渡る霜月 西日が射すのも、もう随分と早くなった11月も終わりのある日のことでした。
五右ェ門が立ち動く気配で目を覚ました次元は、いつものソファに寝転がったまま音のする辺りへ顔を向けました。
「出掛けるのか」
「うむ。散歩がてら先日見掛けた和菓子屋へ行ってくる」
「ああ、あそこか。あそこなら近いし迷うこともねぇか」
読みかけの本を胸に置いたまま寝ていた次元は、蛍光灯の眩しさに目を細めながら、先週車で買い出しに出た日の記憶を手繰りました。スーパーで一週間分の食料と洗剤などの細々とした日用品を買い求めた二人は、山のような荷物を車に乗せて信号待ちをしていました。ちょうど家まであと半分程の場所です。そこで五右ェ門が視線を前方の、ある一点へ向けました。すぐに信号は青に変わり、次元は車を発進させます。
「何か気になる物でもあったか?」
「左に見えた和菓子屋が好みの趣きであった」
なめらかな滑り出しと共にバックミラーでちらとその店を確認した次元は、店の佇まいを見るなり合点しました。この街は外国人も多く住み、目新しい店も多く立ち並んでいますが、中には古くから営んでいると思われる店も点在しています。江戸時代からの店もあるとのことなので、そのうちのひとつかも知れません。
その店の場所を考えてみると、五右ェ門は一時間も掛からずに戻るだろうと思われました。日は落ちかけていましたが、さすがにこれだけの近さで迷うことはないでしょう。
「他に何か要る物はあるか」
懐に財布を仕舞いながら五右ェ門が問うと、次元は寝そべったまま、手をひらひらと頭上で振りました。
「今は特にねぇよ。お前さんが美味そうだと思った物を適当に見繕ってきてくれ」
「うむ」
余程甘味が楽しみなのか、短い応答には既に明るい色が混じっていて、次元は今の五右ェ門の表情を思い浮かべるだけで、つい頬が緩んでしまうのを感じました。
五右ェ門が記憶を頼りにその店へ向かうと、それほど大きくない入り口には店の名前の書かれた行灯が置かれていて、薄暗い辺りの道をぼんやりと灯しています。久しぶりの和菓子に浮き立つ心を抑えながら引き戸を開けると、大きなショーケースの中で整然と並べられた菓子の数々が、五右ェ門の目に魅力的に飛び込んできました。もなかや羊羹といったおなじみの物から、柚子色の小ぶりの餅や、笹の葉で包まれている物など初めて見るものも多くあり、目移りしてしまいます。もちろん華やかな彩りの生菓子の類にも惹かれます。しかし逸る思いは胸の内に留め、五右ェ門はいつも以上に澄ました顔をしてゆっくりと、吟味しました。次元もルパンも、更には不二子も食べるかもしれません。自分も含めて、あればある分だけよく食べる仲間たちです。
「注文をしたいのだが、良いだろうか」
熱い視線を注いでいたケースからようやく顔を上げた五右ェ門は、所望する菓子の名を次々と挙げてゆきました。
そうして欲しいものを一通り手にした五右ェ門は、アジトへ戻る長い坂道を下っていました。暗闇坂という名の通り、その坂はこの街で一等大きな神社の脇に伸びる坂で、石囲いの内側に植えられた桜の木々が坂の方へ生い茂って影を作り、晴れの日でさえも仄暗く感じられるのでした。もう少しで日も落ちるという今時刻ならば、尚更です。もちろん五右ェ門は恐ろしくなどありませんでしたが、両手に下げた、ずっしりと重みのある甘味のこともあり家路を急ぎました。
淡い薄紅色の可憐な椿を象った生菓子の美しさに、不二子は感嘆の声を上げるであろう、小ぶりの栗饅頭に手を伸ばしたルパンはひょいと頬張ると気に入って、話す速度と同じ勢いで次々に口に詰め込んでゆくだろう。そして五右ェ門が一等惹かれている芋羊羹は、そのひと切れまるごと次元が大口を開けてかぶりつき、一口で美味そうに食うことだろう。五右ェ門が楽しく想像を働かせながら歩く間も、少しずつ闇は濃さを増してゆき、視界は朧になっていきました。闇の中に見える形のあるもの――電線や、自らを覆うように茂る木々は圧し掛かるような重みのある漆黒となり、まるで影絵の中に迷い込んだような心地です。
