バニラフレイバーの常連さん あ、また来た。
その姿を見るたび、ダンデの頭には「六番」の数字が浮かぶ。彼とその番号は絶対的に紐づいていて、「お箸はいくつお付けしますか」の言葉と同じく、ダンデの体に染み付いたものだった。
彼はいつも、店内を少しだけ回る。けれど何も手に持たないまま、菓子パンの棚を通ってまっすぐレジにやってくるのだ。
「こんばんは。今日もタバコ、六番ください」
にこり、と音でも聞こえそうなほどの綺麗な笑顔。まっすぐ通った鼻梁や、やわらかく垂れる眦、黄金比に基づいた弧を描く唇の美しさは、今が深夜であるとは思えないほどみずみずしい。すっかり見慣れてしまったダンデは「少々お待ちください」と待たせることなく棚から取り出し、カウンターに置いた。
彼は電子決済を好む。そのスマホには、瓶ジュースの王冠を模したキーホルダーがぶらさがっているので、タッチする時にキンとぶつかる音がする。その度にいつも「これ、よく飲んでたなあ」とダンデは思う。
「ありがとね」
「ありがとうございました」
お礼の応酬をして接客終了。彼は甘い香りを少し残して、藍色でたっぷりと満たされた夜に消える。
常連客は数多く、ハードクレーマーや挙動不審な客などの強烈な人もいる。けれどダンデの胸に強く残るのは、そういう味の濃いキャラクターたちではない。深夜にやってきて、タバコを一箱だけ買っては甘い香りを残していく、あの美しい人なのだった。
「ダンデくん、お疲れさま」
店長が仮眠から戻ってきた。そろそろダンデの休憩の時間だ。簡単な引き継ぎを済ませ、裏に引っ込もうとした時、ふとダンデの頭に疑問が浮かぶ。
「イケメンはみんな、いい香りがするものなんですかね」
「またダンデくんが変なこと言ってる。それ、新しい論文のテーマ?」
「確かに香りは有機化合物で、有機化学は自分の研究室でも一部研究対象にしてるんですけど、おれはどっちかというと、」
「あー、ごめんごめん。このまま聞いてたらダンデくんの休憩時間無くなっちゃいそうだ。もうここは僕に任せて、休憩室行ってきな」
ダンデは、研究の話になると数十分は話し続けてしまう。店長は慌てて、この研究熱心な学生をスタッフルームへ押し込んだ。
スイッチを押されてしまったダンデは、この熱を発散すべく休憩室でパソコンを開いた。学会発表用のスライドをまとめていくうち、頭がしんと冴え渡っていく。体の隅々まで化学式に満ちていくさなか、彼の甘い香りがふと鼻先に蘇った。ほんのわずかに手を止めて、元素記号が迫りつつある脳みその片隅で考える。
スマホについてるジュースの王冠のキーホルダー、彼もあれをよく飲んでたのかな?
今夜も自動ドアが彼を迎える。面白みのない白い照明の中で、彼は甘い香りの尾を引きながら商品棚の間を歩く。ちょうど客足が途切れていたので、今はダンデと彼の二人きりだった。
やはり何も持たないでレジ前に立った彼に、ダンデはとうとう「いつものですよね」と見慣れたパッケージをカウンターに置いた。定型文しか口にしない店員が話しかけてきたのだから、そうとう驚いただろう。彼にとってはきっと、絵画の中の人間が突然喋り始めたようなものだ。
でしゃばったことをした、とわずかに後悔したのも束の間、「ありがと。覚えててくれたんだ」と彼が照れくさそうに笑った。いつもよりも深い目尻のしわの優しさに、今度はダンデがどきりとしてしまった。そうか、そういう笑顔もできるんだ。
「もしかして、おれって通いすぎかな? タバコの人ってイメージだよね、やっぱり」
「あの、それもあるんですけど」
突然訪れた会話のチャンスに、ダンデの声が上ずる。あのきれいな顔がこちらを向いているのだと思うと、どうにも顔が上げられない。「それ、」と彼のスマホを指差す。
「そのキーホルダーの王冠、⚪︎⚪︎サイダーですよね」
「え、よく知ってるね。もう生産終了してるし、販売期間も短かったのに」
「よく飲んでたんです。いつの間にか店から消えてて、すごく寂しかった」
「へえ、そんなに好きだったんだ」
「好き、というか……」
