運命の片想い 元々歳の離れた兄がいたせいか同級生や歳下には興味はなく、子供の頃から大人が好きだったように思う。自分の年齢が二桁に乗る頃にはもう兄は成人していて、正に『大人』だと思ったものだ。
大学を出てから就職をした兄に誘われて連れて行ってもらった彼の職場のバーベキュー。そこで、鯉登音乃は初めて『運命』を感じたのだった。
と、ここまでが、音乃のよくする『運命』の話。行きつけのファミレスの軽いテーブルを挟んだイス席で杉元が瞳をキラキラと輝かせる。
「は~、それ何度聞いても好き」
「そうだろう」
杉元は高校に入ってからできた友達で、音乃はふんと鼻を鳴らして胸を張った。制服のブラウスがややきつそうに左右に引かれ、ボタンが窮屈そうだ。
「で、進展は?」
この先の展開を知っている杉元が分かり切った意地の悪い顔でそう問うと、先刻まで自慢げに大きくなっていた音乃の身体がしゅるしゅると小さくなる。目の前のクリームソーダはもうアイスが殆ど溶けていて、不透明なエメラルドグリーンが申し訳なさそうにしゅわしゅわと音を立てていた。肩甲骨を覆うくらいの髪を耳に掛け、ネイルのない指先でくるりとストローを動かす。
「ない」
やっぱりと言わんばかりに苦笑した杉元がもうぬるくなっているであろうホットコーヒーのカップを傾けた。ショートの黒髪が活発な印象を与え、ぱっちりとした目元が人目を引く。どちらかというと、可愛いタイプだと思う。よく美人だと言われる音乃とはタイプが違った。
「まあ、随分年上なら考えることもあるよね、きっと」
「何をだ」
「子供が考えつかないようなこと」
笑った杉元が少し寂しそうであったのは、彼女の想い人もまた随分と年上の成果もしれない。その共通点があるからこそ、杉元とつるんでいられた。
「考えつかない、か」
クリームの泡がこびりついた氷を悪戯に突いて唇を尖らせる。実際、運命を感じたのは音乃だけで、きっと相手は何とも思わなかったのだろうと分かっていた。だから、音乃がどれだけ貴方が好きだ運命だと言っても、はいはい、と流されるだけで終わる。
そうされるようになってからもう、八年が過ぎた。あと数ヵ月で高校を卒業する音乃は、この後大学に進学することになっている。いつになったら『一人前』になるんだろうかとテーブルに置いたスマホに目を落とした。
バーベキューには兄と同じ年くらいの人達が大勢来ていて、これがみんな彼の仕事仲間なのかと思うと、唐突に兄がすごい人物に見える。いや、元より成績もよく見目もよく、性格もいい兄は妹から見ても完全無欠であったけれど、それに輪をかけて、というのが正しかった。
車から降りると同時にあちこちから声がかかり、色んな大人が挨拶をしてくれる。「妹さん? 可愛いね」「いくつ?」「そっくりだね」と矢継ぎ早に話しかけられる中。
「平之丞」
兄の名前を呼んだその声は、肩にずしんとくるような響きを持っていたように思った。穏やかで、柔らかい声であるのに、腹に響いてぐるぐるする。白いTシャツから覗く腕の筋肉がシャツの袖周りを限界まで広げていて、黒いキャップの下からちらと視線が寄こされた。
刹那、雷に打たれたような衝撃を受けたのを、未だに覚えている。キャップの鍔で影になったそこから見下ろしてきた瞳は光の加減で鈍い緑色を秘め、じっと『子供』を見ていた。
「……妹か」
「そう。音乃というんだ」
「似てるな」
「そうか? 美人だろう」
兄の後ろから彼らの会話を聞いていた音乃はどきどきと煩くなる心臓に思わず平之丞の白いシャツをぎゅうと握る。兄は音乃を紹介する時、いつもそう言う。そうすると、大体相手は「そうだな」とか「美人だね」と言ってくれるのだ。だからきっと、彼もそう言うに違いない。
