その日、仕事帰りに立ち寄ったスーパーは、なかなかの混雑ぶりだった。
売り場にひしめく人々、レジの大行列。それらに辟易しながら、やっとの事で買い物を終えたアステル。彼が店を出て、自室のあるマンション方面へ向かい始めた直後──
「アステルくーん!」
聞き覚えのある声に名を呼ばれ、足を止めて振り返る。
するとそこには、おーい、と大きく片手を振りながら、こちらに駆け寄ってくる人物がいた。茶色の髪に、ピンクのメッシュが特徴的なその姿。
「ハルカゼくん」
パンパンに膨れた大きなエコバッグを肩から下げ、アステルの前にやって来た青年──ハルカゼに笑顔を向けると、ハルカゼの方も嬉しそうに笑い、
「アステルくんも買い物帰り? 良かったら途中まで一緒に帰ろうよ!」
そんなハルカゼの提案に、うん、と頷いて。
肩を並べ、再び歩き始めるアステルとハルカゼのふたり。
「ナガセ先生は一緒じゃないんだ?」
「うん、ナガセは今日ジムの日だからね。帰ってくるのはもうちょっと後かな」
「ジムかあ」
そう呟くアステルの横顔に、何か感じるものがあったのか。ハルカゼが聞き返す。
「アステルくんも、筋トレに興味あるの?」
「筋トレっていうか……もう少し体力つけたくて。やっぱり部活やってた学生の頃と比べると、衰えてるのをつくづく実感しちゃってさ」
「なるほどね~。でも体力の衰えって……一体どういうところで実感したのかなあ?」
あ、と小声を漏らすアステルを前に、ハルカゼはにんまり笑って、
「もしかして、ナガタが関係してたりする?」
「え、ええと……」
更に畳み掛けてくるハルカゼと、答えに窮するアステル。
実のところ、ハルカゼの推測通り──
体力不足だと感じ始めたのは、恋人であるナガタと夜を共にするように、身体を重ねるようになってからだった。
毎回自分が先にへばってしまい、まだ余力を残していそうなナガタに対しての申し訳なさはもちろん、彼を満足させられていないのではないかという不安までもが、アステルの中でじわじわ育ち初めていたのである。
けれど、そういった事情を正直に話すのはやはり恥ずかしく、躊躇いが生じてしまう。この様子だとハルカゼには既に勘付かれているようだが、それでも素直に頷く事はできなかった。
何とか上手く誤魔化す方法は、この場を切り抜ける手段はないだろうか。
辺りに視線を彷徨わせていたアステルが、とある変化に気付き、声を上げる。
「そっ、そういえば! 日が暮れるのも随分早くなってきたね!?」
スーパーに入店した頃、空の裾野はまだ夕焼けの色を残していたのに。今はもう、辺り一面だいぶ暗くなってしまっている。ほんの少し前まで、このぐらいの時刻でも明かりがいらない程には明るかった筈だ。
「そうだねえ。9月になったし、これからどんどん暗く……」
アステルの言葉につられるように空を見上げたハルカゼだったが──
急にハッとしたような表情を浮かべたかと思えば、そのまま黙り込んでしまった。が、それもほんの僅かな事で、アステルの顔を見つめ、様子を伺うような面持ちで再び口を開く。
「あのね」
「うん」
「明日……9月5日って、実はナガセの誕生日なんだ」
「えっ、そうなんだ!? おめでとう……にはまだちょっと早いか……」
小さく苦笑するアステル。中身がみっしり詰まったハルカゼのエコバッグに目を留めて、
「あ、それでハルカゼくんも買出しに? 明日、ナガセ先生にたっぷりご馳走作ってあげるんでしょ」
「う、うん。そのつもり、なんだけど……」
「そっか、誕生日かあ。ナガセ先生にはいつもお世話になってるし、俺も何かプレゼントを……って、ハルカゼくん? どうかした?」
ハルカゼの手料理が好きだと言っていたナガセの顔を思い出し、彼が喜ぶであろう事を想像していたアステルだったが──
傍らのハルカゼが何だか困っているような、それでいて何か言いたそうな顔でソワソワしている事に漸く気付き、問い掛ける。
「その様子だと、アステルくん知らないよね……?」
「ん、何が?」
