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    zeppei27

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    傭泥小説「鍵と錠」第七話の続きで、レッスン:デート編……多分いちゃついてる(?)折り返しくらいです

    鍵と錠 #7 公私混同は難しい。最初は線を引きつつ、うまく切り分けられているつもりでいても、一度踏み誤って仕舞えばあっという間に崩壊してしまう。作り上げられた物語は、筋書きを逸脱した時点で破綻するものだし、結末が予定された通りになるとは保証しかねる。それが自分自身の物語であるならば問題はない。好きなように生き、動き、結果を受け入れれば良いだけの話だ。だが、他人のために用意された物語だったら?相応の報いがあると覚悟せざるを得まい。開けてはならない扉を開いた者には然るべき罰があるのだ。

     自分でも開けるつもりのなかった扉を開いてしまったナワーブ・サベダーが、最初に抱いたのは拍子抜けするほどの安らぎであり、当惑だったと言って良い。確かに最初は自分が用意した脚本通りのゲームだったのだし、十二分に楽しめた。それがいつからか脚本上の『ナワーブ・サベダー』と自分自身とは混濁し、今では正直に言ってしまおう、職業人として恥ずかしいまでに私人として行動している。否、今日この時は意図してありのままの自分であろうと決意していた。

    「『昨日の仕事はどうだった?――俺の方?俺はね、つまらない仕事だよ。いつものパートナー代行って奴。あくびが出そうなくらいに簡単だったな。あんたとこうしてる方がずっと楽しい』」
    「ありきたりだね」

    用意していたセリフをピシャリと否定され、ナワーブは思い切り顔を顰めた。一晩考えたセリフを却下した同僚のフィオナ・ジルマンは、涼しい面持ちでコーヒーを啜る。ナワーブの家にいるにも関わらず、自宅にいるかのように自然だ。次にナワーブと組む仕事の脚本に目を落とすばかりで、こちらの顔を見もしない。そもそも彼女は他人のあれこれに然程首を突っ込まない性質でもあった。ナワーブとは別の意味でパートナー代行にうってつけの人物と言えるだろう。

    そう、彼女は次回の仕事のために、朝っぱらからナワーブのうわついた頭を叩いたのである。今日の昼食にはクリーチャーと一日ぶりに会えるのだとワクワクしていた気持ちを返してほしい。そうでなければ、残りわずかの今日明日を有効活用する手助けをしてくれても良いではないか、とナワーブは図々しいことを考えていた。なべて持つべきは経験豊富な知己である。

    「手厳しいな」
    「どうだろう。相手については君の方がよく知っているはずだ。私の感想を聞いても意味がない、違うかい」
    「そういうところだよ」

    苦笑を堪えると、ナワーブはチーズトーストを齧った。先日愛しの依頼主であるクリーチャー・ピアソンに教えてもらった通り、杏ジャムを載せてある。口に入れた途端、甘酸っぱさにチーズのしょっぱさが見事に重なり合い目を丸くする。冗談だろうと思うような組み合わせだったが、食に関して常にそうであるように、クリーチャーの好みは自分と合致するらしかった。一口だけで手放すには惜しく、一口、また一口と食べてゆく。目の前にいるのがクリーチャーであれば、すぐさまこの感動を伝えられるというのに、神秘的な(と言うよりもまるで読めない)同僚が鎮座しているだけとは実に歯痒い。

     美味しかったと言えば、褒められ慣れていないクリーチャーは一瞬顔を歪めてからモゴモゴと口籠って礼を述べる。流暢な話し方を完全に会得した暁には、失われてしまうだろう癖の一つだ。人はわかりやすいものを好む。取り立てて長い時間接触できないのであれば、好感を抱かれやすい態度を取った方が何かと都合が良い。どうせ覆いきれない癖など他にもたくさんあるのだ――そうしたものは、追々互いに理解し合う中で溶け込んでゆくと前向きに考えていこう。