そう、思っていたのだけれど。
「ははっ! 子供だろ?」
「おっ、言ったな、数年後後悔するぞ」
「何の後悔だよ」
彼は笑ったのだ。それはもう可笑しそうに。快活に響いたその笑い声は撥の如く音乃の高鳴っていた胸を銅鑼のように思い切りぐわんと叩いた。全身に響いたその大きな破裂音がやがて頭の先にまで響いて、じわりと視界が歪む。あれ、と思う頃にはもう、その頬にほろりと一粒涙が零れていた。
慌てたのは兄だ。音乃はずっと習っていた剣道の大会で負けても、陸上大会で転んでも、練習が上手くいかなくても、滅多に泣いたことはない。それが突然涙を零したものだから。
「お、音乃!? どげんした、腹でん痛かとな!?」
「おい、大丈夫か?」
二人はおろおろしながら音乃の前にしゃがんで、はらはらと涙を流す少女を見上げた。当の本人も何故泣いているのかが分からず、ただ流れる涙に圧迫された引き攣った肺に空気を取り入れようとするのが精一杯で、元より困っているように見える眉を本当に困らせて兄と、その同僚を交互に見遣る。
「運命じゃち思うたどん、そげん言い方ひで」
「「は?」」
小さな唇から漸く零したその一言で、兄は殺気立ち、同僚は首を傾げた。鹿児島の人間ではない彼には音乃が何と言ったのかが伝わらなかったのだろう。
「……月島、ちょっといいか」
ゆるりと立ち上がった兄に引っ張られるようにして立ち上がった同僚は、訳も分からないままその場から連れ去られて行った。一人になってしまった音乃を「お兄さんが帰って来るまでこっちにいようね」と女性たちが何人かで囲む。その頃にはもう涙は引っ込んでいて、差し出された冷たいオレンジジュースの缶を受け取りながら、うんとひとつ頷いたのだ。
月島基という名前は、その女性達から聞いた。十歳にしては背が高い方である音乃から見てもあまり大きくはない身長だけれど、筋肉のせいで随分と大きく見える。まるで、岩タイプのモンスターみたいだ。顔つきだって決して優しいわけではないし、美形というわけでもない。
「でも優しいよね」
「面倒見いいし」
「笑うと案外可愛いし」
周りの女性たちが口々に月島に対しての評価を上げて行くのを、音乃は何となく面白くない気持ちで聞いていた。今さっき初めて会ったばかりの音乃よりも、普段一緒に仕事をしている彼女らの方が彼のことを知っているのは当然のことであるのに、何故だかそれが気に入らない。何故だか、なんて曖昧にする必要もなかった。だって、音乃にとっては月島は間違いなく『運命』だと感じたのだから。
「お待たせ、すみません音乃を預かってもらって」
女性たちの円の中で不貞腐れていると、漸く兄が帰って来た。小走りにそう言いながら彼女らに頭を下げると、女性たちはすぐさまワントーン高い声でそれに応じる。
「いいえ~! 鯉登さん、一緒に飲みませんかぁ?」
「でも今日車ですよねぇ」
プラスチックのイスに座ったまま平之丞を囲む女性たちの背中を眺めた。頭を下げる兄を眺めつつ、視線は月島を探す。数歩遅れてこちらへやって来た姿を見つけて音乃も立ち上がった。それに気付いた月島が少しバツが悪そうに首の後ろに手をやる。
「あー……ごめんな、さっき」
美人だろうという問いに対して肯定しなかったことを音乃が怒っていると思っているのかもしれない。フルフルと頭を振ると、つばの広い白い帽子の下で、肩までの髪が揺れた。じっと月島を見上げる音乃から一度平之丞に視線を移し、それから少し腰を屈めて音乃の耳元に顔を寄せる。
「兄貴に怒られた。うちの妹が美人じゃないわけないだろって。相当なブラコンだな」
