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    zeppei27

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    傭泥、昨日の続きを含めた書いた分〜続きは年齢指定を入れるので、完成したら出します……!

    つづき 古来、軍隊とは外界から切り離された一種独特の組織である。社会的通念よりも軍隊内での規則や上下関係が優先され、軍外での身分も表向き撤廃されているとされる。無論そうとは言い切れないが、生きるか死ぬかの二択しかない、一蓮托生の状況になれば話は変わる。大事なのは強さであり、結びつきであり、規則なのだ。よって、一般的社会では不可思議とされることも良とされ、その逆もまた存在する。それは時に残酷で、時に底抜けに甘ったるい。

     ナワーブ・サベダーにとって、軍隊とは人生の殆どであった。幼少期こそ故郷で育ったものの、早くに父親を失ったことによりその時期はやや短い。物心ついてからはずっと傭兵暮らしだ。平和に田畑や工場に働きに出る暮らしとはまるで異なる。言うなれば、世間一般が共有するうっすらとした道徳であるとか、倫理であるとか、習俗の類はまるで知らないままで過ごしてきた。ナワーブの人生は軍隊が基準である。軍隊を出て、個人請負を始めたところでそれは変わらない。

     だからだろう。『荘園』を訪れたナワーブに戸惑いはなかった。軍隊は、そして特に傭兵は玉石混合の寄せ集めである。お高くとまろうが腹に一物を抱えようが、一つの目的に向かって邁進するより他にない。例えば、自分は家族に送金するため。莫大な報奨金はあらゆる犠牲を支払うに足ると感じていたし、そう難しくはないと踏んで単独行動に及んでいる。あとは他の人間をうまく活用し、目的を達成するまでのことだ。

    「傷が多いんだな、君は」
    「何」

    洗濯室で突然かけられた声に、ナワーブは目を瞬かせた。猫背気味の男が掠れたような声を発しているようである。まだもの慣れない環境であることもあり、ついつっけんどんな返しになってしまったが問題はないだろう。第一、他人だらけの空間ではなめられないことが肝要なのだ。身長がやや低いために、何かと侮られることが多かったことは、自分にとって利であり害であった。他人からの扱いに慣れていくうちに、逆に相手を良いように調理できるようになるまでは随分苦労したものである。態度を決めかねながらも頭の中を探って、ナワーブは相手の名前を思い出した。

    「あー、クリーチャー・ピアソンさん」
    「し、知ってたのか」
    「名前くらいはね」

    そう、名前と素行の悪さくらいは知っている。クリーチャー・ピアソンは、奇妙で残酷な『ゲーム』が開催された初期から参加しており(つまりゲームに終わりが見えていないということではないか?)、親切な『慈善家』だと名乗る胡散臭い素性の男だ。少なくとも貧困層出身で学はなく、悪知恵が回る手合いだろう。実際に『ゲーム』の中では頭の回転の速さを活かし、驚くべき打開策を見せもする。金が何よりも好きらしく、そのためには手段を選ばない。選ばないから、他人の世話を平然と焼く。恩の押し売りだ、とありがたく頂戴しながら冷笑したものだ。

     必要以上に売りつけられないためにも接触は最低限にしていたはずだが、溜まりに溜まった洗濯物に引き寄せられてか鉢合わせる羽目になってしまった。思えばこの男は好き好んで家事を買って出ている。ウィリアム・エリスは正に彼の思惑通りに動いた人間の一人であり、腹が空けば「ピアソンさん、ピアソンさん」とついて回っている声が館中に響くのだった。まるでアヒルの雛のような懐き様である。

    「で、そのピアソンさんは俺に何か用?」
    「いやいやいや、ただの世間話さ。洗濯が終わったから引き上げようと思って来てみたら、君の腕が目に入って」
    「ああ」

