山の風景「殺した」
「何を」
「兎を」
「そっかあ」
彼女がしばらくぶりに口を開いたと思ったらそれが小さな殺戮の報告だったので、おれは言うに事欠いて「そっかあ」を出した。そういえば彼女の着ているビッグサイズのピンク色のTシャツ(よれよれ!)の裾のところが赤黒くなってる。兎の血だなとおれは思って、ドスンと落としていた太った腰を上げて彼女のところに這っていった。それで尻のポケットから白いハンカチを出すと、
「ちょっと失礼」
とちゃんと言ってから、彼女の裾を拭いてあげた。それを彼女はグレーの目で眺めていた。
洞窟は、暗い。洞窟の入口も、まあ、やや暗い。けれど彼女はなにせ夜目がきくものだから、おれが「暗いよ、ここ」と言わないとそれを思い出さない。その日は洞窟に来てすぐ、「暗くて見えないから、入口でおしゃべりしようよ」とおれが言ったので、二人で深い洞窟の入口にタオルなんか敷いて、それに座ってぺちゃくちゃやることになった。
固まった血のしみは乾いたタオルなんかじゃちっともとれなかった。そりゃそうだ。やってみなくてもわかるだろ。お前はほんとにばかだなあと理性が言ったので、おれはまばたきをぱちっとやって余計な理性を追い払った。
「とれないや」
とおれが言えば、彼女は、
「別に良い」
とのこと。おれは肩をすくめて、ピンクのシャツから手を離した。それで彼女の顔を見上げた。
精悍な顔は、わりかし整っていて、その顔がおれは好きだ。いや、顔というか、正確には、そこに繰り広げられるいろんな表情が、好きだ。基本的に彼女の顔は凪いでいるが、よく見ていると、ほんのちょっとだけ感情をにじませていることがけっこうあって、おれはそれに気づくのがうまい。自分でいうのもなんだけど。
彼女とは、もう付き合って6年。おれも彼女も17のときにたまたまこの山の中で出会った。彼女があんまり大きいものだから、おれは腰が抜けるかと思った。なんせ彼女ときたら、身長が3メートルもある。大きいにもほどがあるので、おれはつい「きみは何者」なんて野暮なことを聞いた。
彼女は当時から寡黙なひとだったから、ひとこと、
「デイダラボッチ」
と答えた。へえ、デイダラボッチにしては、小さいなあ。とおれが失礼なことを思っていると、彼女は続きを言った。
「と、人間のハーフ」
はあ、なるほどねえ。
というわけですぐに友だちになった。少なくともおれは友だちになったと思った。彼女ったらなんにも言わないんだもん。けれどおれがどこかへ行くとくっついてくるし、かと思えば彼女はたまに勝手にちょっとあっちに歩いて行って、まるでついてくるのが当然といわんばかりにおれのことをあの灰色の目でじーっと見る。そういうわけで出会ったその日、おれたちは二人で山の中をうろうろした。17のころのおれはいまのおれに輪をかけてばかだったので、遭難するかもしれないなんてことは考えなかった。
そして日が暮れるころ、おれはようやく、自分が遭難したことに気づいた。困り果てていると、彼女が、
「ついてこい」
と、下生えや小枝なんかをバリバリ踏みしめながらどこかへ行こうとする。おれはきっと下山させてくれるんだと思ってその背中についていった。彼女はそのとき大きいサイズの黒いTシャツ(どこで売ってるんだか……)を着ていて、背中に外国の言葉のロゴが描いてあったのをよく覚えている。
それで彼女についていったら、洞窟に案内された。
「ここは?」
「家」
はあなるほど、家かあ。
そのときにはもう日が暮れていたので、おれは彼女の家に泊ることになった。はじめての外泊だ。そして、はじめての夜になった。なにせ彼女が夜這いをしかけてきたもんだから。
