラ


     さて、宮殿づきの御者が、むちをふるうと、馬たちはぶひひんといななきをあげて、足を速めます。そうしているうちに、馬車は、くらい森の中へ入っていきました。まっくら森は、迷いの森と、西の国でうわさされていたことを、世一は思いだしました。ところで、王子たちがくれた馬車は、黄金色をした、立派なあつらえのものだったので、木の葉のかげからこぼれる昼の日ざしを受けて、まるで小さな太陽がそこにあるかのように、ぴかぴか光り輝きました。それが、よくなかったのかもしれません。じつは、この森は、世にもおそろしい盗賊一味のねじろだったのです。こがねの馬車に目をつけた盗賊どもは、がやがやと下品な声をあげながら、あっというまに、馬車のとおり道をふさいでしまいました。

    「そうれ見ろ、金だ、王族たちの乗る黄金の馬車だ!」
    「御者どもは、さっさとおん出してしまえ。お宝は、あたいたちのものだ!」

     盗賊どもは、手にもっていた得物をふりあげて、たちまち御者たちをみな追いはらってしまいました。なかには、抵抗するあまり、盗賊どもに斬りふせられてしまった人もいます。世一は、屋形の中で、がたがたふるえていました。
     とうとう、大きなおのが持ちだされて、こがねの馬車はばらばらに、壊されてしまいました。世一は、馬車からひきずりおろされて、盗賊どもにぐるりと取りかこまれました。外には、粉雪がちらついています。大きなわし鼻をした首領のおばばが、ずいと身をのりだして来るので、世一は思わず、王子たちにもらった真新しい外套を、胸もとで握りしめました。おばばは、低いざらざらした声で、世一にむかってこう言いはなちました。

    「こりゃあ、たいそう立派なかっこうをした子供だわい。ふん、気にくわないね。きっと今まで、食うにも、眠るにも困らない、ぜいたく暮らしばかりしてきたのだろうさ!」

     世一は、おばばになにか、言いかえしてやりたい気もちでいっぱいだったのですが、舌が、のどの奥でちぢこまって、うまく声がでません。なにしろ、くぬぎの木はだのように、荒々しいしわがいくつもきざまれた、おそろしげな顔のおばばです。おばばは世一のかみの毛を、らんぼうにつかみ上げました。

    「ははん。なにせそっくり、脂ののった、子ひつじというところだが、さあ、食べたらどんな味がするかねえ」

     そう言って、おばばは、三日月のようにひやりと光る、ナイフを持ちだして、世一のくびにあてました。世一は、いよいよここまで、と思って、ぎゅっと目をとじました。そのときです。

    「ぎああッ!!」

     おばばは叫び声をあげて、どでんと後ろにたおれこみました。だれかが、おばばの、丸太のような太い首すじに、かみついたのです。ぱっと、あたりに赤い血がとび散りました。そのひょうしに、世一の髪をつかんでいた腕がはずれて、ほんの少しだけ、からだが自由になりました。世一は、そのすきに、くるりと背をむけて、おばばのもとから逃げだそうとしました。ですが、

    「あッ!」

     世一の首に、若木みたいにしなやかな腕が、さっと巻きつきました。世一は息がくるしくて、その場から一歩も動けません。

    「このくそがきァ、なにをする!」

     と、首領のおばばが叫びました。おかげで、おばばは、世一をおどかす、鼻さきを折られてしまいました。

    「こいつは、オレといっしょにあそぶんだよ」

     月の光をたばねたような、かがやく金色のかみの毛でした。南国の鳥の尾ばねのように、長くのばしたえりあしは、ふかい藍いろにそめてあり、こんなきれいな子供は、生まれてはじめて見たようだと、世一は目を細めました。

    「馬鹿ぬかすんじゃないよ、この小便たれがッ! よくもまあこのおばばに噛みつけたものだね!」

     吐きすてるように、おばばが言いました。けれど、金いろの髪の少年は、まるでひるんだ様子もなく、口もとについたおばばの血を、らんぼうにぬぐって、こう言いかえすのでした。

    「これは、オレが一番はじめに見つけたんだ! だから、オレのものにする。もしも文句があるんなら、かかってきたらいい。そしたらオレがみんな、順ぐりに、のしてやるからさ」

     少年は、腰にさしていた剣を、すらりと抜きはなち、盗賊どもをにらみすえました。びゅうびゅうと、ものすさまじい風が、あたりを吹きぬけます。いつのまにやら、雪は勢いをましており、少年におさえつけられたままの世一の背なかを、ぞくりとつめたいものが走りぬけました。

    「ふん、腰ぬけどもめ。これでわかったろう。二度とオレのすることに、くちばしつっこむんじゃないぜ」

     少年は、つまらなそうにそう言って、剣をおさめると、腕をほどいて、世一のひとみをじっとのぞきこみました。盗賊たちも、それぞれに得物をおさめて、やれやれ言いながら、すみかのほうへ引き返していきます。もちろん、馬車に積みこんであった、たくさんの宝物を、背や肩にかつぐのも、忘れていません。世一は、少年の、どこまでも深い、夜色のひとみに見つめられると、変にたじろいでしまって、うまくものが言えなくなるのでした。

    「おまえ、名前はなんていうんだ?」
    「ぼくの……ぼくの名前……?」

     からだの内がわから、よくわからない熱があがって、頭がぼうっとします。世一はけんめいに、回らない口を動かして、少年に自分の名前を伝えました。

    「ぼくの名前は……いさぎ……潔世一……」
    「ふうん、そう。じゃあ、世一って呼んでやる」
    「きみは……」

     世一は、少年の名前をたずねたかったのですが、どうにもからだが重くて、うまくいきませんでした。それに、頭もがんがん痛みだすようです。世一はきゅっと、目をつぶりました。それがおかしかったのか、少年は笑って、世一にほおずりしました。それから、こんなことを言いだしました。

    「よろこべ、世一。おまえは今日から、オレのものだ。オレのためにことばを話し、オレのために笑い、そして、オレをけしてうらぎるなよ」

     なんだ、そんなのと、世一は言ってやりたかったのですが、重たい口が、ようやく半分ひらいたころには、もう、意識が闇のなかに落ちこんで、どうにもなりませんでした。ふっと、からだの力がぬけて、前のめりに倒れこむ世一を、少年はしなやかな腕で、だきとめました。
     世一が、少年と出会ったいきさつは、ちょうどこんなふうでした。




    『……いち……世一……』


     だれかが遠くで、世一の名前をよんでいるようでした。
     世一は、うつむいていた顔をぱっとあげて、声のするほうへ、どんどんどんどん歩いていきました。あたりは、もうすっかり春です。黄色いのやら、白いのやら、うす赤のやら、色とりどりの花がこぼれるように野べを埋めつくしていました。世一はすっかり上きげんで、鼻歌でもうたいながら、声のするほうへ駆けていきます。

    『世一!』

     そこには、凛と、冴がいました。二人は肩を寄せあい、胸のすくようなあかるい笑みをうかべて、世一に向かって手をふっています。
     なあんだ、と世一は思いました。そもそもはじめから、怖いことも、悲しいことも、なんにも起こらなかったのです。冴と、世一と、凛は、血のつながった兄弟よりも、深いきずなでむすばれた三人組で、それは今までも、そしてこれからもずっと、変わらないのです。世一は両のうでで、めいっぱい、二人に向かって手をふり返しました。みずみずしい春のにおいを胸いっぱいに吸いこんで、世一は、なによりも大切な二人の名前を、力のかぎりに叫びました。

    『凛! 冴! ぼくだよ! さあ、一緒に帰ろう……!』




    「世一!」


     大きくみひらかれた世一の目を、夜色のまあるい水晶玉がふたつ、間近でのぞきこんでいました。

    「うあああぁッ!!」

     世一はびっくりして、かけてあった毛布をはね上げました。そのひょうしに、ふたつの水晶玉はすっと後ろに身をひいて、少年の顔のなかにおさまりました。そうです。まっくら森で出会った、金いろの盗賊の少年がそこにいました。どうやらここは、わらや、敷物のしかれた納屋のようなところで、その上には、百羽よりもたくさんのはとが、梁にとまって、おしあいへしあい顔をのぞかせているのでした。
     しきりにあたりを見まわす世一を、少年は、なんだか不きげんそうな顔で、じとりとねめつけました。

