池の鯉ラブロマンス 長平の鼻は、いわゆる鷲鼻で、手前にちょっと出っ張っている。こういう鼻の持ち主は、たとえばキスなんかをするときに、鼻が相手の鼻にぶっつかって不便なんじゃないだろうか。と長平は常々思っているが、かれにはいまだかつて良い仲になった相手が一人もいないために、その問いは一種のファンタジーになり果てている。
F会社で働く26歳の長平には日課があって、夕方5時に退勤した帰り道、会社の近所の大きな公園に寄る。広い池を擁したそこにはあんまり人が集まらない。池の前に古い木製のベンチがあり、長平はそれに座って黒い池の中の黒い鯉たちを見るともなく眺める。別に楽しい時間ではないが、それは長平にとって必要な時間である。
今日もまた、長平は公園に来た。来る途中で、夕飯代わりのおにぎりを三個、コンビニで買ったので、ベンチに座ると、さっそくそれを一個食べ始めた。海苔の破片を膝の上にパラパラ落としながら、ツナマヨネーズおにぎりをバクバクやっていると、背後から馴染の声がかかった。
「長平くん。また来たのかあ」
と、声は言った。
振り返ると、無精ひげの、30がらみ、瘦せ型でよれよれの黒いTシャツにジーパン姿の、ひとりの男が立っていた。
「ごみくん。どうも」
軽く頭を下げる。ごみなどと呼ばれた男は、しかしまるで怒る様子もなく、長平が腰掛けているベンチの端にちょこんと小さい尻を載せた。
男は、名前をごみ男という。無職歴8年。長平の唯一の友だちである。
「きみぃ、またツナマヨネーズかあ」
長平の膝の横に無造作に置かれたおにぎりの包装紙を見て、ごみ男が言う。その言いざまは妙に気が抜けているので、長平も気持ちが砕けて良い気分になる。
「そうだよ。ツナマヨはおいしいんだ」
良い気分とはいえ、ごみ男はくさい。その名の通り、ごみみたいなにおいをぷんぷんさせている。そのにおいには、毎日嗅いでも慣れやしない。だから長平は鼻をつまんだ。そんな行為は当然失礼にあたるので、ごめんねえという表情を作った。
「やっぱりおれはくさいかあ」
と、ごみ男。
「うん」
「それで長平くん、きみは同じおにぎりを3個も買って、どうして飽きないの」
ごみ男が、長平の膝の上のビニル袋の中身を確かめもしないでそう訊ねる。じっさい、おにぎりは全部ツナマヨネーズだ。長平は夕食は絶対にこれしか食べないのである。
「飽きないよ」長平は笑った。鼻をつまんでいるとへんな声になるので、鼻をつまむのはやめにした。くさい。我慢だ。「きみだってごみしか食べないじゃないか。それは、飽きないの」
「ウン。まるで飽きないよ。ごみっていっても、いろいろあるんだよ」
「そうなのかあ」
ごみ男は、人間のすがたをしているが、人間ではない。長平が18のとき、この公園の奥のほう、杉の樹の横の吹き溜まりに、わるい人々がごみをポイ捨てにするところがあって、そこに溜まったごみが集まり、30センチの小さい人間(の見た目のもの)ができあがった。長平は趣味の散歩をしていたところで、目をぱちくりさせながら、ごみから人間(に見えるもの)が出来上がるのを見た。小さなごみ男は、ウーンと唸りながら伸びをすると、長平に見られているのに気づいた。そして言った。
「きみ、ごみは持っている?」
長平はポケットの中を改めた。アメの包装紙があった。長平がうなずくと、男は言った。
「それ、ください」
長平がアメの包装紙を上げると、ごみ男はそれを口に入れた。すると、不思議なことに、男の背が3センチほど伸びた。
「気味が悪い」
と思わず言うと、
「だろうねえ」
とのんびりした声が返ったので、長平はちょっと気が抜けた。