という流れで恋人(?)関係が始まって、今年で6年。ハテナをつけるのは、普通の恋人どうしと比べておれと彼女のあいだにはへんてこなことがいっぱいあるからだ。おれは彼女の名前を知らないし、彼女もたぶんおれの名前を覚えてないし、おれは彼女と付き合っていることを秘密にしてるし、おれたちは山の中でしか会わない。けれどおれとしては、自分が彼女に抱く感情を精査した結果、「恋人」という表現がいちばんふさわしいという結論が出た、ということが幾度となくあるので、そういう認識でいる。彼女がどう思っているかは知らない。
兎を殺したというのだから、きっと食べたんだろうなあと思って、おれはきょうここに来たときに洞窟の入口のすみっこに置いておいたバスケットをちらりと見た。中にうまいサンドイッチが10枚も入ってる。このへんの兎はでっかいことで有名だ。彼女は夕飯いらないって言うかもしれない。おれ10枚も食べれるかなあ。とりあえず訊いた。
「兎、食べたの」
すると彼女が首を横に振る。
「それじゃ、どしたの」
「……儀式」
「儀式?」
おれは訊き返したけど、彼女は説明は十分に済ませたみたいな顔でまた黙ってしまった。儀式ね。デイダラボッチの文化かしら。彼女について知らないことが、まだまだいっぱいあるなあ。
ふたりで、山の昼間が終わっていくのを何も言わずに見つめた。こうもり。虫。鳥。また虫。もう少し虫。樹冠の向こうの空が光を奪われていき、そうして夜が来た。
夕飯のサンドイッチを、二人で食べた。静かに食べた。デイダラボッチ的ルールなのか、彼女個人のルールなのかは知らないが、彼女はものを食べるとき極力音を出さない。忍者みたいに静かに食べるので、おれも真似することにして、今ではおれも忍者だ。
10枚二人で食べて、「足りた?」と訊くとうなずかれ、それは良かった。とおれは思った。
そのあと二人で、虫に刺されながら夜の森を見ることにした。
夜の山なんか見て何が楽しいのか、おれはいまだによくわからない。けれど彼女の隣に座っているのはとても楽しいので、退屈だと思ったことは、今のところない。
その夜彼女はずっと、夜の山のある一部分を見つめていた。それは少し離れたところにあるブナの木の幹で、闇の中にほとんど溶けていて、おれにはよく見えなかったけれど、確かにブナの木だった。
ねえ、ブナの木をなぜ見つめてるの。
と、訊くかどうかを、おれは五分も考えた。彼女はいま、静かにブナの木を見つめてたいのかもしれないから。けれど、やっぱり知りたいなあ。というのが勝って、おれは訊いた。すると彼女は首をおもむろに動かして、おれを見た。その姿が暗い中にぼんやりとあるのが、おれは、きれいだなあとこっそり思った。
「涼しい」
と彼女がぽつりと、芯のある低い声で言った。それが返答らしい。おれは、
「そっかあ」
などと相槌を打ってはみたものの、ブナの木をみるとなんで涼しいのかはよく分からなかった。
しだいにおれは、夏の終わりの山気にちょっと震えだした。涼しいというか、涼しすぎるなあ。すると彼女はブナに向けていた視線を切って、身を乗り出すと、あの長い腕でおれを抱きしめてくれた。
横から抱きしめられたから、見上げると彼女の喉ぼとけが見えた。浅黒い肌がポコッと出っ張ったそれを見て、おれは思わず頬を緩めた。おれは彼女の豊かな胸にほっぺたを乗っけて、自分の出っ張った太鼓腹と、彼女の引き締まった腹部が触れる熱を感じた。
