九月の夕餉 五右ェ門が、手に入れた新米を食べることを決めたのは、九月も中頃を過ぎた肌寒いある日のことでした。
かねてから楽しみにしていた漬物が、昨晩遅くにようやく手元にやってきたのです。届いた漬物は五右ェ門自ら、冷蔵庫へしまいこみました。朝は茶のみ、昼の食事はルパンが買ってきたカスクートなるサンドイッチだった為、夕食こそ新米と漬物を中心にした食事が良いと考えました。今日の夕食の当番は次元です。これから準備に取り掛かろうとしているところへ、五右ェ門は向かいました。新米を手に入れていたものの、いつ開けようかと数日考えていましたのでようやく良き日がやってきて、自然に口元が綻びます。分かりやすく、満面の笑みを浮かべるようなことはないものの、五右ェ門を知るものから見ればそう思っていることは充分に分かります。
「次元、お主が今日の当番であったな。米を炊いてくれぬか。先日買った新米だ。良い漬物が届いたのでそれで食おうと思う」
「もうそんな季節か。早いな。だったら今日は和食にして、オレも新米を頂くとするかな。で、良い漬物っていうのはどれだ?オレ達も食っていいのか?」
「うむ、皆で食う位には量はあるが、見当たらんのだ。確かに入れたのだが。お主、どこかへ移したか?」
がさごそと、冷蔵庫の中を探る五右ェ門のつむじを見ている内に、次元は一つ、心当たりがあることを思い出しました。今朝方のことです。酒を飲んでソファでうたた寝をした次元は寒さで目を覚まし、のっそりと起き上がりました。寝ぼけた頭で机の上を見ると、酒の供にしていたチーズを出したままです。面倒ながらも、しまおうと冷蔵庫を開けると、途端に鼻をつくような匂いがしました。その強い匂いの元が見覚えのない袋だと踏んだ次元は、それを取って、ディスポーザーへ投げ入れたのでした。てっきりルパン辺りが何かを腐らせたのだろうと思ったのです。あれがそうだったに違いありません。いっそのこと忘れていた方が良かったと思う程に、自分の行ないが鮮明に思い出されていき、背中を嫌な汗が流れていきます。酔っていたが故の軽率な行動だったことも自覚しています。
「···次元?」
冷蔵庫を覗き込みながら、返事がないことを不思議に思った五右ェ門が顔を上げると、気まずそうに額に手を当てた次元と目が合いました。
「五右ェ門、謝らねぇといけないことがある」
その顔付きと、声音から嫌な予感がしました。心からの詫びの言葉と共に、今朝のことを話し始めた次元を前にして、五右ェ門の表情は次第に曇ってゆきます。話が最後まで行き着くと、つとめて平静を保とうとしているものの明らかに意気消沈した五右ェ門が言いました。
「話は分かった」
沈んだ声が、次元の胸を痛めました。背を向けた五右ェ門が、どんな表情をしているのかを窺い知ることは出来ませんが、今は顔を合わせたくないという意思だけは伝わってきます。
「すまぬが、少しの間、一人になりたいので部屋へ戻る」
言うなり五右ェ門は、キッチンから出て行ったのでした。
一人残されたキッチンで、次元は煙草を燻らせながら、これからすべきことを猛スピードで考えました。
『まず、米は炊いておくか』
悩んだ結果、次元は、新米に合いそうな食事を今から出来るだけ用意してやることにしました。漬物の代わりになるとは思いませんが、次いつ手に入るか分からない物を待っていたらいつまでも新米を食べることが出来ません。五右ェ門も子供ではないので、いつまでも、ない物にこだわることはない筈です。
炊飯器に米をセットしてから、SSKに乗り込みます。夕方からの天気は雨予報で、今にも降り出しそうな怪しい雲行きですが、抜かりないルパンがフィアットでデートへ繰り出してしまった為、仕方ありません。屋根なしでは心許ない事この上ないですが、四の五の言っている場合ではないのです。