それから、8年の仲である。長平が仕事帰りにベンチで休んでいると、だいたいごみ男が公園の奥からやってきて、中身のないお話をしたり、一緒に鯉を眺めたりする。そういうわけで、かれらは友だちなのだ。
「じゃあそれ、くださいね」
長平が3つ目のおにぎりを食べ終わったタイミングで、ごみ男がそう言って、長平の膝の横の包装紙の山を指す。
「どうぞ」と言うと、ごみ男は細長い腕をのばして、ごみと化した包装紙をひっつかむ。それで、ぜんぶひといきにバクっと口に入れる。むしゃむしゃやって、ゴクンだ。ごみ男の喉ぼとけが上下に動くのを、長平は見ていた。
早春の夜が、すでに公園の中に広がっていた。空を見上げると、青黒い天球に、一等星から三等星までが小さくまばらに散っているのが見える。長平はフと振り返って、広い公園の芝生のほうを見た。そこには一組のカップルがいて、手など繋いで楽しげに歩いていた。
涼しい春の風が、やさしく、長平の頬を撫でていった。そのままカップルの頬も撫でたらしい。つがいになりかけの若者たちは、それで何かを刺激されたらしく、立ち止まって頭と頭を近づけた。当然それは長平の顰蹙を買い、かれは顔をゆがめた。
「ひえぇ、あの人たちキスなんかしてるよ」
そう言うと、池のほうをみていたごみ男も振り返って、
「わあ、ほんとかい。見逃したなあ」
などと言う。
「見逃して正解だよ。あんなの気持ち悪いもの」
「そうかなあ。おれはロマンスは好きだよ」
ごみ男にロマンス? ばかばかしい。と長平のわるい部分が思ったが、口に出しはしなかった。
長平はいわゆるラブ・ロマンスが苦手である。ひととひととの心のやりとりならばまだ良いが、体と体の接触となると、とたんに胸内に吐き気がむくむく広がっていく。ということで、宵の公園で人目をはばからずにいちゃつく者どもが、長平はきらいだ。いっぽうでごみ男は、そういうのが好きらしい。
「きみ、何か恋の話はないの」
などとごみ男が言い出して、長平は顔をあからさまにゆがめた。
「ないよ。そういうのはないんだ」
「そうなの。じつは、おれもないんだよねえ」
その言葉に、長平はちょっと嬉しくなった。同志を得たような気持ちである。
ベンチの上には、長平の尻と、ごみ男の尻とが、ちょこんと乗っかっている。
「まだ、少しだけ雲が見えるなあ」
脈絡なく、日が暮れたばかりの空を仰いで、ごみ男がそう言った。たしかに、薄墨いろの空の中には、よくよく見ると雲がある。うすい雲の切れ端が、池の鯉のごとくこっそりと泳いでいる。
「ほんとだねえ」
自分の相槌のつまらなさに辟易しながら、長平はそうつぶやいた。そして少し、緊張した。
長平の心の底には、いま、ある秘密が、こっそりと、居心地悪そうに縮こまって、存在している。それは空の雲君のように、目を凝らすと見える。
秘密の中身は、期待だ。長平の中には、ラブ・ロマンスへの期待が、こっそり巣食っているのだ。それは肉体的接触への嫌悪感と天秤にかけたら確実に負けてしまうのだが、それでも、長平はいちど、誰かと良い仲になってみたいなあ、と、わずかに思っている。というのも、ロマンスを経験したことのない状態でロマンスを拒絶するのと、経験したことのある状態でそれを拒絶するのとでは、周りに対する説得力が違うから、というのが一つ。もう一つの理由は、単純に、こうもさまざまな人に素晴らしいものと言われているラブ・ロマンスというものが、どういうものなのか、経験してみたい。経験しないと、人間になり切れないような気がするから。である。
そういうわけで、長平は、ロマンスをしてみたい。だが、一方で、そんなものは気持ち悪いし、だいたい面倒くさいから、嫌だなあとも思っている。だから誰かと、五分間だけ恋をして、キッスを一つやって、それでおしまい。というのが理想である。
「なあ、長平くん」
