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    melo_1106

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    melo_1106

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    自創作の転生話。

    セルフ二次創作です。

    ##自創作

    撚り糸のさが出てくる人

    ・幸路
    語り部。東国生まれのアラサー帝国軍人。フォーマに出会ってから黒髪を金髪に染めた。

    ・パルテニオス
    人魚の皇子様。帝国軍に国を滅ぼされた9歳の少年。フォーマ以外とはあんまり喋らない。

    ・ゲルハルト
    フォーマ、幸路の部下。無愛想な脳筋。ピチピチの22歳。

    ・フォーマ
    幸路、ゲルハルトの上司。外道。


    ・ガロウズ
    牛乳が好きなおじさん。
    ・ヂー
    可愛い子が好きなお兄さん。






     探している。
     入学して二日目。春の息吹が心地良い中庭で弁当を広げたボクに声をかけてきたのは、深い海を瞳に湛えた少年だった。黒目がちが過ぎる瞳に薄い眉を揃えて、相対する人間の大半が身構えるであろう妙な雰囲気を纏ったこの少年の、耳は当然ボクと同じく丸みを帯びたものである。のに。細く長い指にも、年相応の体躯にも、どうも違和感を感じるのはなぜか。
     彼の名を呼んだことは殆どなかった。故に、昔の通りの呼び方が思わずまろび出る。
    「…マセガキ?」
    「久しいな、こがねいろの男」
     やはり覚えているか。覚えているであろうな。そう彼が噛み締めるように言って、一陣の風がボクらを巻き込んだ。こんなそよ風さえも操れなくなってしまった人生で、この少年に出会うのか。
     花の舞う春風の中で、古風な口を利く彼はほんの少し目を瞑り…そうだな、どこか安堵したような顔をした。気がする。
     マセガキにこがねいろの男、とは。他者から見ればおかしなやりとりだろうとも。彼はボクの上級生で、ボクはなんてことはない、ただの黒髪の女学生だったのだ。

    *

     前世の記憶、というのか。それは突然降って湧いた訳ではなく、生まれ持ったものを理解する時が来たと言うのが正しいと思う。あれは幾つの頃だったか覚えてもいないが、とにかくその日幼い童女は死に、一人の男の魂が目を覚ました。
     そんな夢絵空事は馬鹿らしいと一蹴してしまえればきっと、ボクは普遍的な一人の女として生きる事が叶っただろうが、なにせボクは理解出来ずとも常にこの記憶と共にあったのだ。歩き方を思い出したとすら言える感覚を放り出すなど到底不可能な話だろう。理解して欲しいとも思わないけど。
     記憶の中のボクはといえば何やら大きな屋敷に生まれ育って、痛みも痒みもない生をだらりと享受している怠慢な少年でしかなかった。膜に包まれたかのようにどこか希薄な感情で、深い悲しみもなければ沸き立つ喜びもなく、言われるままにのうのうと生きるそのさまはこのボクから見てもなるほど、至極つまらないものだった。
     薄く張られた膜を破ってようやくボクは雛になり得た。一人屋敷を飛び出して、海を渡り見知らぬ土地で徴兵されたわけだけど、自分の足で立っているという事実があるだけで妙に心躍ったものだ。ボクは戦禍における平穏という至上の幸運を手放した、傲慢な少年だったろう。それでも、生温かな殻の中で腐るよりもよっぽど気分が良かったように思う。
     けれどやがて、地獄と言うに憚らない戦場は、腑抜けたボクの心を容赦無く叩き潰した。じかに触れる命のやりとりと、剥き出しの感情の波に帆を立てる恐怖が、五感をめちゃめちゃに引き裂いてただただ震えた。甲斐なく生に幕を引き死ぬのだと思った。涙も知らない怠惰はそのままに、未知に心を覆われて、諦念だけを抱いて死体の山に身を寄せていた時だ。
     光だ。果てない闇を照らしたりしない、ただ灯台みたいに導となるだけの、燦然と光るそれを見た。
     爆炎に目も喉もやられていたけれど、強烈な情念と鉄火の嵐の中で憎悪も嘆きも掌握した男を見た。ただ一つ煌めく、その昏い曙光を目の当たりにして強く打ち震えるのは、ボクだ。誰にも渡さないボクだけの光景、記憶だ。
     癖のある金髪が揺らめく。左眼にあてられた黒眼帯に不釣り合いなほど、よく笑う柔和な顔。
    あなたに見つけられて生き永らえたと言えば、俺を見つけたのはお前だよと彼は真っ直ぐに言った。彼に与えられた甲斐にボクは生きていた。
     世界が変わったというのは比喩でもなんでもなく、もはや狂ってしまったと言い換えてもいい。何もかもが彼になった。あれだ、あれがかつてのボクの全てだった。