逢魔が時とは今時分のようなことを指すのか、と思ったそのとき、石囲いの向こうからの視線を感じて、咄嗟にそちらの方を鋭く見返しました。石囲みの一部が崩れて開いていて、視線はその辺りから向けられているようです。五右ェ門がじっと見ていると、暗闇の中で何かがきらりと光りました。しかしその丸い、二つの光には何やら覚えがあります。
「お主か」
言葉に反応するかのように、二三度瞬きをした光は、そのまま強い視線を五右ェ門へ投げかけました。僅かな思案の後、五右ェ門は光の主の元へ近付くと確信しました。やはりそれは次元と共に訪れた、夏の夜の海で出会った狸の形をしたものに違いありません。また何か困った羽目に陥っているのだろうか、と開いている石の隙間を覗き込みます。狸は導くように振り返りながら、奥へとゆっくり進んでいきます。
「このような場所へ忍び込むのは気が引けるが···」
僅かな隙間かと思われた場所でしたが、屈みこんだ身を滑り込ませると苦も無く入ることが出来ました。その姿を確認した狸は、振り返り振り返り、歩を進めていきます。丸々とした体は敏捷とは程遠く、短い手足を懸命に動かしては少しずつ進みます。その為、両手に大きな紙袋を手にした五右ェ門も難なくその後を着いてゆくことが出来ました。やがて狸は神社の中ほどにある小さな池に辿り着くと、短い手足を精一杯伸ばして、飛び石を渡っていきました。亀の棲むその池には、五右ェ門も散歩の折訪れたことがありました。おそらく今は冬眠しているであろう亀たちを起こさないように、普段よりも更に気を配り音を立てぬようにして、五右ェ門が飛び石を渡り終えた途端、一陣の風が吹いて頭上の大きな銀杏の木がざわざわと音を立て始めました。同時に冬の匂いが強く立ちのぼり、鼻の奥につんとした寒気を感じていると、銀杏の葉が眩い金色の光のように、次から次へと降り注いできます。その美しい様に思わず頭上を仰ぎ見た五右ェ門が一瞬、瞬きをした後に目を開けると、そこには今しがたまでとは異なる風景が広がっていました。
「ここは···」
目の前には広々とした立派な東屋があり、慌てて振り返ってみるとそこには先程の池よりずっと大きな池が広がっていました。降り注ぐ銀杏の代わりに、紅葉が時折はらはらと舞い降りてきます。池の奥には高層ビルが並び、静かな水面にきらびやかな姿を映していました。辺りには特段怪しい気配もせず、穏やかな空間には時折、人々の穏やかな声が聞こえてきます。五右ェ門はひとまず東屋へ腰を降ろし、両手に持った甘味を置いて、足元にじゃれつくようにしている狸を抱き上げ膝に乗せました。固い毛を撫でてやると、満足そうに膝の上で丸まって、あっという間に寝息を立てはじめました。
「···どこだろうか」
膝の上で眠る狸に問うても当然答えはなく、五右ェ門は池の向こうにそびえ立つビルを見上げました。まるっきり知らない建物でもないように思えます。次元と出掛けた際に車中からその姿を見た記憶があるような気がして、ここはアジトからもそう遠くはない場所であるような気がしました。第一、力を使い果たしたかのように膝の上で眠る狸がそこまで大きな移動の術を使えるような者にはとても思えず、これは狸なりの良い眺めを見せてやろうという精一杯の恩返しなのではないかと考えました。それならば、ここへ連れてきた狸に報いるべく、今を楽しむのが成すべきことのように思えます。赤や黄に色付く木々は、まさに今が見頃のようです。
懐から携帯電話を取り出し時刻を確認すると、十八時を回っていました。アジトを出てから二時間程経過しています。想像以上の時間の経過に少し驚きながらも、この小さな狸の術ならばそれも然り、と思われました。当初の予定よりは随分遅れてしまったものの、まだまだ夜としては早い時刻です。アジトを出た際の、ソファで寝そべっていた次元を思うと、電話によって起こしてしまうのも気が引けて連絡はせずに携帯電話を仕舞おうとしたところ、着信を報せる音が大きく鳴りました。
