図書館の大魔道士 パプニカ王宮の図書室には、戦火を逃れた貴重な魔道書や歴史書が多数納められている。宮殿の東端にある。
私が魔法使い見習いとして側仕えさせて頂いているクレア様の執務室は、西の端。部屋の主は出張で明日までお帰りにならないため、私はひたすら普段できない部分の掃除に精を出していた。そこへあの方が現れたのだ。
長い廊下をひたすら歩く。ここに来てもう3ヶ月経つというのに、いまだにこの広さには慣れない。知らないエリアに行くと、迷子になることもしばしばだ。
勇者ダイ様が大魔王を倒し、平和が訪れてから10年。
とは言っても、私は当時4歳だったから、何が起こったのかよく分かっていなかった。ただ、村の大人たちが騒いでいた事は覚えている。母さんは私を抱きしめて泣いていた。父さんも珍しく上機嫌で、お祝いだ、と言って近所の人たちとお酒を飲んで笑っていた。
やがて私は村の学校に上がって読み書きを習い、パプニカの歴史も教わった。そしてようやく、ああ、あの時のあれがそうだったんだ、と思い至ったのだった。
勇者様と共に戦った仲間たちの中には、我が女王レオナ様もいらっしゃったのだ。勇者様──現王配殿下であられる──が十二歳の少年だったというのも驚きだけど、レオナ様も若干十四歳であられた。今の私と同じ年だ。
誕生日を迎えてから、父さんは何かにつけ『女王陛下は同じ年で偉業を成し遂げられたというのに、お前ときたら……』とお説教を始めていたので、正直辟易していた。一国の君主たる女王陛下(当時は姫であられたが)と一緒にしないでほしい。私なんて、少し波動を感じられるだけの、普通の田舎の女の子なのだから。
そう、私は生まれつき、人の発するエネルギーの波を感じることができる。魔法を使える人は魔法力であったり、激しく泣いたり怒ったりしている人は感情の動きであったり、小さい子供の場合は命の輝きそのもの……つまりは、生命エネルギーということらしい。それを教えてくれたのは、クレア様だ。クレア様のご提案で便宜上、波動と呼んでいる。
昔村の長老に占い師の修行をしてみたら、と勧められて少しかじったこともあったけど、遠視や予知はからっきしだった。もちろん魔法も、初歩的なものも使えなかった。
他人の感情や魔法力の動きが少しばかり分かったところで、たいしたものの役には立たない。占い師の修行をしたおかげか、誰かが触れた物からその人の波動を感じとったり、感じた波動を自分の波動にのせて人や物へ送ることができるようになったが、そんなことが必要な場面は一度も訪れなかった。なぜって、誰もが必要なことは言葉で伝えるし、言葉で伝えないことは、伝える必要のない、あるいは伝えない方が良いものであることがほとんどだからだ。
数十世帯が慎ましく暮らす小さな村では、農作業を左右する天気を読んだり、失せ物を探す能力の方がよっぽど重宝されていた。中途半端な力のおかげで、気持ち悪がられたり面倒がられたりする事が多く、私は人前であまり喋らなくなった。喋ると、どうしたって感じた事を伝えたくなってしまうから。
だけどこのへんな力のおかげで、一生縁のないはずだったパプニカ王宮という場所に今いるのだから、全く人生は不思議だ。女王陛下、王配殿下なんて、年に数度、お誕生日や記念日にお城のバルコニーに出ておられるお姿を拝見できれば良いというくらいの、雲の上の人であったのに。気さくなお二方は、王宮内を供も連れず立ち歩かれることもあるのだ。お見かけした時は心臓が止まるかと思ったものだ。
パプニカ王立魔術学校に入学できるのは、十五歳からだ。成人していない者は、親元を離れて寄宿舎に入ることになる。しかし世の中に平和が訪れた今、魔法の必要性も薄れ、受験者は減る一方だという。中にはいっそ廃止しては、との声もあったらしい。