女性達に囲まれている平之丞に聞こえないようにこっそりとそう言った彼が笑って離れた。耳のすぐ近くに囁かれた声の温度がじわじわと音乃の耳を侵食し、顔が熱くなる。
「将来きっと美人になるだろうけど、あの兄貴じゃ苦労するな」
帽子の上から軽く頭を撫でられたのは、きっと彼は軽くのつもりだったけれど、まあまあな衝撃だった。思わず、うっと声が漏れてしまって恥ずかしくなる。けれどももうそれも拾われないまま、月島は背中を向けて別のグループへと向かって行ってしまった。
本当は付いて行きたかったけれど、そうするのも恥ずかしい。きっとこの後もチャンスはあるに違いないと白いワンピースの裾をぎゅうと握った。
「さあ、肉がなくなるぞ」
平之丞の声に顔を向けると、笑った兄が今度こそ優しく頭を撫でてくれる。隣には先刻ジュースをくれた女性と、話し相手になってくれた女性。と、もうひとりいたはず、と何気なく辺りを見回して、そのひとが月島の隣にいるのを見つけてしまった。ずしんと胸の奥が重くなり、思わず奥歯を噛む。音乃の視線と表情に気付いた平之丞がそれをどう思ったのか、音乃は知らずに彼らの背中を睨みつけていた。
数年後、平之丞は海外勤務を賜り、今は単身イギリスで暮らしている。時々電話で話すけれど、三日に一度のメッセージ交換が主な交流だ。今年も正月には帰って来るだろうから、その時はどこか家族水入らずで温泉でも、と母が言っていた。
「温泉かあ……」
独り言を零しながら古びたアパートの階段を上る。二階建ての、奥から二部屋目が月島の部屋だ。慣れた手付きでカーディガンから先だけ出した指で壊れかけのインターフォンを押す。ビー、と鳴るチャイムはここで初めて見た。暫くすると、薄い玄関の向こうから足音がして、扉が開かれる。
「早かったですね」
「うん。月島も今日は早かったんだな」
いつもはもっと、二十二時を回る頃でも帰宅していないことがあるのに。今日は音乃の塾終わり、二十一時半で既にルームウェアだ。
「ここんとこ残業が続いたんで帰されたんですよ」
玄関を閉めて靴を脱ぐ。三足も置いたらいっぱいのこの玄関が音乃は割と好きだった。スリッパなんてものはこの家にはないから、ルーズソックスのまま部屋に上がり、キッチンを抜けて六畳の部屋に上がり込む。この部屋の奥にもうひとつ寝室がある、2Kの部屋。以前そう言ったら、苦笑いした月島が「六畳二間っていうんですよ」と言っていたけれど、正直その単位はよく分からなかった。
「この前言ってた教本見つけた」
「そうですか。よかった、あれ使いやすいんですよね」
麦茶を用意してくれているらしい背中を、テレビと炬燵しかない部屋から眺める。相変わらずごつごつしていて、岩のようだ。今着ているグレーのルームウェアと相俟って、余計に岩タイプのモンスターに見える。小さく笑いながら、炬燵の天板に件の教本を取り出した。
音乃が中学も半分を過ぎた頃、平之丞が昇進して月島よりも出世した頃だろうか。「平之丞はもう上司だから敬語を使わないと」とふざけて言い出したことがあった。その時は兄も月島も程よく酔っていて、無理矢理付いて来た音乃を置いて楽しそうにしていたのを覚えている。
「上司の妹だから、お前にも敬語使わないとだな」
「え、いいよ」
「そうもいかないよな」
肩を叩かれた平之丞もその日は随分とご機嫌で、そうだなだなんて頷くものだから、何となくその日から月島は音乃に敬語を使うようになった。距離を感じるから嫌だと言ったことがあったけれど、酔っていない時にしたその抗議も受け入れてはもらえず、結局そのままこの通り。
麦茶を注いだグラスを両手に持った月島が音乃の正面に座り、グラスと引き換えに教本を手に取った。塾や学校では使わないロシア語の教本は、音乃がここへ来るための言い訳。大事な建前だ。
