すぐ隣にいる人の話 はじめは、なんてところに嫁いでしまったのだろうと思った。
ガラルの南に位置するハロンタウンは、豊かな緑に包まれた、とてもきもちのよい気候の土地だという印象しかなかった。けれど夫と出会い、実際にこの場所で暮らすうち、その豊かさは厳しい自然との戦いの上で成り立っていることに気がついたのだ。
ポケモントレーナーでもなかったわたしは、ウールーの一頭ですら扱うのに苦労した。毛刈りの時期が近づくたび、わたしはとても憂鬱だった。腰が痛くなる畑仕事も、毎晩の繕いものも、オイルにまみれた機具の手入れも、いつだって逃げ出したいものでしかなかった。
夜、わたしがベッドの上で泣きべそをかくたび、夫は穏やかに笑って言った。
「きみを苦しませたいわけじゃない。本当に辛かったら、外へ働きに出たっていいんだよ」
世間の目をちっとも気にしていないその言葉に、そんなことできるわけないじゃない、と言ってやりたかった。けれど夫が、いじわるで言っているわけではないことも知っている。実のところ、夫がこうして気遣ってくれるだけで、わたしは少し満足してしまう。
こうして、幼い頃から素直さが取り柄のわたしは、「しかたない、もう少し頑張ってやるか」とそのまま眠ってしまうのだった。そして夜明けを告げる目覚ましの音で、再び憂鬱な気持ちを思い出す。そんなことの繰り返しだった。
畑と牧を中心にして、雨と日光に振り回されるわたしの暮らし。けれどその世界の軸が、変わる時がやってくる。
「あ、いま、笑ったわ」
真新しいベビーベッドの中で眠るたからもの。ミルクのにおいを纏って、言葉のいらない自由な歌をうたうその子は、わたしの顔を見てふんわりと頬を緩めた。わたしと夫は三日三晩話し合って、そのたからものに「ダンデ」と名付けた。
瞬く間に季節が巡る。芽生えた苗木が太陽を目指すように、その子はすくすく育った。
ダンデがしゃべった、ダンデが立った、ダンデが転んだ。アルバムに収めきれないほど、なにもかもが新しい日々だった。ただ仕事に追われ、四季を繰り返すだけだったわたしの世界に、まったく新しい彩りが生まれる。
相変わらずハロンの暮らしに慣れないわたしは、畑や牧の世話をしたくなくて、ダンデの子守を理由に外へ出ないこともあった。夫や義両親はそれを快く許した。別に、わたしのわがままが許されたわけではない。以前、トウモロコシ畑でほんの数分目を離した隙に、ダンデが忽然といなくなったことがあったのだ。一家総出で探し回った末、川辺のふちでポケモンと遊んでいるのを夫が見つけた。こうしてわたしは、畑に行かない口実を得た。
手がかかるかわいいダンデもやがて大きくなり、サンドイッチを持って「あそびにいってくる!」と幼馴染の家へ一人で行けるようになった頃、わたしのお腹にもうひとつの新しい命が宿る。
二度目とあって、わたしには余裕があった。重たくなる腹も、身を引き裂く痛みも、いっそ懐かしくていとおしい。くちゃくちゃの赤い顔を見た時は、ああこれでまた暫くは畑に出なくていいかもな、とさえ思った。けれど神様は、わたしに大切なふたつを与え、かけがえのないひとつを奪った。
わたしの鼻先で揺れる黒いベールの向こう側は、まるで現実味がなかった。すっかり冷たくなったその体が、湿った土の中へ消えてゆく。わたしがどれだけ泣きべそをかいたって、優しく抱き寄せてくれるその人はもう、いない。
どこに立っているのか分からなくなる。目眩にも似た揺らぎに襲われ、視界の全てが輪郭を失う。足元から世界が崩れ去ってゆくような心地に、わたしはきつく両目を閉じた。けれどその時、暗闇の中でひとつ、灯るものを見つける。
「かあさん」
ダンデが、小さな手でわたしの服の裾を掴んでいた。いつだって元気すぎるくらいのその子が、今は表情を曇らせて、黒いスカートをちょこんと引っ張っている。
