タイトル未定 道端でばったり出会ったのは、かつて燃えるような恋をした前世の恋人。仕事やら大学やらをほっぽり出して、雑渡と伊作はその足で手近な不動産屋に駆け込んだ。雑渡の経済力にものを言わせて即金でマンションを購入し、取り急ぎの家財を慌ただしく運び入れたのがその翌日。
「今夜、きみを抱くから」
「ほえ」
「先月この町に越したばかりなんだ」「ぼくもです、進学で」「会えてよかった」「すごい偶然ですね」「これからよろしく」「こちらこそ」、そんな流れでサラリと言われて、伊作は間の抜けた声を上げた。
「室町時代の分まで愛するから、覚悟しておいて」
段ボールが山積みになった新居に口を開けたままの伊作を残し、スーツ姿の雑渡はさわやかに笑って玄関のドアを閉めた。
——そこからの数時間、伊作は自分がどのように過ごしたか、とんと覚えがない。
いくつかの段ボールを取り落とした気がする。なぜならぐちゃりと潰れた箱がたくさんあったから。
割れ物注意の荷物をひっくり返した形跡もある。なぜならお気に入りのマグカップにヒビが入っていたから。
雑渡の私物を胸に抱いて、しばらく立ち尽くしていた——のは、かろうじて思い出せる。
色が違う同じブランドのスーツと綺麗にクリーニングされたシャツを何着か、一見地味だが洗練されたネクタイを何本か、ウォークインクローゼットに仕舞い込んでいる最中。伊作は我慢できず、雑渡のシャツをぎゅ、と胸にかき抱いた。そっと鼻を当てると、微かに香るのはタバコの苦さ。それすらも愛おしくて、言いようのない劣情が全身に渦巻いて、伊作は衣類を雑渡に見立てて両手で自身を抱きしめた。
かつて、強く強く惹かれあった男。時代も、年齢も、身分も立場もすべて捨てて、一緒になりたいと願った男。けれど手に入らなかった男。それがもうすぐ——自分のものになる。
「雑渡さん、好きです、好きです……」
宙に浮いた声は自分の想像以上に上ずっていて、伊作ははあ、と熱い息をつく。
「きみを抱くから」。朝言われた言葉を反芻するだけで、腹の奥がきゅう、と疼いた。両膝をもじもじと擦りつけると、それだけで体温が上がる。手を伸ばして自分を慰めてしまいたい欲望を、どうにかして抑える。手の中のシャツは伊作の体温でぬるくなって、本当に雑渡に抱きしめられている気がする。
もうすぐ。もうすぐだ。伊作は自分に言い聞かせる。時間が進むのが遅くて気が狂いそうだ。雑渡に早く会いたくて、伊作は自分の頭がおかしくなっているように感じる。
がちゃ。玄関のドアが開く音がしたのは、そんな時だった。
「ただいま。伊作くん、いるかい?」
「雑渡さん……!」
声を聞くやいなや、伊作はパッと駆け出した。玄関で脱いだ靴をそろえている雑渡の、たくましい胸に飛び込んでいく。頬をぐりぐりと擦りつけて、甘える子どものようにつぶやいた。
「おかえりなさい、雑渡さん、おかえりなさい。これからはずっと、いってらっしゃいもおかえりも言えるんですね。うれしい……!」
伊作を受け止めた雑渡はやわらかく微笑み、その数秒後、ごく、と喉を鳴らした。雑渡のシャツを抱き締めるように持ち、潤んだ瞳と上気した頬で男を見上げる伊作は、あまりにも官能的だった。
「なんて顔、してるの……」
小さく舌打ちして、雑渡は伊作に襲いかかるようにして口付けた。