路地裏の出会い日がだいぶ傾いてきた午後5時過ぎ。空に広がる薄紫色の雲と少し重たいオレンジ色の太陽に背を向けて、今日も今日とて一人で帰路についていました。
太陽の色とは対称的に4月の外気はだいぶ肌寒く、今日新たにできた擦り傷にひんやりとした風が滲みて、思わず傷口を覆います。
それでもなぜだか早く家に帰りたいとは思えなかった私は、たまの散歩と思って路地裏に足を運びました。
あまり良いことが無かった日はこうして歩いたことの無い道を散策しています。
何か新しいことを見つけたら、それで少し嬉しくなって気が紛れるんです。
…この日選んだ道は少し薄暗くて、奥まではよく見えませんでした。少しゴミが散らかっている様子を見る限り、あまり治安が良い道では無いようです。進めば進むほどむせそうな程に煙草の匂いがキツく濃くなっていき、次の曲がり角で何も無ければ引き返そうと思った時でした。
曲がり角の先に、ここら辺では珍しいとても大きな人影と、テラテラと光を反射する地面が見えました。
路地裏にいる大きな人影。どこか非日常的な雰囲気を醸し出す光景に目を奪われ、よく見ようと少し身を乗り出した途端、
鼻を突く鉄臭さ。
顔をしかめて咄嗟に角に身を引いてうずくまりました。吐き気と恐怖で身体に力が入りません。カタカタと震える足が意思に反して膝を折り、立ち上がれないのです。
身体は動かないのに、頭は嫌な方向に思考を加速させます。
光る地面は撒かれた液体が光を反射していたもの。じゃあその液体が何かという話になると、先程の鉄臭さと嫌でも結びついてしまいます。予想が正しければ、あれは血です。それも尋常じゃない量の。
大きな人影がこんな場所で血の海に佇んでいるのはどう考えても異常です。
『見つかれば私も殺される』
そう思い静かに地を這ってその場を立ち去ろうとしました。
ですが、すぐ後ろに見たこともない生き物が牙を向いて道を塞いでいたので出来ませんでした。
「ひ………」
思わず声が漏れてしまい、のけ反って尻もちをつきました。
カツカツと靴音を鳴らして大きな人影が路地の奥から近づいてきますが、私は上手く立ち上がることが出来ません。ぬらりと現れた人影は、黒い燕尾状のベストとスラックスを身にまとい、ベストの下のシャツに所々赤いシミを付けた大男です。
馬鹿でも分かります。これは非常にまずい状況です。
逃げ道は塞がれ、目の前には血の匂いがする通路と返り血が付いてる大男、私はと言えば怖くて声も出ず、ただただ腰を抜かすことしか出来ない。
詰みました。グッバイ、さよなら人生。
直近の良いことと言えば近所の野良猫をモフモフしたことぐらい。そんな平凡な人生でしたが、いざ終わるとなると少々名残惜しいものですね。
思考を明後日の方向に飛ばす私の腕を大男は強引に引っ張り、路地裏へと引き込みました。
そのまま流れるように路地の奥へと投げられて、未だ力が入らない私の身体は為す術なく地面を転がります。
唐突に強姦というワードが脳裏を過りました。なんの脈絡もなく浮かんだ言葉ですが、現状有り得ない状況ではありません。最悪です。強姦殺人ですか。その被害者に今から私がなるんですか。
「おや、やけに静かな人間ですね」
なんてことを考えていたら、大男が頭上から話しかけてきました。長い髪を後ろで一つにまとめていて、向かって左は長い前髪で顔半分を覆い隠している大男。
今のは返事をするべきなのでしょうか。したとして、なんて言えば?
「騒ぐようならすぐに殺そうかと思いましたが…」
平然と飛び出た物騒ワードを聞いて喉がこわばります。怖すぎて動悸が治まりません。視界も滲んできて正直もうまともに会話なんて出来ないですが、それでも構わずに男は話しかけてきます。
「そうですね、貴方は……いえ、」
何かを言おうとして止めた男は、視線をゆっくりと私から外し、手を顎に当てて考え込み始めました。
……逃げれますかね?不意をつけば、男の横の隙間から逃げれますかね??男が作った隙とも取れる時間、さっきの変な生き物さえ掻い潜れれば逃げきれるのでは?
