共に自分で動くことすらままならず、質素なベッドに横たわる年老いた女性に、若々しくガタイのいい男が話しかける。
「俺についてこい。ああ、もちろんお前に拒否権は無いぞ。逃がしはしない。その魂がすり減り消滅するまで俺と共にあれ。俺はお前が気に入った」
男の姿は女性の血縁者と言うにはあまりに整った目鼻立ちと身だしなみ、若さ、恵まれた体躯をしていた。特に年齢に関しては、息子と言うには若すぎて、孫というには歳を食いすぎている。
どこの王侯貴族だと言いたくなるような偉そうな言葉選びをする男。
非日常的に映る男と女性のやり取りは、暖かな陽射しが差し込む午後の寝室で静かに繰り広げられる。
男がベッドの横に置かれた古びた椅子に腰をかける。椅子はギシリと苦しそうに鳴るが男は気にも止めない。
白く濁った虚ろな瞳がゆっくりと男に向けられる。見ているのか見ていないのか、男の輪郭を掴むことすら難しいその目は、それでも嬉しそうに目を細める。
「お前が好きなんだ」
男が呟き、布に広がる女性の真っ白な髪を一束掬い上げる。躊躇うことなく女性の髪に口付けを落とした男に、女性の深くシワが刻まれた手が伸びる。
男の暗く深い青緑の髪をサラリと撫でる。窓辺の光に照らされて髪は淡く輝く。
しかし、男の髪質から想定されるハイライトは頭の上部に存在しない。代わりにあるのは鳥の、それもカラスの羽根を思わせる漆黒の模様。
「どうした。何か言いたいのか」
ズイと顔をさらに女性に近づける。ぼんやりとした影が濃く大きくなったのを確認して、掠れた声で女性が言葉を口にする。
「…ついていくわ。…どこまででも」
時折外の小鳥の声が響くだけの静かな部屋でも、耳を澄まさなければ聞き取れないほどに不明瞭で小さな声、だがそこには確固たる意志があった。
男が切れ長の美しい赤眼を丸くしたのも数瞬、フッと笑みが零れる。
感情の勢いのまま高笑いが漏れそうになって、グッと堪える。代わりにクツクツと体を揺らして静かに笑う。
「あぁ、……あぁ…!」
普段よりも控えめの感嘆と歓喜。女性の身体が万全の体調ならば今にも抱きしめていただろう。
「行こう。俺の城に招いてやる。客人としてだ。先に帰ったアシュリーも待っている」
女性の手を取り、喜色満面の声色を隠さず語る。
「姿形はある程度どうにでもなる。お前にとってもあちらは苦しくないだろう」
「他の悪魔など気にするな。序列持ちの名にかけて俺が手出しさせな…」
饒舌になる男に再度手を伸ばして言葉を遮る女性。
その仕草に耳を傾けるように男も言葉を止める。
言葉の無いやり取りでさえもスムーズに進む様は、長い時を共に過ごした愛し合う人間の伴侶のようだった。
「……ありがとう、優しい人」
時が止まる。
男は丸くした目を丸くしたまま、目の前でフッと微笑む老女をただ眺める。
次にかける言葉を探す男を他所に女性は静かに目を閉じる。そのままスヤスヤと寝息を立て始めた彼女を見て、男は呟く。
「…行こうか。まだ話し足りない。死なせるには惜しい」
ともすれば今にも息が止まってしまいそうなほど弱々しい彼女に、男は音も無く口を重ねる。
次に男が顔を上げた時には彼女の息は止まっていて、椅子を鳴らして男は立ち上がる。
少し離れた机の上に置いてあった古びた十字架のペンダントを片手に掴む。女性が後生大事に持っていたものだ。窓から差し込む柔らかな光に背を向けて、光に包まれている愛する人の抜け殻を一瞥し、天使の羽根を数枚落として男はその場から消え去った。