私は自分の腕の中へ視線を落とした。生まれたばかりの幼な子が、ついに父を呼ぶこともなかった唇で、己の親指を吸っている。
それは一瞬のことだった。大地を踏みしめた両足から、熱く沸き立つものが満ちてゆく。わたしの世界は終わってなんかいない。ひとつの命は失われたが、それとは関係なく日は昇り、季節が巡る。わたしは変わらず、明日を生き抜かなくてはならない。このふたつの命を、守らなくてはならない。わたしは、母だ。
わたしは奮い立った。それからは、赤子を背負いながら毎日仕事をした。雨の日も、風の日も、腰をかがめてイモを植え付け、オイルにまみれて農具を扱い、わめくウールーを抱えて毛を刈った。やがてホップがわたしの背中から下りても、ダンデが旅立ち、用意する食事が一人分減っても、わたしは変わらず畑と牧を中心とした四季を繰り返した。
畑でクワをふりかぶる時、鋭いバリカンで指の先を切った時、わたしはいつも声もなく唱えている。この畑の十平米が、あの子たちのパンやスープとなる。このウールー三頭分の毛皮が、あの子たちのノートや鉛筆となる。二人が火急の助けを必要としたならば、いくらでも切り取ってお金に換えよう。これらは必ず子どもたちを救うすべとなる。代々守り続けたこの土地は、きっとその時のためにある。
そんなある日、ずいぶんと家を空けていたダンデがはじめての里帰りをした。ポケモンが大好きだったこの子は、今やテレビ画面で無事を確かめるばかりだった。わたしは久しぶりに夕方の仕事を明日に回し、その子のために濃いシチューを作った。
見ない間にすっかり伸びた身長を自慢する姿は、かつてきれいな石をわたしに見せてくれた時のそれと変わらない。生まれた時と同じ、澄んだ金色の瞳を輝かせながらおしゃべりに勤しむその子を、わたしは力いっぱい抱きしめた。
夕食の片付けをしていると、後ろから「かあさん」と呼ばれる。振り向けば、さっきまでホップと遊んでいたはずのダンデが、手を後ろにしてもじもじと俯いていた。なにか言いにくいことがある時、この子はいつもこうしている。
お小遣いがほしいのかしら。それとも何か壊しちゃった? 今までのことを思い出しながら、「どうしたの」と尋ねると、ダンデが背中に隠していたそれを差し出す。
「これ、かあさんに」
それは一冊の通帳だった。かわいいウールーのイラストが描かれたそれは、ポケモンリーグ委員会から頼まれて、わたしが作って渡したものだ。なにごとかと開いてみて、わたしは言葉を失う。
「お金、どう使ったらいいのか分かんないから。だったらかあさんに恩返ししなさいって、委員長が」
そうなの、と返した声はわずかに震えていただろう。中に印字されているそれは、この子にとってはただの数字の羅列なのだろうが、わたしにはその価値が分かってしまった。
これまで細々と繋いできた、わたしの畑と牧を、全て売り払っても到底追いつかない。そのかわいらしい通帳は、そういうものだった。
わたしは、肩の力がすとんと抜けるのを感じていた。自分の手のひらをかざしてみると、昔は滑らかだった肌は荒れ、関節は節くれだっている。子どもたちのために、必死に働いてきた手だ。
でも、それももう、必要ないのかもしれない。
その夜、ベッドの中でわたしは久々に思い出した。ここへ嫁いだばかりのころ、弱音を吐いては夫の胸にすがって眠った日々のことを。いつまでも馴染めないハロンの生業を、苦々しく思っていた頃のことを。
ダンデが都会へ戻ったあと、わたしは夫が亡くなってから初めて、まる一日畑へ出なかった。ウールーたちの餌やりだけはこなして、あとはずっとベッドかソファの上で過ごした。わたしは、畑へ出ない日の過ごし方を、すっかり忘れていることに気がついた。
もういいのかもしれない。ふと、わたしは思う。これまで、あの子たちのためだと、必死になって畑と牧を守ってきた。いつか彼らのためになるだろうと、そう信じていた。