     そつなくこなれていった先、ナワーブが知る彼の愛すべき歪みが正されてゆくのはなんとも味気ない話だった。万人に対して魅力的には違いあるまい。だが、もうかつてのクリーチャー・ピアソンではないのだ。彼が望むままに演じようとする筋書きを、手伝っている身の上ながらに気分が悪い。どうしたら破綻できるだろう。それこそ彼に嫌われないように、自分だけを好かれるように仕向けたい。醜い欲望をせせら笑って、最後の一口を押し込む。ついに得られた虚無がなんとも物寂しい。

     空っぽになった皿は、物語を消費し終えた時の気分によく似ている。用意されたものを全て平げ、後に残るのは侘しさと、次の一皿への希望ばかりだ。食べてしまったものにもう用はない。振り返ることも反芻することもない。ナワーブは日々断片化された物語から物語へと、蝶のように移り渡って楽しんでいた。たった一つの物語に固執するなど考えもしない。

     だが、ナワーブも人生という名の物語はたった一つなのだということはよくよくわかっていた。目を逸らそうとした自分自身の人生、美味しい蜜も面白みもないナワーブの皿は、最良の一品は呼び込むに相応しいだろうか?コーヒーに口をつけると、フィオナが渡した資料に目を通す。次のパートナー代行は、郊外にできた結婚式場のデモンストレーションでの新郎役だ。フィオナは新婦役で、イライ・クラークは司祭役で出演することが決まっている。他人の目に堂々たる幸福そうな新郎として立つ『ナワーブ・サベダー』は簡単に思い浮かべることができるし、以前にも似たような役柄を演じたので苦労せずに終えられるだろう。

     ではナワーブ自身のものはどうかと言えば、レッドカーペットに相手を連れ出すことさえできそうになかった。もはやクリーチャーの姿を想像するだけで脳みそが処理の限界を訴えてくる。十二分に魅力的に振る舞うこともできれば誘い文句も雑作なく嘯けるはずが、先ほどフィオナに一蹴されたように地に落ちてしまう。彼に相応しい言葉はなんだろうか?彼に相応しい人間は一体どんな人間なのか。ただ欲しがっているナワーブをぶつけるのは下策のように思われた。

     クリーチャーは、おそらく自身が誰かに欲しがられることなど想像だにしていないだろう。彼には成功経験が、とりわけ人に関してが少ないとナワーブは踏んでいた。どうしようもなさからなんとか自分自身を飾り立てて、エマ・ウッズの気を引きたいと願う始末である。健気で歪で可愛らしい。彼の良さに気付かぬエマよりも、今ではナワーブの方がクリーチャーを知っている。そしてその良さは、彼が望むように育てることで失われるのだ、なんという皮肉だろう!

    「それで、口説けそうなのかい」

    何もかも見透かしたようなフィオナは、必要事項を確認し切って満足げに頷いた。ようやく混じり合った瞳は、さながら凪いだ湖のように静かで美しい。ナワーブは両手で自分の目を覆い、お得意の読心術に絡め取られぬように防いだ。赤子よりも柔らかな気持ちをこれ以上傷つけたくはない。クリーチャーに会う前に、少しでも余裕を持って心の準備を整えておきたかった。

    「……視ないでくれ」
    「視ないさ。視なくたってわかる。君はやり遂げられる人間だからね」

    もしかしたら彼女なりの優しさだったのかもしれないが、ナワーブは僅かばかりに機嫌が上向いた。フィオナは無駄な保証はしない人間なのだ。彼女が背中を押すならば、多少なりとも希望を持っても許されるだろう。どうすれば良いかはわからないが、どうしたいかはわかっている。

    「やり遂げるよ」
    「その意気だ」

    今日は何を着よう。クリーチャーが気に入ってくれた、チェックのシャツに腕を通そうか。彼が似合うと言ってくれたものをふんだんに詰め込んで、精一杯にめかしこむとしよう。最初に彼に教えた通り――第一印象は見た目からだ。

    「よし」

    用が済んだと帰る彼女の背を見送り、ナワーブはきりりと顔を引き締めた。




     どうにかしなければならないことはわかっているが、肝心のどうすべきかがわからない。クリーチャー・ピアソンはいざナワーブを前にして、自身の未熟さを改めて思い知った。そもそもこの芝居じみたトレーニングは、クリーチャーの不足分を補うために始まったものである。自分には魅力が足りない。つまり――つまり、そういうことだ。