私だって死にたくありません。
斜め後ろに視線だけをやり、右手と左手の無事を確認。地を転がった時に擦りむきまくってますし、制服も擦り切れてますが、動くなら無事です。
ついでに変な生き物が後ろにいないことも確認。
気取られないように僅かに両足も動かして、こわばりが解けてることを確認。立って走り出せるかは分かりませんが、動くならまあ大丈夫でしょう。
男はまだ何かを考えてるようで、恐る恐る見上げても目が合うことはありませんでした。
男の身体は若干通路の右側に寄っているので、通るなら左側です。
ゆっくり息を吸って、吐いて、もう一度吸って。
勢いよく立ち上がり身体を屈めて走り抜けます。
が、男の足がヌッと目の前に現れ、路地奥へ押し返すように力強く蹴られました。
重く苦しい鈍痛。瞬間地に伏せる身体は呼吸もままなりません。
どこを蹴られた?わからない。顔より下、足より上ということしかわからない。
鈍痛が胴を支配し、蹴られていないはずの背中にまで痛みが突き抜けます。
いや、そうか、蹴られて吹き飛ばされて、背中から着地したのかもしれない。
強い衝撃の後に激痛が走って、訳も分からず地に伏せて、遅れてやってきた鈍痛に耐えかねて呻く現状。ヒューヒューと喉から音が漏れます。
「へぇ、逃げれると思ったんですね」
吐きそうな程の痛みに霞がかる意識の中、楽しそうな男の声が響きます。痛い。
「でも、そういう愚かさは嫌いじゃないですよ」
痛い。痛い。
痛くて、もう、私にはよく分かりません。
苦しい。
楽になりたい。
どうせ殺すなら、早くして。
早く。
恐怖で心臓が痛いんです。鈍痛が骨にも胃腸にも肺にも響くんです。
話しかけられても分からないから、早く。
痛みで朦朧とする意識と抑えが効かない底無しの恐怖に思考が麻痺します。
「……そうですね」
………何か、左手に…?
時間経過で多少痛みが和らいできました。呼吸が一定のリズムで行えることで霞がかかっていた周りの景色が輪郭を帯びてきます。
少し明瞭になってきた視界が捉えたのは私の左手と、しゃがんで私に何かを握らせる男の姿。
…なんでしょう、これ。
そっと手を開いて確認すれば、オシャレな紐が見えました。水色と、白色と、紺色の糸で編まれた紐。何か特殊な素材でも使われてるのか、角度を変えるとキラキラ光ります。ミサンガ…?
「それを肌身離さずつけててください。外したら分かりますから」
なんだろう…分からない…。何が言いたいんだろう。つけたらどうでつけなかったらどうなの?今ここで殺すんじゃないの?
「ああ、まだ身体が動かないんですか?これは失礼。…人間相手への手加減は難しいですね」
ぽそりと呟く男は私の手から紐をつまみ上げ、ちゃちゃっと手首に結びつけました。
「死にたくないなら外さないようにしてくださいね。それを着けてる間は見逃してあげます」
本当に、この人なんなんでしょう。血の海に立ってたり軽々しく殺そう発言したり容赦なく蹴りを入れて動けなくしたかと思えばやっぱ見逃すと言ってみたり。
だいぶん痛みが薄れ、のそりと上半身を起こします。本当はまだ動きたくないのですが、知らない人の前でいつまでも横たわっているのはやっぱり居心地が悪くて。
「逆に、ミサンガに何かあれば、猶予は終わりということで。貴方を食べますから、せいぜい大事にしてくださいね?」
日常生活で到底耳にしないような組み合わせの言葉が引っかかりました。
食べる?私を?
怖い狼さんが食べちゃうぞとかそういう恋愛漫画の比喩ではなく?
「質問は?」
私の顔を見て男はニコリと微笑みました。
え、質問。質問が許される?いや、聞きたいことは沢山ありますが、どれから聞くべきですか。
えっと
えーーーと
「…食べるって物理的にですか」
先程まで考えていたことが口を突いて出ました。
いや、あの、違う。そうじゃない、他に聞くべきことは沢山あって、あの
「そこですか」
然しもの男もそんなことを聞いてくるかといったような雰囲気です。
「ええ、物理的にですよ。説明するよりも見せた方が早いですかね?」
ゾッとする不穏な言葉と雰囲気と共に、私の方に手を伸ばしてきます。
咄嗟に払いのけようとしますが私の力ではビクともしなくて、階段の手すりに腕をぶつけたかのような手応えでした。
ぶつかった私の左手をちょうどいいとでも言うかのように男の手が掴みます。
ピリピリとする不安感は一気に危険を知らせる警鐘へ。
弧を描く男の口がおもむろに開きます。
「や、やだ、やめ、ッ~~っぁ…」
拒絶も気にせず、男が私の手を噛みました。
手に何かが深々と突き刺さっている感覚がします。きっと男の歯ですが、確認する余裕も度胸もありません。一瞬の鋭い痛みの後は熱を帯びるようなジンジンとした痛みが広がります。
