キャンバスから眺める風景 そのこどもの手帳に刻まれた分刻みの縦線は、まるで檻のようだった。
たった数ヶ月前までは、ウールーとともに風を追い、草原を駆けるひとりの牧童だったダンデ。たった一枚の紹介状を握りしめ、のどかなふるさとから踏み出したその先で、彼は真価を発揮した。
流星のように現れ、ポケモンリーグという地に降り立ってもなお眩いその子の輝きに、ガラルの全てが熱狂した。ちいさな頭に王冠を戴いた彼の、一挙手一投足に無数の目が追って回る。
決勝戦の前に食べたサンドイッチ、寝る前に読み聞かせられた絵本、お気に入りのキャップ。ダンデという子どもを構成している、ただそれだけで、田舎町のパン屋は人が溢れるほどに繁盛した。絵本はどこの本屋でも品切れになった。キャップは「ダンデモデル」という名前で復刻されることになった。彼が何気なく口にした言葉は、彼の知らないところで金貨や銀貨に変わっていく。
そうしているうち、ダンデの時間が切り売りされるようになる。ポケモンリーグ委員会の所属となった彼に、マネージャーというものがついた頃。スマホロトムの使い方がまだおぼつかないダンデのために、彼女は一日の予定を手帳に記して見せてくれた。先のまるい鉛筆では到底書ききれないような、そのこまごまとした線と文字に、ダンデはめまいを覚えた。
朝起きる。ウールーを小屋から出し、木陰で昼食をとる。日が落ちる前にウールーを追い立て、小屋に戻したら家に帰る。シンプルなタイムテーブルで暮らしてきたダンデにとって、千切りキャベツみたいな細切れの一日を過ごすのは、まるで別世界に迷い込んでしまったかのようだった。その時間のきれっぱしのひとつひとつに、莫大な金が動いていることもまた、その子をひどく困惑させた。祖母の肩叩きを十五分したって、銅貨いちまいだったのに。
ダンデ、という子ども自体に市場価値が生まれていた。需要は高まるばかりなのに、ダンデはたった一人なので、供給が追いつかない。そのうち、ダンデの知らないところで、ダンデの過去が売り買いされる。迷子になってひとり泣いていた川辺。園庭に埋めたタイムカプセルの中身。クラスメイトとのささやかな内緒話。たった数人だけが知り得るようなことが、インターネットの検索欄に「ダンデ」と打ち込むだけで、誰でも見られるようになっていた。そういうもののやりとりが、どこかで紙幣に換金されている。
「おまえ、大丈夫?」
キバナがそう尋ねるのも、無理はないことだった。ダンデが暮らすマンションへ出向いてまで様子を見に来たのは、新チャンピオンとして「洗礼」を受ける子どもを見るに見かねての親切心だった。
そういうキバナだって若い。ダンデとは同年代だし、まだ未熟な部分も多々ある。けれど黙っていられなかったのは、ジムチャレンジで出会った時に「これから、おれたちはライバルだ」と初対面でも言い放ったダンデのまぶしい瞳が、日に日に曇っていくように見えたからだ。あの輝きは、キバナの心にずっと焼き付いている。それは、損なわれてはいけないもののような気がした。
「いろいろあると思うけど、あんまり気にしない方がいいぜ。バトルのことでも考えてた方が楽しいだろ」
おれさまも困ってるけど、無視することにしてるんだ。なんてことないように肩をすくめて見せると、窓の外を眺めていたダンデがこちらを向いた。その無機質な表情に、キバナは言葉を飲みこんだ。
「たまたま、見つけたんだ」
ダンデはそれだけ言うと、スマホロトムの画面をキバナに向けた。それはオークションサイトのホームページで、よれたビーズのブレスレットが出品されている。
落札価格は、高級車一台ぶん。
「これは、昔おれが作ったんだ。入院したクラスメイトのために、元気になってねって言って渡した」
ダンデは再び、窓の外へ顔を向けた。
「ビーズだって自分で選んだ。すごく、すごく頑張って作ったんだ。その子のためだけに、作ったのに」