     今日は今までを踏まえたおさらいとして、どうデートを進めるべきかを習っている。具体的には店の選び方や誘い方で、この二週間近く自然とナワーブがクリーチャーに行っていたものだった。別段、誰かを誘う経験がないわけではない。ナワーブに出会うまで、幾度か女性ともそれらしい関係となるべく食事に出かけたこともある。ただ、何にも繋がらずに銭失いをし、いつの間にか相手との連絡が途絶えてしまうだけだ。

    「選んだお店が相手に合っていなかったのかもね。身だしなみの話でもしたけど、環境は何よりも大事な要素なんだ。どうして俺がこの店を選んだかわかる?」

    海沿いのカフェで水の入ったグラスを傾けながら、ナワーブは注文したクラブケーキを喜んで出迎えた。一つ一つのテーブルが妙に狭いためか、運ばれてきた料理がやたらと大きく見える。舞台は並んだ皿で溢れ返りそうな上に、クリーチャーと相手の距離も自然と近い。綺麗な鼻筋に見惚れる自分に苦笑してしまう。近いということは、相手がよく見えるということだ。好きだ、と話の流れなど無視して心が訴える。まるで思春期の少年のような衝動は、もう随分長らく忘れ去っていたものだった。

    「料理が美味しいから?」
    「それは大前提。まずいものをわざわざ食べに行くのは、そういう話題で楽しんだ後だね。もっと仲良くなってからだ。いきなり誘うのはまずい」

    今度行こうね、とさりげなく続けるナワーブに心臓が高鳴る。彼はどこまで本気で言っているのだろう?ただ筋書き通りのトレーナー、『ナワーブ・サベダー』だから吐かれるセリフだと一蹴すべきか迷い、クリーチャーは眉根を寄せた。話術の拙さが、こんなところにまで悪影響を及ぼすと誰が想像できただろう。結局、考えるほどに誰かと向き合った経験がないと言うには余りにも悔しい。否、じわじわと胸の内に滲み出る苦さは惨めさだ。

    「この店を選んだのはね、その1・テーブルから見える景色が良いから。ずっと座って時間を忘れて、海がピンク色になるところを見せたいんだ。好きな人には、自分が素敵だと思うものを見せたいからね。実感があるでしょ?その2・ここの料理は最高だから。それも両手が汚れるようなものじゃない、でも気取ってない食べやすいものばかりでしょ。余程の相手じゃない限り、緊張させるような場所はよくないよね」

    確かに、視界に映る海の青は、普段から目にするものだがより綺麗に切り取られている。夜には花火が見えるのだ、とナワーブはまだ見ぬ未来の風景を指で示した。彼に自分は何を見せたいだろう。どうしたら喜ばせられる?例えば自分が修理した大時計はどうだろう。丘の上に建つ全時代の巨人は、今や許された人間しか入ることのできない聖域だ。その最上階に鎮座する大時計に、クリーチャーは定期的にメンテナンスをする役割を担っていた。文字盤の窓から覗く風景はどこよりも清々しい。他には?他にももっとたくさんあればナワーブを連れて行こうと誘えると言うのに、悲しいほどに何も思い浮かばない。

    「……最後、見ての通りここのテーブルは小さい。これは相手次第だけど、距離が自然と近くなるし、皿をとってあげたりコミュニケーションの機会が増える。相手の様子も自然に近くで見られるから、話し方も変えられる」

    つらつらと流れるようにして説明するナワーブは、どこまでも手練れのトレーナーの顔をしていた。彼の発言が正しいのであれば(もちろん正しい)、今のナワーブに付け入る隙は皆無だろう。それどころか、こちらの気持ちがどこまで透けているのか気が気ではない。パンをちぎってバターを塗りたくりながら、クリーチャーは曖昧に頷いた。