    「……りんと、さえってのは、おまえの知りあいか?」

     言われて、世一ははっとしました。さっきまで、たしかに、世一はふるさとの花畑で、凛や冴と一緒にいたはずでした。けれども、ほんとうに残念なことに、それは世一のみた夢だったのです。世一は、ひどくがっかりした心もちで、ため息をつきました。

    「おまえは、もう三日も寝こんでいたんだ。うなされながら、そいつらの名前を、くりかえし呼んでいた」

     そう言って、少年は世一のほほに手をあてました。それからしばらく、なでたり、つねったり、ひっぱったり、好きほうだいにいじくりまわすので、世一はされるがまま、目をしろくろさせました。少年はしまいに、世一のひたいに自分のをくっつけて、「よし」と軽くうなずきました。

    「熱はすっかりさがったみたいだな」
    「きみが、かんびょうをしてくれたの?」

     世一はおどろいて、少年にそうたずねました。あの、おそろしげなおばばと、らんぼう者の手下どもを思い出すと、ぶるりとからだがふるえます。

    「あんまり目をさまさないんで、あらくれどもが、鍋にいれて食っちまおうかと、さんだんしていたよ。ふん。オレがこいつを、首もとにちくりとしてやったら、やっこさんたち、しりをまくって逃げてったけどな」

     少年は、ふところからナイフをとりだすと、世一の目のまえで、くるくるまわしてみせました。

    「それじゃあ、ぼく、もしかすると今ごろ、あらくれたちのおなかに、しまわれていたかもしれないの?」

     世一はおそろしくなって、さっと顔を青ざめさせました。少年はすこし、きょとんとした顔をして、それから、大口をあけて笑いだしました。世一が、少年のことばをあんまり真にうけるので、おかしくなったのです。

    「おまえ、ゆかいなやつだなあ! そうだ、オレがまもってやらなきゃ、おまえは今ごろ、はらわたをさかれて、晩げのスープの具になっていたところさ」
    「うん、ぼく、かんしゃするよ」
    「よろしい。なあ、世一、はらがすかないか。ついてくるんだ、オレがこの城のことを、すっかりおまえにおしえてやるから」

     そう言って、金のかみの少年は、世一の手をひっぱって、盗賊のねじろを連れてまわります。まずはじめに、ふたりはお城の広間にやって来ました。天井の低い、すすけた広間には、煙がもうもうとたちこめており、赤あかとしたたき火が、石だたみの床の上でもえていました。
     次にふたりがやって来たのは、炊事場でした。大きな鉄のなべには、野菜のかけやら肉やらが、山ほど放りこまれて、ぐつぐつ煮えたっています。するどい銅のくしには、大うさぎ小うさぎが、丸のままあぶり焼きにされていました。少年は、そんなふうに、こんがり焼かれたうさぎのくしを、一本二本抜きとって、世一にわたしてくれました。世一が、どこからかじったものかわかりかねて、なんぎしているのを、少年はまた、おかしそうに見つめました。
     それからふたりは、順ぐりに、武器の部屋と、えものの部屋、がらくたの部屋、そして宝物の部屋を、見てまわりました。少年は、部屋といっていたのですが、世一からしてみれば、それらは部屋などではなく、土をほってつくった穴ぐらなのでした。部屋にはそれぞれ、おっかない目をした番人がいて、おとずれる者へにらみをきかせていましたが、がらくたの部屋にだけは、番人がいませんでした。いらなくなったがらくたを、放っておくだけの部屋なので、だれも見張っておく必要がないからです。

    「ぼくは、ほんものの王子さまのすむお城に、行ったことがあるけども、こっちのお城は、ずいぶんようすがちがうみたい」

     えらく感心したふうに、世一が言うので、少年はすっかりほこらしくなって、しきりに胸をそらしたり、鼻をかいたりするのでした。

    「さあ、世一! こんどは城の外に出るんだ! この森は、どこもかしこも、みんなオレたちのねじろなんだ。そこにゃ、おまえの気にいるけしきが、きっと、もっとたくさんあるだろうさ!」

     お城の外へ、いせいよく飛びだした少年は、世一を腰につかまらせて、羽のように軽やかに、馬を走らせました。あし毛の駿馬が、その力づよい脚で、ひとつ地面をけりあげるたびに、ごうとつじ風が起こって、木々の葉っぱをゆらします。世一は、こんなすばらしい馬の背に乗せてもらうのは、はじめてだったので、うれしいやら、どきどきするやらで、ほほをまっ赤にそめて、はしゃいだ声をあげました。
     世一があんまり、楽しそうにわらうので、少年はますます速度をあげて、うすぐらい森を、銀いろのすい星のように、駆けてまわるのでした。

    「いいな、それ!」

     風に青いえりあしをおどらせながら、少年が言いました。

    「えッ?」
    「おまえは、おびえたり、おどろいたりするのもいいが、そうやって笑っているときが、いちばんゆかいだ! ようし、きめたぞ。オレがおまえをきらいにならないうちは、おまえをきっとだれにも殺させやしない。なあ、世一、おまえはいったい、どこからきたんだ?」



     そうしているうち、日暮れがやって来たので、ふたりはあの納屋にもどって、寝しなにおたがいの身の上を語りあいました。

    「へえ、それじゃあ、あのおばばというのは、きみのほんとうのおばば様ではないの!」
    「ふん。あんなのが、オレの母親がわりだなんて、ぞっとしないや」
    「うふふ。森のおおぐまよりもおっかないものね、あのおばばというのは!」
    「ちぇっ。オレは、ゆかいな話なんて、そうたくさんは持ってやしないんだ。それより、世一、おまえの話をきかせてくれ」

     少年は、灰色の毛皮の大きななれしかにからだをうずめ、ときどきは相づちをうちながら、世一の話にじっと聞きいっていました。少年は、世一のことならなんでも知りたがりました。幼いころのこと、少し大きくなってから、見たものや触れたもの、村でのくらしのことから、家族や、知りあいのことまで、たずねられたことはなんでも、世一は残らず少年に語ってきかせました。

    「それで、凛は、白い雪の女王につれていかれてしまったんだ……ぼく、そのときのこと、そっくり全部、おぼえてるよ。冴が、どんなに凛を探してまわったか、ぼくが、どんなにいたたまれない気もちでいたか、昨日のことみたいに、いつもいつも思いだすんだ」

     けれど、少年は、世一が凛や冴のことを話すのだけは、がまんがならないようでした。世一が、ふたりの名前を口にだそうとすると、少年はきまってむずかしい顔をして、だまりこんでしまうのです。

    「……ねえ、ぼく、きみと友だちになるのは、いっこうかまわないんだ。でも、それは、ぼくが凛と冴を……ぼくのだいじな家族を、探しだしてからにしてほしいんだ」

     すると少年は、夜色のひとみを山猫のようにぎらりと光らせて、こう言いました。

    「ああ、その、凛とかいったか。おまえの知りあいは、今ごろきっと、女王にからだの芯まで凍らされて、おっ死んじまってるに違いないさ」

     あのやさしかった凛が、心臓をつめたく凍てつかせた氷の人形になっているさまを思いうかべて、世一の心臓が、踏みつけられたようにずきずきいたみます。

    「どうして、そんないじわるを言うの!」
    「いじわるだと? ふん、オレは本当のことを言ったまでさ。だいいち、あのおそろしい雪の女王に目をつけられて、生きて帰ってこられた人間なんて、聞いたことがないからな」