けれど時は流れ、子どもは朗らかにここから巣立ってゆく。わたしはもう、巣としての役割を終えたのかもしれない。
翌朝、目覚めたわたしは、これからの暮らしを支えるにはどれくらいの農地で事足りるのか、手放せるぶんはどれくらいなのか、計算を始めた。
土地の大部分を売り払うことについて、義両親には一番に伝えた。「あれはとっくにあなたのものだ、好きにしなさい」と二人は言った。家族になったのが、この人たちでよかったと思った。
なんとなく子どもたちには言い出せないまま、静かに手続きを進めた。ウールーの世話は相変わらず続けたが、そのうちにほとんどをよそへ譲り渡すつもりだった。
その日、取り寄せた土地の権利書を持って帰宅すると、義両親が揃ってテレビを見ていた。あなたもいらっしゃいと言われたので、何事かと近づくと、画面には肌の煤けた我が息子が映っている。白いフラッシュのまたたきの中、その子は川遊びの時と同じ顔で笑っていた。
「また試合に勝ったらしいの」
義母が嬉しそうに言った。わたしたち家族は、ホップを除いてポケモンバトルに明るくない。試合に勝つということが、いったいどれほどのことなのか、わたしにはいまいちピンとこなかった。けれど漠然と、喜ばしいことなのだということは分かっていた。そして、あの通帳の数字がまた大きくなるということも、もう知っていた。
やるべきことはたくさんあった。土地の権利書を整理すべくその場を離れようとした時、一人のインタビュアーが「いま一番やりたいことはなんですか」とダンデに尋ねた。
なんとなくもう一度テレビへ目をやると、ダンデが顎に手をやって口を閉じていた。真剣に考え込む時の癖がちっとも変わっていないことを、微笑ましく思っていると、やがてその子はゆっくりと言った。
「ウールーと一緒に昼寝したり、弟とトウモロコシ畑でかくれんぼしたい」
そしてその子は、照れくさそうにはにかんだ。
「ふるさとに、帰りたいです」
わたしの胸に、ハロンの爽やかな風が吹き抜ける。
どうしたの、と義父に言われるまで、わたしは自分が涙を流していることに気づかなかった。心配する優しい二人に、慌てて「なんでもないです」と伝えて、ごまかすように外へ出た。
もう太陽はずいぶんと傾いている。西の空は、すっかりあたたかな色に染まっていた。麦畑が金色に波打ち、遠くでウールーが鳴いている。トウモロコシは収穫の時期を控え、その緑の中にみずみずしい実をくるんでいる。
それらは今まで、わたしにとっては生業でしかなかった。生きるすべであり、糧であり、子どもたちのための蓄えだった。だからいつでも、簡単に手放すことができた。
けれどそうではなかったのだ。ここで生まれ、育ったあの子にとって、畑や牧の全てが彼のふるさとだった。よりどころであり、心の支えになっていた。わたしが四季を紡いできたこの風景が、あの子の帰るべき場所になっていたのだ。
わたしはポケットからロトムを呼び出して、夕陽に輝くハロンの景色を一枚撮った。そしてダンデに送信して、ついでにメッセージも打ってみる。
「今年もトウモロコシがよくとれそうです」
そしてわたしは、今日までさぼっていた畑仕事を指折り確認して、深いため息をつく。けれど不思議と、わたしの胸は清々しい気持ちに満ちていた。
日が暮れるまではまだ時間があるし、せめて草取りくらいはしてしまおう。明日になったら、不動産屋さんへ謝りの電話を入れよう。この土地は、やっぱりわたしが守ってゆきますと、そう言うのだ。
作業道具をしまう倉庫へ向かう足取りは、信じられないくらいに軽やかだった。やるべきことはたくさんあった。そして、あの子たちのために、今のわたしにできることもたくさんあった。
「さて、忙しくなるわよ」
麦わらぼうしの紐を結び、わたしは意気揚々と畑や牧へ繰り出す。
今日も、明日も。これからもできるかぎり、ずっと。
(すぐ隣にいる人の話/2021.09.08)