    *

     実際のところ、これらの記憶が真かどうかを知るすべなどない。けれど、定かでなくともそれは「記憶」で、抱き続けて生きてきた。
     今この時を生きるボクの性格というのは、果たしてこの記憶に形取られたのか、元々こうなのかは分からないが、強く感じるのは「あれこそがボクだ」ということだ。これは理屈や言葉で説明しようもない。心が吼えたて追い求める、そういう自覚があるだけだ。
     しかしその頼りのないよすがを辿るたび、身が千々に裂けてしまいそうで、幾度のたうち回ったところで癒えない苦悩が存在した。何故ならあれはボクなのに、「ボク」はと言えばあそこに立っていないではないか。少女のこの身はごく普通の生活に生きている。獄炎を知らぬこの身。輝きを知らぬこの身。
     身と心が乖離する感覚に、それこそ皮を剥がされたような痛みがボクを苛めば"いっそ良かった"。だが当然、無情にもボクの手足はもげず、皮は瑞々しく張って、満足な五体が如何ともせずにぶら下がっているものだから、血が滾るほどに苛立ち赫怒するばかりだ。彼のために生きることが能わぬ自分を、ボクは決して許さないのに、彼がいないのならば死ぬことすらも許せない。ボクが許すボクの死に様は、彼のために死ぬそれだけだ。怒りの矛先をどれほど己に向けても、結局刺し貫くことなど出来ないのだった。
     ボクは「夢想に囚われた可哀想な女の子」だっただろうか?でも、夢と記憶はまるで違うのだ。記憶とは過去だ。誕生より傍らにあった過去を捨て、今の生を長閑に過ごし死んでゆけなど、不愉快にも程があろう。それこそかつての少年と同じように、のうのうと生を貪る意志のない人形になってしまうではないか。鮮烈ないのちなどそこには欠片も存在しない。
     つまりは、ボクの生に欠けてはならないものがあった。ああそうだ、彼がいればボクの身が千々に裂けても高らかに歌ってみせようとも。あなたのために死にゆける。満たされるのではない。欠けてはいけないだけだ。
     これは言うなれば最初の自我だった。そしてその自我を、ようやく現実に引き寄せる相手がいる。いま目の前に座る、彼だ。

     詳しくは聞いていないが、彼も似たようなものだろう。
     海の幼い落胤。人魚の身を以ってして不死の妙薬と呼ばれる子供が彼だった。高慢で卑屈、尊大で脆弱な少年はかつて、ボクの所属する軍によって容易く生国を滅ぼされた。人魚と呼ばれるその種族は、終ぞ彼しか見ることはなかった。
     人魚。そう、人魚だ。魚のヒレのように尖った耳や大きな黒眼、国政の為に父王に切り落とされたという爪先はまこと、異物と言うに相応しかった。人間のみでは飽き足らず同胞たる人魚をも憎悪した、他者を信じぬあの少年が、辿々しい歩みであの人を追い求める姿はきっとひどく醜く痛々しく、見苦しかったに違いない。けれど、ボクの姿はきっとそのさまによく似ていたと思う。幼い彼もまた、ボクと同じく狂ってしまった哀れで幸福な命だった。