「懐かしい。俺のが残ってたらよかったんですけど」
「でも同じものが売っててよかった」
「そうですね」
ぱらぱらと教本に目を通した月島が壁掛け時計を確認する。月島の都合がいい日に、一時間だけ。この家に来てロシア語を教えてもらって、彼に送ってもらって家に帰る。両親を説得するのは中々骨が折れたけれど、最終的には平之丞の口添えで許可してもらう形になった。
「時間がないんで始めましょう」
「うん」
入社してから同期として仲良くしていた兄の友人。十三歳年上の兄と同い年。音乃はそんな彼にずっと片想いをしているけれど、一度たりとも色好い反応を見せてくれたことはなかった。
まだ子供だろうと言われてしまえばその通りだし、これから出会いがあると言われてしまえばそれもその通りだ。けれども月島はそれらを断る理由にはせず、ただ一貫して。
「俺にとってキミは恋愛対象じゃなくて庇護対象だ」
であったものだからもう、その庇護対象からどうにかして抜け出すしか道はなかった。例えば就職をして、例えばロシア語をマスターして、一人前として認めてもらえたら、その時はきっと彼の庇護対象から抜け出せるはず。そう信じて今は邁進するしかなかった。
時計が一時間を過ぎた頃、月島はキリがいい所まで進めて教本を閉じる。正直、二人きりでいられることは嬉しいけれど、それ以上に覚えることが多過ぎて頭が疲れるのも事実だ。学校の後塾へ行き、その後のロシア語はなかなかきつい。
「随分分かるようになりましたね」
「本当か? 何だか一進一退な気がして」
「はは、まさか。発音はまだもう少しですけど、筆記はいいんじゃないですか」
「やった!」
褒められたことが嬉しくて目を輝かせた。それと同時に、机に置いてあった月島のスマホが着信を告げる。咄嗟に画面に目をやって、それがメッセージ受信であることを理解した。月島も特に隠そうとはせず、画面を一瞥してから教本を音乃に差し出す。
「お疲れ様です。送りますよ」
「……うん」
音乃がそれを受け取るのを確認して、ごく自然にスマホを持って立ち上がった。隣の部屋へ移動したのは、車を出してくれるのにルームウェアから私服に着替えるため。音乃は受け取った教本をじいと見詰めてから、先刻の彼のスマホの画面をそこへ投影した。
――以前見た時と違う名前だった
表示されていた名前は明らかに女性の名前で、それはきっと今の月島の彼女の名前なのだろうと思う。狭まる気道を励まして大きく息を吸い込み、教本を額に当ててゆっくりと吐き出した。
ほんの二ヵ月前だったと思うのに、もう別の彼女ができたのか。その前の人は確かこの部屋に来るたびいつもわざと何かを忘れていくひとだった。その前はチェックの電話が多いひとだったし、その前は――帰宅準備を進めながら不毛なことを思い返す。振り払うように軽く頭を振って、紺色のスクールバッグを肩に掛けた。
「準備できました?」
黒い無地のカットソーに青いダウンジャケットを羽織り、ぴったりとしたデニムに着替えた月島が声をかけてくる。ニット帽は黒地のサイドにスマイルマークが刺繍されていた。
――そんなの、月島の趣味じゃないくせに。
口に出したくなるのをぐっと我慢して、うんとひとつ頷く。
ここへ来る前に整えたストレートの髪も、軽く施したメイクも、いつもより少し丈を上げたスカートも、大きめなバストはコンプレックスであったからあまり目立たないように大きめのカーディガンを羽織って、スリムスタイルを演出しても、何もかも月島にはまるで効果はないことは知っていた。だから別にいいのだ。
車のキーを持って、立ち上がった音乃がどんな風であるかなど全然見ていなくても。キャラメル色のコートは一昨日買ったもので、今日初めて下ろしたのだけれど。
