池守とあたしの夏 盛夏の生ぬるい風が、ぶ厚い舌で頬を撫でてった。のっぺりと青い空には真っ白い雲のかたまりがのらりくらり牛の歩み。アスファルトの道の果ては陽炎で歪み、飛び込めば時空のはざまに入れるんじゃないかしらと錯覚させてくれるけど、逃げ水なものだからいつまでたっても追いつけやしない。街路樹で黙っていた蝉がとつぜん喚きだす……うるさいことこの上ないわ。
あなたとの待ち合わせはいつもこうだ。あたしは早めにたどり着くのに、あなたはぜんぜん現れない。夏ばかり過ぎて、あたしの腋はぐっしょり濡れる。うなじに垂れる汗の重力運動の無駄。あなたがいればなまめかしく消費してくれるのにね。
映画一本終わるくらい待った気がしたけど、ようやく来たあなたは腕時計を見せて「15分しか遅れなかった」とのたまう。だけどあたしは許してしまう、あなたの、その、サテンの白いワンピース。ネットで噂の妖怪みたい。けれどとっても似合ってるから、あたしは全然許しちゃう。
髪を黒く染めたのね。白い髪も好きだったけれど、夏の妖怪といえば長い黒髪に白いワンピースよね。理にかなってる、とあたしが讃えると、あなたは「私別に妖怪じゃないわ」っていう。
「似たようなものでしょ」
あたしの言葉にあなたははにかんだ。
一緒に湖に行こうとあなたはいいだす。もともとそのつもりよとあたし。「退屈じゃない?」あなたの心配げな声。あたしは笑う、「あなたと火山にでも行けっていうの?」
あなたはやっぱりはにかんだ。
はにかむのは池守の習性かなにか?
中禅寺湖まで電車で二時間。きっぷを買う手の白いこと白いこと。やっぱり妖怪みたいだわというとあなたはだから、妖怪じゃないってばあ、とかなんとか。あなたが何者か決めるのはあなたじゃないわよ、おばかさん。徐々に田舎じみていく窓外の景色は、あなたに最近の悩みを思い起こさせる。あなたの悩み。「最近月イチでいちばん大きい鯉が死ぬの」
「それってどういうこと?」
「昔ながらの呪いよ。駄洒落なんだけど、悪質」
「ふうん」
山深い中禅寺湖はあなたのあこがれ。スワンボートがちょっと興ざめってあなたはいうけど、実際ふたりで乗ると楽しいのよね。
湖面に白いボートが映る。水面は穏やかに揺れている。湖は底知れず少しあたしは恐ろしい。
そういうとあなたはうすい唇をつりあげるわ。
「私もいつか湖になるのに」と。
「あなたにはずっと池でいてほしいわね、あたしは。こんなに大きい湖じゃあ、手におえないわ」
「ふふ」あなたは水音みたいな笑い声を上げて、「別に入水自殺しろっていってるわけじゃないわよ」
「物騒なひと!」
あたしたちはほほ笑み合った。
暮れなずむまで湖上にいたので、スワンボート屋のひとには不審がられてしまった。
夕映えは見事で、山々と、雲ぐもとが、どこもかしこもオレンヂ色に輝いては、やがて日の沈んだ後、残照によってむらさき色に染められていた。
「日の変わる頃には水になるわ」
あなたが、山向こうに沈んだ太陽を見透かしながらいった。
あたしのおべっか使い。「さみしくなるわね」
あなたの炯眼。「うそつき」
「ふふふ」
池守と恋する女は、ずぶといのよ。
待ち合わせた場所まで、電車と歩きで帰って、とっぷりくれた夜のなかでお別れをした。
月光と一等星の光が、うまいぐあいにサテンの白と映えているわ。くろい髪は、闇に溶けそうで不穏ね。
「さようなら、私のひと」
あなたのお別れの言葉は、もう5年間いちども変わっていない。
あたしのお別れの言葉は、毎年必死になって考えるけれど、そんなそぶりはちらとも見せない。
「じゃあね、あたしのかわいい池の精さん。また来年」
明日になったら、あなたはきれいな池の水になって、またいろんな写真家に写真を撮られたり、あおさぎや蝶に飲まれたりするのね。
さみしくて涙がこぼれそうだったけど、こぼれなかった。汗のかきすぎね。
去っていくあなたの背中に、月が反射して、水面のよう。あなたが角を曲がってしまい、あたしの夏はそこでお終い。
さようなら、あたしのひと。また来年会いましょう。(了)