はんぶんこ「千寿郎、兄と悪いことをしよう」
にやりと笑った兄は、汗をかいた俺の手を引いてベッドを出た。両親の部屋と空っぽの自分の部屋の前を忍び足で通り、階下に降りる。キッチンに繋がるドアの蝶番の擦れる音すら気になって、慎重にドアを閉める。ぱっと明かりがついたのに驚いたが、センサーライトによるものだ。足元から広がる光の中で、兄が冷凍庫を開けている。流れ漏れた冷気が、ひやりと頬をなでる。その横で何かを探す兄の横顔は、実にうれしそうだ。「悪いこと」をしようとしているとは思えない。兄の真意がわからない。廊下に続くドアの擦りガラスが明るくならないことを祈っていた。
「ほら、千寿郎。お待たせ」
兄の声にほっとして振り向くと、「悪いこと」にしてはちっぽけな、見慣れたものが差し出された。すでにパッケージは剥がされているが、そのアイスの名はすぐにわかった。真っ白な大福が、和菓子切用のスペースまで設けられた専用の容器にぽよんと二つ並んで納まっている。外の柔らかい皮と固すぎないアイスの組み合わせがたまらない、俺の大好きなアイスだ。
「歯みがきしちゃいました。それに、もう夜中ですし」
わずかながらの罪悪感を見せれば、「歯はまたみがけばいい。でもそうだな。千寿郎は『いい子』だからな。兄が一人で食べてしまおうか」なんて意地悪を言う。一口で食べきった兄は、片割れを失った容器を俺にずいっと差し出した。熱帯夜、ひっそりと含んだ食べ慣れたそれは、ずいぶんと魅力的な味がした。俺たち以外の物音を恐れて楽しむには、もったいないほど。
「ゆっくりでいい」
俺の気持ちを察してか、兄は優しく笑いかけてくれた。この時間がずっと続けばいいのに。そんなことを思ってしまった。早く食べ終えて、歯をみがいてベッドに潜らなければならないのに。両親に秘密で「悪いこと」としているのに。もくもくと味わっていると、センサーライトがふっと消えた。俺たちがじっとしていたからだろう。わっと肩を震わせて一歩下がると、再びぱっと明るくなった。「ははっ」と穏やかに笑った兄は、俺が大好きな笑顔をしていた。
それが初めての「悪いこと」。俺が小等部の四、五年生のときだったか。兄が教師として働き始めて初めての夏だった。それ以来、兄はたびたびそれを土産に帰ってきた。季節は問わなかった。寒い夜に鍋を食べたあと、「期間限定の生チョコ味だ!」とデザートとして差し出してくれたこともある。それをこたつで一つずつ食べるのが好きだった。
今春、俺が中学生になるころに、兄は多忙を極める教師になっていた。平日は早寝早起きをし、土日のどちらかは副顧問として剣道部を指導し、月曜日に備えて早めに眠る。夜中に意地悪な笑みを見せた兄のことをずいぶん大人だと思ったものだが、兄はさらに大人になっていた。あの夏の夜のように、一つのアイスを二人で食べることもなくなった。
***
学園が冬期休暇に入っても、兄は高等部の補習や受験生のサポートで、ほとんど毎日出勤していた。珍しく兄が昼間からベッドに横になっているのは、風邪をひいてしまったからだ。先ほど昼までの補習が終わったあと、不死川先生の車で送られてきたのだ。出払っている両親は夕方には帰ってきてくれるとのことだったので、不死川先生が送って行ってくれたドラッグストアで飲み物と解熱剤、冷えピタ、食べやすいゼリーを買いに行った。そこで、懐かしいものを見つけた。かごに入れるか迷っていると、不死川先生に「あぁ、それなら食べるんじゃねぇか」とさっさと買い物かごに入れられてしまった。
「兄上、ただいまです。いろいろ買ってきましたよ」
「……すまんな。不死川は?」
「戻られましたよ。数学教師は忙しいんだって。はい、飲み物とお薬です。おなかがすいたら言ってください。お粥か何か作ります」