    「でも、本当はさ」
    「うん?」

    クラブケーキにナイフを入れ、慣れた手つきでナワーブがゆっくりと境界線を引いてゆく。こちら側から先は彼の領分で、まるで神聖不可侵であるかのようによそよそしい。適当にフォークを入れて突き合う方が余程クリーチャーの性には合っていた。ナワーブの自宅に招かれた際はマナーも無視した好き勝手な食べ方が許されたと言うのに、一歩外に出た途端に何もかもがなかったことになってしまう。自分は再び彼の部屋に行くことがありうるのか?自分の取り分を受け取っても、美味しいはずのそれはやたらと色褪せて見えた。

    「一緒に食べに行きたいところに行って、喜んでくれたらそれだけで良いと思うんだ」

    綺麗な話だ。純粋にまっすぐな思いを届ければ、応えてもらえる人間だけが吐けるセリフだ、なんて、なんて欺瞞!これまでろくろく成功しもしなかった過去を振り返り、クリーチャーはどんどんと暗澹たる気持ちに陥った。もはや口の中に何を入れているかもわからない。グニュグニュした食感が気持ち悪い。彼が想像する相手は一体誰だと言うのか。誘えばきっと易々と連れ出せるに違いない。

     舌がもつれそうになる。もし、自分がナワーブを誘うならば小洒落た店ではないけれども、美味しいと思う店がいくつもあった。多分、ナワーブはクリーチャーよりも余程多くの美味しいものを知っているし、舌だって肥えている。だがそれでも尚、自分が好きなもので彼が喜ぶ顔を見てみたかった。息を吸う。ゆっくりと、意識しすぎずに。そして滑らかに声を押し出した。

    「……裏通りのロシア料理屋の話はしたか?」
    「え?」

    虚をつかれたナワーブの声は幼く、クリーチャーは心の中で快哉を挙げた。会話のトレーニングの際にナワーブが一種のテクニックとして教えてくれたのだが、相手を驚かせるのもまた揺さぶる良い手段である。どうかそのまま耳を傾けていてほしい。想像の中の誰かに想いを馳せず、運ばれてきたブイヤベースをつつこう。

    「雪が降る少し前くらいになると、体を芯から暖めに出かける店があるんだ。小さくて安くて、ロシアから命からがら渡ってきたっていう夫婦――かなりの老人だ――がやってる店でさ。実家はこう言うものなんだろうなとも思う。もちろん料理だって美味しい。量も多いしな」
    「良い店なんだね」
    「ああ。良ければ寒くなった頃に行こう」

    つるりと滑らせた言葉はうまく届くだろうか。ナワーブが目を細めて頷き、行きたい、と一言呟いた。『ナワーブ・サベダー』として模範解答をしたのか、それとも彼個人として返答をしたのかは定かではない。初心者のクリーチャーには見抜くだけの力も、彼に対する理解も不足していた。ただ、願って、どうにか信じるのが関の山だ。

     ここからどう話を継穂しようかと彷徨わせた思考を打ち破るかのように、スマートフォンがオクラホマミキサーを奏でた。ふざけた着信音は、ノートン・キャンベルが酔っ払って自分専用のものとして登録させたものである。そう言えば明後日はクリーチャーが宣言した一ヶ月後のXデーに当たる。本来ならば自分から言い出すべきものだが、ナワーブのことで頭がいっぱいでろくろく連絡も取らずにずるずると手をつけずにいた。おそらくは催促のメッセージでも寄越してきたのだろう。後でゆっくり読めば良い。今読んだところで、どうせ気分が悪くなるか、沈むかするだけに決まっている。

    「メッセージ、見ないの?」

    意外なことに、気にかけたのはナワーブの方だった。どこか表情が強張っているように見えるのは、傾く時間が日に日に早くなる西日のせいだろうか。

    「食事中にスマートフォンを弄るのはマナー違反じゃないか?『デート』のレッスンの最中なのに」
    「『デート』だったらね。俺はわかっているから大丈夫。急ぎの仕事のものかもしれないでしょ」
    「仕事のなんかじゃないさ。腐れ縁のやつからのだ」

    デートじゃない、という当たり前の指摘がひどく胸を痛める。そうだ、デートなどあり得るはずもない。集大成としてデートの流れを教えようと提案されたことを思い返しながら、相変わらず味のしない料理にクリーチャーは顔を顰めた。会話を邪魔せぬよう、気が利いたウェイターが運んできたシュリンプカクテルは茹で加減も十分のはずだと言うのに、一匹目から先に手が伸びない。

