覚悟 魔除けです。柔らかい女の声に少しだけ笑った。不思議な女だと思う。鯉登もどちらかと言えば現実主義者で幽霊や物の怪の類は信じていないけれど、彼女が『そう』と言えば『そう』な気がしてしまう。
「一本もらおう」
「ありがとうございます」
笑った狐目が細められた。月島はインカラマッのことを信用し過ぎるなと言う。信用するも何も、彼女は軍人ではない。敵でもない。ただの『不思議なひと』だと鯉登は考えていた。
随分と膨らんだ腹が重たそうに見える。妊婦をまじまじと見るのもこれが初めてだ。人間が人間を身体の中で育むというのは何とも不思議なものだと改めて考える。
父も、こんな風に腹が膨らんだ母を見て愛おしく思ったのだろうか。
母も、膨らんだ腹を撫で、どうか無事に生まれちょいでと願ったのだろうか。
そんな折、父と離れ離れにされてしまったとしたら、どれだけ心細いだろうか。
「……お前は強いな」
渡されたイケマの根は随分と独特な匂いがして、これを齧ると魔除けになると言われても中々勇気が要った。それを誤魔化すように指先で摘まんだ根っこを軽く振りながら呟くと、隣のベッドに座ったインカラマッの跳ねた髪が傾げて揺れる。
「不安はないのか」
余り言葉にしてしまうのは危険だ。どこをどのように、誰に聞かれてどう誤解されるか分かったものではない。そもそも、彼女が鯉登の病室を訪れている時点で、既に廊下を通る振りをした監視が何人か通り過ぎていた。
それは、インカラマッが妙な気を起こさないための。または、彼女が鯉登に危害を加えないようにするための。或いは、鯉登が彼女に丸め込まれないための――
「不安ですよ」
何を言うのか当たり前だと言わんばかりに細い肩が揺れる。疑念を抱きかけていた思考が拾い上げられるのと同じように顔を持ち上げた。
「初めての妊娠ですし。不安だらけです」
「そうか……それもそうだな」
「ですが、ここには家永さんもいますから」
どう見ても女性にしか見えない家永が本当は高齢の男性なのだと聞いた時には驚いた。今でも半信半疑になるほどに。けれどその腕は確かなもので、医師としては一流だと鶴見も太鼓判を押していたから、そこについては疑う余地はないのだろう。
ゆるりと腹を撫でた仕草に胸の奥が痛んだ。それは、谷垣と一緒にいさせてやれない事への罪悪感でもあったし、彼女の不安を和らげてやれるような事をしてやれないもどかしさでもあったように思う。
「鯉登ニシパもいますしね」
「あ、ああ、そうだな。不安なことがあれば私に相談するといい」
「ふふ、頼もしいです」
笑った顔にふと母が重なった気がした。面差しも何も似ている所はないはずだけれど。唇を引き結んだ鯉登を伺うようにインカラマッが首を傾げた。
「……おなごは強か」
何か答えが欲しかったわけではない。意見が欲しかったわけでもない。ただ誰かに聞いて欲しかっただけの零れた独り言を、彼女は心得たかのように黙って聞いていた。
「あたいん母も強かった。兄が亡くなった時、あたいをずっと抱いてくれちょったんも母やった。どげんしたや、そうなるっとじゃろうな」
故郷の言葉が彼女に伝わるとは到底思っていない。だからこそ何も飾らずに言葉にできた。誰にも言ったことのない、話したことのない、鯉登自身が認識する、自身の弱み。
「あたいはいつまで経ってん『みそっかす』だ」
ここまでの数ヵ月の経験は間違いなく糧になった。同時に、月島や尾形達との違いも浮彫になってしまった。経験値の差、信念の差。恐らくは、そんなもの。
「お前は何故そう凛としていられるのだ」
彼女の軸がぶれてしまわないための一本は何故なのか。何事にも揺らがず、彼女にとっては敵地であるこの場所でも堂々としていられるのは何故なのかとずっと不思議だった。
「私は谷垣ニシパを信じています。どのような未来になっても彼に添い遂げる覚悟ができています」
開かれた眼の奥には確かに真っ直ぐひとつ強い光があった。それは何にも揺らがない、それが彼女のいう「覚悟」なのだろうと悟る。
心臓が直接掴まれたような窮屈さに思わず喘ぎ、収縮してしまった肺でどうにか最低限の呼吸を繰り返す。浅いそれでは不十分で、こめかみにじわりと汗が浮かんだ。
「覚、悟」
頭の先から指の先にまでその言葉はじんと痺れるように響き渡り、やがてすとんと腑に落ちる。そう。そうだ。今ここまでの自身に、覚悟はあっただろうか。
不意に、大泊の大通りで滔々と過去を吐露した月島の姿が脳裏に浮かんだ。話の大半は分からなかったけれど、過去を捨て、またはそれを乗り越えてきたあの厳格な兵士は、いつ「最後まで鶴見に従う」という覚悟を決めたのだろうか。宇佐美や尾形はどのような覚悟を持っているのだろうか。杉元やアシㇼパは。
「……覚悟か」
頷いたのか項垂れたのかは自分でも分からない。ただゆっくりと布団の上に置いていた拳に視線を落とした。握ったつもりはない。無意識にきつく握られていた。硬い拳は何かを訴えているように思えて、ああ、とひとつ胸の奥に零す。
鶴見の思惑は恐らく、鯉登の想定から大きくは外れていないだろう。大湊水雷団を手に入れるための狂言誘拐。その場にいたのであろう月島は、今日まで補佐官という立場であると共に鯉登を監視していたのかも知れない。
「やはりおなごは強い」
窮屈だった肺を押し拡げるように深呼吸をして、起こしていた身体を布団に転がした。小さく笑った声がやはり母を思い出させ、母となる女の強さが重なるのかと合点がいく。
鶴見の目指す先。月島の望む先。それらは同じ場所を指しているのだろうか。
「決めた」
「何をですか」
鯉登が腹の奥から出したその決意の声に重なるようにして、無感情な低い声が床を這う。
「あら、月島軍曹。いつからそちらに?」
「いつだっていいだろう。お前鯉登少尉に何か売りつけたのか」
たばこのように指の間に挟んで弄んでいたイケマの根に目を止めた月島がじろりとインカラマッを睨み付けた。そんなにも刺々しい態度を取らなくてもいいだろうと思うのだけれど、月島としては鯉登に干渉してくる不穏分子には目を光らせておかなくてはならない。これらは全て鶴見に報告されるのだろうかと考えかけて、やめる。
「いいんだ、月島。インカラマッには話し相手になってもらっていただけだ」
「だからってまたそんなものを」
「いいんだ」
穏やかに繰り返した鯉登が静かに目を閉じる。深呼吸の音と胸の上下を確認した月島が一度目を細めてから溜息を吐いた。
「お前はもう自室に戻れ」
「ええ、お邪魔しました。それではまた、鯉登少尉」
「ああ」
軽く頭を下げた彼女を寝たまま見送り、持っていた魔除けを目の前に翳してみる。
大泊のあの日から一人何度も心の中で繰り返してきた疑念に漸く微かな光明が差したように思えた。ふと視線を向けた先に清拭の準備をしている月島が映る。いつもと変わらぬ無表情な横顔だ。何を思っているのか、何を考えているのか、それらが分からなかったとしても、彼らの向かう先に何があるのか、決して逸らすことなく見届けようと決めた。
そう、覚悟を決めたのだ。