「ナガセとナガタの誕生日が一緒だって事」
ぴたり、とアステルの動きが止まった。
──沈黙。
ハルカゼのセリフを聞いたアステルが、笑顔のまま硬直している。
それからたっぷり数秒後。
「……え?」
全くの不意打ちを受けたかの如く、掠れた小声を漏らすのが聞こえた。
そんなアステルを前に、やや躊躇いがちに言葉を続けるハルカゼ。
「ナガタもね、9月5日生まれなんだよ。だから明日が誕生日なんだ」
再度訪れた沈黙の後、ようやく聞こえてきた声は、
「…………え?」
やはり先程と同じく、呆気に取られたような呟きだった。
「あー、やっぱり知らなかったかぁ……」
苦笑を浮かべるハルカゼの前で、ただ呆然と佇むアステル。
知らない。
聞いてない。
だから彼を祝うための準備なんて、何もできていない。
「ナガタ、こういう事って自分から言わなさそうだしさ。何なら誕生日自体忘れてそうなんだよね」
ひょい、と軽く肩を竦めて、ハルカゼ。
「だからってボクが勝手に伝えるのもどうかと思ったけど……どのみち知るなら誕生日が終わってからよりも、今の方がいいかなって……」
ハルカゼの言う通りだった。
9月5日が過ぎ去って、それからすぐに『実は5日が誕生日でした』なんて聞かされたら──
どうして教えてくれなかったのかと、ナガタ本人やハルカゼに対して、自分勝手で理不尽な怒りを抱いてしまったかもしれない。
「……うん。教えてくれてありがとう、ハルカゼくん」
未だ動揺は全て消え去っていないけれど。
それでもハルカゼの心遣いに感謝して、何とか笑顔を返す事のできたアステルだった。
ハルカゼと別れ、自分の爪先を眺めながら。
マンションへの道のりをぼんやり歩く。
(……そっか。ナガタくん、明日が誕生日なんだ)
ここ数日、あちらの世界で仕事に専念しているナガタ。
先週末は自分の休みに合わせて泊まりに来てくれたおかげで、一緒に過ごす事はできたけれど。
月曜の朝に別れてから、木曜となる今日まで全く会えていない。時折メッセージや電話でのやり取りはあったものの──それもほんの数える程度だし、彼の請け負う仕事内容を知った今は、隙を見て連絡をくれるだけありがたいと、アステルは思っていた。
(今日中には何とか片付きそうだ、って朝に連絡あったけど……)
すっかり暗くなった空には、小さな星が瞬き始めていた。頼りない光が点在する中、煌々と輝いている月を、目を細めて見やりつつ、
「……会いたいなぁ」
よく似た色の瞳を持つ彼の事を思い出し。
そんな言葉が、自然とアステルの口を衝いていた。
* * *
ナガタはほとほと疲れ果てていた。
そろそろ日付が変わりそうな時刻に、ようやく戻る事のできたマンションのエントランスをくぐり、エレベーターのボタンを押す。
──反応なし。
微妙に苛立ちを覚えながらボタンを連打し、何とかランプを点灯させる事に成功した。
現在ナガタが居を構えている、この小規模な5階建てマンション。かなり年季の入った──有り体に言えば、かなりのオンボロマンションである。一応メンテナンスは行っているようだが、エレベーターに限らずマンションのあちこちから不調を訴えてくる間隔も短くなっているような気がする。しかし、この辺りの治安を考えれば、管理人がいて尚且つ定期的な修繕が行われているだけでも、実は大したものなのだ。たとえナガタ自身が、管理人と思しき人間の姿を殆ど見た事がなかったとしても。
そんな事を考えている間にも、がこん、と音を立てて1階で停止したエレベーターの扉が開く。乗り込んだエレベーター内の空気は蒸し暑く、そんな所にも辟易してしまう。
今回の仕事も無事終えた。そして明日からは何日か休みだ。
アステルに会って、この数日ですっかり枯渇してしまったアステル分(注・アステルと触れ合うとチャージされる栄養)を補充させてもらおう。本音を言うなら、今すぐにでも会って抱き締めたい。むしろ抱きたい。が、時間も時間だ。特に自分が居ない日などは、あの珍妙な縫いぐるみと共に既に寝入っている可能性も高いだろう。
