『手遅れのシャルウィーダンス』
戸締まりは確認してから寝ること。
明日の用意は前の日に済ませること。
知らない人には、ついていかない。
どこの家に行っても言われることは変わらない。平坦な毎日を、退屈な言いつけ通りに過ごしてみせていた。
今の自分の部屋は、二階にある。今後もう少し防犯意識は強く持っておこう。目の前のふざけた光景を見て、悠長にそう思った。
「こんばんは」
強い風が、狭い部屋に吹き荒れる。二階だからと窓の鍵は油断していたかもしれない。登ってくる手段は如何様にもあると知っていたが、都会とはやはり恐ろしい世界だ。
何のコスチュームだろうか。すぐにショーに出れそうな、全身真っ黒なロングコートの男は、窓枠に足をかけたまま、こちらに手を伸ばした。
寝ようと電気を消したばかりの部屋に訪問とは、礼儀がなっていない客だ。夜闇とマスクで顔はよくわからないのだけど、たぶん──
「どっか行かない? 誰にも見つからない、うんと遠いところまで」
愉快げに笑っている。思ったより声が若い。落ち着いた調子なのに、いたずらで楽しげなお誘い。
立て続けの異常事態に、本来ならもっと子どもじみた混乱をするとか悲鳴をあげるとかした方がよかったな。理解しながら、じいっと仮面の奥の真意を見つめる。
どう見たってあやしいし、危ないひとだ。なのに敵に思えない。味方だと言うには、やり方がとびきりおかしい。目的がちっとも見えない。
放課後の誘いは、全て適当にあしらっている。ゲームでも公園でもない。こんな文句で夜遊びに誘われたのは、はじめてだった。
あなたが誰で、どうやって、どうして、なぜ。聞きたいことだらけだよ。なのに恐ろしい引力で、僕の興味を引いてくる。月のあかりを受け、てらてらと光る赤い手を取ってしまおうかと思った。
それでも、
「知らない人にはついていかないよう言われてるので」
僕はハッキリと断った。
すると彼は拍子抜けしたように目を丸くした後、差し出していた手を口元にやって、けらけらと笑った。
「それは、失礼。大人の言いつけを守るような人だとは思わなかった」
仕方がない。お前にはわからないのかもしれないけど、非力な子どもはそうするしか他に道がないのだ。今はまだ言いなりだけど、大人になったら──力を手に入れたら、そのときは、必ず。
「……ねえ」
すぐにいなくなってしまいそうな誘拐犯に、たったひとつだけ、質問をした。ほんの少しだけ、どきどきしながら。
「窓を、開けておけば、また会える?」
「そんなことしなくても、」
子どもに言い聞かせるような、優しい声色が気に入らなかった。困ったのと悲しいのを巧妙に隠したフリをしている。そうすれば、聡い子どもが言い返せなくなると知っているような、卑怯なやり方にムッとした。
「──会えるよ」
それは何らかの奇跡であり、記録されない世界の間違い。次の朝には覚えていられない、一夜のあやまち。
生涯で出会った大人で、そいつは唯一嘘をつかなかった。あの手を取っていたら、全部違っていたのかもしれない。そんな話は本当にどこにも転がっていないのだけど。
そうしてズルが好きな泥棒は、嘘をつかれ慣れた子どもに『真実』だけを証明して、元の場所に帰っていったんだとさ。
END
ジョカ明は股間に効きすぎるので用法と容量を守らないと大変なことになります。