相変わらず大勢の客で賑わっている、いつもの酒場。
仕事上がりの一杯をこよなく愛するアルローは、今夜も行きつけの店へと足を運んでいた。そろそろ自分の健康状態を気にした方がいい年齢かもしれないが、こればっかりはなかなか止められるものではない。酒は命の水なのである。
空席を探して、アルローが視線を巡らせていると──
カウンター席の一番端。そこに意外な男の姿を発見し、目を留める。
向こうとてプライベートな時間だろう。声を掛けるか一瞬悩んだが、彼とは少し話しておきたい事もあった。
……断られたら、大人しく引き下がるか。
そんな風に思いつつ、彼の座っている席へ近付く。
「よぉ。隣、いいか?」
アルローの問い掛けに、うっそりとした様子で顔を上げる件の男。
「……はい。どうぞぉ……」
既にかなり飲んでいるのか、声にはいつものような覇気が無かった。
酔眼でこちらを見やるウツシの姿に苦笑して、スツールに腰を下ろすアルロー。
「珍しいな、おまえさんがこんな場所に居るなんてよ」
「俺だってたまには飲みたい時がありますよ……」
自嘲気味に笑いながら、手にしていたジョッキを再び呷る。
アルローもひとまずビールを注文すると、隣のウツシに向けて、どこか躊躇いがちに口を開いた。
「もしかして、アレか。うちのジェイのせいか?」
「…………」
ウツシからの返答は無く、沈黙を保ったままだった。
だが自分の言葉で、ウツシの纏う雰囲気が明らかに変わった事に気付く。
まるで『その件には触れてくれるな』と言わんばかりの拒絶感と、隠しきれていない微かな殺気。無言でジョッキを見つめる彼の目は、完全に据わっていた。
──図星か。
アルローは内心ため息をつきながら、どうしたものかと思案する。
数日前の早朝。
教え子でもあるジェイが、アルローの部屋を突然訪ねてきた。
ゆうべの酒が残っている上、寝起きで未だ半目のアルローとは正反対に、キラキラした瞳で部屋の入り口に立っているジェイ。とりあえず中に入るよう促し、ドアを閉めた途端、堰を切ったようにジェイが話し始める。
「アルロー教官! 聞いてくださいっ! オレ、アラタさんとお付き合いする事になりました!」
「…………は?」
誰と、誰が?
起き抜けで脳が充分に働いていないせいもあるだろうが、ジェイの言っている事がすぐには理解できず、アルローは頭をがしがし掻きながら、話の内容を整理し始める。
……そういやアラタに惚れただの、避けられてるだの言ってたな。
フィオレーネやガイアデルムの件もあって、最近それどころじゃなくなってたみたいだが──上手い事まとまったのか。
アルローとて、若者の浮ついた話を全て適当に聞き流していた訳ではないし、彼なりに心を砕いていた部分もある。心底嬉しそうな弟子の姿を前に、自然と目尻も下がってしまう。
「オレ達、なんと両想いだったんですよ~! アルロー教官にはいろいろお世話になったし、一番に報告しないといけないなって思って……」
ありがとうございました! と深く頭を下げるジェイ。
「そりゃ良かったな、おめでとさん」
彼らを祝福する気持ちは、勿論あった。
けれど同時に浮かんできたのは、アラタの師でもあるウツシ教官の顔。
以前からジェイに恋の悩みを相談され、時には巻き込まれていたアルローにとって、その恋心が成就したのはめでたい事だ。しかしジェイ寄りの心境でもある自分はともかく、アラタをとても大切にして可愛がっている彼は、果たしてこの結末をどう思うのか。
二人の交際を、手放しで喜んでくれるとは想像し難い。それどころか、アラタに対する普段の過保護っぷりからすると、反対してくる可能性もあるだろう。最悪、物理的な方法で、だ。
ウツシ教官が本気を出したら……ジェイ、おまえなんざ太刀打ち出来ねぇぞ?