長平が、ラブ・ロマンスについて考えていると、沈黙をどかして、ごみ男が話しかけてきた。
「なあに。ごみくん」
「おれは思うんだよねえ。そのうちいつか、ごみの収集車がこの公園に入って来て、作業員がふたりがかりでおれを持ち上げて、車の中に入れちゃって、それでぜんぶがおしまいになるって」
唐突で恐ろしい話題に、長平はすこし面食らった。ちょっとの間考えて、
「それはないよ。きみがごみからできたことは、おれしか知らないんだもの」
と言った。だが、ごみ男の思い込みは相当なものらしく、もっともらしい長平の言にも、ぜんぜん納得できないようだった。
「そうかねえ」
「そうだよ」
「ウーン」
会話は、そこで途切れた。ごみ男は振り返って、まだそこにいるカップルをジっと見始めた。その横で長平は、カップルなんて見たくはないので、池の鯉が口をぱくぱくさせているのを眺めることにした。
一帯にはしばらく、春の空気といっしょに、おだやかな静寂が漂っていた。
あるときふと、ごみ男の臭気が強くなり、自分の中に閉じこもっていた長平は我に返った。横を見ると、ごみ男がすぐ隣に腰掛けて、黒い目でこちらをジッと見ていた。
長平の普段の行動指針に乗っ取れば、本来なら、「わ。なんだいごみくん」とかなんとか、声を上げるべきだったろうが、そのときは長平の胸の奥の、小さく非力な秘密君が長平の手綱を握っていた。だから、長平は何も言わなかった。代わりに、この雰囲気はいわゆる、ロマンスだなあと思った。
ごみ男も同意見のようで、二人の鼻、いっぽうはふつうの鼻で、もういっぽうは鷲鼻だが、それら二つが引き合うようにちかづいて、二人はチュ! とキスをした。それから、近づいたのと同じくらいゆっくり顔を離して、互いの目を見詰め合った。
ごみ男の黒い目の中に、困惑して顔をゆがめた自分が映っているのを、長平は見つけた。そして、ウゲー。と思った。気持ち悪い。ごみ男とキスをしてしまった。他者の唇におのれの唇を接触させてしまった。うげえ。
同時に、唇はやわらかくて、気持ちがよかったなあ。という気持ちと、くさいなあ。という気持ちと、なんだ、たいしたことないや。という気持ちとが、痛いほどどぎまぎしているばか正直な心臓の奥を、スーっと通っていった。
「突然ごめんねえ」
と、目の前のごみ男がついに口を開いた。
長平は顔をゆがめたまま、何も言えずに頬を動かした。
「ごめんねえ」
重ねて相手が謝るので、ようやく、
「いいよ。良い経験になったよ」
などと、妙なことを口走る。ごみ男は言った。
「どうしても、ロマンスがしてみたくてさあ」
「なるほどなあ」
何がなるほどなあなのかわからなかったが、とりあえず長平は言った。
「……それじゃあおれは、帰るよ」
きゅうに居心地が悪くなって、長平はそう言って立ち上がった。
「そうかあ。じゃあ、また明日ね」
ごみ男も立ち上がる。
「うん、それじゃあ」
そういって、二人は別れた。
公園を出て、駅に向かって空を見ると、春の夜のうすい雲は、もう見えなくなっていた。明日も、おれはこの公園に来るんだろうか。そしてごみ男は、明日も変わらずそこにいるのだろうか。こわいこわいごみ収集車がやってきて、かれを連れ去ってしまわないだろうか。長平は考えた。
考えたけれども、結局わからなかった。頭の中で、さっきのキッスを思い出した。そしてなぜだか、ごみ男の唇の感触と、黒い池の中の鯉の口のようすとが、長平の中で重なっていた。これで、人生におけるノルマを一つ達成したぞという気持ちが、心のどこかにあって、それが長平は嬉しかった。だんだんご機嫌になって来て、長平は、駅のコンビニでおいしいモンブランをひとつ買った。
ちなみに、鷲鼻は、キスをするのにそれほど邪魔にはならなかった。(了)