    腕を指さされ、ようやく意図が伝わる。洗濯物をしようと意気込んだこともあり、普段はしっかりと下ろしている袖を捲り上げていた。隆起する筋肉以外に目立つのは、なんと言っても細かな裂傷の類だろう。傷の分だけ長く生き延びられた証だ。とは言え、それは軍隊の中での話である。一般市民には縁のない、なかなか目にする機会のないものであり、クリーチャーの恐怖と好奇心が綯い交ぜになった眼差しは真っ当な反応だった。若干憧れも込められているかもしれない。

    「……触ってみるか」
    「え」

    ぱっ、と花が咲いたようにクリーチャーの頬が朱に染まる。悪くない反応だ。薄っぺらい笑顔よりもよほど良い。興が乗ってきて、ナワーブは洗濯物を傍に退けるとクリーチャーの手を掴んだ。細い、ゴツゴツと骨が主張する腕は簡単に折れそうである。どんな悲鳴を上げるかを想像すると頬が緩む。クリーチャーの瞳に恐怖がちらついた。意外なことに、彼の掌はナワーブよりも大きく、指がヒョロリと長い。それを躊躇いもなく、見える限り一番大きく深い傷に這わせ、ナワーブはちらりと上目遣いにクリーチャーを見た。

    「この先がどうなっているか、知りたい?」
    「それは、どういう」

    ごくりとクリーチャーの喉が上下する。無自覚なのだろうか?軍隊では、この手のものが意味するのはただ一つである。クリーチャーの手を離すと、ナワーブは上からそっとなぞってやった。びくりと震える背中は新兵を思わせる。奥手を装う年齢でもあるまいに、と湿り気を帯びた手に熱が篭った。それとも、趣味があるのだろうか。やたらと目下を痛めつける趣味があった将兵のこと思い出し、ナワーブは悪趣味だと嘲った連中と今の自分は同じ顔をしているような予感を抱いた。

     まさか自分が、と息を呑む。変わった趣味などあるはずもない。ナワーブ・サベダーは至極常識的で、理性的に正しい判断ができる優秀な傭兵なのだ。見窄らしい男の誘いに乗るのは溜まっているからに過ぎない。狭い共同生活の中で、揉め事を起こさず手っ取り早く済ませるためには真っ当な解決法だ、そうだろう?怖気付くフリをするクリーチャーが忌々しい。違うの意図を持つのであれば、普段からよく回る舌を使うなり振り払うなり、やりようはいくらでもあるのだ。

    「お望み通り、続きを教えてあげるよ」




     傭兵というのは妙な職業である。一般社会では決して許されない行為――『人殺し』を正々堂々と求められる存在だ。むしろ進んで為さないのであれば謗られる立場である。国を守る、国民を守る、あるいは誰かを助けるなど色々な標榜が掲げられようとも行為自体は変わらない。傭兵や軍人が辿るのは、誰かを困らせ、傷つけ、殺して出来上がった道である。お陰様で他の人間はそのご利益に預かっているわけなのだが、異質さはその他大勢の生活の中で畏怖と忌避感をぐちゃぐちゃとかき混ぜる。退役軍人が社会に溶け込めず犯罪行為に走る背景には、一度違う道を辿ったことで染みついた何かがあるのかもしれない。

     クリーチャーにとって、傭兵や軍人は異世界の生き物だった。自分が住み暮らす場所では、必要に応じて人を殺してしまったり、意図的に殺したり、傷つけたり傷つけられたりすることなどそう珍しくはない。生死の境はいつでもすぐそばにある。にも関わらず、傭兵や軍人はわざわざ死地で間近に手繰り寄せるのだ。彼らの存在理由は理解できるが、だからと言って子供のような憧憬を向けることはない。非日常を追いかけるほど、クリーチャーの生活に余裕はなかった。

     そんな雲の上のような存在と触れ合う機会を得たのは、『荘園』という外界から隔絶された場所である。さながら箱庭のように完結した、いつまでも出られない(この件に関してクリーチャーは自分自身のために棚に上げておくことにしている、誰だって正気を保ちたい)世界の中心は『ゲーム』であって、社会的身分や個々人の常識、倫理観など何の役にも立たなかった。逆を言えば、『ゲーム』で活躍できるのであれば、多少瑕疵があったとしても許される。