     これがたぶれた妄言でないという確証を掴む為に、ボクらは記憶のすり合わせを行う事にした。校内では憚られるから、と互いに早退をして表通りの喫茶店で行われた彼との会話は、長い時を隔ててなお世間話や近況に花咲くこともなく、案の定と言うべきか、年相応に弾むことはこれっぽっちも無かった。元々反りが合わないのはわかりきっていたし、そもそもあの頃は会話も成り立たず二、三の単語をボクの方から投げかけた程度のものしか記憶にない。かつての彼は口を噤み、ただ一人との会話を是としたので仕方がない。
     喫茶店の雰囲気自体は悪くなかった。落ち着いた店構えで、時間帯のせいか客も少なく過ごしやすい。ただし制服が場違いな時間なものだから、マスターの視線だけが少し痛かったが、気にするほどではない。
     席に着いてすぐに頼んだコーヒーが間を置いてやってきて、湯気越しに彼と目が合った。
     お互いの醜状に声を掛けないのは気遣いからではなく、ボクらに必要がないことだからである。ボクが女であろうが、彼が人間であろうが、たとえそれ以外の何かであろうが、あの人には関係がないし、ボクらにとってもあの人以外はどうでもよかっただけに過ぎない。あの人は命あるもの、ないもの、全てを平等に見つめているひとだったのだ。
     話を進めよう。
    「…ねえ。あの学校ってやっぱり、」
    「であろうな。だからこそ、余も彼処を選んだのだ」
     先日入学した学園の、元は軍の大きな基地だったというのは有名な話だ。すっかり補修はされているが当時の装飾は見事なもので、かつて居た国軍人は国民の血税を湯水の如く浪費し大層贅沢な暮らしをしていた、と担当の教師は適当なことをまるで見てきたかのように言った。己だけの自室さえ宛てがわれなかった男たちが聞けば、さぞ怒ることだろう。そうだ、其処にボクは確かにいた筈だ。
     此処に入学したのは偶然ではない。けれど元がどうあれ此処はもうただの学校であって、あの人が息衝いた場所の面影は殆ど存在しなかった。薄れていくのは記憶だけではなく歴史。つまり過去なのだけど、そこに個の感情は載らずに、ただ漫然と積み上げられた都合たちがゆっくりと石になっていく。物質や事実や"ボクたち"の軌跡なんかは今や何も残らず、形を変えてゆく建物とともに彼との繋がりが希薄になっていくよう。それだけじゃない。ボクたちは軍人であったけれど、ボクたちは軍人でしかない筈もないわけで、結局はこの繋がりさえも彼の生に絡んだ幾つかのうちの一つに過ぎず、ここに手掛かりが存在する確信だって毛ほどもない。それでも、この頼りないえにしに縋るしか今はなかったのだ。
     きっと彼も同じだった。細い糸ばかり手繰り寄せて、今こうしている。
    「余はそちより一つ年嵩である。生徒も、教諭も、それこそ創立当初の記録まで総て、既に調べは尽くした…つもりぞ。此処に、あれの姿はない」
     行き詰まった報告、だがその眼に落胆はない。当然だった。
     実に、分かりやすく単純な、強引な摂理がある。
     あの頃の記憶をもって生まれたボクらは、自分の意思であの頃のボクらとして生まれようとしている。けれど、けれど他でもないあの人が、あの人がいないならば、ボクらはボクらとして死ぬ事が出来ない。そのためにあの人を欲し探す無様なこの現状を、独り善がりで得手勝手だという人はいるだろうが、それこそ関係が無い事だ。あの人はボクらのこの意思を蔑みも尊びもしなければ、払い除けることも喜び迎えることもしない。ただ手を差し出し、笑い、「行こうか」と言うに違いない。だからこそのあの人だ。
     諦めきれない。諦めるはずなどない。見えないならば、探すだけ。居ないならば、こちらからいくまで。どれほど時間がかかっても知った事ではない。生などくだらない。ボクらは正しく死ななければならない。そのための過程だった。

