突き立てた刃の行方出てくるひと
・蜘蛛(ヂーヂュ)
ヂー。とりあえずドライに平穏に生きたい。愉快でいいやつだけど割と薄情。大好きだった人を喪ったことがある。
・ユマンタ
ユマ。ヂーと同い年の同僚。鬱陶しくてめんどくさいけど割といいやつ。大好きだった人を喪ったことがある。
*
わたしは会話をしていた。
他愛もないそれに相槌を打ったり、茶々を入れたりしながら退屈に過ごしている。明るい雰囲気は悪くないが、心底くだらない無駄な行いではあるのだろう。そういう自覚を持ちながらも、席を立たないのはこの時間を快く思っているからだろうか。これらは別に大切なものでもなんでもなくて、確かにわたしを構成している一部ではあるけれど、やっぱりくだらない無駄なものだった。失っても構わない、削がれても痛くないもの。毒にも薬にもならない、或いは毒とも薬とも思わずに済むもの。そういうものでわたしは出来ていた。そういうものでわたしを創り上げてきた。
時計は見ない。知らない時間に追われるのは好きじゃない。
底は見ない。終わりを見据えるのは好きじゃない。
掌は見ない。わかりきったことを思い知るのは好きじゃない。
生きていく上で学んだことならたくさんある。先ゆく人の後ろを行くべきで、少し離れて歩いた方がいい。わたしはお酒が好きで生魚が好きじゃない。誰のことも嫌いじゃない。自分のことはとうに掌握し、それに逆らわずに生きるのが、一番楽に過ごせるのだと知っているのだし。
そうだ、嫌いなものは少ない方がいい。だから愛するものも少ない方がいい。
さて、相変わらずくだらない会話をしている。顔も名前も思い出せないこの人が、なんだか急に可哀想に思えてしまった。
*
朝日を越えて、昼を過ぎ、夕日も落ちた真夜中に、喉が鳴って目を覚ます。止まった息を呑み込むと始まった浅い呼吸が耳障りで、随分うるさい。夢か。
熱い毛布を剥ぎ、寝台下のくたびれた靴の踵を潰してよろめきながら立ち上がる。妙に渇いた喉と痛む頭はまるで二日酔いのようで、覚えはないが彼と飲みでもしただろうか?霞む目を擦りながら部屋を見渡しても、彼は。
「…ユマ?……いないの?」
寝室より敷居の向こう、二人の共有部である水回りは淡い月灯りに照らされているが、人の姿は窺えない。かといって、隣に据えられた彼の寝台も、乱れなくば膨らみもない。
どうやら同室の男は不在らしい。国軍人たる我々が理由もなく夜半出歩くなど許可されない筈だが、鉛のような頭が上手く回ってくれないので考えるのはやめにした。とにかく喉の渇きを癒したくてふらふらと月明かりに向かうのが、我ながらまるで誘蛾灯に惹かれるみたいだと思った。
戸棚の奥から引っ張り出した透明な器で水を汲めば、器と一体になった液体が月光に優しく瞬いた。今すぐに呷りたい欲求をそのままに、なんとなくそれを机の天板に置いてみる。僅かに震えた水面に彼の澄んだ瞳をみる。彼がいない。
彼、というのはわたしと随分生き方が違う男のことだ。真っ直ぐで、感情的で、涙脆く、捻くれてはいるが馬鹿らしいほど熱い男だった。生き方の違う男の眼は、当然わたしの眼とはまるで違う。
時計を見る。遅い時間だ。彼がいない事に疑問がある。
底を見る。机の木目が見えた。彼が作ったしみもある。
掌を見る。しっとりと汗ばんでいた。彼とは違う色をしている。
存外、違うものが見えるではないか。これは元々こういうものだっただろうか?というより、わたしはこれらをこう捉える人間だっただろうか?もっと嫌なものだと思っていた気がするけれど、嫌なものは無い方がいいのだし、これでいいのだろう、か?そんな筈はない。そうあってはいけない筈だ。頭痛が駆ける。
「…ユマ…」
「なんだよ」
「おあ!?」
がちゃん、と器が割れる。手が濡れて、はずみで時計が傾いた。
「うっせえお前」
棘のある声に駆け足の心臓を引っ叩かれながら、けれど聞き覚えのあるそれに安堵する自分がいて情けない気分だ。暗がりからこちらへやってくる、不在と思われていた同室の男…ユマは、ずれた眼鏡や乱れた髪もそのままに盛大な舌打ちを吐いた。
「ユ、え?ど、どこに?いつからいたの?」
「はあ?てめえの寝台にいたっつうの。お前が俺の頭に思いっきり毛布かけたから目ぇ覚めた」
何がいないのぉ〜?だよ、ずっといたわ。などと似てもいない声真似をこぼしながら眼鏡の山を押し上げる。
「え、え?わたしの寝台?」
「そうだよ」
「同衾?」
「ちげえよ!」
「なんで?」
「てめえが熱出してぶっ倒れたからだろ!覚えてねえのかよ!?」
悪いがまるで、
「覚えてない」
「殺すぞ!」
唾が飛ぶ。きたない。
「傍に付いててやってたけど眠くてお前の寝台に突っ伏してたの!あー、看病なんかすんじゃなかった!」
喚く彼を尻目に回想するが、やはり一切の記憶も無い。余程深く眠っていたんだろうか。だがしかしなるほど、わたしが起きたはずみで毛布をかけてしまった彼の上体が見えなかったに過ぎず、寝台から出た彼の下半身も寝起きの眼で見逃していたわけだ。自分の寝台をよく見れば、側に簡素な丸椅子が置いてある。この頭痛の正体もそういうこと。思えばどうも体が熱るようで、体が飢渇に侵されているのも道理か。途端に先程までの焦燥が妙に間抜けに思えて自然と口が緩んだ。
「そっかあ、ありがと」
「何にやついてんだよ気色悪いな、もっと真面目に感謝しろ。金払え。敬え。俺もう寝る」
不機嫌な彼が自分の寝台に戻るため暗がりに消えていく。ごめーん、と軽く謝罪を投げてから、床に散らばった硝子の破片を片すために身をかがめた。きらきらと輝くそれらは冬にちらつく雪のようにも見えたし、夏にきらめく陽射しのようにも見えたが、結局はただの硝子だった。
この器はなんでもないもの。失っても構わないもの。綺麗ではあったけれど、それだけだ。だから扱いやすい。気にかけなくていい。気を張るのは嫌なことだった。
彼はどうだろう。わたしは彼を、どの引き出しにしまっただろう?扱いやすい、分かりやすい、妙に熱くて馬鹿な男。あれを失った時に、どうか?