     少年がおそろしげな顔ですごむので、世一はひるみそうになったのですが、勇気をふりしぼって、こう言いかえしました。

    「それでも、ぼくは、必ず凛をむかえに行く。冴だっておんなじ気もちさ。凛は生きて、ぼくたちがむかえに来るのを待ってるって、そう信じてるんだ」

     すると、少年は、目にもとまらぬはやさでナイフを抜きはなち、世一の首もとにぴたりとあてて、こう言いました。

    「オレは、おまえに、こう言ったはずだぞ。オレのためにことばを話し、オレのために笑い、オレをけしてうらぎるなと。なあ世一。オレに、おまえを殺させてくれるなよ」

     世一はうん、と答えるかわりに、くちびるを強くかみしめました。あんまり情けなくて、くやしくて、力いっぱい外を走りまわったあとみたいに、肺があばれて息があがります。ものもいえず固まっている世一をしりめに、少年はさっさとわらをかぶって眠ってしまいました。
     世一はその晩、氷の像のようになってしまった凛に、ひどくうらみを述べたてられる夢をみて、夜中になん度も飛び起きました。凛のとなりには冴もいて、もの言いたげに世一を見つめているのですが、おわりまで、ひとことも口をききませんでした。
     冴は、凛を見つけられたでしょうか。ひょっとしたら、もうとっくの昔に、冴は凛と村にもどって、世一なんかいなくとも、楽しくやっているのかもしれません。そう思うと、なんだかむしょうに悲しくて、夢を見ながら、世一はぽろぽろ涙を流しました。少年は、うなされる世一の目もとを、涙のつぶがこぼれそうになるたび、そっとぬぐってやるのでした。


     それから、少年と世一は、なにをするにも、ぴったり寄りそって、過ごすようになりました。おばばとその手下どもは、ごくつぶしと、世一のことをののしりましたが、いつも少年がそばで目を光らせているので、手を出すことができないのでした。天気のよい日に、少年はよく、世一を遠駆けに連れていきました。ここにきてからは、笑うことと同じくらい、ふさぎこむことの多い世一が、馬の背にゆられているときだけは、くったくなく楽しげにするからです。ひどい雪ふりの日は、ふたりであの納屋にこもって、少年のみつけてきた宝物をながめてあそびました。
     表紙に細かいかざりのほどこされた重たい本をためつすがめつ、少年が言います。

    「この、本というのに書かれてあることは、オレにはさっぱり理解がおよばないが、こうして絵をながめているのだけは好きだなあ」

     世一は、少年の開いている本のページを、ぺらぺらめくってみました。

    「これは、草や花の名前について書かれた本のようだよ」
    「わかるのか、世一」

     少年は、いたく感心したふうに、そう言いました。

    「うん、ほんのすこしだけ。黄色いのや、青いのや、世界にはいろいろな花があって、春になると、野はらのぜんぶを埋めつくすみたいに咲くんだ」
    「花というのは、どんなものだ?」

     きょとんとした顔で、少年がたずねます。土地のやせた、くらい森の中では、背丈の低い木や草が生いしげるばかりで、花なんてひとつも咲かないのです。少年がひどく知りたがって、あれこれたずねるので、世一は覚えているかぎりの花の名前を、ひとつひとつ語って聞かせるのでした。

    「春になったら、たんぽぽや、すずらんや、しろつめくさが咲くよ。ひなげしは、赤いのもあれば白いのもある……夏になったらゆりの花、いっとう大きいのはひまわりの花……ああ、ぼくんちの庭には、きれいなバラが植えてあって、花びらに朝つゆが乗っているのを、ながめるのがすきだった……」

     世一の声はうっとりとして、まるで歌でもうたうようです。少年は目を閉じて、まだ見たことのない花のすがたをまぶたのうらに思いうかべながら、いっそう世一の声に耳をかたむけました。

    「つりふねや、のぎくや、ほうせんか……どんな季節にだって、花は咲くよ」
    「そうか、そりゃあいい。一年のうち、見られる日が一日や二日じゃ、はりあいがないからな」
    「ぼくたちが、ひとりにひとつ、大切な名前をもつみたいに、花にもひとつひとつ、ちがった名前がついている。本をめくれば、いつでもそのことがたしかめられるんだ」
    「名前、か……」

     少年が、なんだかさびしげにそう言うので、世一はわけをたずねました。少年は、森の入口のところで泣いていたのを拾われたみなしごなので、本にのっている花々のように、自分だけの名前をもっていないのです。
     ゆかいなたくらみを思いついたような顔で、少年が言いました。

    「そうだ。世一、おまえが、オレに名前をつけるのはどうだろう!」
    「ぼくが?」
    「おまえがつけてくれた名前なら、オレはどんな宝物よりも、きっとずっと大事にできるだろう。やってくれるな、世一?」

     急がなくてもいいと、少年は言うのですが、一体いつまで自分はこの森にいられるのだろうと、そう考えたときに、世一の頭にうかぶのは、やはり凛と冴のことなのでした。けれど、そのことは、そっと胸のおくにしまっておきました。自分の目のまえで、ゆかいそうに笑っている少年の顔を、くもらせたくはなかったからです。

    「ねえ、……きみは、どの花がいっとう気にいった? ぼく、きみのために、きみの一番すきな花を、描いてあげるから」

     少年はしばらく悩んで、本のなかの、バラの絵を指さしました。世一は鉛筆と紙をもらって、さらさらと、一輪のバラを描きあげます。そんな世一の手もとを、少年はもの珍しそうにのぞきこみました。

    「ふうん。これが、バラの花というものか。悪くないな」

     少年はにこりと顔色をやわらげました。それから世一に、花に色をつけてほしいとしきりにせがみましたが、見たところ、この部屋にはまともな絵具がありません。ふたりはねじろの中をあちこち探しまわり、青い絵具のチューブを見つけだしました。世一の手で青い色に塗られたバラの絵は、少年の新しい宝物になりました。

     少年のことをひとつずつ、深く知っていくうちに、自分のほんとうの居場所は、あのなつかしいわが家ではなく、年じゅう冷たくきびしい風の吹きぬける、この盗賊の森なのではないかという気が、世一にはしてくるのでした。少年は、世一でも知っているようなことは、なにも知らないかわりに、世一の知らないあらゆることを、なんでも教えてくれました。世一が、少年のいうことをよく聞いて、にこにこしているうちは、少年はいつでも上きげんでした。けれど、それがほんとうの自由ではないことくらい、世一にはとっくにわかっていました。



     迷いの森の果てに、切りたった崖がありました。そこは夕暮れになると、冬枯れの木が影をのばして、あたりをまるで鳥かごのように、ぐるりと取りかこみます。そんなのを見ていると、世一はひどくしょんぼりとした思いがして、気がふさぎます。このごろは、あまり食物を口にすることもなくなって、ためいきをついてばかりの世一をはげますように、少年は明るい声でいいました。

    「オレたち、森の盗賊の中には、生まれてから死ぬまで、一度も森の外に出たことがないってやつも、大勢いる。外からやって来たやつらも、居心地がいいってんで、しまいにゃここにすみついちまうんだ」

     長く伸びた影は、ふたりの背たけをとっくに追いぬいて、遠くの山にまでその手をかけようとしています。その紫いろの山ぎわでは、夜の星がひとつやふたつ、呼吸するみたいにまたたいていました。
     少年は、足もとの、草かなにかをいじりながら、こう切りだしました。

    「世一は、この森のことは好かないか?」
    「どうして?」
    「なぜって、……この森には、花のひとつも咲きやしないからさ!」
    「花がひとつも咲かなくたって、ぼく、がまんできるよ」
    「じゃあ、世一がいま、いちばんほしいものはなんだ? この森を通る馬車の持ちものなら、王さまの使うような錫杖だって、貴族の着るような上等な召物だって、オレがなんでも探してきてやるよ!」