先に出た月島が振り向いて言うことがメイクや髪型や服装やコートのことではなく、
「忘れ物ないようにしてくださいね」
だけであったとしても。音乃の片想いは音乃の自己満足であるから、決して、構いはしないのだ。そう。だってこれは、自己満足の片想いだから。
珍しく落ち込んだ様子の杉元に何と声をかけていいのか分からず、ただ何となく今日もどろりとしたクリームソーダを詰まらなさそうにつつく。何度目かの溜息を吐いて漸く顔を上げた彼女は何だかクリームソーダと同じようなどろりとした顔をしていて、少し目元を引き攣らせた。
「鯉登さあ」
「なんだ」
「合コン行かない?」
「行かない」
「だよね……」
「お前だってそんな所に用はないだろう」
唐突なその提案を一刀両断してから、残っていたアイスクリームを口に運ぶ。今日の席は四人掛けのソファ席だ。音乃の左側、杉元の右側には大きな窓がある。テーブルに着けた腕の上に顔を乗せ、そこから人の往来をぼんやりと眺めている友人に首を傾げた。
「なぜ急にそんなことを言い出すんだ」
杉元の片想いの相手は、少し前に駆け込んだ交番のお巡りさんだと聞いている。夜遅くの帰り道、変な男について来られた時に逃げ込んだそこで保護してくれたらしい。実際見に行ったことはないけれど、年上で、渋くて、かっこよくて、優しい、という杉元視点の情報だけは十分に音乃の中にも蓄積されていた。そんな片想いの相手がいるのに、合コンなどと言い出すには何かそれ相応の理由があるのだろうと彼女の回答を黙って待つ。
暫くして、音乃を見ようともせず、外を眺めたままの杉元が口を開いた。
「俺らもこう……女を磨かないとダメなのかなって思って」
「それと合コンがどう関係があるんだ」
即座に突っ込むと、不貞腐れた杉元がテーブルに伏せたまま上目遣いで音乃を見る。
「彼氏作って、経験値上げないと、菊田さんには全然届かないなと思って」
菊田さんはお巡りさんの名前だ。何があったのかは知らないが、そう思わせる何かがあったのだろう。また、細長いスプーンをパフェグラスに差し入れた。
彼女の言っていることは分かる。音乃も折りに触れて、月島との経験値の差に直面することが何度もあった。それは決して音乃には向けられることのない女性への気遣いであるのだけれど。
「何か……変わるかなあ」
「分かんない」
もう殆ど炭酸の気配がない飲み物をじっと見詰めた。
例えば彼氏を作ったとして、男の人への接し方だとか、デートはどこへ行って何をするだとか、そういうことを実際経験してみたら、月島へのアプローチ方法もまた何かいい案が浮かんだりするのだろうか。
「……アテはあるのか?」
顔を上げた音乃を杉元が見る。視線がぶつかり、ぱっと一度顔を明るくさせたあと、一瞬何かを考えるように間を置いてから、頷いた。
杉元の顔の広さは承知していたけれど、そんなにすぐに合コンをやってくれるほどだとは思わなかった。杉元と音乃に加え、女性はあと三人。バイト先の友達らしい。対して男性も五名で、その内の一人が杉元の友人で、白石という男だった。
「いや~どういう風の吹き回し~?」
「お前がしつこく合コンしろって言ってたんだろうが」
「そうだけどさあ~。杉元いつも断ってたじゃん」
既に酔っているのかと思うような陽気な坊主頭は無遠慮に杉元の肩に手を回している。もうそれはいつものことなのかもしれない。杉元もひとつも動揺することなく「まあな」と適当にあしらっていた。
音乃には、男友達というものすらいない。ずっと女子校育ちであったせいもあり、中々異性の友人を作るというチャンスがなかった。だから、音乃の中には父と兄、そして月島しか異性は存在していない。だから、そんな風に男性と平気でスキンシップを取っている杉元がひどく遠い存在に思えた。
