月に叢雲花に風かぐや姫のようだと言われる聡実くんのはなし。
まるで密やかな逢い引きのようだと思った。
バイトの前の十分、学校が始まる前の十分、休みの日は日曜の夕方に十分、それだけ。
それだけしか、彼に会うことは出来ない。
バイトの後はすぐ寝たいんで、学校の後はバイトなんで、休みの日は予定があるんで。
つれなく、すげなく、でもそのひんやりとした上辺を剥いだら、そこには生身の彼がいるのだろう。
「君はまるで、かぐや姫……みたいだなって」
「は」
ぽかんと口を開いた彼が、すぐに眉間に皺を寄せる。
「……随分と、お綺麗なものに例えてくれるんですね」
どいつもこいつも。と続けたその声は小さく、だが確かに聞こえた。
「なんで、僕が指定の日時しかお会いしなかったか教えてあげましょうか」
彼は、片眉を上げて、口を笑みの形に変えた。普段とは随分似つかわしくない、どこか婀娜を含んだような顔。
「僕、煙の香りがするでしょう」
首元を、手のひらで数度さする仕草。
「僕、甘い香りがするでしょう」
右腕を、指先でなぞる仕草。
「心配なんやて。どこぞの男にかっさらわれるんやないかと。マーキングせな、落ち着かんのやて」
するりと口から滑り出したのは、関東とは異なる訛りの言葉たちだった。一瞬ギョッとしたが、その響きはあまりに今の彼に似合っていて、ぞくぞくと背中を震わせてくる。
「お客さん、僕にあんまり深入りせん方がいいですよ」
袖口のボタンを外して、ぐいっと捲り上げたそこから白い肌が覗いた。
「……っ!?」
布地に隠れて見えなかったそこには、くっきりとついた歯型と、強烈な鬱血の跡。
それは転々と肘から先、二の腕の内側まで見えて、そんなところまで彼が体を預けたのだとありありと分かった。
「今日も会う、言うたらこれ。服から見えんとこ、ぜーんぶこんなん。はは、おもろいでしょ」
手首についた、大きな指の跡を撫でて、彼はくすくすと笑う。
その跡を覆うように、見たこともない人物の手が掴んで離さない幻覚すら見えた。
逃がすまい、離すまい、自分のものだと主張する獣が透ける。
「嫉妬深いオトコに好かれると、大変ですよ」
オトコ、男。
この子は、男に抱かれているのだ。
こんなに嫉妬深く、絡みつくような熱烈な愛を受けながら、その上で笑っている。
「お客さん、もう来ん方がええですよ。そろそろ、僕も手網引くの限界や」
彼の後ろから風が吹いて、石鹸の香りがした。
その奥に、ずんと重い香水と、煙草の煙。
「僕、香水も煙草も知らんけど、さすがにぷんぷん香らしたままバイト出来へんし、学校行っても困るし。これ、お客さんへの牽制なんで、会わへんようなったらやめる言うんで」
そしたら。
と言い残して、彼はこちらを背に去っていく。
電柱の影が、ゆらりと伸びて、彼の隣に立った。それは影ではなく、真っ黒な服を着た大柄な男性。
そう、甘く派手な香水と、紙巻きの煙草が似合うような。
長い腕が、当たり前のように彼の腰を引き寄せて、彼は少しだけ困った顔をしながら、それでもぴたりと身を寄せて歩いていく。
ああ、彼の手のうちにあった手網は。
ぞくりと背が震えた。彼が止めているうちに早く行けと、その男はこちらを見ないままにそう言っているようだった。
月に叢雲花に風、とかくこの世は生きにくい。