    「そうなの?あー、ほらさ、あんたが着信音を変えてるのって、初めて聞いたから」
    「ああ。勝手に向こうが変えたんだ。面倒だからそのままにしてあるんだよ」
    「ふうん」

    自分から質問してきた癖に、ナワーブは顔を輝かせたり燻らせたりと随分と忙しい。クリーチャーの目の前で、これほど短時間のうちにクルクルと表情を変える人間は他にいなかったものだから、やはり真意を読み取ることはできなかった。シュリンプカクテルを乱雑に取り扱う相手の気持ちが荒れていることだけはわかる。一体何が気に食わなかったのか?近所の野良猫よりも掴みにくい。これまで、ナワーブはいつだってわかりやすかった――わかりやすいように気持ちを表現してくれていた。ならば今の彼は剥き出しのままの素の感情を見せていると考えて良いのかもしれない。

    「……それじゃあさ、俺も設定して良い?」
    「な、何をだ」
    「着信音。俺からメッセージが届いた時、ピアソンさんがすぐに気づけるでしょ」
    「ああ」

    何がどうなっているか全く理解できない。せっかくやり過ごせていたはずの吃音まで飛び出して、クリーチャーはもはやナワーブが促すままにスマートフォンを手渡すことしかできなかった。コミュニケーション能力を磨き抜いた人間だけがやりおおせることなのかもしれない。少なくともクリーチャーには難しい。例えば、エマのスマートフォンに自分の連絡先を登録させることさえできまい。ノートンだって、他人のスマートフォンはいじったくせにこちらには触らせようともしないのだ。

    「よし、できた。これでピアソンさんは見過ごさないね」
    「それは良かった」

    つまり、最終日である明日を過ぎても尚メッセージを受け取る機会があると理解して良いのだ。そうでなければわざわざ他人のスマートフォンをいじることなどあるまい。パッと陽がさすように柄にもない楽観主義が顔を覗かせる。何よりも、ナワーブの顔が綻んでいるのだ、誰だって勘違いしてもおかしくはない。着信音の有無に関わらず、彼からのメッセージにはいつだって心が震えていた。くだらないやり取りも全て取っておいてあるのは、復習のためだと言い訳するだけ無駄である。ナワーブが選んだグラスワインで喉を湿らせると、クリーチャーはゆるゆると勝負に出た。

    「……私も君のスマートフォンに設定しても良いか?」
    「え、あ、ええと」
    「だめか?」

    俄に狼狽え出すナワーブがおかしい。やはり過剰なリップサービスの一種だったのか。勘違いするだけ自惚れていた、それだけだとクリーチャーは唇の端を曲げた。楽観的に描いた未来はどこへやらで、ノートンからのメッセージなど着信拒否にしておくべきだったとさえ思い始めている。彼からのメッセージを受け取らなければ、こんな惨めな思いもせずに済んだに違いない。

     明日も来なくて良い、今日が最後だ。そんなつもりでどんどんと暗くなってゆく気持ちに相反するようにして、クリーチャーの表情は営業時に見せる作り笑顔でいっぱいになっていた。さようなら、もう二度といらっしゃらないでください。こちらの気持ちも知らずにナワーブはうんうんとひたすら唸っていたが、突然決意したように面を上げた。頬に赤みがさしているのは、夕陽のせいだけではないだろう。青年は取り出したスマートフォンをため息をついて手渡した。

    「見ても何も言わないでね」
    「言われなくても、検索履歴を覗き見する趣味はない」
    「そうじゃないって!いやそれもやめてほしいけど、そんなに変わった趣味はないから安心して……ええと、その、どうぞ」
    「怪しいな」

    最終的に手にした成果にニンマリと笑うと、クリーチャーはどうにも気になって仕方がなかった。確かに、この小さな端末はありとあらゆる個人情報を納めたパンドラの箱だ。検索履歴はさておき、並んだアプリケーションとて見せるのは嫌だろう。あるいはナワーブの仕事柄、連絡先の一覧は見せたくないものかもしれない。冷静に考えを巡らせると、自分が素直に手渡したのはあまり褒められたやり口ではなかったことに気がついたが、全て後の祭りである。

