俺が勤めている会社の一階。
まるまるエントランスホールになっている、この広いフロアの片隅──自販機が数台並んでる一角で缶コーヒーを飲みながら、俺はクライブの退勤待ちをしていた。スマホ片手にちびちび飲み進めていたコーヒーもやがて空になり、ゴミ箱に空き缶を捨てたところで、
「すまん、待たせた」
背後からクライブの声が聞こえて、振り返る。
するとそこには、見慣れた通勤鞄の他に、パンパンになった紙袋を下げているクライブの姿。
中身は……検めずとも分かる。恐らくチョコレートだろう。
何せ今日はバレンタインだし、俺も同じ部署の子達からいくつか貰ったし。気持ちのいいぐらい義理だって分かるやつだったけど、それでも何となく嬉しくなってしまうのは、個人差はあれど男のサガなんだと思う。
「随分と大量だな。それ全部バレンタインチョコか?」
「ああ……」
「せっかく貰ったんだから、頑張って食べろよ~?」
「……分かってる」
揶揄うような俺の言葉に、少々げんなりした顔で頷くクライブ。
クライブはクッキーやフィナンシェのような焼き菓子の類は普通に食べるが、露骨に甘すぎるものはちょっと苦手なんだよな。けど休憩時間なんかに出されるお茶請けや同僚の土産物は文句言わずに何でも食べてるっぽいし、こいつの好みを知らなかったら、普通のチョコレートが渡されてしまっても無理はない。
それもこれも、今のクライブが美人の彼女と別れて、フリーになってると思われているせいだろう。
顔が良くて仕事もできる。残業多めで年齢の割に貯金もありそうな男なんて、狙い目もいいところだ。モテない方がおかしい。
……実際は、フリーなんかじゃないんだけどなあ。
まあ、俺と付き合ってますなんて会社じゃ大っぴらに言えないし。元々クライブとは仲が良かったから、頻繁に一緒に行動してても周りから怪しまれる事があまり無いのは良かったが──こういうイベントの時は、ちょっと問題アリだな。大変なのは主にクライブの方だと思うけど。
* * *
会社から出て、駅までの道をクライブと並んで歩く。
賑やかな駅周辺と違い、この辺りはまだオフィス街が続いていて、人影もまばらだ。幅広な歩道は綺麗に舗装されており、ビルの明かりや街路灯のおかげで、夜でも歩くのに不都合はなかった。
俺とクライブは社員寮暮らしで、何の偶然か部屋も隣同士だったりする。だから目的地は同じだし、終業後や休日はもちろん、それ以外でも気軽に会える事は、こういう関係になった今となっては正直ありがたい。
「──で、ベレニスが女の子からチョコ渡されてるとこ見ちゃってさ。話聞いてみたら、俺よりもチョコの数多かったんだよ……」
「彼女らしいな」
ふはっと軽く噴き出すクライブ。
そんな笑顔を見て、ああ好きだなって改めて実感する。
クライブと他愛のない話を続けながら、鞄の中に入っているブツをいつ渡そうかとタイミングを窺っていると、
「アデル」
「んっ?」
不意にクライブから名を呼ばれ、微妙にキョドってしまった。しかしクライブは俺の動揺に気付く事なく、包装されてリボンのついた箱のようなものを鞄から取り出すと、こちらに差し出してくる。
「良かったら、受け取ってくれないか」
「へ? 何だこれ、もしかして──」
「チョコレートフランだ。見つけた瞬間、その、君の顔が浮かんだというか……好きそうだなと思って。気が付いたら買っていた」
「そ、そっか! ありがとな!」
俺は平静を装いつつ、クライブの手から箱を受け取った。そしてぽつりと小声を漏らす。
「……先越されちまったなあ」
「どういう意味だ?」
俺の独り言を聞き取ったクライブが、不思議そうに尋ねてくる。俺は先程のクライブと同じように鞄の中へ手を伸ばし、潜ませていた箱を掴んで差し出した。
「実は俺も、クライブにチョコ用意してたんだ。ビターな感じの……あんまり甘くないやつ。これなら食べやすいだろ?」
クライブは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに表情を和らげて、
「……ああ。ありがとう」
微笑みながら、チョコの箱を受け取ってくれた。
目を細め、箱を眺めているクライブをチラチラと見やり。恥ずかしさを誤魔化すように、つい咳払いなんかをして、言葉を続ける。
「で、さ。そのチョコに合いそうな酒も買っておいたから、帰ったら一緒に飲まないか?」
せっかくの金曜日、そしてバレンタインデー。
できればクライブと過ごしたくて、いい口実にもなるかと思い、わざわざブランデーまで準備しておいたんだ。
そういえばクライブの奴、会社の飲み会などではかなり量をセーブしているせいか、同じ部署の連中からはあまり飲まないタイプだと思われているらしい。決してそんな事はなく、むしろ酒好きの部類だったりするのだが。今の会社に入る前なんか、飲む量はもちろん酒癖の方も──
……いや、本人の名誉のためにもやめておこう。俺もあまり人の事は言えないしな……
けどこれを知っているのは古くから付き合いのある俺と、入社時に世話になったという現在の上司──ジョセフさんぐらいなものだろう。
そして俺の誘いに、クライブは頷いてくれたものの、
「それはいいが……飲み過ぎて途中で寝落ちたりするなよ?」
「厳しい事言うなって。休みの前日なんだし、お前と二人っきりなんだから別にいいだろ?」
「休みの前だからこそ言ってるんじゃないか。寝ている相手を抱くような趣味、私には無いぞ」
……う。
しれっとした顔で言われ、思わず言葉に詰まってしまったが、
「わ、わかったよ……」
消え入りそうな声で、なんとか返事だけはする。
まずい。
まだ飲んでもいないのに、顔が火照ってきた。
いや、そういう事も考えていなかった訳じゃないけど。これじゃ今夜はエッチしますって断言されたも同じじゃないか。
途切れた会話。訪れる沈黙。
駅が近くなるにつれて増えてきた通行人や、辺りの騒がしさに何となく助けられた気分になって。
俺は次の話題探しに頭を巡らせるのだった。