     何より、これは参加者が協力しなければ成立しないお遊戯だった。クリーチャーは自身の身体能力の限界は重々把握しており、勝つことの重要性は骨身に染み渡っている。勝たなければ虚無に踊らされただけになってしまう。損をする羽目になることだけは避けたかった。ならば、他の参加者は『仲間』に引き込むに限る。幸にして、大概の人間は偏屈であっても結局人間に過ぎない。腹が減り、疲れ、眠くなって暇に飽きる。幼子の相手をするよりも簡単で、クリーチャーは次々と隙間を見つけては着々と埋めて行った。今では自分の簡単な『お願い』をやんわりと受け入れてくれる存在もちらほら生まれつつある。

     生まれ持った癇癪を破裂させなければ、うまくいく――そんなふうに考えていたこともあった。実際、セルヴェ・ル・ロイから秘蔵のワインのご相伴に預かれたほどなのだから、首尾は上場と言っていいだろう。高慢ちきな芸術家さえ自分に靡くだなんて、外の世界では想像もできなかった事態だ。もちろん、全てが終わった後にこの関係が続くとはまるで保証されない。それでも構いはしない。要は『ゲーム』に勝てば良いのだ。勝てば、完膚なきまでに勝ったと認められれば金を手にして大手を振って出ていける。飛ぶ鳥跡を濁さず、後は互いに知らぬフリをした方が幸せというものだろう。

     そんなこともあり、クリーチャーにとっては仲間の籠絡が第一目標であった。最近では、セルヴェに負けず劣らずお高くとまった画家、エドガー・ワルデンを手懐けることに成功している。彼の泣きどころは胃腸の弱さで、食事の味付けを彼専用にさりげなく変え、たまに鉱物であると判明した菓子を差し入れれば盤石の構えとなった。

     新しく来た人間にはこまめに接し、観察し、そして良いように使える関係を築き上げる。着々と成果を上げるクリーチャーが目下悩んでいるのは、ナワーブ・サベダー、余りにも住む世界の違う元傭兵だけだった。荘園での生活に必要なことや、ゲームについて手解きをするところまでは順調に進んでいたと記憶している。だが二人の関係はそれきりで、ナワーブは自身の目的にクリーチャーは不要と判断したらしかった。敢えて接触することを避けられているとさえ感じられる。要するに、関わり合いになるのも面倒だということなのだろう。

     万策尽きかけ、これは洒落た手紙でも書いてみるべきだろうかと頓珍漢な策略を練り始めた頃になって、ようやく尻尾を捕まえる好機が到来した。アンドルー・クレスとノートン・キャンベルのくだらなくもこすっからい争いのせいで洗濯を請け負うことになり、仕掛けを動かして戻ってきたところにナワーブが既にいたのである。足元にどんと置かれた洗濯物の量からして、随分溜め込んでいたらしい。自分に一言頼めば良かったのに、と言うべきか迷って口を噤む。まずは話を広げるところから始めるべきだろう。

     定番は洗濯物の量であるとか、服の種類かとも思うが、場合によっては変な警戒を招きかねない。傭兵が誇るものとしたらば何か、と考えてクリーチャーは珍しく腕まくりをしたナワーブにさっと目を走らせた。隆起する筋肉は、服の上から想像する以上にしなやかで締まりがある。だが、それ以上に目を引くのは無数に走る腕の傷だった。傭兵なのだから当たり前と言えども、一市民であるクリーチャーには馴染みがない。数秒間のうちに思考を進め、ゆっくりと口を開いた。