そんな一抹の不安を抱えつつ、放っておけばこのままノロケ話に突入しそうだったジェイを部屋から追い出したりしたのだが──
そして今、隣で飲んだくれているウツシの姿。
彼も二人の事を知ったに違いない。恐らく、アラタ本人の口から聞かされて。だがこの荒れた様子は、とても歓迎ムードには見えなかった。アルローは自分の不安が的中した事を知る。
ウツシにどんな言葉を掛けていいのか咄嗟には思い付かず、それでも何だか申し訳なさが先に立ち、
「……すまねぇな」
小声で謝罪を述べるアルロー。
しかしウツシもこれには慌てたのか、
「や、やだなあ! アルロー教官が謝る必要なんてないでしょう!?」
弾かれたようにアルローの顔を見て、苦笑いを浮かべる。
タイミング良く、というべきか。先程アルローが注文したビールをウェイトレスが運んできた。どことなく気まずい雰囲気の中、それを誤魔化すかのようにアルローはジョッキを掴み、ビールを飲み始める。
しばらくの間、お互い無言で酒を飲み続け、店内の喧噪だけが二人の間に流れていたが──
「あの子が……アラタがね、俺に話したい事があるって、ジェイくんとの関係を打ち明けてくれたんです」
大きなため息と同時に吐き出された、ウツシの呟き。
だが、その声は想像よりもずっと優しくて。
アルローはひとまずジョッキを置くと、黙って話の続きを待つ。
当時を思い出しているのか、ウツシの眼差しは少しぼんやりとしていた。まるでどこか遠くを見つめるように。
「正直、俺も言いたい事はいろいろあったんですよ。恋愛で一番大切なのは本人同士の気持ちだって、それは分かってるつもりですけど……ほら、やっぱり……ねえ」
ウツシは言葉を濁したが、彼の言わんとしている事はアルローにも理解できた。
互いの性別は勿論、カムラの里における、猛き炎──アラタの重要性。
ハンター業を始めとして、本来ならば今後の里長候補として据えられたり、妻を娶って里の繁栄に尽力したり。今はまだ口にせずとも、そういった期待を多くの人間から寄せられていた筈だ。
そんな前途有望な若者を、どこぞの馬の骨──まあ自分の弟子の事ではあるが──に、かっ攫われてしまったウツシの心情たるや、惨憺たるものだろう。自分がウツシの立場でも、文句の一つや二つは言いたくなるに違いない。
……まいったな、こりゃ。
ジェイとウツシ。
二人の間ですっかり板挟みとなり、苦悩するアルロー。
ウツシの気持ちは、とてもよく理解できる。しかしジェイの事を考えると、簡単に同意するのも些か抵抗があった。
馬鹿な子ほど可愛い──なんて本人が聞いたら流石のジェイも怒りそうだが、今まで指導してきたアルローだからこそ、ジェイの魅力や良いところもたくさん知っている。流石にあの猛き炎と比べたら見劣りはしても、決して弱くも、悪い奴でもない。
けれど、同じ教官としてウツシを励ましたいのも、また事実で。再びビールを口にしつつ言葉を選んでいると、
「でも……」
ぽつり、とウツシが小さな声を漏らし、
「でもあの子が、今まで見た事のないような顔で……嬉しそうに笑ってて。すごく楽しそうにジェイくんの話もしてくれて。そんな愛弟子を見てたら、何も言えなくなっちゃったんですよねぇ」
アルローの方を向いて、力なく笑う。
「あの子が幸せになるのは、俺も嬉しい筈なのに。いざそうなってみると……何ですかね、これ。胸にぽっかり穴が空いちゃったみたいで、何もする気力が湧かないっていうか……何をしたらいいのか、自分でもよく分からないというか……」
「教え子が巣立っていく時は、いつだって寂しいもんさ。おまえさんのそういう感傷も、至ってマトモだよ」
彼が自分の弟子に──アラタに向けている気持ちが、家族愛の類なのか。
それともジェイと同じ恋慕の情なのか、アルローには正直分からなかった。
かといってそれを問い質すのも、野暮な気がして。あえて明るい声とおどけた口調で、話を続ける。
「しかしアラタもよくOKしたな。ジェイの奴には勿体ねぇよ、ほんとに」
「いや、ジェイくんは良い子ですよ! それにあの若さで王国騎士に就任したんでしょう? 将来が楽しみな逸材じゃないですか」
「猛き炎を育て上げたおまえさんが言うかねえ……まあ何だ、もしジェイがアラタを泣かせたりした日には──あいつの横っ面をぶん殴ってやってくれ」
その時は俺も参加させてもらうか。
ニヤリと笑うアルローに、物騒だなあ……と苦笑するウツシ。
そんなウツシに目を細めながら、アルローは彼の頭に片手を乗せると、髪をくしゃくしゃ撫で回す。
アルローの突飛な行動にウツシも一瞬驚いていたようだったが、少し恥ずかしそうな顔と、困ったような声音で、