やがて5階に到着したエレベーターから廊下に出て、自室の方向へと顔を向けた直後。
「……?」
違和感に気付き、僅かに眉を顰める。
5階の突き当たり、そこにある角部屋がナガタの部屋だった。
ただでさえ住人が少ないこのマンション。
現状、この階で部屋を借りているのは自分一人だけの筈である。
それなのに、人影が──
自室の扉前で膝を抱えるようにして座り込んでいる人物の姿が、見えた。
廊下の蛍光灯は完全に切れているもの、切れかかっているものも多く、全体的に薄暗い。この距離だと風貌などは全く見えず、誰かがそこに居る事ぐらいしか分からない。
途端、ナガタの全身に漲る緊張。
相対した連中から恨みを買う事も少なくない仕事柄、真っ先に思い当たったのは復讐の路線だが──それを目的とした連中が、あんな無防備に姿を晒すものだろうか。
とはいえ、警戒するに越した事はないだろう。
扉前の人物から視線は外さず、ゆっくり一歩ずつ近付いていく。向こうが何か動きを見せたら、即反撃に移れるよう意識しながら。今のところ相手はまだこちらに気付いていないのか、俯いたまま微動だにしなかった。
少しずつ縮まっていく、相手との距離。やがて心許ない明かりの中でも、次第にその姿が判別出来るようになり、真っ先にナガタの目に入ってきたのは──とても見覚えのある金髪だった。あの髪の柔らかさを、触れた時の心地良さを、自分はよく知っている。
そして座り込んでいる人物が眼鏡を掛けている事に気付いた瞬間、予感が確信へと変わった。
「……アステル?」
小声で彼の名を呟き、警戒を解いて全力で駆け出すナガタ。
アステルの側に屈み込むと、両肩を掴んで呼び掛ける。
「おい、どうした! こんな所で……!」
「……あ、ナガタくん。おかえり……」
肩を揺さぶられ、ゆっくり顔を上げたアステルは、どこかぼんやりした様子でナガタを見つめ返すと、
「こっちに来て、電話してみようかなって思ったんだけど……仕事の邪魔したら悪いし、ナガタくんに何かあっても嫌だから、ここで待たせてもらってたんだ。でもずっと立ってたら、ちょっと疲れてきちゃって。それで座ってたら今度は眠気が……」
ごめん、と苦笑しながらアステルが立ち上がり、スラックスの後ろを叩いて埃を落とす。どうやら単純に眠っていただけだと分かり、安堵したナガタも立ち上がった。
「……あまり驚かせるな。しかし何だってこんな時間に……」
「それは──」
会話途中でアステルがスマートフォンに目をやると、時刻は午前0時を少し過ぎていた。訝しげな顔で自分を見ているナガタに微笑んで、告げる。
「……ナガタくん。誕生日、おめでとう」
アステルの言葉に息を呑み、目を丸くするナガタ。
「ハルカゼくんから教えてもらったんだ。ナガセ先生の誕生日と一緒だって」
「……ああ、そうか。そういえば……そうだったな……」
溜息混じりの、ナガタの呟き。
「やっぱり忘れてたんだ」
ふふ、と柔らかく笑っているアステルとは裏腹に、ナガタは少し焦ったような声音で、
「おい、まさか。それを言う為だけに来たのか?」
「ナガタくんと出会ってから、初めての誕生日だし。ちゃんとナガタくんの顔を見て、他の誰より早く『おめでとう』って言いたくて」
来ちゃった。
照れ笑いを浮かべるアステルを前に、ナガタは大きく息を吐くと、
「今の俺に『おめでとう』なんて言ってくれる奴は──」
手を伸ばし、アステルの身体を掻き抱いて。その顔を、眼鏡の奥にある緑色の瞳を見つめる。
アステルの行動が、自分を想ってくれる気持ちが、嬉しい筈なのに。同時に胸が締めつけられるように苦しくて、何故か泣きたくもなってしまう。
「お前ぐらいだから、安心しろ」
それでもどうにかアステルに微笑みかけ──声は僅かに震えてしまったけれど。片手をアステルの下顎辺りに添えて、親指の腹で彼の唇を、ふに、と軽く押してから。
自分の唇を、アステルのそれに静かに重ねた。
せっかくこっちに来たんだ。今日は泊まるのか?