    「…それにしても、創立当初の記録ってアンタ」
    「何ぞ」
     不機嫌そうな彼の胸に光る、一般生徒には縁のないピンズが目についた。初登校日に説明された、曖昧に聞き流していた情報をなんとなく思い出す。
    「そのピン、生徒会のやつだっけ?」
    「…ああ…一年の頃に取り入った」
     思わず面を食らう。取り入る?この傲岸不遜で人嫌いの、腹芸も知らないクソガキが?
    「アンタが?嘘でしょ?ほんとに?人と関わってんの?てか職権?濫用じゃん」
    「………囂しき男め。些事よ。余の目に映る全てはあの男以外のもの、でしかない故に…全てあの男を探し出す手段であり、苦痛なぞ感じるいとまは無い。いっそ不軌を犯すも恐れはないが、余にまだそれほどの力はなく、また見合う成果も期待出来ぬ。甘んじておるだけよ。そちも同じであろう」
     注文したコーヒーに手を付けず、水ばかりを細やかに飲む彼が目を伏せた。その苦悩、渇望、焦燥に哀れみは不要だろう。ボクも、ボクの意識が塗り替えたこの少女に謝る気などない。ボクにとってあの人以外に優先するものなど何もないのだし。
    「…しかし、まことに居らんと判断するのは早計やも知れぬ。資料の中には顔見知りも数人いた」
    「え」
     心臓がどっと駆け足になった。現実味が一気に質量を増していくのが、舌の根の渇きでよくわかる。面影を残さない場所にかつてを見るのか。
    「やはり彼処はそちらの寄る辺の一辺であるようだ。余にとっては寄る辺というより、あの男の寄る辺である可能性に賭けたまでだが…」
    「本当に?」
    「嘘であった方がよいか?諧謔の才も無い。…どちらにせよ、資料とてあまりに古いものは正直言って不確定よな。姓名のみでは判別出来ぬことは、かつての名を持たぬ我らが証明しておる。あの男が現れた可能性が無い訳ではない」
    「そうか…顔が分かんないなら当然か」
    「だが周期のようなものがあるとは思う。この十数年にいくつか見覚えのある顔が纏まっていたり、古い記録には覚えのある名がちらほら、これもまた纏まって存在した」
     惹かれ合う、というと随分物語じみているが、そうとしか表現しようがない。それとも他に理由があるのだろうか。ボクの思案を裂くように、彼が一つ息をついてから口を開いた。
    「…そもそもの話、この生が"二度目"というのも我らの意識の上に過ぎぬ。"二度目"は"三度目"やも知れぬ。"一度目"は"三度目"だった可能性とてある。しからば…そちの心も今一度聞きたい」
     こいつ。
    「…あの人と出会って漸くはじまるんだから、今が何度目かなんて関係ないでしょ。ボクの前世があの人を思い出さないまま、知らないまま死んだくだらない人生の可能性の話なんて不要だから。御託はやめな」
     彼の瞳が嵐のようにざわめく。
    「なれば、よい」
     実に、実に珍しいことに彼が笑った。少年の未成熟な可愛らしい微笑みではなくて、獰猛な人魚のそれだった。クソガキの癖に、ボクを試すな。
    「…一人は今生のそちと同期であるぞ。前の世で関わりあるかは知らぬがな、胡乱な眼の、炎獄めいたあの気に食わぬ男ぞ。いや、今は女であるらしいが」
     胡乱な眼。炎獄めいた男。──特務班の。
    「…ガロウズ?」
    「ああ、そういったか。そちと同じく新入生であるためにまだ読めぬが…余は前の世からあれを好かぬ…」
     つまり、ボクならあの人を探すことに協力すると踏んだのだ。それはまあ、当然だろう。ボクも同じ立場で、入学してきたのが彼とガロウズなら、まずは彼に声をかけると思う。…ガロウズか、あまり当てにはならない気もするが、もし記憶があるならばさぞ可愛げのない女だろう。
    「ふうん、あいつが…他は?」
    「興味があるのか?意外であるな」
    「だってどんな小さな可能性だって賭けるでしょ。なんならガロウズにだって声をかける。ボクはそのつもりだし、アンタもそうだと思ってたけど?」
     彼が微かに眉を顰めた。どちらかと言えば九歳の方の顔だ。
    「…もう一人は…あれよ。そちに似た顔立ちの…大陸生まれの男か。面影はあったが、名は我らと同じく当時のものではない」
    「ねえそれヂーの事?やめてよ、ボクあんなブスじゃない」
    「五年程前の記録だったが、連絡はつかなかった故に記憶の事は分からぬ。教諭であった」
     今度は淡々と語る。かつての彼は常に前垂で顔を隠していたので、やはり新鮮だった。鈴が鳴るような幼子の声も、今は立派に声変わりして、少しばかり感慨深い気持ちにもなる。
    「あとは…そちにとってはこの者の方が気になろうか。去年、退学した男子生徒がおる。余の二つ上よ」
     ほんの少し彼の表情が翳って、机の上に置かれた蒼白い手が何かを躊躇する様に指を絡め合う。ふ、と息を吐いて重い口が開かれた。
    「…背丈ある白皙の男よ」
     まるで星が弾けたように脳裏に浮かぶのは、肩を並べて闘った、不器用な年若い男だった。自然と口角が上がるのも、かつての時間を慈しむための道理だろう。
    「ゲルハルト…!」
    「身勝手な母との関係を拗らせたようでな。流血沙汰まで起こし、去った。短気であるが真面目な生徒であった」
