らぶらぶになりたいもの。 チラリと横を見ると、優しい目で微笑む最愛の人の姿があった。蕩けるような眼差しと、幸せを敷き詰めて愛しさで包んだような甘ったるい微笑みと。この長らく温めて閉じ込めて死の淵では道連れにしようとしていた想いが通じてからゆうに一年は経つ。
男で、実の兄で、酷く兄弟を大事にする人だったから凄く悩んだ。ましてや悠仁とっては二番目と三番目に当たる兄である壊相と血塗を事故で亡くしてからは余計に。余りにも幼かった悠仁には頭を撫でる手の面影だとか、頬同士を寄せた時のつるりとした感触だとかそんな薄っすらとした記憶しかなかった。それでも愛する弟を亡くした脹相が受けた傷が生半可なものではない事を肌で感じる程度には、脹相は愛情深い人間だった。その二人に注ぐ筈だった愛情の分もたっぷりと悠仁に注いで、いっそ病的だと言われる位には兄弟愛を拗らせていた。
だから悩んで悩んで、悩んだ末にやっぱり自分の中だけで宝物の様に仕舞い込もうと決めていたのに。それをあっさりと覆したのは想い人である脹相本人だった。悠仁が次は高校生に上がる年、いやに真剣な顔でリビングに呼ばれて何事かと緊張して固まる悠仁に一言、脹相は好きだと伝えた。あまりにシンプル過ぎて、まさか愛の告白だなんて思わなくて口を衝いて出たのは知ってると言う簡単な四文字だった。何を当たり前の事を改めて、そんな真面目くさって言っているのだろうと。勘違いしたらどうしてくれるんだと言う呆れと諦観を込めて今更どしたん急に、なんて言ってたら肩を掴まれ引き寄せられて気付く前には口と口がくっ付いていた。緊張で乾いて少しかさかさした薄い唇が、僅かに震えながらふんわりと重なる。驚いて目を見開くと、ぼやけた視界の先で目元を赤く染めた黒い潤んだ瞳と目が合ってぐわっと熱が上がった。触れるだけの拙いキスは、余韻だけを多分に残してあっという間に離れていった。
「こう言う、好きだ」
悠仁に負けないくらい耳も首も鎖骨も、見えるところみんな真っ赤に染めて耐えるみたいに眉間に皺を寄せながら脹相は涙目で睨んできていた。そんな、明らかに意識してます、みたいな顔をして見られては悠仁だって堪ったものではない。いつもは男らしく落ち着いた雰囲気の端正な顔も、全力でいっぱいいっぱいですと主張していて何だか可愛らしくすら思えてくる。多分おんなじくらい真っ赤に火照った体で、ぱくぱくと口を鯉のように間抜けに開閉して数分。消え入りそうなか細い声で、オレモスキ。とその一言を言うのにどれ程の気力を振り絞った事か。だけれどもぱぁっと花が咲いたように笑った脹相に子供みたいに両脇に手を入れられ抱え上げられて、ぐるぐる家の中だと言うのに振り回されてつい自分も笑ってしまった。そのままガクンと落とされたかと思うと、脹相の胸の中に抱き込まれお互いの肩に互い違いに顔を埋めて笑いながら泣き合った。
今になって振り返ると馬鹿みたいだなって笑えるけれど、なんなら正直これから受験だというのにタイミングだって悪かったけれども。脹相も悠仁も二人して長い長い片想いをお互いに十数年も続けていた。悠仁の初恋は脹相だったし、脹相が初めて特別に愛しいのだと気付いたのもまた悠仁であった。やっとの思いで通わせたこの恋心を大事に大事にゆっくり育んできた。
そう、一年経った今でさえ二人は健全なお付き合いを続けている。確かに、手を握ったり抱き締めたり戯れのようなキスはしているし頻度も増えた。しかし、深いキスなんて殆どないし、触れるだけの優しい口付けも多幸感に包まれて幸せではあるのだが、正直年頃の悠仁にとっては身の内に火を灯されて熱を溜めて燻らされているような状態だ。高校に上がってから、誰が可愛いだの格好良いだの、誰が付き合っただのとそう言う話題が増えてきた。そうすると自然と、男同士なら性に関する話も出てくる。積極的に話に加わる事はないが聞こうとしなくても耳に入ってくるのだ、何もしなくても知識は少なからず付いてくる。興味だって、ある。だけども初心者同士の手探りな二人が知識を仕入れる場もそうそうなかったし、直前になってそれはちょっとと相手に拒絶されるのもいざ行為に及んでこんなものかと失望されるのも怖かった。脹相だってそれは同じで、大事に大事にしてきた弟で未成年で、手を出すのは犯罪紛いどころか立派に犯罪である。何より未成熟な体に無体を働いて無理をさせるのが怖かった。心も体も絶対に傷付けたくはない。それでも毎日同じ場所で暮らして声を聞いて匂いを感じてその肌に触れる事を許されている内にどんどんと熱は高まり欲は煮詰まっていく。お互いへの思いとこの環境が少しずつ思考を鈍らせ心を狂わせていく。限界なんてもう、その手の上に転がっていたのだ。