     世一は、困ったように笑いながら、こう答えました。

    「うん、それもきっといいね……でも、ぼくのほしいものは……」

     世一は、自分のほしいものを頭のなかに思いうかべて、それから、そっと口をつぐみました。うつむき加減の世一を、少年が不思議そうな顔でのぞきこみます。

    「おまえほど欲のない人間を、オレはほかに知らないよ。世一。おまえはほんとうに、おかしなやつだな」

     そう言って、少年は世一のほほに、秀でた鼻をこすりつけました。世一からはそのとき、ごくごくわずかに、涙のにおいがしたはずです。けれども、少年がそれに気がついたかどうかは、わかりません。



     その日は、朝から、盗賊のねじろがざわついていました。
     なんでも、北の森を立派な馬車が通るというので、盗賊どもはおいはぎをするために、手ぐすねひいて待ちかまえていたのです。
     そわそわと、しじゅう不安そうな顔をしている世一の肩を、少年はなだめるように触れました。

    「いいか、世一。オレたちはいまから、仕事にでかけるが、おまえはけして、このねじろを離れるなよ。日が沈むまでには、必ずもどってくる。それまで、ここでおとなしくしているんだ」

     くり返し、噛んで含めるようにそう言って、少年はおばばたちとともに出かけていきました。少年は、納屋に鍵をかけていかなかったので、世一は人のいなくなったねじろの中を、自由に歩いてまわることができました。ぐねぐねと、とぐろを巻く蛇のようなろう下を早足で進みながら、世一の胸は、はりさけそうなほどに高鳴っていました。
     世一は、くつ下の中から、一枚の紙を取りだしました。それは、少年の部屋に置いてあった本の1ページを、破りとっておいたものでした。そのページには、盗賊の森からずっと北に行ったところにある、一年じゅう雪と氷に覆われた国について、くわしく書かれてありました。世一は、凛の居場所について、少年に内緒で、めどをつけておいたのです。
     世一はまず、うまやを目指しました。けれどもそこにつながれていたのは、病気の馬と、うんと小さな仔馬の数頭だけでした。盗賊たちの仕事のために、馬たちはみんな出払っていたのです。あてがはずれた世一は、納屋にとって返しました。そうして、少年がいつもからかって遊んでいる、灰色の大きななれしかを引いてきました。
     心臓の、どくどくいう音が、耳のそばで、ひっきりなしに鳴っています。とんでもないことをしているという気もちと同じくらいの、わくわくと胸のふくらむ思いに背をおされて、世一は出口にむかって足を早めます。なれしかは、嫌がるそぶりもなく、だまって世一のそばをついてきました。
     いよいよ、出口がみえてきました。世一が、あぶみに足をかけて、なれしかの背にまたがろうとした、そのときです。世一の足もとに、するどい矢が、たあんと高い音をたてて突き刺さりました。

    「よう、おぼっちゃん。そんなに急いで、どこへ行こうってんです?」

     世一がふり返ると、そこには、ちょうど、できそこないのかかしのような、ひょろりと手足の長い、おいはぎの男が立っていました。男は、つかつかと世一のもとへ歩みよると、あごをつかんで、乱暴にもち上げました。それから、意地の悪い蛇そっくりなそぶりで、舌なめずりしながら、こう言いました。

    「まさか、宝物を持ちだして、夜逃げしようってんじゃないでしょうね?」

     世一は、からからに渇いたのどをごまかすように、ごくりとつばを飲みこみました。

    「ぼく、あの子が、むごい目にあってないか心配になったんだ」
    「へえ。心配しなくても、あん畜生、おまえさんが心配してるようなことには、そう簡単になりゃしないさ」
    「でももし、御者たちが、うんと暴れたら?」
    「そん時ァ、おれたちの分け前が増えるってすんぽうさ」

     世一は、もがくように頭をふりながら、こう言いました。

    「ぼく、ようやくわかったよ。あの子が、どうして寝るときもナイフを手ばなさないのか」
    「へえ。理由をおたずねしましょうかね、おぼっちゃん?」
    「それは、……あなたたちが、あの子のことなんてまるでどうでもよくって、死んだって、かまやしないって思ってるからさ!」

     そうさけんで、世一は、かくし持っていた香辛料のびんをとり出し、男にむかって思いきり投げつけました。男は、ぎゃあッと大声をあげて、血ばしった目を、両の手のひらでおおいました。そのすきに、世一は、なれしかにまたがって、ねじろをあとにすることができました。

    「ちくしょう! ちくしょう! れいの小僧が、宝物を持って逃げていきやがった!」

     男は、物見台にのぼって、黒ぐろとした鉄でできた鐘を、がんがんと甲高く打ち鳴らしました。森じゅうに響くその音をきいて、もの盗りに出ていたおいはぎたちが、いっせいに、ねじろへひき返してきます。世一は、なるべく走りやすい道を選びながら、暗い森を北へ北へと駆けていきます。
     たいまつの明かりが、世一の片ほほをなめるように照らしだしました。世一の後ろから、馬に乗ったおいはぎたちが、火のようなはやさで距離をつめてきます。世一はもう、なれしかの首にかじりついているだけで精いっぱいです。おいはぎの一人が、弓に矢をつがえ、世一にむかってするどく放ちました。世一は、身を低くして、盗賊の矢をかわします。盗賊の矢じりには、毒がぬってあって、もしも当たってしまったら、世一のような子供は、ひとたまりもありません。世一は、なれしかにしがみつきながら、崖を転がっていく岩の気もちは、こんなふうだろうか、ということを考えていました。
     それが、よくなかったのかもしれません。なれしかの首にまわされた世一の左うでを、盗賊の毒矢がかすめました。びりりとからだがしびれて、あッと声をあげる間もなく、世一は地面にころげ落ちました。
     打ちつけた背中に、焼けるような痛みがはしって、息がうまくできません。おいはぎたちは、世一の足が止まったと見るや、ぞろぞろとあたりをとり囲みました。おいはぎたちのえものが、たいまつの火をうけて、そろりとぬれたように光ります。世一は、なんとか身を起こして、おいはぎたちをにらみつけました。からだじゅうに、ずきずきとはしる痛みが、世一の勇気を、ふるいたてているようでした。灰色のなれしかが、気づかうように、世一の後ろ髪をやわらかく食みました。
     おいはぎの一人が、あし毛の馬から、ひらりと地面に降りたって、こちらに歩いてきます。金色の髪をした、その少年は、藍いろのえりあしを風になびかせて、世一のもとにひざまずきました。少年の手には、毒をぬった弓矢がにぎられており、夜をうつしたひとみは、おさえきれない怒りに燃えたつようでした。

    「おまえのことを信じたオレが、まちがっていたようだ」

     少年の両うでが、ゆっくりと世一の首に伸ばされ、汗ばんだ肌にふれました。少年のつめたい手のひらは、かすかにふるえているようでした。

    「オレのきげんをそこねたおまえは、今ここで、野うさぎのように、くびり殺されるだろう。それでもいいと、おまえはそう言うんだな」

     世一が、うんともいやとも言わないので、少年はますますいきり立って、こうまくしたてました。

    「オレの知るかぎりの、もっともむごたらしいやりかたで、おまえを八つ裂きにして殺してやる。矢毒で動くことのできないおまえの爪を、一枚いちまいはぎ取って、その濡れ羽いろの髪の毛だって、全部ちぎり取って、暖炉にくべて燃やしてやる。おまえのそのきれいな、空いろの瞳をくりぬくのは、最後にとっておいてやる。くつで、踏みつぶしてやるのもゆかいだろうし、鳩どものえさにしてやるのも、なかなか上等だろう。どうだ、世一? おまえは、オレに、どんなふうに殺されたい?」

     少年が、あんまり思いつめた顔でそう言うので、世一はなんだか、恐ろしいのも、からだが痛むのも、忘れてしまいそうになるのでした。

    「鳩のえさになるのは、ぞっとしないなあ……」

     世一は、踏みしだかれた木の葉のような力ない声で、ささやくように言いました。

    「おまえの血でとったスープに、おまえの心臓を煮込んで、残さず食っちまったっていいさ。そしたらオレは、きっと、このうえもなくゆかいになれるだろう。もう、おまえに、裏切られることもなければ、四六時中、おまえのことを気にかけておく必要も、なくなるからな」
    「ぼく、食べてもきっとおいしくないよ」