「好きな人がいるんだって?」
「えっ」
いつの間にか音乃の隣にいた長髪の男が首を傾げる。さらりと肩から流れた黒髪は絹のようで綺麗だった。髭と眉を独特な形に整えているけれど、随分と整った顔をしている。背の高い音乃よりもはるかに背が高く、誰かを見上げるのは中々新鮮だった。
「白石経由で聞いたよ」
「そう、なのか」
面識のない白石がそのことを知っているとしたら、間違いなく杉元から聞いたのだろう。それを彼がどう捉えているのかは分からなかったけれど、曖昧に頷いた。
一行は座敷の居酒屋へと移動して、それぞれが好き勝手な席に腰を下ろす。積極的に真ん中に座るというのも気が引けた音乃は端の席に座り、その隣に長髪の彼が腰を下ろした。女性陣がちらちらとこちらを見ているのは、恐らく彼狙いであるからだろう。顔の作りもよくて背も高いとなるとそりゃあモテるだろうなと他人事のように考えた。
「俺ボウタローね、よろしく、コイトちゃん」
「ボウタロー」
「うん。大沢房太郎」
「そうか。よろしく、大沢」
差し出された手を取ってはっきりとそう言うと、ぶっと噴き出した房太郎が大きく笑う。
「苗字できたか! まあいいや、好きに呼んでよ」
ただ呼びやすい方を選択しただけなのだけれど。なぜ笑われたのかが分からずにじっと房太郎を見詰めていると、一度肩を竦めた彼が飲み物のメニューを差し出してくれた。
その後も、彼は他愛もない話をしながらさり気なくオーダーをしてくれたり、飲み物を追加してくれたりと世話を焼いてくれて、その気遣わせない気遣いに感動する。
「すごい、大沢は気が利くな」
「気が利くっていうより……カッコつけてるんだよ」
「なぜだ?」
「何故って……コイトちゃんに気に入られたいから?」
「でも、私に好きな人がいることを知っているんだろう?」
「そのために練習彼氏を探してるのも知ってるよ」
練習彼氏。そう言われてしまうと、何だか途端に悪いことをしているような気になって、音乃は俯いた。月島へのアプローチ方法を探すために誰かと付き合おうなんて、そもそも前提があまりにも失礼だ。もしも相手が音乃を好きになってくれたのだとしたら、余計に。
「ちなみに俺は練習大歓迎」
「えっ?」
「今は彼女作る気なくて、でも暇な日にどっか一緒に行ける子が欲しいな~と思って白石に話したら、今日連れて来られた」
「なるほど……?」
「そう、だから、デートの練習とかしたいなら俺はオススメ」
にっこりと笑ってそう言われると、何も言えなくなってしまう。月島とは全然違う。背も高いし、髪も長い、鼻も高いし睫毛も長い。だから、いい気がした。変に月島に似たところがあるひとを選んでしまうと、もっと本物が恋しくなってしまうような気がしたから。
「そうか。じゃあよろしく頼む」
「取引成立。コイトちゃんどんな映画が好き? 動物園と水族館は? 俺結構色んな所出掛けたい派なんだよね」
カンパイ、と差し出されたビールジョッキに慌ててオレンジジュースのグラスをぶつけた。矢継ぎ早に繰り出される質問にひとつひとつ答えながら、それいいね、そうだよね、と笑って頷いてくれる房太郎に、次第に心がほぐれていくような気がした。
暫し忙しかったらしい月島の時間が漸く押さえられたのは昨日の夜中だった。昼間の内に送っておいたメッセージに返信が来ていたのを、今朝気付いた。今日の夜、二十二時頃からならという返信に起き抜けの頭はすぐに覚醒して、そのまま鼻歌でも歌い出しそうなテンションでシャワーへと向かう。
