The Caged 勤務先からドアトゥドアで徒歩10秒。
天職である編集の仕事に素早く取り掛かれることと、誰にも踏み入れられない理想の環境を構築できること。二つの条件を満たす現在の住居に、フクマは満足していた。
「ただいま帰りました、ロナルドさん」
一日働いたのち帰宅し、玄関を開けて、にこやかに一声かける。ここ最近のフクマのルーティンだ。
すぐさま軽い足音がして、深海のような暗闇の向こうから、トレードマークの退治人姿をしたロナルドが顔を出した。
「お帰りなさい、フクマさん」
「はい。いつもお出迎えありがとうございます」
穏やかに微笑むとロナルドは、人形のような白皙をほころばせた。
The Caged
帰宅直後の愛の営みは、かっきり毎晩行われた。
「ああっ、ああ、フクマさん……ッ」
一糸まとわぬ姿で甘えたように男を請うるロナルドは、この世の何よりも美しい。きっと惜しみなく与えられる快感を貪欲に飲み込んで、日々生まれ変わっているのだとフクマは思う。
「こら。気持ちいい時は言葉にして伝えると、昨晩お約束したばかりでしょう」
「はいッ、フクマさん、気持ちいい、気持ちいいです……っ」
大きな目いっぱいに清らかな涙を浮かべて、陶然とロナルドは繰り返す。フクマが満足の笑みを漏らすだけで、腕の中のロナルドは熱い息を吐いた。
ベッドはない。それどころか、何もない。家具も電化製品も食べ物も、昼夜の区別もない。あるのは濁った、世にも異質な空間だけ。混沌とした亜空間の中で、ロナルド一人だけが美しく、確かに存在していて、永遠だった。
フクマだけを見つめる青い瞳。
フクマだけに愛を囁く薄い唇。
フクマだけに全てを捧げるしなやかな肢体。
従順で愛おしい、籠の中の鳥。
フクマは笑った。あまりにも、世界の全てが思い通りだった。
日中は大好きな仕事をして、家に帰ればフクマを愛しフクマが愛するロナルドがいる。恐いほどの幸せとはこういうことかと、フクマは得心した。ロナルドの冷たい頬に唇を落としてから、彼を抱きしめる腕に強く力を込めて、何度目かわからない快楽の渦に身を投げ出す。飽きることなく、ロナルドはフクマの求めに全力で応えた。何でも、何度でも——。
「おはようございます、フクマさん」
目を開けると、混沌とした亜空間の中で、光り輝くようにロナルドが微笑んでいた。
「おはようございます、ロナルドさん。今日もいい朝ですね」
身支度をしながら、脳内で今日のスケジュールを確認する。心躍る業務の時間だ。愛しいロナルドと離れるのは身を切られるように辛いが、仕事には代えられない。せめてもの慰みに手をつないで亜空間を抜け出す。と、フローリングの廊下に足を踏み入れたロナルドが、大きくぐらりと傾いた。しかしそれも一瞬で、次の瞬間にはもう笑顔に戻っている。
「今日もお仕事頑張ってくださいね、フクマさん」
毎朝欠かさないお出かけ前の挨拶にも問題はない。だが、このままでいいのか? うっすらと聞こえた自分の声を振り払いたくて、フクマはわざと乱暴な音を立てて靴を履いた。これでいいに、決まっている。
「では、行ってまいりますね、ロナルドさん。留守を頼みましたよ」
がぢゃ、ばた、り。
鈍い音がして、無機質な笑みを浮かべたロナルドは、軋む扉の向こうに消えた。
10秒後、フクマの姿はいつも通り自席にあった。デスク周りのねこグッズを軽く掃除し、水行など毎朝のルーティンをテキパキとこなしてから、スマホを取り出す。今の時間であれば、彼は仕事を終えて事務所に戻っているだろう。
はずむ心を無表情の仮面の下に隠して、フクマは慣れた手つきでスマホを操作した。
「お久しぶりです。オータム書店の、フクマです。打ち合わせからお時間たちましたが、進捗はいかがでしょうか?」
『オピャーーーーーフフフフフクマさん、やべっ、もう打ち合わせから二週間 締め切りまで1週間 あっ原稿、原稿はですねっ、もうすンごいできてたんですけど、つい今しがたドラ公がパソコン壊しちゃってフンヌッッッ!』
『ギャアアやめろ血迷うなゴリルドくん、固形物の角は痛いんだって何度言えばスナァ』
汗みずくになって、真っ赤な顔で言い訳をしているだろうロナルドを想像するだけで、フクマの唇は勝手に笑みを形作った。
やはり、いい。生きている彼は、格別に佳い。
「ちゃんと進んでいるのですね、安心しました。ではまた、締め切りの日に新横浜まで伺いますので」
くすりと笑ってスマホを切る。いつの間にか、世話好きな先輩社員が背後に立っていた。
「おーコワ。なんやフクマ、そないニタニタ笑って。あれか、愛しのロナルド君か」
「おはようございます。いえ、いつも通り原稿が楽しみなだけですよ。それに、愛しだなんて畏れ多い……。私はただの、担当編集ですから」
「はいはい、わーかってるって。でも、気をつけた方がええで? 正直、最近お前がロナルド君を見る目は怖いっちゅーか、不健全っちゅうか……。なあ、もしロナルド君に編集者以上の思いを抱えてるんなら、玉砕覚悟で伝えてみろや。当たって砕けるのが恋ってもんやで! ——っておい待てや、スルーは、この笑顔をスルーはあかんて」
バチコンとウインクを飛ばすクワバラを横目に、フクマは荷物をまとめて社を出た。いい天気だ。青い空を見上げていたら、足が自然と新横浜へと向かってしまっていた。
本当は何件か作家のところを回るつもりだったが、別に今日でなくてもいいかもしれない。誰に向けるでもなく言い訳している自分が珍しくて、フクマは人知れず首を傾げた。
まあいい。それらしい口実ならなんとでも捻り出せる。
まずは久しぶりに会うロナルドの体温を、しかとこの体に刻み付けよう。
自ら作り上げた甘美な嘘に、心まで囚われてしまう前に。
END-------------------------------------------------------------------
亜空間に夢を見過ぎですかそうですか。
ありがとうございました!(リメイクするかも)
2023.5.16