だが大戦を経験した女王陛下は、『いつ何時、再び脅威が襲うやも知れぬ。魔法を絶やしてはいけない』と仰せられた。
そこで陛下の命を受け、魔術庁長官にして魔術学校顧問を務められるクレア様が、城下で素質のある子供を探されていた。私の村に来られて声をかけていただいたのは、本当に運が良かった。
波動を感じられる子がいる、との話を耳にしたクレア様は、魔法力を練り、精霊と感応する資質があると言って下さった。自ら我が家まで足を運び、魔法の才能を伸ばすのは早い方が良い、規定の年齢に達するまで責任を持って養育するから、見習いとして王宮に来るように、とおっしゃったのだった。
憧れの王宮、そして魔法の勉強ができて、私の力が役に立つなんて、願ってもないことだ。私は一も二もなく頷いた。
父さんは渋っていたが、母さんが後押ししてくれた。クレア様の熱のこもった誠実な説得もあり、決まればあとは早かった。翌月には私はクレア様と共に、パプニカ王城の門を眺めていたのだった。
あの人だ。白銀の雪原のように輝く髪。眼鏡の奥の瞳は、穏やかな曇り空の色。だがそこには、底知れぬ闇と光が潜んでいる。眼鏡は、視力を補うためのものか、素では強すぎる視線を隠すためなのではないかと穿ってしまう。
大きな手はゴツゴツとしてタコが出来ていて、無数の傷跡がある。本より剣を握る方が似合いそうだ。
波動は凪の海のような、その海の上で静かに燃える、火のような。
多分、魔法は使えない人だ。なのにこの波動の強さ、大きさ。クレア様から教わった、闘気、というものだろうか。普通の人の出す波動は僅かなもので、日常で感じることは殆どないけれど、この人意識しなくとも、自然と発する気がこの強さなのだろう。
──いけない、つい観察してしまう。少し距離があるとはいえ、彼なら視線に気づくだろう。人様をジロジロ見るのは失礼だ、と母にはよく怒られていた。これも魔法使いには必要な資質だと、魔道士長様は褒めて下さるのだが。
『十四か。おれも初めて先生について修行を始めたのはその年だったな。その後、仲間や魔法の師匠と出会って……いや、この話は長くなるな』
そう言って魔道士長様は、屈託のない笑みを見せられた。この方も大戦の英雄なのだ。勇者の魔法使い。失礼ながら、普段はとてもそんな風には見えない。魔道士のローブでさえも邪魔くさい、と言って脱ぎ捨てては、飛び回っているようなお方だ。
魔道士長様は紙に何かを書き付けながら、こうおっしゃった。
『ところで、君を見込んで頼みがあるんだ』
私はメモを片手に、書架に目を走らせる。
『図書室に行って、この本を借りてきてほしい』
『でも、これは……貴重書なのでは?』
司書長のリタ様は規律に厳しいことで有名だ。魔道士長様といえども、例外は許されないだろう。女王陛下でさえ、一目置いて恐れていらっしゃるのだ。
『大丈夫。今日はリタさんは出張で留守なんだよ。この時間ならカウンターにはあいつが座ってるはず。おれの名前を出せば、分かるからさ』
魔道士様のおっしゃる「あいつ」に、私は心当たりがあった。時々、クレア様のお使いで図書室へ行く時、カウンターで静かに本を開いている、あの人。
そう、今彼は目の前にいる。彼……なんて、大人の男の人に対して失礼だろうか。でも彼の波動は、どこか少年のようなあどけなさと憂いを含んでいるのだ。複雑な人だ、と思う。彼の近くにいる人は、普段一体どんな顔を見ているのだろう。
書架から探し出した本をメモと照らし合わせてカウンターに置くと、眼鏡の奥の眼光が鋭くなった。
「この本は禁帯出だが……」
低く囁くような、耳に心地よい声が響く。
「あの、魔道士長……ポップ様が、」
その名前を聞いて、彼の目に僅かに光が走ったのが分かった。波動が動く。これは、驚き、だろうか?