    「私の連絡先だけ見せてくれないか?」
    「わかった」

    素直に応じるも、挙動不審さは拭えない。差し出された連絡先として表示されるのは、『クリーチャー・ピアソン』で、これと言った妙な付記の類も書かれていなかった。顧客とでも表示されたらば、事実ではあるもののいたく傷ついただろう。着信音の設定など、ろくにしたことがないので手間取ってしまう。やたら機能が多くても使いこなせないので、スマートフォンはどうにも苦手だった。格好が悪いのは百も承知だが、ナワーブに重ねて頼むべきだったかもしれない。二進も三進もいかずに難航していると、おずおずと指先が対面から伸びて来た。

    「ここだよ。ここをタップすると設定できるんだ。ピアソンさん、今まで着信音の設定ってしたことないの?」
    「ないさ。そんなの一々必要ない」

    自分に連絡を寄越すのは、仕事絡みか腐れ縁の数名の仲間くらいなものだ。他人と区別をつけるほどに特別な相手などいない。ナワーブには自分よりも余程多くの相手がいるだろうと思うと目眩がする。だが、自嘲気味なクリーチャーの返答を耳にした相手の反応は予想外のものだった。

    「じゃあ俺が初めてなんだね。ああ、だったらピアソンさんのスマフォの設定もやってもらうんだった」
    「どうしてだ?」
    「嬉しいからだよ」

    何かの流行かもしれない。自分にわからないことを速やかに棚上げして、クリーチャーは教えてもらったばかりの設定に取り組むことにした。流石に着信音の選び方はわかる。確かスクロールをして、最初から設定されているもの以外を選べば良い。例えば『きらきら星』のような簡単でわかりやすいものであるとか――

    「ん?」

    最初から表示された曲にもう一度目を向け、クリーチャーはじわじわと頬が熱を持つのを覚えた。『きらきら星』、そう、彼は最初から自分だけの着信音を設定していたのだ!確かめるようにして相手を見れば、ナワーブは照れたように明後日の方を向いている。なんて、なんて、なんで、なんだって、

    「……これはこのままで良い。私にはどの曲が良いのか、わからないからな」
    「そ、そう」

    それなら良かった、と言うナワーブにはもはや優れたトレーナーの面持ちはどこにもなく、ただの面映さを扱いあぐねる青年そのものが存在していた。可愛いと感じるのは末期症状である。時折こうして矢のように相手の良さが胸の柔らかい部分に突き刺さって抜けない。シュリンプカクテルに手を伸ばし、クリーチャーはたっぷりとハニーマスタードソースに浸してやった。爪先から頭の天辺まで、どこもかしこも甘さが漂う。

    海はメープルシロップのような黄金色に染まっていた。
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    zeppei27

    DONE傭泥で、謎のスパダリ(?)ナワーブに悩まされるピアソンさんのお話です。果たしてナワーブの真意はどこにあるのか、一緒に迷いながら楽しんでいただければ幸いです〜続きます!
    ご親切にどうもありがとう/1 他人に配慮することは、相手に目に見えぬ『貸し』を作ることである。塵も積もればなんとやらで、あからさまでなしにさりげなく、しかし何とはなしに伝えねばならない。当たり前だと思われてはこちらの損だからだ。返せる程度の親切を相手に『させた』時点で関係は極限に達する。お互いとても楽しい経験で、これからも続けたいと思わせたならば大成功だ。
     そう、クリーチャー・ピアソンにとって『親切』はあくまでもビジネスであり駆け引きだ。慈善家の看板を掲げているのは、何もない状態で親切心を表現しようものならば疑惑を抱かせてしまう自分の見目故である。生い立ちからすれば見てくれの良さは必ずしも良いものではなかったと言うならば、曳かれ者の小唄になってしまうだろう。せめてもう少し好感触を抱かせる容貌をしていたらば楽ができたはずだからだ。クリーチャーはドブの臭いのように自分の人生を引きずっていた――故にそれを逆手に取っている。
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