     世一ははにかんで、それに、と続けます。

    「きみが、ぼくを食べてしまったら、もう二度と、ぼくたちふたりで遊べないよ。いやだな、そんなのは……」
    「それなら、おまえはずっとここにいたらいい。ここにいろ、世一。おまえの、薄情な知りあいのことなどいっさい忘れて、死ぬまで、オレのそばにいろ」

     少年は、いつしか、ひとり取り残された迷子のようなひとみで、すがるように世一と向きあっていました。けれど、世一はまた、困ったように眉根をよせて、あいまいにほほえむばかりでした。

    「世一、おまえも……オレをがらくたみたいにすてていくのか……?」

     そう言って、少年は、世一の首にふれる両の手のひらに力をこめようとするのですが、うまくいきません。おしまい、少年の腕は、泣くのをこらえているときのように、ぶるぶる震えだして、世一はそれを、しめつけられるような心もちで見つめていました。くびねを押さえられているのは、世一のほうなのに、かんじんの少年のほうが、ひどくしょげかえって、だだをこねる子供のようにふるまうので、おいはぎたちは、おやと目を丸くして、顔を見あわせるのでした。



     こうして、世一はふたたび、少年とふたり、あのせまい納屋で、過ごすようになりました。けれども、今までと違っていたのは、少年は仕事に出かけるとき、必ず納屋に鍵をかけていくようになったことと、世一が、食物をほとんど口にしないようになったことでした。少年は、日ましに弱っていく世一を見かねて、以前にもまして、あれこれと世話をやくようになりました。けれど、少年が、世一にかしずき、大切に世話をすればするほど、世一の心は、少年から遠ざかっていくようでした。
     一日の大半を、眠ってすごすようになった世一のかたわらに、少年は腰をおろして、りっぱな表紙の本を持ちだしました。それは、いつか世一にめくりかたをおしえてもらった、花の名前についての本でした。

    「すみれ、おにゆり、ほうせんか……これも、ゆりの花か?」

     描かれた花の絵のひとつひとつを指でさしながら、少年がたずねます。

    「ううん、それは……すいせんの花」
    「そうか。そうだったな。この、すいせんというのは、どんな花だ?」

     世一は、からだを動かすのもひと苦労といったようすで、おっくうそうに口を開きました。

    「すいせんは、寒い冬でも、枯れずに花を咲かせることができる……」
    「冬でも、枯れずに咲く花があるのか?」

     少年は、心底おどろいたように言いました。そうして、白いあごに手をあてて、しばらく、考えこんだふうでいました。そのちょっとの間も、世一は起きていられず、うとうとまどろんでしまいます。少年は、木の根やら、けものの胆やらをどろどろにすりつぶしたくすりを、世一にさじでふくませました。

    「……世一は、何か、ほかに、ほしいものはないか? 今日は、めずらしい白パンが手に入ったとかで、炊事番のやつ、うかれていたぜ。世一がのぞむなら、あたためたスープを椀に山盛り、つけてやってもいい」

     少年がそうたずねても、世一はふるふると頭を左右に動かすばかりで、なにもほしがろうとしないのでした。少年は、おどしつけたり、いやに親切にふるまったりと、思いつくかぎりのことを、ためしてはみるのですが、世一の体調はいっこうによくなりません。
     草花を、一度でも育てたことがある人なら、どんなに美しい花も、水をやりすぎれば、根ぐされをおこして、だめになってしまうことがわかったはずです。ですが、世一に出会うまで、花の名前なんて、ひとつも知らなかった少年には、やはり、そのことがわからないのでした。



     もう、わらのベッドから起きあがれもしなくなった世一の、ひたいの汗をぬぐってやりながら、少年は言いました。

    「さあ、世一。食事の時間だぞ」

     世一は、うっすらと目をあけて、少年のほうを、いちべつしたようですが、またすぐに、まぶたを下ろしてしまいました。

    「これを見ろ。ただのパンじゃない、上等な小麦に、豆をねりこんで焼きあげた、とくべつなパンだ。これを食べれば、きっと力もつく」

     そう言って、パンを小さくちぎってよこすのですが、世一は目も口も閉じたまま、何もこたえようとしません。少年は、ため息をつきたい気持ちをぐっとこらえて、こう言いました。

    「手のかかる、赤んぼうのようなまねはよせ。さあ、食べるんだ」

     少年は、パンのかけをミルクにひたしてやり、かたく閉ざされた世一の口に、ぐいぐい押しつけます。そこでようやく、ううう、とか細いうめき声があがり、少年はほっと胸をなでおろしました。

    「いらない……食べたくない……」

     いやいやとかぶりをふりながら、世一が言います。そのひょうしに、パンのかけが世一の口もとをすべり、ぽろりと枕もとに落っこちました。それが、なんだかやけにとさかに来たのです。そうとしか言いようがありませんでした。少年は腕をふり上げて、世一のほほを思いっきり、ぶってやりました。ぱん、と乾いた音があがり、世一は目を見ひらきました。

    「あれも嫌、これも嫌! いったいなんだったら満足するっていうんだ、ええ、このあまったれが!」

     少年は、世一の胸ぐらをつかみ上げました。日ましにやせて、骨のういた肌の痛々しい世一を、どうにかしてやりたいのに、かんじんの世一が、まるで死んだってかまわないというふうにふるまうので、朝がくるたび、少年は不安で仕方がなかったのです。

    「とにかく食うんだ、おどしじゃなしに、でなきゃ死んじまうんだぞ!」

     世一は激しくかぶりをふりました。たいがいは少年の話をよくきいて、おとなしくしている世一でしたが、このときばかりは、一歩もゆずろうとしません。少年と世一は、床にしかれたわらの上を、あっちに転がり、こっちに転がり、とっくみあいになりました。それはちょうど、食うや食われるやの、獣どうしの命がけの狩りのようなぐあいでした。
     世一は、からだに力が入らないのか、浅い息をつきながら、少年をにらみすえました。

    「こんな狭い森のなかでいばっていたって、なんにもなりゃしないんだ……」
    「なんだと……?」
    「花の名前も、人のよろこばしかたも、大事なことは、なにも知りやしないから、そうやって、相手をぶったり、ナイフをふりまわすことしか、できないんだろ」

     世一は、そこで言葉を切って、すきとおった空いろのひとみに、少年をうつしました。

    「きみは、かわいそうだ。なにかを大事にできたことも、大事にされたこともない。だから、誰もきみを必要としない。このままずっと……ちっぽけな玉座にふんぞりかえった……ひとりぼっちだ!」

     それは、世一がいつも、世一自身にかけることばの、鏡写しでした。世一は、凛と冴がいなくなったあの日から、底冷えのするような孤独とたたかいながら、ひとりきりで、ここまでやってきたのです。
     少年は、ぶるぶると全身をふるわせながら、世一につかみかかりました。

    「なんの力もない、世間しらずの、鼻ッ垂れのぶんざいで、このオレをあわれむつもりか……!」

     怒りにまかせて、目の前のからだをつき飛ばすと、いともあっけなく、世一は床にくずれ落ちました。立ちあがろうとする世一を馬乗りになっておさえつけ、二、三度、ぴしゃりとほほを張ると、組みしいたからだから、くたりと力が抜けました。

    「世一……世一……」

     世一のくびに、生きているのをたしかめるみたいに、触れながら、少年は深くうなだれました。

    「どうしたら……なにをやったら、おまえはここにいてくれるんだ……」

     世一がこっちを向いてくれるのなら、少年は、他にほしいものなんて、なんにもないのです。けれども、世一から返ってくるのはどうしたって、少年の望むことばではないのでした。