「あの……俺、あの子達みたいな子供じゃありませんよ……?」
「俺から見たら、おまえさんだってガキみたいなもんさ。俺で良ければ、いつでも話ぐらい聞いてやる。だから……あんまり一人で抱え込むんじゃねぇぞ」
「……はは。参ったなぁ……」
俯いてしまった彼が、微かに鼻を啜っている音には、アルローも気付かないフリをして。
頭を撫でていた手を背中に回すと、ぽんぽん、と軽く叩いてやった。
「おい、しっかりしろよ。歩けるか?」
「うう……」
しばらく飲み交わした後に、アルローとウツシ、二人揃って店の外に出たものの。やはり飲み過ぎていたらしいウツシは足元が覚束なく、真っ直ぐ進めずにいた。それどころか足がもつれて、今にも倒れそうだ。
……駄目そうだな。
アルローは軽く嘆息しながらウツシに肩を貸してやると、宿のある方角へと向かい始める。
夜も更け、人気の少なくなったエルガドをしばらく歩いていると、
「あれ? アルロー教官とウツシ教官じゃないですか」
突然、聞き覚えのある声が横手から掛けられた。
そちらに顔を向けてみれば、並んで立っているジェイとアラタの姿。彼らの格好からすると、恐らくクエストの帰りなのだろうが──
タイミング悪ぃな、とアルローは内心舌打ちしたい気分に駆られる。
「あ、アルローさん! 教官、どうかしたんですか!?」
担がれ、ぐったりしているウツシが心配なのか。
焦った様子で駆け寄ってきたアラタが、教官……? と不安げに師の顔を覗き込もうとした、次の瞬間。
「愛弟子~~!!」
「わっ!?」
いきなり顔を上げ、目の前のアラタに抱き付くウツシ。
首筋にしがみつかれたままアラタが狼狽えていると、アルローは肩を竦めながら、
「ちょいと飲み過ぎて、酔いが回っちまったみたいでな。アラタ、教官殿を宿まで届けてやりな」
「は、はい……!」
アルローの言葉にアラタは頷くと、ウツシの腕を自分の肩に回してしっかり担ぎ直す。
そしてジェイの方にチラリと視線を送り、申し訳なさそうな顔つきのまま軽く一礼したかと思えば──ウツシの身体を、足先をずるずる引き摺りながら、彼がよく利用している宿の方へ歩いて行った。
「もう、どれだけ飲んだんですか……アルローさんに迷惑かけちゃダメですよ?」
「えへへ……ごめんねぇ……」
そんな会話と共に遠ざかっていく二人を黙って見送りつつも、アルローと共に残されたジェイが、どことなくソワソワしている気配が伝わってくる。
あれほどウツシの存在を気にしていたジェイだ。彼がアラタに抱いている複雑な感情にも、当然気付いてはいるだろう。だから余計に、酷く酔っ払った彼とアラタを二人きりにさせる事を、不安に思っているのかもしれない。
「……今だけは大目に見てやれ。ウツシ教官にもいろいろあんだよ」
アルローの物言いで、ジェイの方も何となく察したのか。完全に納得はしていないようだったが、はい、と神妙な顔で頷く。
ジェイの心配も、分からない訳ではなかった。
しかしウツシが酒場で見せた──少し寂しそうで、どこか諦めにも似た笑顔。二人の事を語る、優しい声音。
今の彼なら、ジェイが不安視しているような過ちを犯したりはしないだろう。まあ弟子離れに関してはもう少し時間が掛かりそうではあるが、ひとまずは二人の仲を認め、見守ってくれる筈だと。そうアルローは信じていた。
「よーし。ジェイ、二軒目行くからちょいと付き合え」
「ええっ!? まだ飲むんですかぁ!? 今日はもう止めた方が──」
「うるせぇな。おまえには話しておきたい事もあるし、黙ってついて来い」
もはやジェイに断る術はなく、トホホ……と項垂れながらアルローと共に歩き出す。
「そういやおまえら、随分と帰りが遅かったな。狩場で狩猟以外の事もしてたんじゃねぇだろうなあ?」
「……え?」
少し考え込んでいたジェイだったが、ハッと顔を赤くし、アルローの問いを慌てて否定する。
「な、ななな何言ってるんですか! アルロー教官のスケベ親父! オレ達まだキスしかしてませんから!」
「へぇ、キスはしたんだな」
「~~~~!!」
自爆した事に気付かされ、叫び声を上げつつ頭を抱えるジェイ。
「おまえ、アラタに手ぇ出すならちゃんと段階踏んでからにしろよ。間違っても強引に事を進めようとなんて思うんじゃねぇぞ。命が惜しかったらな」
「へ!? 命!?」
目を瞬かせている、どこまでも鈍感な己の弟子を見て。
こいつらがくっついた後も、何で俺が気を揉まなきゃいけねぇんだ、と。
アルローは溜息をつきながら、ジェイとふたり、酒場に向かうのだった。