     なんてアイツらしい。記憶の中ではいつも眼鏡を乗せた仏頂面だけれど、ボクの料理を食べる時はその頰が緩むのを知っている。懐かしい。
    「それで?」
    「幸い、なのかどうか分からぬが、余の容貌はあの頃と然程変わらぬ。余を記憶に留める者なれば、些かの反応を示してもおかしくはない。校内行事の中で一度対話を果たしたが、白皙の男は無反応であった。いや、向こうが興味が無いだけかとも思うたが…確信がある」
    「…そう」
     落胆が無いわけがない。けれど、彼はそれ以上にまた口を重くした。
    「なに?」
    「…退学して少し経った頃に、死んだ。母親がな、病んだようで…無理心中の道連れよ。一人親で身寄りも居らず、葬式も無かった」
    「………ああ…そう」
     自分でもどこか不自然なほど冷静なのは、ボクらが常に死とともにある軍人だったからか、ボクが薄情だからか。彼は軍人でなく、ただの青年なのだろうに。…だからか?出会ったことのない他人だからか。
    「ゲルハルト」
     …彼は幸せだっただろうか?それを推し量ることはできない。それでも、あの人以外の何者も興味がないボクも。ゲルハルトに対してだけは、多少なりと思うところはある。
     あの人に囚われることなく、けれど母との確執に苛まれながら、その凶刃に斃れた少年。前の世のゲルハルトはといえば、短気で、真面目で、加えてとても強かった。女の身に起こされた行動など、いくらでもいなせる体躯と経験の持ち主だったが、今生では違ったのか。彼が言う「確信」はそこだろう。母に殺されるひ弱な少年に、"ゲルハルト"の記憶があろう筈がない。
     ぬるやかな人生において、血腥い記憶など無い方が正しいのかも知れない。妄執に囚われず、ごく普通の人間として、志半ばに死んでゆく。悔しいだろう。けれどそこに欠損はないはずだ。満たされていなくとも、欠けはない。ボクらのような。
     幸せだっただろうか。
     それを推し量ることなど出来ないのだ。
    「…そちでもそのような顔をするのか」
    「別に」
     どんな顔をしていると思う?泣いてなどいない。彼が飲まないコーヒーは冷めきって、湯気さえも立ち消えた。
    「…ボクもこの記憶がなかったら、どうだったかな。幸せに生きていたかな」
     贅沢な事を言っている自覚はあった。ボクの生は幸せだろう。親に恵まれ、財に恵まれ、平和に過ごすこの生をそれでも、ボクは否定する。
    「詮なき事よな。その記憶がある時点でそちであり、なくばそれはそちではなかろうて」
    「じゃあ、その子はゲルハルトじゃないかもね」
    「定めるのは当人よ。そうであろう。ここで余たちが決め付けたとて、それはただの会話に過ぎぬ。それだけで当人のありようが変じれば、この世は魑魅魍魎、悪鬼羅刹の跋扈する地獄よ。或いは浄土か?」
     彼の眼が冴えた。まるで水面に煌めく鱗のよう。
    「…違う。違うであろう。此処は此処ぞ。追い求めるものが存在するか否かも知れぬ、寸善尺魔の下卑た火宅よ。そちや余にとって、白皙の男はゲルハルトだったやもしれぬ。だが当人の選択肢には端からそれが無かった。当然よな、"ゲルハルト"の記憶がないのだ。その幸不幸は人知れぬ。その男だけのものであろうが。…しかして余が知るつもりも無い。余の行う事はただ一つよ。余はあの男を探し出すために、記憶の有無なぞ知らずとも、かつての名を冠する者として歩み寄ろう。どれだけ、どれだけ忌々しかろうと、可能性が薄かろうとそうする。余はそう、決めた。元より微かなものなのだ、記憶など。いつ消え失せるかも分からぬ、不明瞭で、霞みがかった、夢のような話。だが、夢ではない。夢ではない故に、諦められぬ。諦めてはならぬ。…漸く、漸く見つけたのだ」
     感情がないまぜになった表情で唇を強く噛み締めた彼に対し、何を、とは訊かない。校内の中庭で見たあの顔は、正しく安堵だったのだ。あの時の記憶を有したままの人間。孤独を脱し、目的にたどり着くための手掛かり。彼にとっての最初の自我を、ようやく現実に引き寄せる相手。ボクだ。いや、たまたまボクだった。
     瞳を閉じる。ゲルハルト、かは分からないけれど、誰かが死んだ。ボクは果たしてその少年と会った時、ゲルハルトと呼ぶだろうか。分からない。分からないとも。会えなかったのだから。
     戦場において、敵対する者の名など知る由もなかった。同じことだ、長い人生において、すれ違うだけの人間を呼ぶことはできない。けれどこの生は、その可能性を持って生まれた。生まれてしまった。まるで知らぬはずの相手に誰かの面影と気配を見ては、自己のためにその名を呼ぶ。そうしてそのひとが振り向く可能性を信じて。ならば。
    「呼ばなきゃ。探さなきゃ。この記憶が確かなら。…パルテニオス」
    「…その通りよ。幸路」
     居ないかもしれない。死んでしまったかもしれない。生まれていないかもしれない。何も、知らないかもしれない。それが果たしてあの人なのかは、分からないのだ。それでも。
    「我らがこの記憶とこの姿で生まれ落ちたならば、あの男は必ず居る」
     ボクらだけは、居るのだと信じなければならない。ボクらが生まれる理由なんて、あの人に出会う以外何もない。
     今、やることは薄く張った膜を破ること。
    「フォーマ」