「おい、お前どこいるんだよ」
出るなり大変な勢いで訊ねてきた次元に応えようと、五右ェ門は辺りを見回しました。しかし目印になるような文字は見当たらず、仕方なしに目にしたものを挙げていきます。
「大きな池と、その向こうに木々がある。恐らく公園のようだ。造りのしっかりとした東屋があり、そこにおる。池の向こうに見える高いビルからの光が水面に映って美しい。しかも紅葉が見頃だ」
「···つまり分からねぇってことだな」
「そうだな。何故かこの場所にいる」
とりたてて取り乱している様子もない五右ェ門に、次元は呆れたような安心したような溜息を吐きました。悪意のある何事かに巻き込まれている様子ではありません。肝心の、何故その場所にいるのか、ということについては問いただしても仕方のないことは目に見えていました。
「そこで待っとけよ。これから迎えに行く」
「うむ。良い景色だからお主と共に眺めたい」
通話を終えると五右ェ門は、あらためて目の前に広がる光景を見渡しました。水面で静かに揺れるたくさんの光は、窓からの灯りの反射でそれぞれ微妙に色が異なります。きらびやかな物に普段は目を惹かれることのない五右ェ門も、高層ビルと昔ながらの庭園の池という組み合わせが織りなす不思議な景色は何故だか悪くないように思いました。どちらも、不自然に飾り立てられることもなく、ただそこにあるからでしょうか。しかも池の上には美しく紅葉した木々が今を盛りとばかりに広がっています。少しばかりの灯に照らされ折り重なるように連なる葉は、黄色から深い赤まで細かな濃淡によって、まるで燃え上がるようでした。時折、思い出したかのようにはらりと落ちる葉は、静かに水面に着地して、美しい水紋を描くのでした。
「お主はこれを拙者に見せたかったのだな」
膝の上の狸に語りかけると、狸はそれに答えるかのように小さく鳴きました。その声を聞いた五右ェ門は小さく笑って、隣に置いた紙袋の中を覗き込みました。確か狸は雑食だったはずです。ならば、甘味も食うかもしれぬ、と、何を好むのかはさっぱり見当が付きませんでしたが、食べやすそうな物という点から薄皮の小さな饅頭を与えてみると五右ェ門の膝の上で、そのままはぐはぐと勢いよく口にしました。気持ち良い程の食べっぷりに、五右ェ門は笑ってその背を撫でてやりました。
「感謝するぞ。この場所は好いな」
「感謝ならオレにもしてくれよ」
すぐ近くで聞こえてきたのは、良く知る男の声でした。五右ェ門の横にどっかりと腰を降ろすと、そのまま恋人の膝の上にいる狸の頭をぐいぐいと撫で回しました。雑な手付きのように見えても、その手が優しいことを五右ェ門は知っています。狸も気持ち良さそうに、うっとりと目を細めましたが、この男が来た以上、これ以上ここにいることは無粋であることを分かっているらしく、しばらくすると五右ェ門の膝から飛び降りて、そのまま茂みのほうへ消えてゆきました。最後に振り返って小さく頭を下げる姿は、以前と変わりません。
「海で助けたアイツか」
「そのようだな」
「随分懐かれたな」
「義理固く、恩返しに来てくれたようだ。この場所を案内してくれた」
大きく足を組んだ次元は、すこぶる機嫌の良さそうな五右ェ門の横顔を見つめた後、目の前の景色を眺めました。心配したこっちの気も知らねぇで、というのが本心ではありますが、口元に笑みを浮かべて鮮やかな紅葉の中に身を置く姿は一枚の絵のようで、これでは責める気も失せてしまいます。
「ところで次元、腹は減っておらぬか」
次元の返事を待つ前に、五右ェ門は甘味の入った袋をまたしても覗き込みました。そして一つの包を取り出して続けます。
「折角だからここで食わぬか」
「そう言うかと思って茶買ってきたぜ」
