手と手と猫と手「…こっちでいいわよ」
出された右手を払って、左手に自分の右手をあてがう。
「おお…?」
あんたはなんだかよくわからないような顔をして、けれどいつもあたしの言う通り、左手を貸してくれる。
ごく、たまに。
気が向いた時に、なんとなく手を、繋ぐ時がある。
あんたの左手に、あたしの右手。
いつものパターン。
それはある日の学校からの帰り道。まん太と別れたあんたは、そのまま気ままに家路を歩いていた。あたしはそのまま2メートルくらい後ろを歩く。追いつかないように離れすぎないように。
待ちなさいと言えば立ち止まるだろう。鞄持ちさせたいならそうすればいい。でもあたしはあんたの背中を見るのが好き。ぼさぼさなのに風に泳ぐ、軽くて柔らかい髪。かんらかんらとサンダルの音、踵にかけられた重心はすっかり気を抜いているしるし。
鞄ひとつ持たない手は無造作にブラブラさせたり頭の後ろで組んでいたり。あんたもっと気合い入れなさいよ全身に。そう言おうかと思うけど、ただなんとなく眺めたい時もある。
右手は利き手。あんたが春雨を握るほう。誰かに差し伸べるほう。あんたがあんたの意志で使う、選び取るための手。
だからねそれ、まだ欲しくないのよ。
左手。右手を助ける手。春雨の鞘を掴むほう。授業で居眠りする時頬杖をつくほう。ないと困るけど右手ほどではないみたいな、ついでみたいな、余ってるような手。
そっち。あたしと繋ぐのは、そっちでいいと思う。
右手はまだ欲しくない。
そう。たぶん。
「おー、おまえこないだのやつか?」
呑気な声が聞こえて顔を上げた。葉はしゃがみ込んで足元の何者かに声をかけているようだった。
「………」
「お?どうしたアンナ、おまえも撫でるか?」
そう言って笑う葉の右手の先には黄緑色の目、黒と白とオレンジの三毛猫。すりすりと頭を擦り付けられているところを見ても、どうやら初対面ではないらしい。やたらと手慣れた風に媚びてくるものだ。人の旦那に。
「……メスね」
「おっ、そうだぞよくわかったな?」
「三毛のオスなら良い値がつくんだろうけど」
「…メスだぞ」
青ざめた顔で三毛猫を庇うように広げた葉の手を、そのメス猫は舌でチロチロと舐めた。ちら、とこちらを伺うように眺めてから、みゃあ、とお気に入りの手の主に向かって鳴く。
「……あんた」
「う、ういっ!?」
「帰るわよ」
「あっ、おいアンナ?」
面白くない。
面白くなくて早歩きすると、慌てたように「じゃあまたな」と猫に謝る声、それから走ってあたしに追いつくと、横に並んだ。
「そりゃあ、オスじゃなかったのは残念だったが」
「そういうことじゃないわよ」
へ?と呆けた顔が憎らしい。こいつは、あたしが本気で野良猫を売り払うとでも思っていたのか。
「なにさ猫にまで舐められちゃって」
「な、舐めるだろ猫なんだから」
そういうことではない。あたしはあんたの手が、あんたの大事な右手が舐められたと、言っているのだ。
けれどそんなこと言いたくもないので無言で手を伸ばす。
「ほら!」
葉は急に出されたあたしの空の手とあたしの顔を交互に見て、そしてどうやら鞄持ちではないやつだと、ようやく気づいたらしい。
「お、おお」
そう言っていつものように左手を伸ばしてきたので、パシッとその甲を叩く。
「いてっ!なんだよ?」
「ちがう、そっち!」
顎で反対の手を指す。
葉は再度首を傾げ、差し出したあたしの左手を見て、さらにもう一度首を傾げた。
「いつもと逆じゃ」
「いいのよ。右手寄越しなさい」
苛々しながら言うと、葉は先ほどメスの三毛猫に舐められた右手をぼんやりと見、そして舐められたとところをシャツでゴシゴシと拭うと、ようやくあたしの左手を取った。
「…なんか変な感じだな」
「そう」
「いつもと違うと、なんかこう」
「いいでしょたまには」
「まあ、うん」
悪くはねえな。そう言った声はまだ不思議そうだった。くだらないことで主義に反する行いをしてしまったことに、多少は気不味さはあるものの。
「猫よりはね」
せめて優先して欲しい。さすがに。猫よりは。
「なんか言ったか?」
「別に」
まだ何か言いたそうな葉の視線には気づかないふりをして。いつもより力強い右手の感触に、少しだけ甘えることにした。