八月未明 煌々と輝く月がきれいな、八月の夜のことでした。
まるで宙に浮くかのように、黄色い車は高速道路を駆け抜けます。先程ルパンの計画を詳らかに聞いた二人は、不二子に裏切られることが目に見えている仕事などまっぴらごめんだと告げ、アジトを出てきたのでした。
「五右ェ門、お前どこか行きたいところはあるか? 」
「海が好い」
そうして二人はひと気のない、静かな海へ辿り着きました。日付が変わってもうずいぶん経つからか、辺りには誰もいません。丸々と満ちた月は、海に光を落とし、水面に揺らめく明かりだけで互いの顔もよく見えました。波の寄せる砂浜を、二人は海と並行するようにゆっくりと歩きました。朝までの限られた時間ではありますが、少なくとも今、この海辺は二人だけのものでした。昼間の暑さが嘘のように、向かいから吹く風の涼しさは心地良く、苛立っていた心を静めていきます。ジャケットを車中に置いてきた次元は、窮屈なネクタイを緩め、袖を捲ってシャツの第一ボタンを外しました。海を前にすると、そのほうがふさわしいような気がしたのです。潮の匂いのする風は気まぐれのように時折強く吹いては、次元が吸う煙草の煙をたなびかせ、五右ェ門の着物の袂を膨らませ、そして髪を靡かせました。風にあおられた五右ェ門が目を瞑ると一筋の髪束が首に貼りつき、半歩ほど後ろにいた次元はそれに手を伸ばしました。除けてやりたかったのか、それを口実に白い首に触れたかったのか、その両方かは定かではありません。
ところが、それに気付く前に五右ェ門が振り返りました。次元は仕方なく、行き場のなくなった手をそのままポケットへ収めます。
「何やらあそこの洞窟が光っているように見えぬか?拙者は行ってみようと思うが、お主はどうする」
涼し気な顔で五右ェ門が指さしたその先には、海へ突き出た岩場がありました。次元にはそれが洞窟なのかまでは分かりませんでしたが、その中心は確かにぼんやりと、淡く光っているようでした。
途端に、次元は嫌な予感がしました。五右ェ門が興味を惹かれているという時点で曰く付きのような気がします。
「薄気味悪いところだな。気乗りがしねぇ···」
そうは言ったものの、答えを待つこともなく既にそちらへ向かっている五右ェ門を一人にする訳にもいきません。次元は猫背になりながら、渋々後を着いていきました。五右ェ門は何故か、そういう怪しげなものに出会いやすいのです。あまりに自然に受け入れるため寄ってきてしまうのだろうかなどと次元は考えましたが、理由など考えていてもどうにもなりません。エビと並んで次元の苦手とするもの筆頭がお化けの類ではありますが、五右ェ門が何かに取り憑かれたり、連れ去られたりしたら後悔という言葉では足りないことは分かっています。もちろん五右ェ門の腕っぷしは心配していません。ただそれが、お化けの類に通用するかというとまた別の話です。素直というべきか、信じやすい性質の五右ェ門は、お化けの類にも同情しかねないどうしようもないところがあります。結局は自分が見ていてやるしかないのです。
とはいえ、先程までの雰囲気が良かっただけに、くさくさとした気分は否めません。ようやく洞窟の入り口まで辿り着くと、五右ェ門はもう中に入ってしまったのか、見当たりませんでした。岩に囲まれ足場の悪い洞窟の入り口を覗くと、やはり中から淡い光が漏れ出ているようです。ここまで来たのですから、次元も腹を括るしかありません。くわえていた煙草を人差し指と親指でつまむと、溜息と共に大きく煙を吐き出して、洞窟の中へ足を踏み入れました。思った以上に洞窟の中は広く、ひんやりとした洞窟に自分の靴音が響き渡ります。どこかから入り込んでいるのか、時折広がる水溜まりを除けながら進むと、天井の辺りが青白く光っていることに気が付きました。まばらに散ったその光は蛍のように発光していますが、色は青白く、サファイヤのように美しく輝いています。美しくはありますが不気味にも思えて、次元は知らず緊張した面持ちになっていました。鼓動が速くなるのを感じながら、点々と連なる光に導かれるように進んでいくと、やがて突き当りと思われる広場に出ました。壁から天井にかけて、青白い光が星のように瞬いています。
「おい、五右ェ門。どこだ」
次元がそう叫ぶと、青白い光を受けてほのかに明るい左側の壁に何やら大きな影が浮かび上がりました。ただでさえ落ち着かない気分でここにいるのです。次元が思わず叫び声を上げると、壁に映った影が動き出しました。よくよく見ると、その影はキツネの形をしています。
「ここにおるぞ」
口元がパクパクと動く様子を見て、次元はようやく気が付きました。
「···五右ェ門か?」
振り返るとそこには、手をキツネの形にしたままの五右ェ門がいました。そうだ、と答える代わりに手を頷くように動かしています。
「緊張したお主の声が聞こえたのでな。こうすれば少しは和むかと思ったのだが···」