包みの中の、黄金色の芋羊羹へ五右ェ門が備付の楊枝を刺したのと同時に、次元はジャケットの内ポケットからアルミ缶の暖かな緑茶を取り出しました。それを見た五右ェ門は、ひと際表情を和らげました。
「さすがお主だ。拙者のことをよく知っている」
「そりゃあな」
言いながら次元は早速楊枝に手を伸ばし、大きな口で芋羊羹にかぶりつきました。大きな一切れを容易く一口で口に含むと、美味そうに咀嚼しています。その様は、五右ェ門が予想していた姿そのままでした。
「拙者もお主のことをよく知っておるぞ」
小さく呟いた五右ェ門を見ると、どこか誇らしげな表情を浮かべて茶を啜っています。
「だったら、心配させるなよ」
「···すまぬ」
こん、と後頭部に当てられた拳は形だけで痛くも何ともありません。その後続けて優しく撫でる手のほうに、余程胸は痛みました。少し心配性すぎるようにも思うものの、半刻で帰るところが二時間も戻ってこなければ心配するのも当然のことです。五右ェ門に言い分がない訳でもないのですが、そんな事は承知だからこそ次元もこれ以上言い募ったりしないのでしょう。撫でる手が止む頃には、それぞれの胸の中にある物は全て静かに解けていきました。
手の中にある暖かなお茶を数口飲んで次元へ戻すと、一口啜ってまた五右ェ門の手の元へ帰ってきました。
「これで暖まってろ」
「冷えてはおらぬぞ」
言い返す五右ェ門の手を素早く取った次元は、一度ぎゅうと強く握って離しました。
「芯まで冷えてるじゃねぇか。だったらこっちのマフラーにするか?」
自分が今している臙脂のマフラーを解く振りをしてみせると、五右ェ門は観念したように首を振り答えました。
「茶を貰う」
二人は黙って、目の前の池に落ちていく赤く色付いた葉を眺めました。数にすれば多くはないものの、人は入れ替わり立ち代わり東屋に訪れ、少し経つと去って行きます。仲間同士で語り合う者も勿論いますし、時折遠くのほうからははしゃぐ声も聞こえてきます。しかしそれがあって尚、五右ェ門は目の前に溢れる光景を自分自身の静寂の中でただ見つめ、次元はその横で煙草を吹かしていました。半刻ほどそうしていたでしょうか。さすがにただじっと座っているだけでは、マフラーを着けている次元も体が震えてきました。
「五右ェ門、そろそろ帰ろうぜ」
「···ん。うむ。帰るとするか」
次元の声で我に返ったように、ようやく身じろいだ五右ェ門は開きっぱなしになっていた芋羊羹の蓋を閉めて、元の袋へ片付け始めました。その姿はいつもと変わらず、次元はひそかに安心しました。先程のような状態の五右ェ門を見ていると、何だか落ち着かない心地になり、目を離してはいけないような気がするのでした。何かの境のような場所に居るように見えるのが、修行の成果だと言われればそれまでですが、害がないとはいえ、不思議な目によく合う五右ェ門が何かの弾みで向こう側へ行ってしまうのではないかと、勝手な心配をしてしまうのです。
「それにしても、随分買い込んだな」
紙袋を一つ持ってやりながら、呆れて言うと五右ェ門は笑って返しました。
「お主らの分までとなると、この位必要であろう」
「そんな事言いながら、お前さんが一番食うんだろ」
目の前で笑う五右ェ門を見ていると、先程の小さな疑念は下らない妄想のように思えてきて、次元は小さく頭を振りました。その姿を不思議そうに見つめる五右ェ門に口の端を上げて応えると、人通りのないことを良いことに、次元は白い手を取りました。
「結局冷えちまったな。早いとこ暖めてもらわねぇと凍えちまう」
握られた手を、五右ェ門は同じ強さでぎゅうと握り返しました。駐めてある車までのごくわずかな時間、黙り込んだ二人の繋いだ手の中には熱の塊があるように熱くなり、その熱はゆっくりと体のあちこちへ運ばれていきます。そうして二人は十一月の、冷たい夜気さえ甘く溶かすような空気に包まれながら、車に乗り込むのでした。