    「傷が多いんだな、君は」
    「何」

    返された声の鋭さに思わずたじろぐ。吃音の癖が出てしまっていたかもしれない。剣呑な表情を浮かべながらもこちらを見つめるナワーブに、クリーチャーは仕切り直すという選択肢を捨てた。この反応はまだ交渉の余地がある。戦いのゴングは鳴らされたばかりだ。例え身にならずとも、何か次回につながる成果を得られる可能性は十分ある。観察されていることへのきまり悪さから目を泳がせていると、永遠とも思われる時間を青年の声が打ち破った。

    「あー、クリーチャー・ピアソンさん」
    「し、知ってたのか」
    「名前くらいはね」

    思わず吃音の癖が出たことに心の中で舌打ちする。緊張していることが相手に筒抜けではないか。なめられたば一巻の終わり、ゲーム終了である。しかも二度目の好機はそう簡単には訪れまい。ナワーブが自分の名前を覚えていたのは意外な収穫だった。仲間になってそれなりに時間も経っているが、フルネームで呼ぶのは怒り狂ったエミリー・ダイアーくらいである。親密さを増した人間たちの顔を思い浮かべるも、彼らが自分の名前を全て言えるかは甚だ怪しい。ナワーブが覚えているのは職業柄の修正なのかもしれない。

     しかも名前くらいは、とわざわざ付け加える割には表情が別の情報を知っていると物語っている。大方良いものではないだろう。少なくとも、ナワーブが自分に対して好悪のどちらも抱いていないことくらいは把握している。同時に、恐らく利用価値があると思われているだろうことも。『ゲーム』の中での協力関係はまずまずのものであったし、自分は自分なりに最大の貢献をしていると自負があった。ナワーブは冷静な男だ――クリーチャーと同様、誰をうまく利用するべきかを心得ている。温度のない眼差しは、棚に並ぶ商品を選ぶそれと何ら変わりはなかった。

    「で、そのピアソンさんは俺に何か用?」
    「いやいやいや、ただの世間話さ。洗濯が終わったから引き上げようと思って来てみたら、君の腕が目に入って」
    「ああ」

    嘘ではない。全て事実そのものである。にも関わらず奇妙な緊張感が漂うことに、クリーチャーは悪寒を覚えた。心なし、相手の威圧感が増したような気がする。ひりついた空気は、幼少期に孤児院で与えられた情け容赦ない『慈善活動』を思い起こさせ目眩さえした。もう自分は十分に大人だ、大概の暴力には耐えられるし、逃げるための口八丁手八丁だって取り揃えている。いくら手練れの傭兵とはいえ、相手は年下の青年に過ぎない。

     ナワーブの腕を改めて見るに、彼は完全に非日常の存在なのだと嘆息する。中でも深く長い傷は、捲り上げた袖の中にまで続いているようでゾッとするほど恐ろしい。彼は痛みに耐えられたのだろうか?自分には到底理解できない。生き抜いてきた才覚には素直に敬意を表するものの、得体が知れない生き物を目の当たりにした動揺は未だ治まらなかった。やはりここは逃げるべきか。本能が告げる警告に耳を傾けようとした瞬間、ギョッとするような提案が為された。

    「……触ってみるか」
    「え」

    何を、と問うまでもなくクリーチャーの手は先ほど見つめたあの傷の上に誘導される。他人の感触に思わず頬に血が上る。意図せぬ接触は苦手だ。一体何が起こるのかわかったものではない。しかしながら、逆らおうにも相手の力は異様に強く、少しの自由も許されない空気が蔓延していた。逆らったらば殺される。そんな手間をかける相手だとは思えないが、クリーチャーは確かに生命を握られていた。

     自分よりも分厚く、タコでゴツゴツとした手のひらが捕らえて離さない。さながら蜘蛛の巣にかかった蝶だ。否、自分ならばせいぜい蝿か。少しも笑えぬジョークに浸ろうとしても、ナワーブの腕から伝わる物語に押し流されてしまう。深い切り傷、細かな傷、縫い跡、よく日に焼けた肌に包まれた筋肉の硬さ。ほんの少しだけ、男として羨ましくなってしまったのは痩せ細った人間の悲しい性だろう。どれほど鍛えても、自分は彼のようになりはしない。