そうして次元が買い物を済ませ店から出る頃には、どんよりと曇った空から、落ちるのを堪えられなかったかのようにぱらぱらと雨が降ってきました。舌打ちと共に、買い物袋をジャケットで包んで、助手席の奥へしまいこむと、自分は濡れるに身を任せて車を走らせます。幸い小雨ではありますが、雨粒を含んだシャツは色を変え、正面からの風で体に貼りついていきます。十分程かけてアジトへ帰り着き、何とか無事だった買い物袋を抱えた次元が戸を開けようとすると、その前に扉が勢いよく開かれました。
そこには、眉間に皺を寄せた五右ェ門が立っていました。
「お出迎え、助かるぜ」
次元の言葉には返さずに、手にしていた大きなバスタオルをぐいと押し付けると、代わりに買い物袋を取ってすたすたと部屋へ戻ってゆきます。帽子を脱ぎ、荒い手付きで水滴を拭った次元が髪を後ろへ撫でつけながらキッチンへ向かうと、買い物袋をテーブルに置いた五右ェ門は眉間に皺を寄せたまま、ダイニングチェアに座っていました。
「あと少し降るのが遅けりゃ濡れずに済んだな。そうだ、さっきルパンから連絡があったぞ。今夜は遅くなるだってよ」
口を動かしながら、同時に手も動かす次元は早速夕食の準備を始めました。まず袋から取り出した食材は秋刀魚です。脂がよく乗っている秋刀魚を二尾まな板に乗せて鱗を取り、手際よく下ごしらえを済ませると、今度は味噌汁の具材に手を付けました。その前に、買ってきた缶ビールを開けて飲みながら進めていきます。
「あそこの店、近いうちに改装するらしいな。取り揃えは良いんだが、駐車場が狭いのが難点だ。次は、反対側の店に行ってみるか。お前も今度一緒に行かねぇか。味噌は自分で見たいとか言ってたよな」
五右ェ門の返事がないことも気にせずに続く言葉と共に、さつま芋を半月型に切り終えると、今度は大根を手に取りました。秋刀魚に添える分を切り分けた後、味噌汁に使う分を細切りにしていきます。トントンと一定のリズムで響く包丁の心地良い音に包まれながら、五右ェ門は机に置かれた次元の茶色の革のキーケースを見つめていました。それは使い込まれて、その分よく手入れもされていて、美しい色合いになっています。見ただけで、持ち主がどんな人物だか分かるようでした。
「最近どうもヘッドライトの具合が悪いと思ったら、案の定右の方が消えちまった。今日にでも新しいのを注文しなきゃならねぇな」
ごま油を熱したフライパンへ、正方形に切った油揚げを放り込むと、ジュウという良い音をさせて煙と共に香ばしい匂いが立ち上りました。しばらくそれを炒めた後に、酒の供にしていた昨晩の残りのチーズを投げ込みます。蓋をし、片手でフライパンを揺すっていると「次元」という五右ェ門の、思いつめたような声が聞こえました。ダイニングとキッチンはすぐ横で隣り合っていますが、キッチンに立つ次元は五右ェ門に背を向けて料理を進めています。声を掛けても次元は振り向かずにいてくれるだろうことを、五右ェ門は分かっていました。
「何だ?」
五右ェ門の声とは対照的に、軽やかに返した次元の背へ向けて五右ェ門は続けます。
「お主は、拙者が何に腹を立てているのか、知っているのか」
「あぁ、『己の未熟さに』だろ」
あっさりと言い放たれた言葉に、五右ェ門は驚いて次元の背を見つめました。その通りでした。数秒間の沈黙の後、五右ェ門から発せられたのは「では何故だ」という問いでした。
「もう気に留めていないってことを言うのは何より大変だからな。元の話にはとっくに気持ちのケリを着けていたって、普段通りの顔に戻るには時間が掛かる。それをお前は未熟だと思ってるんだろ。オレは思わねぇが、そう思うのがお前さんらしいところだな。まぁ、明日でも一週間後でも、お前の気が済んだら戻ってくれりゃ良いぜ。そもそもはオレが捨てたってところが始まりだ。その上怒る隙も与えずに、オレが謝ったりしたから今お前がそんな事になってるんだろ。どれだけ悪かったって言ったところでオレの気も済まねぇが、こればかりは仕方がないからな」
振り向くことなく紡がれる、次元の優しく低い声が、じわりと五右ェ門の中へ染みこんでゆき、溶けて広がりました。その最中にも野菜たちは、次元の手で鍋に入れられ、やがてくつくつと音を立て、煮えてゆきます。それぞれが丁度良いタイミングで投入されて、柔らかく、食べやすく形を変え、良い匂いをさせています。火を使っている室内は暖かく、照度を落とした明かりは眠気を誘う程に穏やかでした。次元が話し終えて、静かになった部屋には換気扇と調理の音だけが優しく鳴っています。
