墓前で笑う小学生のころ、近所に住んでいた年上の男と仲が良かった。お菓子をくれたり、ゲームをさせてくれたり、それなりによくしてもらっていたから、それなりに好きだった。
「……あおいくん」
日の巡りが悪かった。女みたいな顔が悪かった。油断したのが悪かった。腐った果実みたいな声で己の名を呼ぶ男の声を、理解できるほど大人じゃなかった。理解できないように、作られていた。その日泣きながら扉を蹴破って見た世界は、恐ろしいほどに敵だらけになっていた。
「あおいくんは綺麗な顔だからねぇ」
己のことをよく知らぬ他人がそんなことを宣う。理解ができなかった。自分の身は自分で守らなきゃダメなんだと笑うそいつらが、同じ人間だとは到底思えなかったのだ。気づけば町から姿を消していた男も、心配しているような顔をして優しい言葉で己のことを責め立てる人々も、全てがただただ恐ろしい世界に、矢野は気づけば一人で立たされていた。顔が綺麗なことが加害を正当化する世界は、どうしようもなく、怖い。
あと何度呼吸をすれば、終わりが来るのだろうかと、そんなことばかりを考えていた。来る日々をただゴミ箱に吐き捨てて、母から出される食事をただただ胃に押し込んで、目を閉じて朝を待つ。笑えるくらいに空虚な人生を早く終われと浪費して、失意の末に世界を窓越しにしか見なくなって。でもそんな生活をしていても特に寿命は縮まらないから、いつしか偶然が己を殺すことだけを期待して、ふらふらと学び舎に行くことなく、ただ近所の古墳の上に作られた公園を歩いて残り心拍数をすり減らすことに躍起になっていた。
「なあ」
ちょっと話いいか、と隣に座ってくる青年は、なんというか変わっていた。しばらく使っていない声帯を無理にこじ開けて絞り出した拒絶の声にも、一つも嫌な顔をせずに「そっか」と笑うだけで本当に何も言わないままに空を眺めているのだ。そうして時折、やってくる別の利用者を見ては話しかけたり、時には彼らの行楽の手助けをしたりする。そんな姿を文庫本の小さな世界の外でずっと繰り返されれば、いくら人間嫌いの矢野と言えど、気にならぬわけがなかった。
「……なんですか」
「えっ?」
「話って、なに」
ある日小さな子供の膝小僧に絆創膏を貼ってから、またベンチに戻ってきた男におもむろにそう尋ねてみた。あまりに遅すぎる疑問に男はぱちくりとその瞳を瞬かせると、堪えきれないと言わんばかりに声をあげて笑う。何が面白いんだ、と矢野が不愉快に思いきり眉をしかめると、男はごめんな、と手をひらひら振って侮辱の意味はないことを伝える。
「少し気になっただけなんだ。いつもここに居たから」
「……それは、俺が、こんな見た目だから?」
口をついて出た言葉だった。自惚れともとれる台詞で、矢野もそれを口にした後すぐにそれを理解してばつの悪そうな顔をしてしまう。それでも、本心から出た言葉だった。いつだって己の人生で起きる特別なイベントは、すべてこの容姿に起因するものなのだとずっと思っていたから。男はその言葉を聞いていくらか意外そうな顔をしてから、静かに首を横に振って笑みを浮かべる。気になってたっていうか、別にここにいたのが君じゃなくても、多分俺は同じことをしていたんだ。そう理屈が通っているのだかいないのだかわからない表現で、男は矢野を否定した。
「俺は人が好きだから、つい声をかけたくなっただけでさ」
「……人が好き、とか」
「理解できないか」
「……」
黙って頷く姿に、男は「そうだよな」とだけ言って黙る。それからいまいち頭に入ってこない文庫本のページを矢野が数度繰ってから、ふと、俺もわかんないんだ、と肩の力を抜くように笑った。なにそれ、と思わず呆れた声を出す矢野に、男は悪いなと上を向く。矢野こそ男のことがよくわからなかった。ここにずっといる意味も、自分に話しかける意義も、やってくる見ず知らずの他人を助ける意図も。フィールドワークと書かれたノートには整った文字がみな違う方向から書き込まれている。それが彼の人格のちぐはぐさを表しているようで、気味が悪いとすら思っていた。
「理解できないのがさ、好きなんだ」
「……理解できないもんは怖いでしょ」
「怖さの先にあるのはきっと、優しさとか、温もりなんだと思うとさ。なんかこう……いい、ってならないか?」
「なるわけないだろ」
「あはは、ならないか」
でも俺はなるんだ。だから人間が好きで、目の前にいる君が気になったんだよ。滔々と語る彼を、不快だとは思わなかった。ただただ、自分とは違うと思った。矢野はその日から、やってくる彼の話を拒むことはしなかった。
人が死ぬのは一瞬なのだと知った。人が死ぬのに理由などないのだと知った。博愛というのは、時として人間すら殺すのだと、知った。
「……相変わらず、綺麗なことで」
いつ来ても美しい死に花が添えられ、手垢のついた好意で以て綺麗に手入れされているその墓は、何度見ても薄気味悪く、理解ができないと思う。なんだかそれは死んだことによって彼を英雄化しているような、正当化しているような、そんな不気味さがあったのだ。墓の前にしゃがみ込んで、はあーと大きく膝に向かって息をつく。彼との対話だけが、矢野にとって唯一、彼ではない自分が存在している時間だった。
「大変なことになりました」
世界を救って、世界に嫌われて、それでも人生は続くらしい。終わればよかったのに、と思わなかったわけではなかった。終わったとしても、自分はそれを受け入れるつもりだった。それでもそれをしなかったのは、同行者までそんな希死念慮に付き合わせるわけにはいかなかったのと、きっと目の前の男ならそんなことは選ばないだろうという陳腐な仮定でしかない。それだけでなく、今までの行動、すべて。線香の煙に交じって一つ、ニコチンの混ざった紫煙を燻らす。坂井の前で吸うと露骨に嫌そうな顔をするものだから、長いこと忘れていた味だ。もうしばらく、禁煙はできそうにもない。
「俺は、これでいいんですかね」
矢野葵は自己犠牲に夢を見ない。それは時として悪だとすら思う。行き過ぎた献身は、与える側も、与えられる側も、その身を亡ぼすのだ。ましてやそれが見知らぬ他人に向けられるのなら、なおのこと。あの日彼に助けられた子供は、今どこで何をしているのだろうか。もうきっと、高校生くらいにはなっていて、幸せになっているのだろうか。幸せであればいいと思った。きっと彼は、それを望んでいるから。……不幸であればいいと思った。それを自分は、望んでしまっているから。
(……俺は、ひどい人間だ)
こんなことを彼には思っているくせに、自分もまた彼をなぞっている。彼をなぞって、半ば命を投げ出す形で他人を助けたのだ。自己正当化が上手なことで。矢野は煙草のフィルタを噛んで、その苦みに笑う。矢野には人間愛すら存在していない。むしろどうしようもなく嫌いで、そんな彼らを助けんとしたのだって、所詮模倣の感情だ。それでも、人は自分に感謝する。異形の姿になったときの、あの光景を矢野はただただ悲しく思った。自分はそんな、そんな人間ではないのに。
「まあでも、それなりにちゃんとは生きていくんで」
ちゃんと、見ていてください。俯いていた顔をもたげて笑みを浮かべれば、それはいつもの矢野の様相に戻る。矢野葵のものじゃない、作り物の姿だ。