「ダンデ」
「そういうものでも、お金があれば買えちゃうんだな」
その子は、そう言ったきり、もう何も話さなかった。いつまでも、日が暮れても、電気すらつけずに窓辺に座ったままだった。キバナはかけるべき言葉を失い、ただひたすらその子の傍らに立っていた。
はじめは小さなメモ帳とペンだった。そのへんのコンビニでも売っているような、なんの変哲もない文房具。キバナがときどき様子を見に来るたび、切り離されたメモ帳が床に散らばっていた。戦術でも練っているのかと思いきや、その紙片に描かれていたのは、ただの四角い線と、黒く丸いぐるぐるがいくつか。
それが、この部屋の窓から見た景色だということに、気がつくまでには数日かかった。黒いぐるぐるは、空を飛ぶアーマーガアだったようだ。まだ誰にも値踏みされていない紙は、少しずつ床を覆っていった。
スケッチブックと色鉛筆を与えたのはキバナだ。最初の数ページは、広大な土地に迷い込んできたような色と線が描かれていた。茶色や、青や、緑など、シンプルな名前の色鉛筆ばかり短くなっていく。けれどそのうち、ディープレッドだとか、フーカーズグリーンだとか、キバナには違いが分からないような色も使われるようになった。どう使っているのだろう、白も案外先がまるくなっている。柔らかい紙の上で、線が駆け、色が踊る。言葉にはできなくても、ダンデの目で、耳で、肌で感じ取った全ての物事が、この世のどんな単位でも量れない尊いものたちが、スケッチブックの一枚ずつに写し取られている。
キバナがそれらを見ることを、ダンデは許した。きっとこれだって、ぴかぴかの額縁に入れて飾っておけば、数多の人間が金を払って見にくるだろう。大枚をはたいて買おうとする者もきっといる。
けれどキバナは、このスケッチブックは二人だけの秘密にした。今後一生、これは誰にも見せないと、心の中でひそかに誓う。ゼロの数だけで表せる価値なんて、つけさせてやるものか。
ダンデに「燃やしてほしい」と頼まれたら、キバナは躊躇なく火をつけることができる。ナックルシティの宝物庫の奥深くにしまってほしいと言われたら、あらゆる手段を尽くしてもそうするだろう。
その代わり、ひとつだけ許してほしいことがある。ダンデの部屋の片隅で見つけた紙切れを一枚、キバナはこっそり持ち帰っている。
ある日、それは偶然目に入った。色とりどりの窓枠が散らばる床に、白黒の何かがぽつんと落ちていた。この頃はすっかり色鉛筆に夢中だったダンデが、鉛筆だけで描き上げるのは珍しいことだった。何色もある緑色を真剣に選んでいるダンデを横目に、キバナはそれを拾い上げる。そして気づくのだ。黒鉛でかたどられているこの手のひらは、自分のものだと。爪の形も、血管の走り方も、見慣れた自分のそれと同じだった。まるで何かに手を差し伸べているように、やわらかく指を開いている。
紙片に描かれた他愛もない手のひらのスケッチは、写真立てに収められ、キバナの寝室でひっそりと息づいている。
頼まれることがあれば、ダンデの絵を燃やしてやるつもりだし、宝物庫にしまってやるつもりだ。けれどこの一枚だけは、他のどんなことでもしてやるから、キバナに譲って欲しいと思っている。これは証なのだ。ダンデの心の、値札のつかない部分にキバナがいたという、証。
誰に頼まれたって、どれだけ金を積まれたって、見せてなんかやらない。この一枚の紙切れの価値は、──価値などつけられないほどに尊いものであるということは、このキバナにしか分からない。きっと、ダンデでさえも分からない。
キバナは、ずっとずっと先のことを考えてみる。いつか自分が棺に入るその時は、このスケッチも一緒に入れてもらおう。そうして、万物の一切を天秤にかけてもつりあうような紙切れを、この世界から永遠に持ち去ってしまおうと思う。
想像するだけで、キバナは少しわくわくするのだ。
(キャンバスから眺める風景/2023.10.16)