    *

    【ここから先は書こうと思った部分の余り】

    幸路という名は、かつての生で元服の際に拝した名前だった。ボクにとって名に意味はさほどなかったが、フォーマの呼びかけに応える為のものだと解った時からそれに価値を見出すのは必然といえた。在りし日を失いつつある今なら、尚更強くそう思う。この名前が、フォーマを探す手掛かりになる。
    フォーマはボクを澱みなく幸路と呼んだ。…ゲルハルトは発音が下手で、ユキ、とだけ呼んだ。
    パルテニオス=ユーグリは彼の名前。フォーマは彼をテニーと呼んだ。
    フォーマ=ハルシェ。ボクは彼をハルシェ少将と呼んでいたけれど、別にボクが求めるのは「少将である彼」ではない。

    *

    「副会長様が喫煙ってさあ、何考えてんの?」
    「…けほ、」
    ふと気付く。ばつが悪そうな彼が咳き込みながらにじり消した吸殻は黒く、癖のあるにおいが煙と共に立ち昇っていた。
    「……ねえあんた、ひょっとしてその煙草…」
    「………煩い。余が好んで喫むと思うてか」
    遠い昔の銘柄が全く同じように残っている筈もないが、フォーマがあの頃によく吸っていたものにごく近いと思う。
    「め、女々し〜!!!もうそれほぼおしゃぶりじゃない?まあしょうがないか、あんたなら」
    「煩い、煩いぞ貴様」
    顔を赤くもせず、ただ本当に煩わしそうに彼は眉を顰めた顔をそのまま背けてしまった。少なくとも十六、七年は生きてはいる筈だが、彼の心がかつての九歳の稚児に重きを置きすぎているせいだろうか。気品こそ失われていないが、同じくらい子供っぽさが色濃く残っている。

    *

    「入学式でそちの姿を見て、まだあの男は遠いのだと確信したのだ」
    「なに?」
    「…その髪は雄弁ぞ」
    かつてのボクは、フォーマと出会って初めて、髪をあの黄金色に染めていた。今のボクはと言えば生まれたままの黒髪だ。
    「確かにね」

    *

    「副会長!体調不良ですか?昨日大丈夫でした?」
    「ああ…うん、大丈夫だ。ありがとう」
    やばい。こいつがこんなこと言ってる。やばい。今すぐゲルハルトに見せたい。
    「…そち、何か無礼な事を考えておるな」
    「いや別に?」
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