     ああしかし、一体ナワーブは何を考えているのだろう。余りにも予想できず、クリーチャーは当初掲げていた『適度に仲良くなる』お題目など終生叶わなくても良いとさえ思い始めた。嫌がらせだとしても、どう響いたものかわからない。怖がらせようとしたのであれば大当たりだ。目下、クリーチャーの頭は疑問符と怖気で一杯一杯である。今の自分を見たらばフレディ・ライリーが嬉しそうに囃し立てるだろう。彼が居合わせていなくて本当に良かった。

     何とか突破口を見つけようと相手の顔を伺うと、ちらりと上目遣いで見つめられる。浅黒い肌のせいか、幼児のように真っ新な白目がやけに目立った。体だけでなく、顔の作りまで恵まれているとは羨ましいことだな、とクリーチャーはまた一つ相手の嫌な部分――転じて言えば自身の歪みに気づいて心中密かに舌打ちした。そんな葛藤を知らず、ナワーブは更に珍妙な問いかけを重ねた。

    「この先がどうなっているか、知りたい?」
    「それは、どういう」

    心底わかりかねる問いだった。哲学的な駆け引きは、即物的なクリーチャーにとって面倒この上ない。他愛のない物言いに反して、東洋の神秘は残虐さを剥き出しにしてその瞳を怪しく輝かせた。一歩踏み間違えれば酷い目に遭う予感に、思わずゴクリと唾を飲み込む。いっそ殴りつけられた方が話は簡単だった。この手の下にある、深い溝がどこまで続いているかなんて自分にはさらさら興味がない。今元気に働けるようであればそれで十分だ。ゲームに支障はないことは織り込み済みである。あるいは、あるいは――まさか、ナワーブは自分に知られたいのだろうか。

    「お望み通り、続きを教えてあげるよ」

    望んでなどいない、と流石に慌てて返そうとした口に指が突っ込まれた。人は単純なもので、咄嗟の出来事に慌てふためくと他のことから注意が逸れてしまうものであるらしい。過酷な環境を生き延びたと言っても、拷問やら戦地やらを潜り抜けたわけでもなく、大した訓練も積んでいないクリーチャーには目一杯の出来事だった。奥深くまで突き入られた指が、そのまま喉を破っていくのではないかという恐怖を生み出す。暴れればうっかり現実になりかねない。

     彫像のように固まってしまったクリーチャーをよそに、ナワーブの指は縦横無尽に口内を這い回った。上顎をくすぐり、歪な歯列の一つ一つを突く。身じろぎすれば奥を軽く抉り、舌を引っ張られた。太く手節くれだった指先が、お前の命を握っているのだと何よりも雄弁に語る。埃っぽい味わいが吐き気を誘い、吐いたらばどうなるのかと空恐ろしい。どうにか抜け出せないだろうか。あるいはほんの少しだけでも自分の善行に神が情けをかけてはくれないか。いつだって唾を吐きたくなるほど身勝手な神に、これほど真剣に祈ったことはなかった。誘導されるままに床に膝をつき、与えられる蛮行を惨めに受け入れるなど、屈辱以外の何者でもない。並んで立てば自分よりも背の低い青年は、今やフードの暗がりに引っ込み表情さえ伺えない。冷や汗が背筋を伝った。

    「おしゃぶりは得意じゃなさそうだな。舌が長いのに勿体ない。誰にも躾けられなかったのか?」

    躾?散々躾けられたとも。有り難くも何一つ身に付かなかった善意と好意がクリーチャーの脳裏にフラッシュバックする。みっともなく涎が溢れて顎を濡らす。ただただ気持ちが悪い。躾は痛みと苦言を耐え忍び、うまくやり過ごせばそれで良かった。だがこれは何だ?ナワーブの声が暗い甘さを漂わせる。自由な手は頭を、耳裏を、顎下を品定めでもするように撫でていった。意味するところはただ一つで、この手のことに詳しくはないクリーチャーでも察せられる。

