濡れた多宝丸「あの川に近づいてはならん」
父の声が冷徹に響いた。
多宝丸は凍える体を抱き寄せながら、自室でぶるぶると震えた。川に落ちて身を冷やしたせいだ。体の震えの、直接の原因はそれで間違いない。
けれど、父のあげた厳しい声が多宝丸の意識から離れない。声色の記憶が、身体の芯を冷やしてゆく。父の問答無用の態度に怯えたのではなかった。もちろん怒りを買うことも怖くはあったが、そのとき、多宝丸の左目は見たのだ。
――父の側に控える母の肩の震えを。
「どうして川に落ちたのです」
「どうして川へ行ったの?」
「どの辺りに落ちたのですか」……
川に落ちたと聞きつけた母は、矢継ぎ早にそんなことを尋ねた。多宝丸が素直に答えると、母は袂で口を覆う。そうして、言葉を呑み下すように、何も言わなくなってしまう。
そういう母の異変が、多宝丸の胸にしこりを残していた。
体を拭き着物を変え、すっかり濡れたところはなくなったというのに、多宝丸の気分は冴えない。
川に落ちたなどと醜聞を晒してしまったことも気落ちにつながりはするが、やはり問題はそこではないのだ。
「――!」
母の声が、微かに耳に届く。
どうやら父と言い合っているらしい。険のある響きだ。時折、こうして母は荒れる。それは例えば多宝丸に何かあった時であったり、あるいは、似たような年恰好の子供を見つけた時であった。
多宝丸はふるりと震えが走った背中へ手を伸ばし摩りながら、床に入ってしまうことにした。そのままに過ごすよりも、身を乾かした今、布団で寝てしまうが良いだろうと思った。
灯りに息を吹きかければ、部屋の中はたちまち闇色に塗り変わる。ややもすれば目が慣れて、障子の白がほのかに闇に浮かび、暗さに慣れた左目が天井を映した。ぱちりと瞬きをする。視界はどこも変わらず、闇に染まっていた。
そのままぼうっと眠気を待っていると、川に落ちた時のことが思い出される。その川辺には煩雑に葦が伸びていて、それは岸のギリギリまでもそうだった。
多宝丸は川原を散策する中で、知らず知らずに川縁へと足を進めていた。気の向くまま、葦の原を掻き分ける。そうして拓けた視界一面の、太陽の光を映しとった水面の煌めきに目が眩み、足を滑らせたのだった。
幸いにも怪我はなかったが、着物はびしょびしょ、濡れ鼠の体と相成ったのだった。
川の水は冷たかったが、きらめく水面は美しく、風にそよぐ葦の波打ちと相まって、多宝丸は内心その景色を気に入ったのだった。
しかし、父からあのように釘をさされてしまった。少なくともしばらくは、あの場所の景色を楽しむことはできなかろうな。
多宝丸の関心は、川の風景から両親へと移る。
父はたまに、多宝丸に仔細を伺わせない態度をとる時がある。その節々の共通点となるものを多宝丸は探っているのだが、未だ真相にたどり着いていない。
たまにとる不思議な態度は根本が同じなのだろう、ということが分かるだけなのだ。
そして、今日は母もおかしかった。それが、多宝丸の背筋をなぜだか震わせるのだ。母も、父と同じ『なにか』を知っているのかもしれない。
多宝丸は、そっと瞳を閉じ、闇に抱かれるように眠りについた。
分からない子供なりの知恵であった。多宝丸はその一連の不思議な事柄を、詮索しないでいた。
――それはなぜか。
どうしてだか、子供心にも、父と母の隠しているものこそは探り当ててはいけないような予感があった。母の隠し事の向こうに、母の自分を見つめる視線の向こうに、もしかすると多宝丸は、当時すでに勘付いていたのだろう。
――暗闇だ。
ヒュルリと冷たい風が多宝丸の体を撫で、背中には硬い地面の感触が伝わっている。夢想した温い布団の柔らかさとは正反対だ。
多宝丸は横たわっていた。
熱い、と一瞬前に感じた熱は、今は身体をすり抜けて、じくじくと土へと染み込んでいる。
それを阻むすべが、多宝丸にはもうなかった。刀の柄もとうに手を離れ、ぴくぴくと握る形をとる指が地面の砂を掠めるのみだ。
天を仰ぐ多宝丸の上に影がさした。
男は、多宝丸の顔を覗き込んでいる。
先まで憎らしいほどの敵対心を向けた相手なのに、地に流れ出す血潮とともにその感情までもが抜けていったらしい。静かにその男を見つめ返すことができた。
男の顔は息のかかるほど近くにあった。その黒々とした瞳には光が写り込み、きらりと濡れている。多宝丸の脳裏に、ただ一度見たあの水面の光が蘇る。
艶々とした瞳は溢れ出すようだった。まるで、いつかの多宝丸の姿のように水に飲み込まれて。
「きさまのあにきだよ」
男は多宝丸の顔を覗き込み、切なそうに、そう名乗った。そして多宝丸のすべてをじっと見つめながら、
「もっと話がしたかった」
低く唸るようなその声は、不思議なほどさらさらと多宝丸のうちにしみて、多宝丸は、くっとくちびるの端を持ちあげた。
――ああ。そうだったか。
――そうだったのか。
多宝丸の走馬灯のなかにある、父と母と自分。
『何か』の存在があるのではと違和感があった両親と自分との不思議な隙間に、目の前の男の姿が埋め込まれていく。あの不思議な空白感はすべて、この兄とやらの不在から生まれていたのだろう。
「……」
「…………」
じっと見つめてくる男を見つめ返しても、多宝丸には血縁だと確信はできなかった。それでも、自分に兄がいたという言葉は、すうっと心に落ちて、幼い時から蓋をしていた謎々の答えをやっと与えられた感触がした。
父母の態度のおかしさは、不在の兄を思ってのことだったか。
ずっと聞きたかったような、知りたくなかったような事実を受け入れながら、多宝丸はただただ目の前の男の黒い瞳を見上げた。
心は凪いでいた。
濡れた黒い目に映る、自分と似ても似つかぬ情けない顔に、唇の端がふるえた。
今際の際に唾を天に吐けば、触れそうなほど近くにいた男にあやまたず的中した。
最期に見えたのは、ぐっと寄せた眉と、あの日見た水面の瞳の揺らめきだった。