もうわけも分からず空いてる右手で殴りつけようとしましたが簡単に払い落とされてしまいました。
ギリリとさらに強い力で噛まれて声が漏れそうになりますが、先程の男の発言が脳裏をかすめ
『騒ぐようならすぐに殺そうかと思いましたが…』
グッとこらえます。
目を瞑ってひたすら痛みに耐えます。
男の言葉がどれだけ信頼できるかなんて考えていられません。
嘘でも、本当でも、私に抗う術はありません。藁にすがる思いで男の言葉が真であることを願うしかないんです。
目を閉じた暗闇の中、痛みを紛らわせようと他のことを考えていたらフッと手の圧迫感が消えました。
恐る恐る目を開けて男の方を見れば、男の口から解放され、流血している私の手が映ります。
「…分かって貰えましたかね?」
ニコリと微笑む男。
分かるとか分からないとか置いといて、もう痛い目に逢いたくない私はとにかく首を縦に振ります。
掴まれていた手首も離されて、素早く引っ込めます。
流血だけ、指も5本揃ってるし、痛みはあれど違和感なく動く、傷はわりと深いけど犬猫に噛まれた時と感覚はそう変わらない。
特にどこか齧り取られた訳でも無く、噛まれた手は無事でした。
「で、他に質問は?無いなら私は帰りますが」
男の言葉を聞いて、私は涙で潤む目をパチクリさせます。
この人、どうやら本当に私を逃がしてくれるみたいです。
「ま、って、ミサンガって足首に付け替えちゃダメですか」
立ち上がってさっさと去ろうとする男に呼びかけます。
「ああ、付け替えるなら今のうちにしてください。私がいない場所での付け替えは当然許しませんから、」
その先の言葉を男は言いませんでしたが、親指を首前で横に引くジェスチャーが物語ってました。
今日だけで何度目の死の宣告でしょうか。
男の気が180度変わらないうちに早くここを去りたくて、片手で紐を外そうと試みますがかなりしっかりと結ばれてるみたいで、結び目が緩む気配が見えません。
焦れば焦るほど軋む身体と痛みと血と汗とで指先に思うように力が入らず、紐との格闘時間が伸びていきます。
とうとう痺れを切らした男が再びしゃがんで私の左手を取ります。
無言でミサンガを解き、
「足を出してください」
と言って、手際よく結びつけました。
その間も男の口はずっと弧を描いていて、まるで笑みを貼り付けているかのような表情に少しゾッとしました。
「では、これで。少しでも長く生きながらえれると良いですね」
嘲笑うような言葉と共に気味の悪い笑みを浮かべたかと思えば、星空のように瞬く影が男を飲み込みました。
影が鎮まれば、男は姿を消していて、今までのやり取りが全て嘘だったのではないかと疑うほどに周囲は静けさを取り戻していました。
でも、噛まれたところは未だ血が止まらないし、蹴られた付近は痺れるような痛みが尾を引いてます。左足にはチラチラと控えめに光るミサンガも。
さっきの出来事はどうしようもない現実らしく、私は深く溜息をつきました。
「ここから家に帰るのかぁ…」
緊張の糸も緩み、棚上げしていた疲労感がどっと押し寄せてきて、アスファルトに寝転がりました。
ここまでボロボロなら少しくらい地面に寝転がってもバチは当たらないでしょう。
ああ、ほんと、散歩なんてしなきゃ良かった。とんだ厄日です。
血の香る路地裏なんて金輪際見たくな…………あれ?
覚えた違和感に勢いよく身体を起こします。
最初は液体でテラテラと光っていた地面のはずなのですが、その液体がありません。
私の制服も盛大に濡れてる様子は無くて、最初から液体なんて無かったかのよう。
他に何か痕跡が無いかと左右の壁沿いをキョロキョロと見回します。
よくよく見れば壁に赤いものが飛び散った跡があります。
触ってみればまだ乾いていなかったようで、指先に赤い液体が付きました。
これが何かを突き詰めるつもりはありません。ただ、私が見た血濡れた路地裏は夢でも幻覚でも無かった可能性は十分にあることと、幻覚でなかった場合にあの量の液体をどうにかして隠蔽する術が男にあるということが分かりました。
謎の生き物と言い、去り方と言い、液体の件と言い、まるで人じゃないような…
…人じゃないのかもしれません。
男がぽそりと呟いた言葉、
『人間相手への手加減は難しいですね』
人じゃないならこの言い方も納得できます。
人外ならば、ミサンガを外したら検知できるというのも説得力があるわけで、つまりこれは首輪を付けられたようなものではないでしょうか。
…
ここで考えていても仕方ありません。
薄暗い路地裏で夜を迎えるつもりは毛頭ありませんので。
痛む身体を震い立たせて、ボロボロの制服をはたいて砂埃を落とします。
親にどう言い訳しようなんて考えながら、元来た道に戻って、今度こそは寄り道をせずに真っ直ぐ家へと帰りました。