「髪が、まだ湿っておる」
ドン、という衝撃に次元が驚いたのは、それから少し経ってからのことでした。音も立てずにやってきた五右ェ門が後ろから額を後頭部に当てたようです。そっと当てればまだ色気もあるものの、一思いにぶつけてきたような激しさと、抑揚のない声が何とも不器用な五右ェ門らしく、次元は口元が緩みました。その後の頭をぐりぐりと擦りつけるような感触に次元は笑ってしまいます。
「そうか。後で乾かさねぇとな」
「体も冷えておる」
脇から回した手で腹の辺りをぎゅう、と抱き締めた五右ェ門は、沈んだ声で呟きました。苦し気な声を聞き、次元はオレはひどい奴だなと呆れながらも、どこかで密かに嬉しく思うことを認めざるを得ませんでした。幸せに笑っていてほしいと思うと同時に、このような姿も愛しく思う気持ちは何の違和感もなく並んで存在しているのです。もちろん、自分に向けられていることが前提です。
「こうしていてくれてりゃ、温まるな」
軽口を叩きながら、回された手の甲をとんとんと叩いてやると、五右ェ門は更にぎゅうと強く抱き締めてきました。そして今度は次元の耳朶へ噛り付き、数回柔らかく噛むと、項垂れた頭を静かに首元へ当て、絞り出すような声で言いました。
「代わりに、お主を食った。もう良い。この話はこれで終いにする」
そうでした。次元はこの一瞬、甘い雰囲気の中で忘れていましたが、五右ェ門は時折、突拍子もないことをする事があるのでした。突然の抱擁までならば、料理をしながらでも余裕を見せられる範囲でしたが、まさか耳を食まれるとは思わず、危うく声を上げそうになります。五右ェ門に煽っているつもりなど一切ないことは分かっています。これが先程の会話に対する、五右ェ門の精一杯なのだということも。
とはいえ、五右ェ門が言葉を発する毎に掛かる息や触れる熱は、五右ェ門の意志とは関係なく何かを疼かせますし、さらさらと流れる髪が首元に当たる頃にはさすがの次元も堪えきれなくなりました。手首を掴むとそのまま激しく抱き寄せて、勢いに任せ唇を合わせます。体勢など滅茶苦茶でしたが、雑に抱いた腕の中で、強張っていた五右ェ門の体は次第に緩んでいき、安心したように長い息を吐きました。
黙ったまま熱く見つめてくる次元の目に呑まれて、流されそうになりながら五右ェ門がシャツを掴むと、その肘の辺りが、だいぶ冷たくなっていることに気が付きました。こんなことをしている場合ではありません。濡れたままでいることが、ずっと気掛かりだったのです。
「まずお主は風呂だ。風邪を引かれる訳にはいかぬ」
このまま風邪でも引いたら切腹でもしそうな面持ちで見つめてきます。真剣な表情の五右ェ門を前にしたら、次元もそれ以上強く出ることは出来ません。
「仕方ねぇな。風呂入って飯食ってからにするか。秋刀魚はオレが焼くからそのままにしておけよ」
夜も長くなったことだしな、と次元はタオルを掴んでひとまず風呂へ向かうのでした。
ようやく食事の準備を整えた二人は、ほかほかと湯気を立てるご飯と秋の野菜や舞茸を入れた味噌汁、秋刀魚、油揚げにチーズを乗せた品々を前に手を合わせました。次元にはそんな習慣はもちろんありませんが、あまりに真面目な顔の五右ェ門につられて、といったところです。
「良い焼き加減だ。さすがだな」
「風呂入ってる間に大根おろしてくれたろ。助かったぜ」
すだちをかけ、大根おろしを乗せた秋刀魚の焼き目に箸を入れると、パリパリと良い音がして身が現れました。そこからまた新たに湯気が立つのを嬉しそうに見つめた後、五右ェ門は掴んだ一切れを口に運びます。
「美味いか?」
聞かずとも、表情で分かるのについ聞かずにはいられません。
「うむ。美味い」
「それだけ美味そうに食ってくれりゃ本望だ」
目を細める五右ェ門を前にして、次元も相好を崩します。