その均衡を崩すのなんて、些細な切っ掛けで事足りるのだ。
少し早めの夕飯を終えて、洗い物やら何やらを済ませてゆったりソファーで二人くっついて話をして。そろそろ風呂が沸いたから先に入ってくるといいなんて脹相に言われ、悠仁は素直に風呂場まで来ていた。ざっとシャワーを被り、わしゃわしゃと髪を洗ってコンディショナーなんて物も付けてみる。少し前までならそんなに気にもしなかったし、なんならシャンプーだけでいいじゃんなんて思っていた。それが脹相と思いが通じ合って、その大きな手で撫でられたり鼻先を旋毛に埋められたりするようになって。そうすると何だかそわそわと落ち着かなく、ごわごわしてないかとか少しでも手触りがいいと思ってもらいたいとか匂いはどうだろうかとか気になるようになった。それまでは脹相が買ってきたシャンプーを適当に使うだけだったのに、しっかり洗ってコンディショナーでケアしてちゃんとドライヤーで乾かすようになっていた。体だって入念に洗うようになったし、風呂の時間だって少しだけ長くなっている。それもこれも全部、脹相を意識してのことだと思うと気恥ずかしくてむず痒い。
ザァザァと丁寧に、濯ぎ残しがないように髪を撫でる。今度はボディータオルを手に取ってよく泡立ててから指先から腕、腋とこちらも入念に洗う。ふと、備え付けの大きな鏡に映る姿が見えて手を止める。ピカピカに磨かれたそこに映るのは、筋肉質で身長もそれなりにある紛う事なき男である自分の姿だった。そっと手で触れるとつるりとした冷たい表面に当たる。つい、と鏡の中の体のラインをゆっくりとなぞり最後に頬の輪郭に手を添える。酷く情けなく眉を垂れたその顔が見ていられなくてざばりと湯を被って泡を流す。鏡に付いたそれにもシャワーを掛けると透明な水の流れが姿見を朧げにして頼りない表情を隠してくれていた。そのまま視線を合わせる事なくたっぷりの湯が入った温かな湯船に体を埋める。ぶくぶくと頭の天辺まで浸かって考えるのは脹相の事だ。未だに色っぽい雰囲気になれないで居るのは自分に原因があるのだろうかと気持ちと思考もぶくぶく沈んでいく。肺の中の酸素全てを吐き出して、溺れる一歩手前で浮上する。空っぽになった肺に思いっきり息を吹き込む。毛先から垂れる雫が水面に幾つも円を描いて重なって、交わる形は万華鏡のように移り変わる。はーっと溜息混じりに深く長く息を吐き出すとぼんやり天井を眺めた。別に、無理に交わる必要なんてない。脹相だって悠仁をこれ以上ないくらい大事にしてくれている。そんな事、分かっている。けれども、どうしても触れ合いたい、もっと深くで繋がりたいと思う心は確かにあって止められない。ぷかぷかと頭を浮かべながら思考の海を揺蕩う。そのままもう一度ゆっくり沈んで浮上するとそのまま飛沫を上げて立ち上がった。勢いを付け過ぎて浴槽の外にまでお湯が流れてしまったのを見て少し申し訳なくなりつつ火照った体を覚ますように手で仰ぎながら脱衣所へ出る。
バスタオルで水分を拭き取って、下半身だけ取り敢えず着替える。ドライヤーの熱風が顔や首筋を通過していくが、底上げされた体温には少々暑過ぎる。悠仁程度の短髪ならばすぐ乾くのだからと暫し我慢して人工的な風が髪の間を通り抜ける感覚を味わう。わざと濡れたまま出て行って脹相に乾かしてもらうのもいいのだが、最近は妙に意識してしまって素直に甘えられない。頭皮を撫でる指の感触、時折り頸を掠める爪のつるりとした硬質な擽ったさ。近く感じる体温に、低く潜められた蕩けるような優しい声音。そこまでを思い出した所でぞくりと甘い痺れが走る。