渇きが一層強くなった気がして、思わず後始末を中断し立ち上がる。濡れた掌を拭いて、傾いた時計を直す。もう一度水を汲みなおし、今度こそ一気に飲み干した。ひび割れたような感覚さえあった喉に染み渡る冷たさが、痛みを伴いながら渇きを癒し拡がりやがて、冷静さを引き戻す。再び硝子の欠片に向かい合う。
……好ましいものに愛情を注ぐほどに、そのものを損なう刃を憎まねばならなくなってしまう。まだ見ぬ、或いは出会ったその刃を強く憎みながら、しかし同時に、愛したものに喪失をもたらす事実に恐怖をも抱いて生きていかねばならないわけだ。そんな恐怖を忘れて愛情を追い求める胆力をわたしは持たないし、そんな憎悪に打ち克ち愛情を追い求める情熱もわたしは持てない。
これは可愛げなんかじゃなくて、如何にわたしがわたしにとっての障害なく生きることができるかの打算なのだし、自分なりに上手く付き合おうとしているに過ぎないのだ。抱えきれない事を理解しているなら、それは切り捨てなければならない。耐えられないならば、触れてはならない。全て終わった後に嘆くなど、疲れるだけで愚かしく、自分勝手で腹が立つ。わたしが持ち得るのはこんな硝子の器のようなものだけで、しかして硝子の器と同じ引き出しにしまえるものでなければならないのに。
「…あ」
ふと、破片で指を切ってしまった。珠になった血が指先で震え、ぷつんと溢れて流れていった。
痛み。
我々は硝子の破片で手を切る痛みを知り、覚えている。結局何もかもから目を背けることなど出来やしない。知らぬうちにわたしに割り込んだ意識に絆されてしまったら、刃から逃れるあてもないのだ。そうやってまた傷がつく。勿論、血が止まり痛みが無くなれば、傷は綺麗に閉じきって、やがて消えゆくだろう。
だが「傷を負った過去は残る」。
そういう事をふと思い出したりする可能性と付き合っていかなければならないのは苦しくて仕方がない。たまに、本当にたまに、情けなく弱ってしまった夜中とか、むせ返るような夏の日とかに、かつて無惨に川に浮いていた優しい人を追慕してしまう今と同じだ。
即ち喪った傷を思い出す。削がれたこの身は痛みを忘れてなおその瞬間をいつまでも覚えていて、痛みそのものではなく痛みに喘ぎ泣いた過去を恐れ動けなくなるのだ。記憶ばかりが血膿を垂れ流し、或いは亡霊のように纏わりついてくる。そうして、我が身に喪失という刃を起てた存在に酬いなければ死にたくなる。他者の為の怒りではなく、所詮己が内で盛るためだけの怒濤の感情に過ぎないのだが。
彼を喪った時のわたしは推して知るべしだ。ただ彼を喪ったのち、彼という傷にわたしが囚われてしまう事がとても。
「怖いんだか嬉しいんだか」
愛するものが沢山あると、嫌いなものが増えてしまう。
彼の寝台から小さな寝息が聞こえてきた。情熱的な男。彼の乱暴な価値観で変えられていくわたしの世界。時計も、底も、掌も、どこにでも彼がいる。
ともにある季節。満たされていく欲求。飛ぶ軽口。隣にある足音。いろんなものが好ましくなっていく感覚。
欠けてゆく季節。損なう刃。心無い言葉。わたしの手指。何もかもが嫌いになっていく。
顔も名前も思い出せない肉塊たちの真ん中に、よく知る男が立っている。わたしの裡に入り込むな。
「…おやすみ、ユマ」
出ていけ。