「この美味い物を食えぬとは、ルパンは気の毒だな」
ゆっくりと、幸せそうに味わいながら食べる様を眺めることは次元にとっても幸せなことでした。味噌汁の揚げと大根に、味が染みて美味いとしみじみ言い、つやつやと光るご飯を口に含んではまた、満足そうに笑っています。
「味噌汁と飯は残してやるから、明日の朝にでも食うだろ」
「ならば安心だ」
箸できれいに秋刀魚の身を取り分けながら、五右ェ門はまるで自分のことのように誇らしげに続けました。
「お主が炊く米は美味いからな」
「そりゃ買いかぶりだろ。同じ炊飯器使ってるんだ。同じ味な筈だぜ」
「いや。お主が炊くと特別美味い」
きっぱりと言い切った五右ェ門は、どちらかと言えば控えめな大きさの口をいっぱいに開けて、白米を含み、また嬉しそうに口を動かしています。光を放つほどに嬉しそうな表情から、満たされていることが伝わってきます。
『多分、それはお前だからだろうな』
浮かんだ言葉は、ビールと共に飲み込みました。それはいずれ五右ェ門が、自分で気付けば良いことです。目の前で五右ェ門は、気持ち良い程に箸を進めていきます。いつまでも見ていたいなどと仕方のないことを願いながら、次元はそれを眺めています。
九月の最後の日、静寂のアジトに華やかな声が響き渡りました。
「今日は五右ェ門しかいないの?」
身体のラインに沿うニットのワンピースを身に着けた不二子は、甘い香りを振りまきながら勝手知ったる我が家といった様子で堂々とリビングへやってきました。ソファで一人、剣の手入れをしていた五右ェ門は手を止め、咥えていた懐紙を離し、不二子の相手をしてやることにします。どうせ請われるだろうと思い、茶も出してやりました。
「二人は車の部品とやらを探しに行ったぞ。ガタが来ているそうだ」
「そう、お手入れは大切ね。ルパンに訊きたいことがあるから少し待たせてもらうわ。それにあなたにも渡すものがあるのよ。丁度良かった。ほら、これ。手に入れるの大変だったんだから」
渡された紙袋を覗くと、そこには先日と同じ漬物が入っていました。あの漬物は元々、不二子に貰った漬物だったのです。感想を聞かれた際に、事情があって食べることが叶わなかったと伝えたところ、早速新しいものを持ってきたのでした。当然不二子は打算を働かせています。目を輝せる五右ェ門を前にして、この恩はどういう形で返してもらおうかしらと考えながら、不二子は訊ねます。
「そういえば、事情がって言っていたけど、この間渡したのはどうしちゃったの?あの二人が勝手に食べた訳じゃないでしょう?」
「うむ、あの漬物は···」
そこから始まった話は後半になると「次元の焼いた秋刀魚がとても美味かった」という話にすり替わっていたので、不二子はもう良いわ、と途中で遮りました。酔っ払いが漬物を捨てた話から何故惚気話になってしまうのか、不二子には全く理解が出来ません。
「次元は米を炊くのも上手いのだぞ」
これだけは言わねば、という勢いで続ける五右ェ門に付き合うのも馬鹿馬鹿しく、適当に返します。
「次元ったら、土鍋でも使うの?随分手を掛けてくれているのね」
「いや、そこの炊飯器だ」
「じゃあ、誰が炊いたって一緒じゃないの」
「いや、水加減か研ぎ具合かは分からぬが、特別に美味いのだ。何故だろうか」
首を傾げ、真剣に考えている五右ェ門を見ていると、私は何を聞かされているのかしら、という気分になってきます。問いに対する答えははっきりと分かっていましたが、言ってやるつもりはありません。それよりも、一刻も早くルパンに帰ってきてほしいと願います。こんな話まで聞かされて、今度の仕事は絶対に7:3にして貰わないと気が済まないわ、と伝えなくては気が収まりません。
そこへ、ガチャリ、と扉が開く音がしました。続いて高らかに不二子の名を呼ぶルパンの声と、騒々しい足音が聞こえてきます。気付けばもう日は落ちていました。一気に賑やかになったアジトに帰ってきた次元は、五右ェ門と静かに目を交わしました。いつものように過ぎゆく時間の中で、月はまた新たな月へと移り行きます。