益々熱を増しそうになる身体を強く頭を振って追い払う。湯気で煙った姿見には発情して眉を垂れて潤んだ瞳の、端ない自分が映っている。何で浴室付近にはこんなに鏡が多いのか。憎々しい気持ちで睨んでみても、真っ赤に濁った輪郭が歪んで如何にも哀れにこちらを笑っているだけだった。本日何度目か分からない溜息を吐いて、もうすっかり乾いた髪を梳くようにして撫でつける。洗い立てでもピンと立った毛先がちくちくと指先を刺激する。ぼんやり髪を弄りながら、脹相の髪は結ぶとあんなに自由に跳ねるのに存外艶やかで滑らかだったなと思い出す。ああ、そうだ。脹相を待たせているのだからとやっと気付いて急いで薄いシャツ一枚を被る。火照り湿り気を帯びた熱を持っているのは風呂上がりだからだと誰に聞かれた訳でもないのに言い訳しながらリビングへ向かう。ガチャリと扉を開けると脹相は変わらずソファーで寛いでいるようだった。
「ごめん、待たせた。次、風呂いいよ」
「ああ」
ひょいと顔を上げると直ぐに俯いて少し猫背気味だった背を前倒しのそりと立ち上がった。音も立てずに歩みを進めると、横を通り過ぎる時ぽふりと頭に手を置かれる。さり、と一度だけ撫でられると全神経が触れられたその一点に集中する。擦れ違い様に流し見られた瞳が自棄に扇情的で、まだ冷めやらなかった熱が更に煽られて鬱陶しく鼓動が暴れ回る。きっと分かりやす過ぎる程真っ赤に染まった顔を見て、クスリと色っぽい笑みを残して去って行った。
「ずっりぃ……」
右手の甲で口を隠しながら思わず呟いた言葉は誰に届くでもなく静寂が居座るリビングへと溶けて行った。
ザーと勢いよくシャワーヘッドから流れ出る温水が頭の天辺から足元までを満遍なく濡らしていく。ほんの数分前まで悠仁が入っていたそこは初めから濡れて、ほわりとした熱気がまだ籠っていた。色濃く残る悠仁の気配に脹相の理性はほろりほろりと解けていく。はぁ、と流れる湯より熱い息を吐いてそっと浴槽でゆらゆら揺れる水面に触れる。ついさっきまで悠仁が浸かっていたお湯だと思うと、それだけで体が余分に熱を上げる。指先で戯れるように遊ばせてピシャリピシャリと水音を鳴らした。先程触れた柔らかな髪と少し湿り気を帯びた頭皮の感覚を思い出して余計に高まった体は、情けない事に少し兆しを見せている。困ったように眉を下げ、忌々しくも自身を睨むがそんなものどこ吹く風かという風に緩く反応したままだ。そんな所はやはり兄弟なのか、脹相も本日何度目かも分からない溜息を吐く。そのまま天を仰ぐようにガクリと首を後ろに落として顔面を細かな水の糸が叩きつける感覚で気を紛らわせようとするが所詮は気休めにもならない。目を瞑って瞼の裏に描くのはやっぱり愛しい弟の姿で、それが艶っぽく頬を染めながら自分を呼ぶ幻想が浮かんだ所で無理矢理目を開ける。水道を通って温められただけのただの湯が目に入り込んで微かに痛みを覚えるが、そんなこと位では目が覚めない。暫くばちばちと眼球を叩く感覚を受容していたがいくら誤魔化そうとしても誤魔化しきれない確かな熱量に舌打ちして温度調節に手をかけ冷水を浴びる。一気に冷えた体がぶるりと震え次第にあからさまな欲の証も多少鳴りを潜める。一つ息を吐くと鏡に額を押し付けて目を閉じる。
思いを告げてから悠仁が成人するまではと、触れるのはキスまでに控えて鋼の精神で手を出すのは耐えてきていた。それももう限界が近い。よくもまあ一年も保ったとさえ思う。日に日に増していく悠仁への情欲と、兄として大人としての理性。悠仁自身からも意識したように時折り向けられる熱く艶を帯びた視線に当てられては、何故我慢する必要などあるのか、思いが通じているのだから手を出した所で悠仁もそれ程拒絶するなどという事もないだろう。悠仁だって望んでいる風ではないか、何を躊躇う事があるのかと囁く声がある。その度に大人の自分が、恋人である前に兄であった己が欲のまま未だ子供の悠仁に容易に手を出して良い筈がない。何しろ義務教育を終えたのだってつい最近の事なのだから。そう思うと焼き切れそうな理性に辛うじて歯止めがかかる。