「今日の司書様には伝わっている、言えばわかるから、と……」
「そうか……そうだな、すまぬ、失念していた。確かに承っている。手続きを取ろう」
慣れた手つきで貸出票を出しながら、視線は外れない。そんな目で見ないでほしい。心臓が煩くなった。
「あいつは──いや、……君は魔道士長殿の部下……では、ないな……?」
「はい、申し遅れました。クレア様付きの魔法使い見習いで、サラと申します。ポップ様は、年若い私を気にかけていろいろとお声かけくださいます」
「そうか……大方今のように、魔法庁のお偉方には気安く言いづらいことを頼んだりしているのだろう。我儘な奴だからな……困らせてはいないか?」
穏やかな波動。じんわりとあたたかくて心地よくて、なのに何故か、胸が締め付けられる。この波動──どこかで──そうだ、ついさっき、目の前にあったのではないか。
ポップ様は強い魔法力をお持ちだが、立場上、ご自身の波動は周りに悟らせないようにしておられる。私ももちろん、気づかなかった。だけど、思い返せば確かにあの時……ポップ様が彼のことを口に出した時、微かに波動が動いていた。
──もう、分かってしまった。
ずっとこっそり見つめていて、今日初めて話せたというのに、すぐさま失恋確定だ。初恋は儚い。もちろん、伝えようとも叶うとも思ってはいなかったが。だけど、大好きなお二人が恋仲とは。私はむしろ運が良いのかもしれない。
「いえ、そんな……お手を煩わせているのは私の方ですから。少しでもお手伝いできることがあれば、嬉しく存じます」
「そうか。無駄話をしてすまない。昔から知っているのでな……ああ見えて、真に心を許せる者は少ないのだ。面倒をかけるが、これからも力になってやってほしい」
そう言って微笑んだお顔のあまりの美しさと切なさに、見惚れてしまった。
魔道士長様は、何故ご自分でここにいらっしゃらないのだろう。お忙しい身とは言え、自身を思ってこんな表情をする方に、お顔を見せて差し上げないなんて。
恐れ多くも非難めいたことを考えてしまい、いけない、と自分を嗜める。ポップ様には深いお考えがあるというのに。
それに……。あの時の魔道士長様の波動から感じたものを思い出して、反芻する。努めて抑えていらっしゃったけれど、今なら分かる。お二人は本当に信頼し合っているのだ。
貸出票には、別の書名が記入されていた。差し出す長い指先を見つめていると、ある考えが浮かんだ。
「あの……少々お伝えしたい事が。お手に、触れても?」
普段の私からすると、考えられない大胆さだった。だけど、伝えたい。
「構わないが……」
少し驚きながらも了承して下さったことに力を得て、大きな手にそっと触れる。もう片方の手には、ポップ様が書かれたメモを握る。
「失礼します」
魔法が使えなくても、普段からこれほどの波動を出しておられる方なら、きっと汲み取って下さるはず。ポップ様から感じた波動を、メモを頼りに増幅させて、指先から伝える。集中して念じていると、やはり思った通り、彼の目が見開かれ、光が宿った。
しばらく送り続け、伝わった、と感じてから息を吐き、手を離す。
「……ありがとう」
彼の微笑には、驚きと喜びが宿っていた。それから、若干の後ろめたさも。
「だが……、すまない」
私はまだまだ修行中の身だ。波動を送る技術も未熟。謝られて、自分の思いも過分にのせて送ってしまっていたことに気づいた。
「いいんです。分かってましたから……ごめんなさい」
やっとそれだけ言うと、本を掴んで駆け出した。
振られた悲しさよりも、彼からも伝わってきた波動に感じ入って、泣きそうになってしまっていたのだった。これは、ぜひともご本人に直接伝えていただかなくては。
魔道士長様になんと伝えれば、彼のところへ足を運んで下さるだろうか。
*
別棟の王立魔術学校には専用の図書室があるから、ここは司書長のいない時間帯はいつも暇だ。貴重書を守るため窓も殆どなく、昼間でも薄暗い。陰気だと嫌う者もいるが、明るすぎるよりこのくらいの方がオレは集中できる。カウンターで手元のみ照らしながら日誌を書いていると、突然ドアが勢いよく開いた。入ってきたのは魔道士長殿だった。
「お前余計なことばっかり言いやがって。誰が我儘だって?」
挨拶もなしに文句を言われて、溜息が出る。
「サラに聞いたのか」
「名前まで聞きやがって、このタラシが!」
「……嫉妬か?」
「んな訳あるか!」
「先々週の分と合わせて貸し二つだ」