    「いらない……ぼく、なんにもほしくない」

     世一の目が、ここにはないものを探すみたいに、ふっと遠くを向きました。

    「凛と、冴にあいたい……」

     みるみるうちに、空いろのひとみがうるんで、あとは、朝露が花びらをしたり落ちるみたいに、ぽろぽろ、ぽろぽろと、目じりをこぼれていくばかりでした。少年の手が、世一の目もとに伸ばされかけて、それから、そろりと引っこみました。心臓の、どきどきいう音が聞こえるくらいそばにいるのに、心だけが、まるでけわしい峡谷の両岸に立つみたいに遠くて、触れるのがためらわれたのです。

    「凛、ごめん、冴、ごめんなさい、ぼくのせいだ、う、あああ、あああああ……会いたいよお………」

     世一が、こんなふうに、人目をはばからずに泣いたのは、思えば、冴が村を出ていってしまった、あの夜ぶりのことでした。涙は、あとからあとから湧いてきて、せまい納屋の中を、あっという間に、涙の国に変えてしまいました。見ためはちっとも似たところのないふたりの少年は、けれど、胸のまんなかに、同じからっぽを抱えていました。だから、少年は世一を、いつもそばに置いていたのですし、世一は少年のそばを、心のどこかで、離れがたく思っていたのでした。
     でも、それも、もうおしまいです。はりの隙間に、からだを休めていたはとたちが、せわしく羽根をはばたかせます。少年は、心をきめました。

    「おまえがそこまで言うのなら、オレにも考えがある」

     少年は世一の腕をひっつかんで、ほら穴に、さらにいくつもの穴をあけてこしらえた盗賊のねじろを、ずんずん進んでいきました。青いえりあしをなびかせながら、となりには、あの、灰色のなれしかを従えて、ふたりは、ほら穴の出口までやってきました。細かい雪のつぶが、吹きつける風にのって、狂ったように激しく肌をうちます。少年が、世一の腕を乱暴にほどくと、世一はどさりと雪のうえに尻もちをつきました。

    「オレはおまえに言ったはずだ……おまえがオレをうらぎらないかぎりは、オレは、おまえを誰にも殺させやしないと」

     そう言って、少年は、悪ぶったほほえみを唇にうかべました。

    「オレは、おまえにすっかり興味が失せたぞ、世一。オレの手もとを離れたおまえは、あっという間に、やつらの食いものにされるだろう」

     少年は、ふところからナイフを取りだすと、世一の喉もとに突きつけました。

    「選べ、世一。この場で、オレに殺されるか、ねじろに戻って、賊どもに八つ裂きにされるか」

     金いろのかみの毛が、獅子のたてがみのように、ぶわりと逆立って、息をのむような美しさでした。にぶく光をはじく切っ先は、少年の怒りそのもののようにも思われました。世一は、少年のその顔に、覚えがあるような気がして、それから、心の中だけで、あッとさけびました。
     そこにいたのは、世一でした。
     大切な相手につき放されて、激情をぶつけるばかりだった世間しらずの少年がいま、金の髪の少年のすがたを取って、世一の目のまえに立っていました。世一は、あのときわからなかった冴の心が、今ならすこしだけ、わかる気がしました。冴はきっと、世一のことをうらんだり、いとわしく思ったから、世一を置いていったわけではなかったのでしょう。けれども、大事に思うからこそ、手を離さなければならないときがあり、世一にとっては、それが今だったのです。
     世一はゆっくりと、喉もとにあてられたナイフの刃を、両手でつつみこみました。

    「ぼくは、誰にも殺されたりなんかしない……」

     何度も考えて、何度も飲みこんだことばが、今度は不思議と、まっすぐに口からとび出すようでした。

    「凛と冴をむかえに行く。そのためだったら、怖いものなんて、何もない」

     そう口にしてから、世一は、自分のからだに、あかあかと燃える炉のような熱が、もどって来たのを感じていました。ぐっと、手のひらに力を込めれば、するどい刃先に傷つけられて、赤い血がひとすじ、世一の肌を伝いました。
     少年は、しばらく、影のようにことばを飲みこんでいましたが、肩をふるわせ、しだいに声をあげて、笑いだしました。それは、笑うよりほかにすべを知らない人間の、渇ききった悲しい笑いかたでした。

    「……ああ、もう、どうだっていい。おまえなんか、どこへなりとも行っちまえ……」

     少年は、ナイフを世一の手から引きぬくと、雪のうえにひざをつき、血にぬれた手のひらに指をからめました。

    「おまえなんかきらいだ。だいっきらいだ、世一。オレが手をくだすまでもない。どこまでもどこまでも……オレの目の届かないどこか遠くで……さっさとのたれ死んじまえ!」

     そう言って、少年は、ごく短い間だけ、世一の手をぎゅっとにぎりしめました。それから、おもむろに世一の腕を引いて立ちあがり、例のなれしかを、近くによび寄せました。

    「……おまえはこいつを背に乗せて、走っていく場所を知っているな。森を抜けて、ここからずっと、ずっと北のほうへ……」

     少年は、血のついていないほうの手で、あやすようになれしかの首をなでました。

    「オレはもっともっと、おまえをナイフでくすぐってやりたいんだ。だってそうすりゃあ、うんとゆかいだから……だけど、いいさ──おまえはこいつを、こいつの知り合いのところへ連れていくんだ。走り方は、まだ覚えているんだろう?」

     ナイフについた血を袖口でふき取ると、少年は、なれしかの背にくくりつけてある麻袋を開いて、中身をあれこれ物色しました。

    「……パンに、ハム、外套や手袋なんかもこの中だ。これだけありゃあ、道中なんとかもつだろう」

     最後に、袋の口を紐でぎゅっとしばると、あっけにとられる世一のほうをふり返って、こんなことを言いました。

    「……もっと、ましな顔をしたらどうだ。最後までめそめそと情けないのだけは、勘弁してくれよ」
    「ねえ、ぼく、きみのこと……」
    「いいからはやく行っちまえ! そして、白い雪の女王に氷漬けにされて、冷たい霜の柱にでもなっちまえ!」

     少年は世一の首根をつかむと、さっさとなれしかの背にまたがらせました。

    「北の国で、こんな噂を耳にしたやつがいる……火のような赤毛が、弟を探して雪の女王の御殿に向かっていった……まわりが止めるのも聞きやしないで、たったひとりで……」

     それはきっと、冴のことに違いありません。世一は驚きに目を見ひらきました。金のかみの少年は、世一のうれしげな表情を、まるで見たくないとでも言うかのように、冷たい風の吹いてくる先を、けわしい顔で、にらみつけていました。

    「あ、ありがとう……」

     世一は、胸がいっぱいで、それだけ言うのでせいいっぱいでした。少年と、いつまでも一緒にいることは難しくとも、少年と過ごした日々を大切に思う心だけは、うそのない、世一のほんとうの気持ちだったからです。
     少年は、返事のかわりに、力づよく、なれしかの尻をけり出しました。なれしかは低くいななきをあげ、その力づよい前足を、高くもち上げました。深い雪のうえを、吹きつける風もものともせず進みはじめたなれしかの背にむかって、少年はさけびました。

    「行っちまえ……行っちまえ! 世一なんかきらいだ……だから早く、どこへなりとも行っちまえ!」

     だんだんと、遠ざかっていく少年のすがたを見送りながら、世一は声のかぎりにさけび返しました。

    「ねえ……ッ! ぼくたち、いつか、また会えるよね……!?」

     きびすを返した少年の、あの青いえりあしが、強い雪風のなかでも、はっきりとうかび上がるようで、世一は胸がくるしくなりました。

    「きみはぼくなんかよりずっと、ずっと強いだろ……! ひとりでだって、どこへでも行けるくらいに! だから、そんなさびしいところにいちゃだめだ……ほんもののバラを、四季のめぐりを、絵や本で知るよりももっとすてきなものを、いつかぼくら一緒に、探しにいこうよ……」