それでも先程のように甘ったるく蕩けた瞳と、湯上がりの濡れて赤みを帯びた肌を見せられるとどうにも凶暴な衝動が疼く。折角冷ました熱が再燃しそうになってギリッと手を握り締めた。自分を誤魔化し続けるにももう手が尽きてきた。溜め息の筈が出た息は熱く興奮の色を隠せない。
「悠仁……」
狭い室内で反響する声は、実際の小ささとは異なって自棄に耳に障った。
脹相が風呂から上がると悠仁はまだリビングに腰を据えていた。
実の所シャワーだけで済ませたにも関わらず、頭を冷やす時間が長くゆっくり浸かった時と経過した時間はさして変わりはしない。冷えた体は最後に申し訳程度に熱い湯をかけたから多少血色は良くなっている筈だ。実際悠仁も何も疑問を抱く事なく脹相を迎え入れている。チラリと視線をやるとまだ薄着の状態で、つい数十分か一時間位前まで脹相が背を預けていた場所に膝を抱えて座っていた。
「兄ちゃんまだ髪乾いてないじゃん」
眉を顰めて悠仁はそう言うと手招きして呼びつける。大人しく求めに応じて近寄ると身をかがめるよう促され、肩にかけていたタオルでわしゃわしゃと豪快に拭かれる。乱暴なようにも見えるその手付きが存外優しく柔らかなのを知っているのは脹相だけだとひっそり優越感に浸る。こうされる喜びを知るのは自分だけで良いと、瞑った目の奥で口の端を持ち上げた。時々指先が直接肌に触れては大粒の水滴に当たって悠仁の肌も濡れていく。その指先を濡らすのがもっと別のものだったら……
あれだけ駄目だ駄目だと己に言い聞かせてきたと言うのに進歩がない。それでも心地よい感覚と愛おしい存在が自分の為に世話を焼いてくれる事実がどうしようもなく幸福で、際限がない欲望がもっと、次をと望んでしまう。
「だいたい乾いたかな……ちょっとまって、ドライヤー取ってくる」
「悠仁、別にそこまで」
「いーから!兄ちゃんはそこ座ってて」
どうせリビングにも置いてあるんだから、そう言って籐籠の中を漁り始めた。お互いよく髪を乾かし合っている為、脱衣所とは別にリビングにもドライヤーや櫛などが焦げ茶色の籐籠の中に纏められていた。狭い脱衣所で乾かすよりリビングでのんびり、少し大きな声で話しながら丁寧に髪を乾かすのが二人とも好きだった。だからこうして一式すぐ取り出せる位置に備え付けるようになったのはいつだったか思い出せないくらいには昔の話だ。悠仁の後ろ姿を見ながら、薄着の裾から覗く手足の普段隠れる事が多い部分に気を取られる。
じ、と見つめる視線に気付いているのか気付いていないのか悠仁が振り返る。手にはメタリックな輝きを放つ赤いドライヤーが握られていた。いつだったか福引の景品で当てたそれは中々使い勝手が良く、二人とも重宝していた。
「はい大人しくしててな」
脹相をカーペットの上に座らせ、自身はソファーに座り足を開きその間に脹相の体を挟む。スイッチを切り替えるとブオォォと少し大袈裟なくらいの風の音が響いた。温風が直接かかりすぎないように遠めから風を当て、ぱらりぱらりと指で髪の束を遊ばせる。丁寧に、折角艶やかで美しい髪を痛めないように柔らかく扱う。
指を擦り抜ける上質な絹のような手触り、控えめに少し染まった頬。艶を帯びた肌。知らず悠仁はゴクリと唾を飲み込んだ。
ドライヤーの音に隠れて小さく首を振る。自分でも節操がないなと呆れるが、若い身体が求めて止まないものが一種の最高な状態で目の前にある。落ち着けと言う方が難しかった。それでも脹相に風邪を引いてほしくない、綺麗に整えたいと言う純粋な気持ちもまた本当であった。たまに、熱くない?だとか痛くない?だとか聞きながらなるべく邪な事を考えないよう集中しようとする。肌を滑る細い髪の感覚が気持ちいい。触れた頸が熱い。肌を流れる水滴が艶を帯びる。
ゴォォォ、と言う煩い音に紛らわせて少し荒くなった呼吸を隠す。湿り気を帯びた冷たい毛先が温風によって温められて、段々とさらさらと流れるように滑らかになっていく。するりと指先を滑る艶やかな黒髪の感触で遊びながら触れる素肌の温度に鼓動は忙しなく勢いを増していく。鼻を擽るシャンプーの匂いはおんなじ筈なのに風呂上がりの清潔な香りが脹相の体臭と混ざってむせ返るほど甘く酔った気分にさせられる。こんな事位で、と眩暈がするようだ。