高級鞄にキーホルダー ダンデのポケットにはいつも、ジュラルドンの小さなキーホルダーが入っている。ダンデはときどき、ポケットの中で、すこし汗ばんだ手でそれを握る。けれどすぐに、しょんぼりと手放している。そういうとき、目の前には必ずキバナという男がいる。
このキーホルダーは、チョコレートのおまけでついてくるものだ。箱を開くまでは、何が入っているのか分からない。ダンデはここしばらく、ずいぶんとチョコレートを食べた。メタモンだったり、ミミッキュだったり、かわいらしいポケモンがずらりと棚の上に並んでゆく。
今度こそ、と開いた中にモルペコ(これでみっつめだ)を見つけたとき、もういい加減やめようと思った。甘いものを食べすぎたせいか、ぽっつりとニキビができてしまっていたし、なによりお目当てのものが出てきたところで、どうすればいいのか分からない。これで終わりにしよう、と適当に破った小袋に、幸運の女神は微笑んだ。
それからずっと、ダンデは小さなジュラルドンと生活している。仕事先でも、プライベートな買い物でも、いつもポケットに彼がいた。狭くて安全なその場所で、突然上がるダンデの体温を感じたり、たちまち早くなる鼓動に揺られたり、「き、きみ、ジュラルドンのこと好きだよな。いや、別になんでもないんだが」という不器用な言葉を聞いたりしていた。
この小さなジュラルドンは知っている。ダンデは仮の主人であり、これから別の人間のもとへ行くことになるのであろうことを。
ダンデは、キバナに贈り物をしたい。いつもいつでも気にかけてくれて、休日はこもりがちなダンデを外に連れ出してくれるキバナ。ポケモンバトルさえあればよかった世界に、たくさんの色を与えてくれた、大切な人。
いつもキミの時間をもらってばかりですまないぜ、と言うと彼は「おれさま、デートだと思ってんだ。だから、そんなこと言うのは野暮ってもんだよ」とウィンクをした。こういう時、冗談でやわらげる気遣いを見せるのがキバナという男だと、ダンデは思っている。
マーケットの片隅に陳列されていた、そのチョコレートを目にした時、それがキバナの手のひらの上に乗っている様子が天啓のように閃いた。ちいさな相棒を、嬉しそうにつつくキバナが見えたのだ。いてもたってもいられなくなって、次の瞬間、ダンデの買い物かごには、たくさんのチョコレートが入っていた。
さて、お目当てのジュラルドンは来てくれた。キバナは相変わらずダンデに優しい。あとはダンデが「これ、キミに」と手渡すだけでいい。けれどそれができないのは、ダンデの勇気がいまいち足りないせいなのだ。
ダンデは昔、贈り物に失敗したことがある。それはチャンピオンになったばかりの頃、母の誕生日のことだった。
ハロンタウンで暮らしていた時は、隣町の雑貨屋が世界の全てだった。幼馴染のためのワンパチのレターセットや、祖父母へのおそろいのティーカップを買っていた。
けれど今は違う。華やかなシュートシティに住むダンデの目の前には、無数の選択肢が広がっている。鮮やかなショーウィンドウの中には、ひらひらした服や、きれいなネックレス、何も入らないような小さいバッグがひしめき合っている。どれも正解である気がしたし、どれも違うような気もした。
店の前でうんうん唸っていると、迷子だと思われたのだろうか、きれいなお姉さんが「どうしたの?」と声をかけてくれた。流行りの服に身を包んだ彼女は、新チャンピオンの顔は知らないようだった。ダンデは妙に恥ずかしくなって「いえ、なんでもないです」と走り去ろうとしたが、そのお姉さんの手元に目を奪われた。彼女の爪が、きれいな翡翠の色をしていたのだ。
母はハロンの草はらが好きだった。朝日を受けて光る、緑色の海を愛している。ダンデは、その色をプレゼントしたいと思った。母の指先に、母の好きな色が灯ったら、どんなに素敵だろう。ダンデのプレゼントが決まった。
翌週、母の誕生日に合わせてハロンに帰ったダンデは、早速その包みを渡した。リボンを解いて現れた小瓶を見た時、彼女は目を丸くしてから「ありがとう」と息子を抱きしめた。母は寝る前、最近つけ始めたという老眼鏡をかけ、不慣れな手つきで爪を塗った。
次の朝、ダンデがリビングに向かうと、畑仕事を終えた母が帰ってきた。彼女は笑っていた。
「やっぱりこういうのは、都会のきれいな人がつけるものね」
彼女の爪の緑色は、ところどころ剥げ、欠けていた。鍬を握ったり、芋を運んだりする母の指先では、その色は一日も保たなかった。
「ごめんね、ダンデ。せっかくくれたのに」
その言葉に、ダンデは「ううん」としか返せなかった。鈍感で、不器用なダンデにも分かった。きっと数多ある正解の中で、そのプレゼントは不正解だった。