おれは彼女と自分がわかりあえているかどうかがまるでわからない。おれは彼女のことについて知らないことがいっぱいあるし、彼女も、おれがどういうやつなのか、たぶんよくわかってない。おれは、自分が彼女に惚れているのか、それとも、彼女に投影したまぼろしに惚れているのか、よくわかんなくなるときがあって、それでひどく悩んじゃって、眠れないことがある。その晩もそうだった。抱き合ったあとにそうなるなんて、最悪だなあ。と思いながらおれは、すでに夜に慣れた目で、彼女の寝顔を見た。彼女のまつげの、あんまり長くないところが、好きだ。なぜというとわからないので、おれは、わからないことばかりだなあと思った。するとうるさい理性がまた、おれのことを「ばかだなあ」と見下ろしてくるので、おれは、うるさいやい。と口の中でつぶやいて、ぎゅっと目をつむった。そのまんま目を開けないでいると、理性は眠りに溶けていった。
夜明けごろ、彼女が起き上がる音を聞いておれは目を覚ました。洞窟の奥にベッドマットを三人分敷いてあって、おれたちはいつもそれに寝る。寝心地はひどいけど、彼女と眠るのが楽しいから、別にいいやっておれは思っている。
彼女が頭をぶっつけないように背を屈め、洞窟の入口のほうに歩いていくのが暗いなかに見えたので、おれはちょっとためらってから、ついていくことにした。彼女は洞窟の外で立ち止まって、透き通ったまなざしを、あのブナの木に向けた。うす明るいなかで見ると、その幹には、ハート型の葉っぱをつけるつる性の植物にぐるぐる巻きにされているのがわかった。おれは彼女の横に立って、一緒にブナの木だけをジッと見つめることにした。けれど、15秒で見ていられなくなった。なんで見るのかわかんなくって。理性が言った。おまえ、彼女があんなに興味を持っている木を、20秒も見てられないの。ほんと、ばかだなあ。
うるさいよ。おれは唇を突き出して、まばたきをやって、理性をぶった。
ブナの木を見てられないので、おれは彼女を見ることにした。
彼女の髪は真っ黒け。すごく短く刈られている。おれはその髪に指をつっこんで、頭皮をもみもみやるのが好き。彼女が喜ぶから。そうして彼女を見ているうち、彼女がブナの木に向けているまなざしがあんまり深いものだから、おれはつい、
「どうしてずっとあの木を見ているの」
と、もう一度聞いてしまった。しまった、答えは昨日もらったじゃないか。とおれが自分を叱っていると、彼女はやっぱりおもむろにこっちを向いて、灰色の目でじいっとおれを見ながら厚いくちびるの端をちょっと上げた。その顔は、彼女が少しだけ困っているときの顔だった。そしてこう言った。
「わからない」
おれは、自分が目を見開くのを、息を呑むのをみとめて、そのせいで「そうかあ」を言うタイミングを逃したのを知った。宙ぶらりんの「わからない」がおれたちのあいだにぶらさがったとき、ふいに朝の陽が彼女の顔にかかった。彼女はまぶしいのかすこし目を細めて、けれど口もとには笑みのかけらをはためかせたまま、おれのほうに一歩近づいた。彼女は脚が長いので、ふたりの距離を埋めるには一歩で十分だった。
おれはちっちゃくて彼女は大きいから、接吻は簡単じゃない。だから彼女は、あの大きな腕でおれを軽く抱きしめただけだった。ごく短い時間のハグはすぐ終わっちゃって、おれは呆然と彼女を見上げた。灰色の目に朝陽が入って、なかの不思議な精悍さと溶け合っていた。そのさまがおれをあんまりどぎまぎさせるものだから、おれはなんにも言えなかった。
おれは彼女とわかりあえているかしら。
その疑問がフと脳裏に浮かんだ。けれどおれは、このときばかりは、
わかりあえていなくても、いいんじゃないかなあ。
などと、思った。そして、すでに向こうを向いてしまった彼女に衝動的に近づいて、そのごつごつした大きな手を太ったちっちゃい手で取ると、彼女が、
「手はつながない」
なんて言っておれの手をそっと離したから、おれは恥ずかしくって、「ごめん」と言った。
そしてそんなおれを見て、「ほんと、ばかだなあ」とえらそうにあざ笑う理性を、おれはまた、まばたきを二回やって黙らせてやった。(了)