エコバッグから、薬と飲み物をベッドサイドテーブルに移していく。底に冷たい感触を見つけて、少しだけ勇気を出した。
「あと、これ」
「これは……」
「スイートポテト味があったので、買ってしまいました」
なつかしい形状の容器は、パッケージだけが柔らかい黄色で包まれていた。兄がぐっと身体を起こして覗き込む。兄の反応がうれしかった。しかし、今の兄は病人である。ぐっと堪えたいところだが、「兄の自慢の弟」の体裁を保つことは難しかった。つい、褒められた犬のように尻尾を振ってしまう。
「兄上、これ好きでしょう? よく買っていましたよね」
「あぁ」
「俺も大好きです。あの、今一緒に食べますか?」
「いや、今は……」
とろんと緩んだ兄の瞳が、ふいっと背けられた。ありもしない尻尾がしっぽがしゅんっとしぼんだ心地だ。しかし今は、俺の落胆などどうでもいい。普段大食漢な兄なだけに、「食べない」という選択が心配だった。アイスが無理なら、ゼリーも無理なんだろうか。夕方には帰ってきてくれる両親を心の中で呼びながら、「溶けちゃうし、俺が食べておきますね」と強がってみせる。兄が「え」と素っ頓狂な声を上げた。顔を上げると、いつにも増して真ん丸な瞳と視線がぶつかった。
「そんなに食べたかったのか?」
「あ、えっと……」
「冷凍庫に入れておいてくれ。一緒に食べたい」
まっすぐに向けられた兄の瞳は、先ほどとの弱々しいものとは全く違った。撃ち抜かれたような衝撃のあと、さらに兄が追い打ちをかけてくる。
「このアイスがうまいのは事実だが、よく買っていたのは、お前とはんぶんこできるからだ。お前と一緒に以外、食べたことがない」
なんて可愛いことを言うのか。兄の風邪が移ってしまったのではないかと思うほど、頬が熱くなっていく。目元に何か熱いものが上ってくるのと同時に、鼻の奥がツンと痛んだ。
「お、俺も……兄上とはんぶんこしたいです」
「じゃあ、冷凍庫行きだな。早く元気にならないと。それに、アイスの裏はハートマークになっているそうだ。これは、皿に乗せてじっくり見てみたいな」
兄がパッケージを指さす。は、ハートマーク? いや、俺はこれを狙って買ってきたわけじゃない。兄はきっとスイートポテト味を気に入るだろうと思っただけ! 他意なんてない。しかし、否定する気にはなれなかった。
「は、はい……」
満足そうな笑顔に、呼吸と心臓が一気に止まった心地だった。額の汗を拭く手が止まってしまった。俺はどうしてしまったんだろう。俺以上に不思議に思っているであろう兄は、しばらく俺を見たあと、自分で冷えピタをぺたりと貼ってしまった。ふうっと人心地着いたようにベッドに身体を預けて、タオルを握りしめたままの俺を見上げた。「……千寿郎、顔が真っ赤だぞ」
意地悪な笑みに何もかも見透かされている気がして、「へぁ」と情けない声が出てしまう。兄に見透かされてはならないやましさなどないのに、警鐘のようにけたたましく心臓が鳴るのはなぜか。
「風邪が治ったら、アイスを食べて、久しぶりに一緒に寝たい。あの夜みたいに。さぁ、風邪を移してしまう。もう大丈夫だから」
「……ふぁい」
ふらふらと部屋を出ていく。短い人生の初めての心地に、「胸がいっぱい」という比喩の意味がわかった気がした。密やかな夜と二つで一つのアイスを分け合ったあの夜が、兄にとっても特別な思い出だったのだ。あの夜に足元から延びた光に照らされた兄の横顔と、先ほどの意地悪そうな笑みが思い出される。交互に浮かぶ大好きな兄の笑顔が、何色か判然としない濁った気持ちとぶつかって、俺は混乱した。まずは二人の大事なアイスを溶かしてはならないと、バタバタと階下に降りていくのだった。
ドアの向こうから聞こえた「かわいいな、千寿郎は」なんてことばは、きっと俺の都合のいい幻聴だ。今はまだ、そう信じていたい気持ちだった。