     吐く息は、吐いたそばから、細かい氷のつぶになって、風に散っていきます。ですから世一の声が、少年に届いたかどうかはわかりません。ただひとつはっきりしているのは、少年は世一を送りだしたあと、納屋で飼っていたはとたちをみな、外に放してしまったということです。盗賊のおばばは、損得の勘定にきびしい人でしたから、世一が逃げたことを知ったら、いくら腕のたつ少年といえど、ただではすまなかったかもしれません。けれど世一にはもう、少年のその先のことはわからないのです。あの天使のような、美しい金のかみの少年のことは。



    第六のお話 雪の女王の宮殿にて


     さて、それから、世一を背に乗せたなれしかは、銀の矢のように、北へ北へと駆けていきました。森を抜け、谷を渡り、丘をこえ山をこえ、いくつもの凍った川を横切って、なれしかの脚のおもむくままに、世一はひたすら雪の女王の宮殿を目指しました。頭のうえでは、虹色のオーロラがゆらゆらと、その優雅なすそをひらめかせ、見わたすかぎりの雪の野はらに、美しい綾もようを織りなしました。世一はそのすばらしいけしきのひとつひとつを、そっと目に焼きつけました。
     なれしかが、凍った湖のそばにある、そまつな小屋のまえで足をとめました。それは、なれしかとゆかりあるおばあさんの家でした。おばあさんは、なれしかから世一の事情をすっかり聞きだすと、ここより数百里先にあるという、おばあさんの姉について教えてくれました。

    「あなたたちはまだまだ、ずいぶん遠くへ走っていかなければならないよ。ここからもっとずっと北に住んでいる、わたしの姉にこの手紙をもっておいで。わたしよりもくわしく、雪の女王について、なんでも教えてくれるだろうからね」

     おばあさんは、たくさんの食物や飲物を用意して、世一をもてなしてくれました。からだもすっかりあたたまり、元気をとり戻した世一は、なれしかとともに、ふたたび北へ向かって走りだしました。
     まっすぐに雪原をつき進むと、そこはもう、冷たい雪と夜の国でした。世一となれしかは、白い雪の女王のことならなんでも知っているというおばあさんの家に、やってきていました。どこか案じ気に、眉をせまくして手紙を読むおばあさんを、世一ははらはらと落ちつかない心もちで見つめました。

    「ぼく、友だちを助けてやりたいんです。いったいどうしたらよいでしょうか」

     世一がたずねると、おばあさんは、鼻のうえに乗せた眼鏡を指でもち上げながら、こう言いました。

    「その、凛って子は、ほんとうに雪の女王の城にいるのだよ。そして、そこにあるものはなんでも気にいってしまって、世界にこんなにいいところはないと思っているんだよ。そうやって、女王の宮殿のかざり柱の一本にされてしまった哀れな人間を、わたしは何人も知っているからね」

     世一は前のめりになって、おばあさんの話に聞きいりました。

    「けれどもそれは、彼のからだのなかに入っている、鏡のかけらのしわざなのだよ。だから、それをからだからとり出してやらないうち、あんたの大事な友だちは、いつまでも白い雪の女王の言うなりなのさ」
    「では、その鏡の魔力に、うちかつことのできるすべを、ぼくにおさずけください」

     おばあさんは、足もとになついていた黒猫を、膝のうえに引きあげてやりながら、こう言いました。

    「わたしはおまえに、生まれついてもっている力よりも、大きな力を授けることはできないのだよ。おまえは、おまえの仕事を、最後は誰の力を借りるでもなく、やりとげなければならないよ。それに、わたしの見たところ、悪魔のつくった鏡に、うちかつことのできる力を、おまえはすでに持っているようだ」
    「その力とは、いったいなんでしょうか?」
    「簡単なことさ。悪魔というものは、人間のまごころに弱いものだ。おまえはもう、ただ、その凛という男の子のそばにいって、そのからだをだきしめてやるだけでよいのだよ。人間は、冷たい氷と雪の世界で、たったひとりで生きていけるようには、誰もできていないのだからね……」

     夜と雪の国のおばあさんの導きで、世一はたったひとり、雪の女王の宮殿をめざして歩きだしました。道のりのとちゅう、肌をさすようなさむさが世一をおそいました。けれど世一はもう、けっして歩みをゆるめませんでした。

     雪の女王の宮殿は、はげしくふきだまる雪がそのまま壁になっており、窓や戸口は、身をきるような北風でできていました。大きなつららのいくつもつり下がった、りっぱな門を通って、大広間にやってきた世一は、あッと大きな声を出しました。大広間の真ん中に、誰かが倒れています。
     急いでその人のもとに駆け寄った世一は、今度こそ、驚きに言葉を失いました。燃えるような赤い髪の少年が、長いまつげに、氷のかけをいくつもくっつけて、ぼろぼろの外套をまとって倒れていました。

    「さ……冴ッ!!!」

     世一は冴を抱き起こすと、その胸に耳をぴたりとくっつけました。かたく目を閉じた少年の心臓が、しかし確かに脈をうっていることをたしかめた世一は、ほっとするあまり、腰から力が抜けてしまいました。
     凍える指に息をはきかけ、口にはあたたかい飲物をふくませ、しんぼうづよくからだをさすり続けるうち、冴はようやく正気づいて、うっすらとまぶたを開きました。

    「……世一か……?」

     ああ、なんて、きれいな翡翠色のひとみでしょう。世一は、このときを、何度夢にみたかわかりません。ことばのかわりに、世一は冴の胸のあたりにひたいを何度もこすりつけました。

    「冴……冴……無事でよかった……」

     きれぎれの、浅い息のもとで、冴が口をひらきました。

    「……世一、雪の女王は……人智をこえた、おそろしい力を持っている……」
    「いいの、冴、なにもしゃべらないで……ごめんなさい……ぼくが、冴にぜんぶを背負わせた……」
    「きけ、世一……女王は、おれたちに、氷の破片で、ある言葉を作ることができたら、凛を返してやるといった……だが、おれにはどうしても、その謎を解くことができなかった……」

     冴が、苦しげにせきこむので、世一はその丸めた背中を、くりかえし撫でさすってやりました。冴は、息を吸って吐くのもなんぎそうにしながらも、しっかりとした口調で、世一にこう言いました。

    「世一、凛をたのんだぞ」



     さて、お話は、世一が宮殿にやって来る、すこし前にさかのぼります。白い雪の女王は、凛に、自分が春の国をひとめぐりして、すっかり冬の国に変えてくる間に、とある文字をつくり上げることができたら、おまえを自由にしてやろうと、そうもちかけました。しかし、女王は内心で、このあわれな少年が、その謎を解くことはないだろうと考えていました。ひっきょうするに、女王は、この凍てついたほほの少年を、誰かにやる気など、はなからなかったというわけです。
     そうして、凛は、たったひとりぼっち、広い広い女王の宮殿の玉座のそばで、氷の欠片を見つめて、じっと考えこんでいました。もう、毛のさきまでこちこちになって、からだ中の氷が、大きなひとかたまりになり、きしきし音をたてるかと思うほど、じっと動かずにいました。
     ちょうどそのとき、いくつもの、がらんとした凍える広間をぬけて、世一が、玉座の間にたどり着きました。それから、冷たい氷の上にうずくまって、魂の抜けたように、じっとたたずんでいる凛のくびすじに、いきおいよく飛びつきました。

    「ああ……! 凛! 凛! 凛……ッ」

     世一は、凛のからだをしっかりと抱きとめて、そのなつかしいにおいを、胸いっぱいに吸いこみました。ぼんやりと、光を失ってはいるけれど、冴にそっくりなひとみの色も、つやつやした、濡れ羽いろのかみの毛も、みんな、世一と冴の大切な弟そのものでした。

    「とうとう見つけた……ぼくの、ぼくたちの、だいすきな凛……!」

     けれど、凛はみじろぎもせず、ねじの切れた人形のように、腕をだらりとさげて、どこともしれない遠くを、見つめるばかりでした。
     そんな凛のからだを、世一はただ、強く強く、抱きしめました。