期待を抱きつつ、ナガタがそんな問いを投げかけようとしたその矢先。
「それじゃ、帰るね。ナガタくんの顔も見られたし」
「帰るって……今からか!?」
予想外のアステルの言葉に、慌てふためく。
「今日、金曜日だし。朝から普通に仕事あるんだ。戻って寝直すよ」
「いやちょっと待て。部屋まで送る」
苦笑混じりに『おやすみ』と伝えて踵を返そうとしたアステルを引き留め、自室の扉を開けて中に入って行くナガタ。バタバタと妙に慌ただしい足音を響かせてから再び姿を現すと、きょとんとしているアステルの前に右手を差し出し、
「……やる」
「これって──」
「俺の部屋の合鍵だ。次からは中で待つようにしろ」
いつかアステルに渡したい。
そう思い、少し前に作っておいたものだったが──
良い口実が出来て渡しやすくなった今が、まさにそのタイミングなのではないか。
しかしナガタの思惑とは裏腹に、アステルは少し困った表情を見せ、
「で、でも、ナガタくんの誕生日なのに……俺がプレゼントもらっちゃっていいの?」
「いいんだ。受け取れ」
むしろ受け取ってくれないと俺が困る。
そんなナガタの心の声を知ってか知らずか、アステルからも右手を──手のひらを上にしてナガタの前へと差し出して、そこに鍵を乗せてもらう。
何の変哲も無い、ひとつの鍵。
それをまるで宝物のように、両手でぎゅっと包み込んだアステルは、
「……ありがとう、ナガタくん」
ほんの少しだけ頬を上気させながら、嬉しそうに微笑んでみせた。
「そういえばナガタくん、明日……っていうか今日は休み?」
「ああ、数日はゆっくりできる」
「そっか」
付き添いを申し出てくれたナガタと共に、自室へと引き返す。
ナガタの部屋前に到着するまでは、周囲への警戒などでだいぶ緊張に満ちていた道のりも、彼とふたりなら全く怖い事などなかった。自然と笑顔まで浮かんできてしまう。
「それじゃあ今日はこのまま、俺の部屋に泊まっていって! それで……学校が終わるまで、待っててほしいな。外で夕飯食べたり、ナガタくんへのプレゼントも何か買いたいし」
「飯はともかくプレゼントは……」
別に必要ない、とナガタが言うより早く。アステルが先に口を開く。
「俺が、ナガタくんに贈りたいんだ。さっきのお礼だってしたいし、何より初めて一緒に迎える誕生日なんだから!」
「……わかった」
これは断り続けるだけ無駄な労力に終わるだろう。
早々と察して頷くナガタ。
一方のアステルは、ナガタが頷いてくれた事に気を良くしてか、妙に弾んだ口調で、
「ナガタくん、何か欲しいものってある?」
「欲しいもの……」
そう呟いて、黙考し始めるナガタを前に、
「じゃあ、俺が学校行ってる間に考えておいて」
ね! と笑顔を向けてくるアステルを、見つめ返すナガタ。その脳裏に浮かんでいた言葉は。
プレゼントは──アステル。お前でいい。
言いかけて、ぐっとそれを飲み込んだ。
(……なんて言ったらまた『真面目に考えて!』って、眉を吊り上げて怒るんだろうな)
想像し、思わず小さく笑ってしまう。
「ナガタくん?」
ひょこん、とナガタの顔を横から覗き込んでくるアステル。
そんな仕草も、ナガタの目には可愛らしく映り。
更に表情を和らげると、アステルの髪を──そのふわふわとした金髪を、くしゃりと撫で付けるのだった。