「和む訳ねぇだろ!驚かせやがって」
呆れた次元が声を荒げ、五右ェ門の腕を取ろうとした矢先、それより早く五右ェ門は次元の口を手で塞ぎました。
「次元、静かに」
耳の良い五右ェ門は何かを察したらしく、猫のようにじっと奥の暗がりを見つめています。今度は何だっていうんだ、と次元が顔を顰めると、五右ェ門がそちらのほうへ向かっていきました。音も立てずに屈んだ五右ェ門が、何かに向けて語りかけている声が聞こえます。次元が声を掛けて良いものかどうか躊躇っていると、五右ェ門がようやく立ち上がって振り返りました。腕には、丸々としてフワフワの毛で覆われたものを抱いています。
「狸だ」
「···どうしたんだ。こんなところに」
「はぐれたようだ」
五右ェ門の腕の中の狸はすっかり安心したように、大人しく身を預けていました。短い手を、五右ェ門の腕へちょこんとかけています。怪我はないか、などと五右ェ門は訊ねては、ならば良かったと優しい目で頷いています。散々一人でおののいていた次元が、馬鹿らしくなるほどに平和な光景です。
「おそらく、ここにはぐれた狸がいるということを土ボタル達が知らせてくれたのであろう。動物は動物同士、助け合うというからな。力になれて良かった」
とぼけた顔で見つめてくる狸の頭を次元が撫でてやると、くすぐったそうにきゅう、と鳴きました。
「この光ってるのが土ボタルって言うのか? 」
「うむ、拙者も初めて見た。限られた場所にしかいないと聞いていたが、こうして知られぬようにひっそりと暮らしていることもあるのかもしれんな」
青白い光の正体を知るまではどこか不気味に感じていた次元も、名前を知ることでやっと安心して美しさに浸ることが出来ました。必要以上に疲れはしましたが、丸々とした狸を抱き、目を輝かせて天井の青白い光を見つめる五右ェ門を見ていると、たまにはこんな夜も良いか、という気になるのでした。
二人が外へ出ると、洞窟の入り口では狸が二匹、待ち構えていました。抱いていた狸を五右ェ門がそっと下へ降ろしてやると、喜び合う三匹はぐるぐるとじゃれつき回り、やがて二人を見上げるとお礼を言うかのように頭を下げて、ほんの一瞬瞬きをした間にどこかへ消えてしまいました。あまりの素早さに次元が面食らっていると、五右ェ門はふむ、と首を傾げました。
「化け狸の類だろうか」
「あれがか?撫でたとき、温かかったじゃねぇか」
「化け狸でも体温くらいあるだろう。どちらにしても、仲間と合流出来たのだ。良かったな」
大したことでもないように言った五右ェ門は、狸が消えた辺りを見つめて「もうはぐれぬようにな」と呼び掛けました。その声に呼応するかのように岩場の隙間に生えた草が揺れるのを見て、次元は今度こそ背筋が凍るような心地がしました。
「それにしても、次元。お主は本当に驚きやすいのだな」
二人は車へ戻るため、再び波打ち際を歩いていました。もうあとわずかで夜明けの時間なのでしょう。五右ェ門の肩越しに広がる水平線の際が、真っ暗闇から濃い藍色に変わり始めていました。見れば五右ェ門は穏やかな笑みを浮かべています。
「あんなよく分からねぇところで得体のしれねぇ物が出てきたら誰だって驚くだろ」
不貞腐れたように言う次元を見て、五右ェ門はますます嬉しそうに微笑みました。
「それでもやってくるところがお主らしい」
「仕方ねぇだろ。お前がどんどん行っちまうんだから」
「それも仕方あるまい。あやつらが呼んでいたのだからな」
「全くお前はそうやって···」
呆れながらも、五右ェ門がそのような性分であることはもう分かりきっていることで、そんな五右ェ門を選んだのは他でもない自分でした。しかし分かっていてもなかなか気持ちは割り切れないものです。いつの間に草履を脱いだのか、素足で海との境を歩く五右ェ門は、時折現れる蟹や貝を器用に避けながら、波の感触を楽しんでいるようです。すっきりとしない気分でその様を見ていた次元は、少しからかってやらないとどうにも気が済まない思いになりました。
「まぁ、お前さんはオレよりあいつらのほうが大事だってことだ」
「何を戯けたことを」
吹き飛ばされそうになる帽子を片手で押さえながら、次元は猫背のまま足早に進んでいきました。突然背を向けられた五右ェ門は呆れながらも後を追います。波の音だけが、二人の間を埋めていきます。
自分の放った言葉の馬鹿馬鹿しさに、次元は肩が震えそうになるのを堪えていました。しかし、ここで笑ってしまったら元も子もありません。黙ったまま歩く二人の傍らでは、水平線に薄っすらと白い線が浮かんできました。その下には淡い橙が控えています。美しい様を前にして、五右ェ門はしびれを切らし、訊ねました。
「どうしたら気が済むのだ」