今、翡翠色の小瓶は、化粧台の片隅で眠り続けている。
それ以来、ダンデはずっと自信がない。何日も費やして贈り物を選んでも、その人がどれだけ笑顔で受け取ってくれても、その日の晩には必ず「本当にあれでよかったのだろうか」と悩んでしまう。自分が選ばなかったもの全てが、実は正解だったように思えてしまう。シャワーを浴びながら、大声で叫びたいような気持ちになる。
だから、ダンデのポケットに潜むジュラルドンは、いつまでもそこにいるのだ。
そんな日々が続いたある日、ナックルシティに用事があったダンデは、ついでにジムにも顔を出そうと思い立つ。次の予定までのタイムリミットが迫る中、ダンデの足取りは自然と早まる。ポケットの中のジュラルドンは、あたたかくて暗いその中で上へ下への大騒ぎだっただろう。
「よう、ダンデ」
健脚だったことも幸いし、なんとか十五分くらいは時間が取れた。ほとんど走ってきたダンデは、肩で息をしていたけれど、キバナの顔を見た途端疲労なんて忘れてしまった。
「ナックルシティに用事があったんだ。せっかくならキミにも会いたいな、と思って」
「そんな嬉しいこと言ってくれるの?」ありがとう、とキバナは笑った。「しかも、走ってきてくれたんでしょ。汗すごいぜ」
これで拭きなよ、とやわらかそうなハンカチを差し出されて、ダンデは慌てて自分のものをポケットから取り出す。その時だった。
かつん、と何かがこぼれおちた。
「あ、ジュラルドン」
それが一本の針だった。ダンデの胸で膨らんでいた、不安の種が破裂する。
こんな子供っぽいものどうしたの。そんなのおもちゃのおまけでしょ。キーホルダー、つけるところなんかないよ。すぐに壊れそうで困っちゃうな。──誰かが言ったわけでもないのに、誰かの声が聞こえてくる。それは目の前の人の、一番聞きたくない声に似ているような気がした。
「こ、これは」
「ダンデのもの?」
「ちがうぜっ」と拾ったはいいものの、後の言葉が続かない。口をぱくぱくとさせていると、キバナが続きを引き取ってくれた。
「もしかして、誰かにあげようと思ってた?」
ああ、もうここまでだ。今ダンデに残されたのは、たったの二択。イエスか、ノーか、その分岐点は明らかに決定的で、進んでしまえばもう戻れない。
けれど沈黙に耐える度胸もない。ダンデは崖から飛び降りるような気持ちで顔を上げた。
なぜかそっぽを向く、キバナの横顔がそこにあった。妙に忙しなく目を泳がせる、キバナがいた。
「それってさ、ジュラルドンでしょ。おれさまの相棒ってさ、ジュラルドンなのよ」
いや、そんなの十分知ってるぜ。
「だからおれさま、ジュラルドン大好きなんだわ」
それもよーく知っている。
「そういうグッズあったらいいなー、バッグに付けてみたいなーって思ってたんだ」
だから、さ。そのー、ね。歯切れの悪い言葉、しきりにバンダナをいじる指先、定まらない視線。
鈍感なダンデにも分かる。キバナの顔に、答えがはっきり書いてある。
ダンデはそれを読み上げるだけだった。
「これ、キバナにあげる」
その時の彼の表情と言ったら。
「ありがとう、ダンデ! とっても嬉しいぜ!」
ぽとり。キバナの手のひらに、小さなジュラルドンが着地する。キバナはそれをぎゅうと握ると、世界で一番大切なものにそうするみたいに、やわらかくキスをした。
「ダンデからの、はじめてのプレゼントだ」
そう言って、照れくさそうに笑った。
ダンデはようやく思い出す。あの日、誕生日プレゼントを受け取った母の笑顔を。母は、ありがとう、と言っていた。嬉しそうに、翡翠色の小瓶をそっと手のひらで包んでいた。あの小瓶は今、化粧台の片隅の、いつでも目にとまる場所でぴかぴかと光り続けている。埃をかぶっているところなど、見たことが無かった。
失敗したと思っていたのは、おれだけだったのかもしれないなあ。
「もっと早く、キミに渡していればよかったな」
ぽつりと呟いた言葉は、浮かれたキバナの耳には届かない。
「ダンデからのプレゼント、ずっと大事にするからな!」
ふと、ダンデは想像する。チョコのおまけのキーホルダーひとつで、空のてっぺんまで飛んでいってしまいそうなキバナに、これ以上ないくらいのプレゼントを渡すことができたなら。サプライズ仕立てにして、スーツをびしっと着てみたりして、花束なんかも添えちゃったりして、「これ、キミに」と差し出すことができたなら。
そんなものがあるのなら、ダンデはキバナに贈ってみたい。今はそれが何なのか、見当もつかないけれど。
きっと、たっぷり悩むことが大切なのだ。頬をゆるませて、バッグにキーホルダーをつけるキバナを見ながら、ダンデは早速あれこれ考え始めるのだった。
(高級鞄にキーホルダー/2023.08.10)