脱衣所でふと、これは房太郎に報告すべきかと考えた。仮にも彼氏なのだから、一応言っておくべきなのかもしれない。下着姿のまま、「今日月島のところで勉強してくる」とだけメッセージを送って、バスルームのドアを開けた。
久々の月島の家は少し散らかっていて、珍しいなと思う。いつも音乃が来る前にはきちんと片付けているのに。畳に置かれた洗濯物やコンビニの袋を端に寄せながら、いつものように炬燵の上に教本を取り出した。麦茶を二人分持った月島がやや疲れた顔で正面に腰を下ろす。
「すみません、ここのところ忙しくて」
「いや……大丈夫か? 疲れてるみたいだけど」
「いえ、先週もできなかったんで、今週はと」
確かに先週は忙しくて時間が作れないと言われたから、仕方なく自習する形で進めていたのだけれど、やはり一人では難しい部分もあり、中々思うようにはいかなかったから正直今日時間をとってくれたのは助かった。月島の顔も見られたし、と、それだけは心の中にそっとしまって、「始めましょうか」という声に頷く。
ロシア語を紡ぐ月島の声が好きだ。綴りの誤りを指摘してくれる太い指が好きだ。異国の言語を頭に入れながら、ひとつ、ひとつ、月島の好きなところも一緒に胸に刻んでいった。
スマホのアラームが一時間を数え、キリのいい所で切り上げる。いつものように帰り支度をしていると、机の上で月島のスマホが鳴った。もしかしたら彼女にも音乃とのこの時間のことを共有してあって、終わる頃を見計らって彼女がここに来るのかもしれない。
画面の中の名前は数週間前に見たそれと同じで、そう何度も別れがあっては月島も可哀想だという安心と、未だ付き合っていたのかという残念さが綯い交ぜになって胸に巣食った。
「支度できました?」
「うん」
グレーのカットソーに例の青いダウン。デニムとニットもあの日と同じもの。耳の上のスマイルマークが何だか妙に悔しく思えて、立ち上がりながら月島を呼んだ。
「なあ、先週の分、土日とかで賄えないか?」
「あー……土日は…すみません」
「……デートか?」
「はあ、まあ」
そう言われると思っていたのだけれど。実際言葉になってそう返されるとやはり胸の奥がぎゅうと強く握られたような圧迫感を覚える。しまった、うまく笑えているだろうか。内心冷汗をかきながら「そうか」とだけ返事をして、狭い玄関でぴかぴかのローファーを突っかけた。先に廊下に出ていた月島を見ると、微かに気まずそうにしているような気がして、何かフォローをしなければと咄嗟に考えてしまって。
「わ、たしも、彼氏と約束があるから、ダメだった」
口から零れたそれは、決して嘘でも強がりでもなく、本当に今週末は房太郎と約束があったから間違いなく事実であるのだけれど、これは言ってしまってよかったものなのか、音にした後に盛大に後悔した。
もしもこれで、月島が嬉しそうに「そうですか」とでも言おうものなら立ち直れないかも知れない。けれど逆に傷付いたように「そうですか」と言われたら、それはもう間違いなく期待してしまう。どちらの反応が返ってきてもどうしていいか分からなくなりそうで、音乃はどんどんと内から叩くような音を立てる心臓をキャラメルのコートの上からぎゅっと押さえた。
「じゃあ、また来週ですね」
月島の答えは音乃が期待したどちらでもなく、今日は何曜日でしたっけ、とでもいうような淡々とした口調のそれで、音乃が廊下に出てから玄関を閉め、鍵を締めた背中がそれ以上何も言わずに階段を下りて行く。
煩かった心臓は止まってしまったかのようにしんとして、音乃のやわらかな身体の中に収まった。悲しいとも、嬉しいとも、戸惑いも、憎しみも、なにひとつの感情をも持たせてはくれなかった背中に、音乃は小さく「ああ、」とだけ返事をした。