黒コー あの後、俺は仕事が増えて、インタビューやらなんやらが終わってからすぐ、リュックひとつにカメラを抱えて世界を飛び回る日々を過ごしている。
人間は星空が好きだ。視界の端から端までの暗闇に無数に浮かぶ小さな光。その一部を写真として切り取って、記事にする。夜空の写真だけを何枚撮っただろうか。
でもそのどれもがあの日と同じじゃなかった。
星空を見ると思い出す。丸い眼に映る景色を。つんと尖った鼻先が赤くなっているのを。引き締まったフェイスラインは彼が大人の男であることを示しているのに、子どものように見開かれた目が記憶に焼き付いている。あの時もっと言葉を交わしておけばよかったのだろうか。もう名前を声に出しても返事が返ってこない。脳内で呼んだらめんどくさそうに返事が聞こえる気がする。なんで彼のことだけを思い出すのか、答えを知る術も失っている。
己の思考が虚しい。考えたってキリがないし、答えもない。カメラは沈黙を保ったまま静かに撫でられている。
「おい。おいってば」
「は」
「お前だよ。オーマーエ!オレのこと忘れたのかジャパニーズ」
「は?」
「クロキ!」
「え」
頭上には、ぷかりと浮かぶ不遜な笑顔。
「お、まえ」
あの日別れた時のままのコージー・オスコーがいた。
なんとなく色彩を欠いたように見えるコージー・オスコーはこの狭い家に居座り続けていた。ある時はベッドの上を陣取り、あるときは1人分の食事を並べた机の向こうに座っていた。男の風呂を覗く趣味なんざ無ぇと吐き捨てる時もあれば、2人がけのソファの真ん中に我が物顔で座っている時もある。気を使っているのか、天井近くに浮いている姿は見せても、壁やドアをすり抜ける様は見たことがない。この奇妙な同居生活はそろそろ1ヶ月になろうとしている。
この1ヶ月はちょうど依頼と依頼の間だったから長期間家を空ける必要もなかった。いままでひとり気ままに使っていた空間に浮かぶ人間にも慣れてきてしまった。彼に呼びかける「なあ、コージー」というお決まりのセリフも口に馴染んできている。それでも俺は彼の身体に接触することを必死に避けた。伸ばした指が白んだ身体を突き抜けてしまったら?分厚い袖口から覗く細い手首を掴めてしまったら?どちらでも嫌だ。コージー・オスコーはあの日死んでしまっているのだから。
「おい、黒木」ローテーブルの向こうから声がかかる。
「なんだ、コージー」
「お前、毎日こんなもんばっか食って飽きねーのかよ。昼も似たようなもん食ってたじゃねぇか」
「こんなもんて、カップヌードル食ったことないのか?」スマホが3分を知らせる。
「無ぇな。存在は知ってるぞ、さすがに」蓋を開けたカップを覗き込むつむじが見える。
「へぇ、オーストラリアにもあるんだな。お坊ちゃんは毎日どんなもん食ってたんだ、よ......っ」
失敗した。
「うるせー。でもまあそうだな、家にいた頃は」
乳白色のスープに浮かぶエビもどきがやけに目に付く。激しい耳鳴りでコージーの声は聞こえなくなっていた。
「おい聞いてんのかよ。お前が訊いてきたんだろ黒木」
「あ、あぁ」
「まーもう食うこともねぇし、もうクソもしねぇけどな」
早く食べないと麺が伸びてしまう。どうでもいいことが頭に浮かぶのに手は動かなかった。もうなにも食える気がしなかった。音もなく湯気が浮かんでは消えていく。
「コージー」
「なんだよ」
「俺があの時、ちゃんとお前に話しておけばよかったのかな」
「......さあな」
「俺がちゃんと、お前にもっと、」
「とりあえずそれ、食っちまえよ」
食ったら話そう、そう続けた彼は窓の外を見ていた。
「わかんねぇよ、オレにも」
言葉は唐突だった。伸びかけた麺を啜り、程なくして空っぽになったカップをゴミ箱に放り込んだ。ショックを受けてても毎日やってた動きはできるみたいだ。
「オレがいつ死ぬかとか、なんでもかんでもカミサマがきめてるんじゃねぇの」
「......そうなのか」
「そうだよ、たぶん」
だから、お前がどうしたところでオレはこうなってたんだよ。
コージーに優しくされたのは初めてかもしれない。鼻の奥がツンと痛んで視界が滲んだ。バレたら絶対からかわれるから、まばたきをしてごまかした。
「山頂の景色はどうだった?写真とかねーのかよ」
「写真、は、ちょっと」
「はぁ?しゃあねーな」
ばちりと目が合って、その瞬間、彼の顔はいつも見ていた勝気な笑顔を作った。
「聞かせてくれよ、薫」