    「凛、ごめんね」

     凛の凍りついたからだは、触れあった先から、またたく間に熱をうばっていきます。それでも、世一はかまわず続けました。

    「あのとき、ぼくに、もっと勇気があったなら、冴とふたり、おまえを連れていかせたりなんかしなかった。あのとき、ぼくにもっと知恵があったなら、おまえを長くひとりにすることもなかった。ぼくは凛に、ずっとずっと、こうしてあやまりたかったんだ……」

     世一ははじめ、ふたりが不自由なく暮らせるなら、自分はどうなったっていいから、かわいい弟の凛を、どうか冴にかえしてやってほしいと、ただそれだけをお願いするつもりでいたのです。けれども、口をついて出たのは、不思議と、思うとおりの言葉ではありませんでした。

    「一緒にかえろう、凛」

     そうして、世一は閉じたまぶたから、いくすじも熱い涙をながしました。それは凛の胸の上におちて心臓にしみとおり、鏡の欠片をすっかり溶かしてしまいました。
     凛は、今度こそはっきりと目をあけて、世一を見ました。

    「……よっちゃん?」

     鏡の欠片を飲み込んだあの日から、やさしい心をすっかり忘れてしまった凛が、まるで昔にもどったみたいなおさな言葉で、世一の名前をよびました。気後れも、ためらいも、その瞬間、すべてが消えさりました。世一は、凛の頭に腕をまわして、ひしと抱き寄せました。

    「よっちゃん、いままでどこへいっていたの。冴にいちゃんはどこ?」

     くすぐったそうにまばたきをしながら、凛が言いました。その、とぼけた話しぶりがおかしいやら、いとしいやらで、世一は目を細めました。

    「凛……ぼくら、長い長い旅をして、ここまでやって来たんだよ……」
    「ふうん……でも、なんだかここは、とっても寒いみたいだ。ああ、おれ、涙が出てきた……」

     春の日差しを受けた氷が、やわらかくゆるむように、硬く凍りついていた凛のひとみから、ほろりと涙がこぼれ落ち、そのひょうしに、目のなかの欠片が、外に流れ出ました。そうして、今までどうしても形にならなかった言葉が、ちゃんとふたりの足もとに作られて、きらめいたのです。


     ──そこには、『永遠』のふた文字が、確かに刻まれてありました。



    第七のお話 花の季節


     そうして、三人は、夜と雪の国のおばあさんの導きで、めいめい立派ななれしかにまたがって、七つの晩と七つの昼のうちに、ふるさとに帰り着くことができました。村はちょうど、いちめんの春げしきで、色とりどりの野の花たちが、競いあうようにあたりを埋めつくしていました。それからはすっかり元のように、三人の少年たちは、誰の目から見ても仲むつまじく、過ごすようになったのですが、何もかもが昔の通りというわけではありませんでした。世一は、冴や凛とはまったく違う自分の目の色が、前ほどは気にならなくなりました。村の外にもたくさんの人びとが暮らしており、それぞれが何かしらの、自分とは違うところを持っていることが、世一にはもうわかっていたからです。冴は、大事なことを、ときどきは世一に任せてくれるようになりましたし、凛は、ふたりの兄のことを、ますます慕うようになりました。世一は、だから、これ以上なにかを望むことが、よくばりに思われるほどに、毎日しあわせに暮らしていたのです。


     そしてまた、季節がめぐり、何度めかの新しい春がやってきました。いくらか背が伸び、村の人たちからも、あれこれと頼られるようになった世一のもとに、ひとりの旅人がたずねてきました。
     とんとんと、誰かが扉を叩いています。窓から外をうかがうと、おもてに立っていたのは冴でした。世一は、扉をひらいて、冴をむかえ入れました。庭先には、早咲きのバラがふくりとつぼみをつけており、うす赤の花弁にのった朝露が、やわらかな陽のひかりをはじいて、きらきら光っていました。

    「おまえに客人だ。あし毛の馬に乗って、ずいぶん遠くから旅をしてきたらしい。さっさと顔を出してやれ」

     世一は、いてもたっていられなくなって、家をとび出しました。息をきらして、村の入り口まで駆けていくと、果たしてそこには、世一の待ち望んでいた相手が、やはり少し大人びたようすで、静かにたたずんでいました。

    「……」

     ふたりは、しばらく言葉もなく見つめ合い、それから、どちらともなく歩み寄りました。かつての少年は、あし毛の馬から軽やかに飛びおり、世一と目線を合わせました。藍色のえり足がくすぐる、その首すじには、青いバラの花が二輪、寄り添うように刻まれていました。

    「……ぼくは、きみに、渡しそこねていたものがあるんだ」

     そう言って、世一は、首すじに咲くバラの一輪に、そっと手のひらをすべらせました。

    「この世でいちばん美しくて、尊いものの名前を、今度こそ、きみにあげるよ」

     ねえ、ミヒャエル、ぼくの天使さま──輝くものをみな閉じこめた宝箱を開くように、祈るように、世一はささやきました。ふたりの影はぴたりと重なり合い、そのくちびるからは、法悦のため息がもれました。開け放たれた窓のむこうで、さんざめくように若葉がしげっています。あたりは、もうすっかり春でした。
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    まさのき

    DONEアンデルセンの「雪の女王」をわりとまじめにパロったカイ潔(+糸師兄弟)です。藤田貴美さんの漫画版に多大なインスピレーションをいただいてます。中盤までカイザーの気配が皆無ですが、ちゃんとカイ潔です。

    ゲルダ→潔(と冴)、カイ→凛、盗賊の娘→カイザー
    花待ちの窓雪の晩に、枕べで聞く物語



    第一のお話 はじまり


     昔、むかしのお話です。ここではないどこか遠くの国の、知らない土地の、小さな箱庭の村に、ひっそりとよりそい合って暮らす、三人の子どもたちがおりました。三度の春と冬のあいだに生まれた彼らは、名前をそれぞれ冴、世一、凛といいました。赤髪の冴は、三人の中ではもっとも年長で、その下に世一と凛が続きます。泣き虫世一と、やんちゃな凛、面倒見のよい冴の三人組は、遊ぶときも、出かけるときも、眠るときでさえもいつも一緒でした。血をわけた兄弟である冴と凛は、となりの家に住む世一のことを、まるで本当の兄弟のようにたいせつに思っていました。世一だって、冴と凛の二人と血がつながっていないことなんて、つゆとも気にしたことはありません。だって、朝も昼も夜も、扉を開けばそこに冴と凛が立っていて、ふたりといれば、世一に怖いものなんて、なんにもなかったのです。三人は野を駆けて遊び、泥まみれになって眠り、手に手をとって、いつまでもいつまでも仲むつまじく暮らしていました。
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    まさのき

    PASTポップメガンテ前後のif話です。ディーノは父さんと幸せに暮らすことでしょう。あとたくさん人が死ぬ
    生きもののにおい『まあおまえの匂いは日向のキラーパンサーってとこだな』
    『―――は―――のにおいがするよ』
    『なんだそれ。全然説明になってねえじゃねえかよ』


     
     ぼくが「こわい」って言ったら、〈とうさん〉がぼくをこわがらせるものをみんななくしてくれたので、それで、ぼくはうれしくなりました。
     
     ここに来てからは、こわいことの連続でした。
     知らないおねえちゃんや、おにいちゃんが、ぼくにこわいことをさせようとします。あぶないものを持たされたり、つきとばされたりして、ぼくはすごく心細いおもいをしました。ぼくは何回も、いやだっていったのに。
     それで、ぼくは頭の中で、「こわい人たちがぼくをいじめるから、だれか助けて」ってたくさんお願いしました。そうしたら〈とうさん〉が来てくれて、こわい人たちをみんないなくしてくれました。〈とうさん〉はすごく強くて、かっこよくて、〈とうさん〉ががおおってすると、風がたくさんふいて、地面がぐらぐらゆれます。気がついたときには、こわいおねえちゃんも、よろいを着たひとも、大きいきばのいっぱいついたモンスターも、誰もぼくをいじめなくなりました。
    1965

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