次元は自分から仕掛けたものの、だから信じやすいお前さんが心配になるんだ、と言ってやりたくなります。その反面、もう少しだけ困らせてやりたくなりました。恋人には当然笑っていてほしいものですが、恋人だからこそ様々な表情を楽しみたくなるもので、それは仕方のない事です。
次元がゆっくりと振り返ってみると、五右ェ門は案の定真剣な顔つきでこちらを見つめています。若干の罪悪感を抱きつつ、次元はそうだな、と顎鬚に手を当て、考える素振りを見せました。
「じゃあ、ここでキスさせてくれよ。そうしたら戯けたことって事にしてやるよ」
「···何を言っておるのだ」
薄暗いといえる時間は、あとわずかでした。こうしている間にも空の色は目まぐるしく色を変えていきます。朝の早い者ならば、いつやってきてもおかしくない時刻です。
「今ならまだ誰もいねぇし、暗いだろ。明け方の海でキスってヤツに憧れていたんだ」
言いながら距離を詰めた次元は、五右ェ門の頬に手を添えました。間近で五右ェ門が強く見返しても、次元は怯むどころか薄っすらと笑っています。その上こんな間近で「良いだろ?」と訊ねられると、もう抗うことが出来ません。次元の声はまるで魔法のようだ、と五右ェ門は思います。
「·········分かった。早くしろ」
これで気が済むのなら、と意を決して目をきつく閉じると、唇が近付くのを待ちました。次元との口付け自体が嫌いな訳では勿論ありません。ただ、こんな落ち着かない場所ではどうしていいか分からないのです。
次元は目の前で真剣に目を閉じた五右ェ門の顔を愛しく見つめました。何なら実際に口付けるよりも、今この瞬間が永遠に続くことを願う位でした。勿論そんなことが叶わないことは分かっています。五右ェ門の向こう側に広がる空の色がどんどんと白み始めているように、世界も時間もとどまることはありません。
「!?」
その時目を瞑った五右ェ門の唇に当たったのは、明らかに別の物の感触でした。ゆっくりと五右ェ門が目を開けてみると、目の前にあったのは手をキツネの形にした次元の、煙草の匂いが染み付いた指先でした。目を瞬かせている五右ェ門の前で次元はキツネの耳にあたる人差し指と小指を挨拶でもするかのように動かして、ニヤリと笑いました。
「お前さんは本当に驚きやすいな」
「···謀ったのか!」
「して欲しかったのか?帰ったら、たっぷりしてやるから少し待ってろよ」
頭をポンポンと叩きながら次元は「じゃあ、そろそろ行くか」と声を掛け、笑いました。その言葉の後、うなだれてしまった五右ェ門はなかなか顔を上げませんが、その内機嫌も直るだろうと次元が歩き出した時です。勢いよく、肩に何かがぶつかりました。五右ェ門が頭を当ててきたようです。そんなに腹を立てたのか、と次元が少し驚いて顔を見てみると、そうではないことが分かりました。逡巡するように落とした視線は、そのまま斬るかのような勢いで次元の目を捉えました。そして一つ大きく息を吸うと、次元のシャツの胸辺りを思いきり掴んで引き寄せました。目を瞑る間もなく、当てられたものは唇でした。唇が当たった弾みで、次元の帽子が勢いよく転がっていきます。
「こんなことは取っておかなくとも良い。また来て、いつでも口付けくらいすれば良いであろう」
視線を捉え、離さない勢いで、噛んで含めるように伝えました。
「···何で気付いたんだ?」
「お主がそういう顔で笑うときは、大体何かを惜しんでいると決まっている」
当然のように言うと、シャツを掴んでいた手を離し、再び波間に足を浸らせました。海の端の、白い飛沫がやんわりと五右ェ門の足を包んでは離れていきます。
確かに次元は、惜しんでいました。この夜は、この夜明けはもう二度とないだろう、ましてキスなどしたらそこで閉じて終わってしまうような気がしたのです。終わるくらいなら、しないほうが良いと思っていました。けれど今日が終わったら、またすれば良いと、当たり前のように五右ェ門は言います。積み重ねるということに伴う危険を、とうに次元は知っていました。だからこそ避けてきたのですが、このように真っすぐな五右ェ門を前にすると、一も二もなく覚悟を決めるしかありません。否、そもそもはこの真っすぐな部分に強く惹かれ、こうして共にいるのです。
落ちた帽子を拾い上げると、そのまま海の向こう側を眺めている五右ェ門の肩に手を掛け、抱き寄せました。帽子で影を作ってやると、抵抗することもなくこちらを向いた五右ェ門の薄い唇を捕え、今度はもっとゆっくりと柔らかく、口付けました。
「また来るか」
「うむ」
そうしている内に空の色は限りなく白に近くなり、夜明け前の特別な一瞬が訪れました。黙り込んだまま、ぼんやりと二人はそれを眺めます。やがて果ての一点が強く光り出しました。それを見て、二人はどちらからともなく、帰るか、と口にしました。
「ルパンは少しは反省しているだろうか」
「だと良いがな」
二人は目で笑い合うと、またゆっくりと歩き出しました。いつまでも消えない潮騒を耳に残して、この夏が終わっていきます。