「ハア?んだよそれ!そもそもお前が、俺が呼んでも来ねえのがわりいんだろうが!本とばっかり戯れやがって……まあ、今までゆっくり読書するなんて時間もなかったからな。それはいいんだけど……当番は、非番の時間のボランティアだろ!もっと手ェ抜けよ!」
ボランティアとはいえ、任された仕事を私事で投げ出すことはできない。魔道士長自らサボりを推奨するとは、どういう了見か。しかしこのところポップが姿を見せなかったわけが分かった。
「なんだ、拗ねてたのか」
「お前なあ!」
ポップは本の森をずんずんと進み、一際高い踏み台に足をかけた。魔道書を書架から取り出しては、片手にどんどんと載せていく。
「おい、重いだろう。持ってやろうか」
「余計なお世話!そこまで衰えてねえ」
ああ言えばこう言う、だ。ポップはさらに上の段に脚を掛けた。オレは立ち上がった。
「一番上はトベルーラで取れ」
「うるせえこのくらい取れらあ」
嘘をつけ、背伸びしてるじゃないか。
ポップが目当ての本を引き出そうと背に指をかけると、勢い余って横にある数冊も抜け落ちてきた。ギチギチに詰めているのだから、無理に引き抜いたらそうなるのは当たり前だ。全くいつまでも経っても学習しない奴だ。だがバランス感覚はさすがで、おっと、などと言いながら何冊かは受け止めた。
ところがそのせいで、ポップの手に積み重なった本がバランスを崩した。さらに本人もバランスを崩し、大魔道士もろとも本の山が降ってくる事態となった。
「わわっ」
今度こそ慌てた大魔道士を、オレは頭から本を被りながら受け止めた。
「あー、びっくりした……、て、ヒュンケル!怪我はねえかよ!」
少しは心配してくれるのか、と思ったオレがバカだった。オレを見上げたポップの口から漏れたのは、
「ぶっ……」
という潰れたような笑い声だった。
「はは、すまね、でも、おま、ぷふっ」
笑いを堪えて震えた拍子に、オレの頭に帽子宜しく乗っかっていた本がばさりと落ちた。
「おい、おろせ」
立ち直りの早い魔道士長に促されて床に降ろすと、彼は落ちている本を拾い集め始めた。
「ま、ありがとな」
こちらを見ずにボソッと呟かれた言葉を噛み締めていると、
「貸しってなんだ」
と今度は険のある声で聞かれた。
「禁帯出の本を内緒で貸し出すなんて、司書長にバレたらどうなるかわかるだろう。こちらもリスクを負うのだ、見返りは当然だ」
「先々週ってのは?」
「週末部屋に来た時、酔い潰れて先に寝てしまっただろう」
「バカ、聞かれたらどーすんだ!」
振り向いたポップの頬が赤く染まっていた。今更何だというのか。少年の頃から変わらない恋人に、柄にもなくくすぐったいような感覚を覚える。
「この時間は誰も来ん。お前から言い出したことだったし、久しぶりだから楽しみにしていたのだが……」
願いを込めて見つめる。
「わーったよ!埋め合わせするから!そんな目で見んな」
ポップは参った、と言うように目を伏せて言った。そんな目とはどんな目だ。オレはただ見つめていただけだ。
「今夜は?」
「空いている」
「よし」
ポップは揃えた本をカウンターに置いた。
「これ、その時持ってきてくれよ」
そのままドアに向かって歩き出す。本当に人使いの荒い奴だ。もう逢瀬が終わってしまうのは少し残念だが、こいつも忙しい身だ。引き留めることはすまい。
オレはカウンター内の定位置に戻った。あらかた日誌は書き終えていたので、本の続きを読もうとしおりを開いて、目を落とす。と、カウンター越しに手が伸びてきて、本を奪われた。抗議しようと顔を上げるとポップの顔が近づいていて、唇に柔らかいものが触れた。
「礼!だ」
ポップは怒ったように言って、続いて『レミーラ!』と叫んだ。手元のランプがふっと明るさを増した。
「暗いとこで本ばっかり読んでるから目が悪くなるんだ。近視を治す魔法はねえぞ!前線に出ねえとはいえ、たるんでるんじゃねえか。それはともかくカウンターに照明が足りねえな。リタさんに頼んどく」
ひとしきり毒付いたあと、小声でぶつぶつと呟いた。
「まあ、眼鏡も悪くねえが」
「何だって?よく聞こえなかった」
「何でもねえ」
足速にドアに向かうと、振り向きざま
「一日10分星を見ろ!」
などと子供に言うようなことを喚くから、笑ってしまった。
そう言うなら、今宵は星空でも見に行こうか。自分から言い出したのだから断るまい。久しぶりに楽しい夜になりそうだ。
──それまでに読み終えておくか。オレは明るくなった手元で再び本を開いた。