     自分はこれから犯されるのだ。俄には信じ難いが、他に考えようもない。逃げ出すことは難しいだろう、頼みの綱の口も捕らえられてしまった今、丸め込むことさえ封じられている。ナワーブ・サベダーは正気なのか、はたまた不用意に近づいたクリーチャーに怒りを燃やしているのか、あるいはそもそも触れてはならない危ない存在であったのかは定かではない。フードの影に潜む青年の顔を直視したくはなかった。あれは支配者の目だ。長いものに巻かれ、その威で弱い者を蹴散らしたクリーチャーには嫌というほどわかる。従わなければと思ってしまう。ここまでどうにか逃げ果せたというのに、また捕まるのはごめんだった。

     せめて、興味が薄れてくれればと願う。今となっては、仲間に気づかれることも恐ろしい。噂とは概ねねじ曲がるものであり、クリーチャーは格好の餌となるだろう。多少親しくなったとはいえ、荘園の住民は所詮は他人であり良い趣味をしている面々だ。助けてもらって、下手に借りを作りたくもない。だが惨めなことに、自分一人では到底逃げ出すことはできないとわかっている。

     存外柔らかい力で肩を押され、散らばった洗濯物の上にゆっくりと倒される。要所を抑えているのか、全く身じろぎもできない。腹の上にどっかりとのしかかられれば、内蔵がずんと重みに歪んだ。筋肉がみっしり詰まっているのだ、見た目以上に重いに決まっている。男性の体の重さなど、自分は知りたくもなかった――嗚呼せめてエマ・ウッズであれば、どんなに良かっただろう。彼女は淑女だ、無論こんなことはしない。ちゅぽん、と口内を甚振っていた指が抜かれ、クリーチャーはようやく大きく息を吸った。溺れ死にかけたかのような心地で空気が足りない。息を吸う。息を吐く。顎がだるくてたまらない。それでも何か、せめて一言くらいは言わねば。手痛いしっぺ返しが来ようとも、自分自身の矜持のためにクリーチャーはなけなしの勇気をかき集めた。

    「おしゃぶりの仕方はまた今度の話だな。うわ、うっすい腹」
    「……な、撫で回すな!降りろ、私から離れろ!」
    「はいはい、前戯はなしね」
    「ぜ、」

    赤裸々な発言に言葉を失う。まるで月の向こう側から落とされたメッセージのように理解ができない。神様と話したならば、こんな風に相手が一人わかった調子ですれ違うのだろうか。ナワーブが体勢を変え、顔を覗き込んできた。

     いとも残酷な神の顔は、歪み一つない純粋無垢な代物だった。



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    zeppei27

    DONE傭泥で、謎のスパダリ(?)ナワーブに悩まされるピアソンさんのお話です。果たしてナワーブの真意はどこにあるのか、一緒に迷いながら楽しんでいただければ幸いです〜続きます!
    ご親切にどうもありがとう/1 他人に配慮することは、相手に目に見えぬ『貸し』を作ることである。塵も積もればなんとやらで、あからさまでなしにさりげなく、しかし何とはなしに伝えねばならない。当たり前だと思われてはこちらの損だからだ。返せる程度の親切を相手に『させた』時点で関係は極限に達する。お互いとても楽しい経験で、これからも続けたいと思わせたならば大成功だ。
     そう、クリーチャー・ピアソンにとって『親切』はあくまでもビジネスであり駆け引きだ。慈善家の看板を掲げているのは、何もない状態で親切心を表現しようものならば疑惑を抱かせてしまう自分の見目故である。生い立ちからすれば見てくれの良さは必ずしも良いものではなかったと言うならば、曳かれ者の小唄になってしまうだろう。せめてもう少し好感触を抱かせる容貌をしていたらば楽ができたはずだからだ。クリーチャーはドブの臭いのように自分の人生を引きずっていた――故にそれを逆手に取っている。
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