ダンデはキーホルダーを見ながら当時のことを思い出す。合成着色料が遺憾無く発揮された独特の色味と、見た目よりは爽やかな後味。しゅわしゅわと喉を撫でる炭酸の感覚。けれどダンデが気に入っていたのは、中身だけではない。
「ビンが持ちやすくて、飲みやすかった。あとは、」
「あとは?」
「商品棚の中でも、ついつい目に入っちゃうんですよ。ビンの形と、ラベルの色がきれいで。商品がたくさんある中で、こっちだよ、おれを見つけて、って言ってるみたいで」
と言ってしまってから、はっと口を閉じた。またやってしまった。自分の感覚が、相手の考えとイコールになることはそうそう無い。店長がいつも口にする「またダンデくんが変なこと言ってる」という言葉が頭の中でリフレインする。
おそるおそる見上げると、彼は想像もしていなかったような表情を浮かべていた。
「あのさ、それ、ほんと?」
「え? ええ」
ぱちん、と彼は手のひらで口もとを抑えた。まるで何かが飛び出してくるのを押し留めているみたいだった。よりいっそう輝き始めた青い瞳は、ダンデをまっすぐに射抜いている。
彼が、ううん、と上擦った声で唸ったきり黙ってしまったので、やたらと明るい店内放送のアナウンスが耳につく。どうしたらいいのかわからず立ち尽くしていると、彼は「……キバナ」と言った。
「おれ、キバナって言うんだ。あなたは?」
「ダンデ、です」とついつい名乗ってしまう。
「そっか。ダンデ」
きれいな顔の彼、もといキバナは、大切そうにダンデの名前を数回口にすると、「よろしくね、ダンデ!」と言った。二人の間には、まだ会計も済んでいないタバコが一箱、おとなしく横たわっていた。
キバナの名前を知った夜から、彼はこれまでよりも頻繁に姿を現すようになった。買うのは相変わらず、六番のタバコを一箱。これまでと違うのは、他に客がいない時は短い世間話をするようになったことだ。
どうやらキバナは社会人であるらしい。帰宅のついでにタバコを買い足しているということだった。基本的には深夜シフトのダンデとよく顔を合わせるのだから、職場は相当な激務なのだろう。
ある日、休憩室で店長と雑談をしているうち、常連客の話になった。週に一回からあげを四個買っていく客、漫画雑誌を全て立ち読みしていく客、来店したら靴下を全て買い占める客。そしてダンデは「あと、すごいイケメンが来ますよね」と言った。
「すごいイケメン?」
「背が高くて、顔がきれいなんです。必ず六番のタバコを一箱だけ買って帰るんで、覚えちゃいました」なんとなく、お互いに名前を教え合っているということは言わなかった。
すると店長は怪訝そうな顔をして「そんな人、いたかな」と首を傾げた。
「僕がレジに入ってる時、そんなイケメン見たことないけど」
「うそだ。おれのシフトの時、だいたい来てますよ。ちょっと甘い香りがするんです」と店長の記憶を引っ張り出そうとするも、依然として店長は首を傾げたままだった。やがて「ダンデくん、それって幽霊なんじゃないの」と言い出す始末だった。
「何言ってるんですか。二本の長い足で歩いてましたよ」
「でもさあ、この土地で昔いくさがあったらしいよ。この建物の建設工事中に怪我人が出たのは、兵士の怨霊のせいかもしれないって」
「イケメン、いま流行りの服着てましたけど」
「まあとにかく、僕はその人を見たことはない」
そろそろ店長の休憩時間が終わる。不服そうな面持ちのダンデに、店長は肩をすくめた。
「それにしても、ダンデくんがいる時にだけ現れるなんて、よっぽどダンデくんのことが好きな幽霊なんだね」
そう言って、休憩室から彼の戦場へと繰り出していった。
「え、おれが幽霊?」
店長との話をかいつまんで聞かせると、キバナは目をぱちくりさせたが、やがて「ちゃんと人間だよ」と大きな声で笑った。ダンデは店長の話を信じていた訳ではないが、彼自身で幽霊説を否定してくれたことで、わずかにホッとした。
「店長、全然信じてくれないんです。すごくかっこいい人がいるんだって言っても、この世のものじゃないからでしょ、とか言われて」
「……すごくかっこいい人、かあ」
「必ず『こんばんは』って言ってくれて嬉しいんですって言っても、適当にあしらわれるし」
「……嬉しいんだあ」
「もしかしてキバナさんは、この時間以外には来てないんですか?」
いきまいて尋ねたダンデの、その勢いは空中に霧散した。
彼の青い瞳から、静かな光がしんしんと放たれていたのだ。さっきまで大笑いしていた男と同じとは思えない、艶やかな色がそこにある。
「どうしてだと思う?」
「え」
「どうして、この時間にだけ来るんだと思う?」
「そんなの、」分からない、とは言えなかった。彼から目を逸らすこともできない。まるで蛇に睨まれた蛙みたいに、ひたすら立ち尽くしていた。キバナはゆっくりとカウンターへ手をつき、さらに顔を寄せる。
「ちょっと怖いこと教えてあげようか」
ぞくりとしたのは恐ろしいからではない。いつもより近くで見る彼から、匂い立つような美しさが発散されたからだ。空の色に近い瞳や、彼をかたどる曲線は、万物全てにおいての「正解」であるような気がした。圧倒されるダンデの沈黙を肯定とみなしたキバナは、その唇で言葉を継ぐ。
「おれね、タバコ吸わないんだ」
彼はいたずらっこみたいに笑った。
「それでも、週に何度かここでタバコを買ってる。買いに来るのはダンデがいる時間だけ。ねえ、意味分かる?」
きっとその瞬間、地球の自転はいくらか遅くなっていた。ついでにダンデの頭の回転も止まっている。
たっぷり数秒経ったころ、ようやく全てが回り始め、たちまちダンデの頬に熱が集まる。え、どういうこと? そういうこと? いや、そんなのあり得るのだろうか。
そうして、すっかり忘れていた店長の言葉が身体中で反響する。ダンデくんがいる時にだけ現れるなんて、よっぽど──……。
ぴぴ、ぴこん。電子決済完了の音がダンデを引き戻す。ほとんど条件反射のように、慌ててレシートを差し出した。
「ありがと」とキバナは何度も見た笑顔で受け取った。けれど今夜は少し違う。カウンターに置いてあったペンを使い、裏に何かを書いている。
「これ、おれの連絡先。もし良かったら、今度ごはん行こうよ」
自動ドアが彼を夜へと送り出す。厚いガラスに挟まれた藍色の隙間で、彼は無邪気に手を振っていた。
「そしたらさ、幽霊とデートに行きましたって自慢できるよ」
ありがとうございましたぁ、とロボットと化したダンデが呟く。去り際に見えた、キバナの意外と真剣な瞳が網膜に焼き付いている。ダンデは渡されたレシートを握りしめたまま、長い間立ち尽くしていた。
外では、やたらと綺麗な月が漂っている。
◇
「ほら、タバコをたかりに来てやりましたよ」
長い髪をモノクロに染め上げた、個性あふれる同僚に背中を小突かれる。味も知らないタバコの箱を渡すと(ネズいわく「香りはお前が付けてる香水に似てますよ」)、お礼の代わりに「懲りませんねえ」とため息が降ってきた。
「理解できませんよ。コンビニバイトに惚れ込んで、吸いもしないタバコをちまちま買い続けるなんて」
「おれさまが幽霊なんじゃないかって、店長に疑われてるらしい」
「似たようなもんでしょ。そのバイトのコに取り憑いた悪霊だね」
「歌にしてもいいよ。最近趣味で作ってんだろ」
「再生数伸びなさそうだからパス」
「ちぇ、バズったらいくらか貰おうと思ったのに」
「あんたは本業で稼げ。こないだの新商品の企画、どうなったんです」
「流れたあ」
「おっと」
ネズはわざとらしく口元を抑えた。けれどキバナは気にすることなく、スマホのキーホルダーを取り出して眺める。
「でも頑張るぜ、おれさま」
あのコが好きだと言った王冠が、きらりと光った。
「またダンデに褒めてもらえるものが、──見つけてもらえるものが作れるように、頑張るんだ」
「案外単純というか、純粋というか……」
「え?」
「なんでもありませんよ」
そんなことよりネズ、初デートどこ行ったらいいかな!? いきなりフルコースのディナーって重すぎるよね!? 無難にカフェでお茶の方がいいのかな!? キバナがすがりつくので、ネズは「うっとおしいっ、自分で考えんしゃいっ」と振り払った。
ハッピーエンドのラブソングになるまでは、まだまだ遠い道のりである。
(バニラフレイバーの常連さん/2023.10.8)