Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    dentyuyade

    @dentyuyade

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 34

    dentyuyade

    ☆quiet follow

    矢野葵と坂井克樹の今の話。

    いつか幽霊になる朝起きて、嗚呼ダメだと思った。それは突発的な衝動であって、緩やかに首を絞めてくる破壊衝動でもある。自分はこの空間に存在していることに慣れすぎてしまったのだと、これ以上ここにいてはいけないのだと、何かが自分を責め立てている感覚。それがじっと、己の臓腑のさらに奥から湧き上がってくるのだ。何度目だろうか。いつも黙って出ていくのも、懲りずに帰ってくるのも、そろそろ終わりにしなくてはならない。
    「……」
    鏡を見る。成熟した大人の体がそこに映っている。気づけばあの人の歳をとうに越していて、それでもなぜだか生きている。まったくあの人に似ていない自分。心も体も、どれほど似せようとしたってあの人にはなれない。そのことを考えれば考えるほど自分が嫌になって、惨めになる。早く、消えたくなる。それでも死は選べない。その加害性をよく知っているから、周囲の人間にそんなものを行使したくはないのだ。
    (それもまあ、尤もらしいだけの言い訳だな)
    朝食の匂いがする。米が炊けるのと、あとは多分出汁の匂い。勝手に胃が一人でに跳ねて大きくため息をつく。あと少しすれば世話焼きな同居人は自分を起こしに来てくれるのだろう。彼の前で仏頂面が許されるようになってから久しいが、それもまた良くないと思った。自分の中で彼がどんどん大きい存在になっていく。彼の中では、どうなのだろう。まだ厄介で面倒くさい居候だと思っていてくれているだろうか。有象無象の一人でいいと思っているはずなのに、自分のような人間に懲りずに構い続ける彼に期待をしてしまうのは、甘えてしまうのは、間違いなく罪だった。何を増長しているのだろうか。彼はただ面倒見がいいだけで、それは自分じゃなくてもいいはずなのだ。自分はせいぜい従業員として大切にされているだけ。そうでなくては、困るのだ。
    (……代わりを立てるか)
    自分がいなくなっても大丈夫なようにしてからこの家を出よう。矢野葵という薄っぺらい存在を埋められる何かを育成しなくてはならない。どれほど時間があれば足りるだろうか。頭の中で一つ一つ算段を立てていく。周りの人間たちから己という存在を殺すための計画だ。


    「あっ! ユーレイのお兄さん!」
    「人違いじゃないっすかね……」
    「いや、間違えませんよ! さすがにこの顔は忘れません!」
    「え、なに。知り合いなの」
    新しくバイトを雇うようにせがんだのは矢野だ。坂井の副業で書いている小説が売れ始め、店頭に立てる時間がこれから徐々に減っていくと思うだとか、そんなことを適当に話した記憶がある。だから店頭にバイト募集の紙を小さく貼ってもらったのだが、まさか知った顔が出てくるとは。それも、稀有な出会いのほうの。
    「君に女子高生の知り合いがいるとは知らなかったな」
    「あっそっか。もう高校生なのか」
    「そうですそうです。……っていうか」
    名前あるんですね、としげしげ胸につけられたネームプレートを眺めて言う。その身を屈める動作に少しぎょっとした。まだ身長が伸びているのか。いや、高校生なのだから当たり前なのだろうけれど。隣り合っている坂井と見比べてもさして変わらない背丈に何とも言えない気持ちになる。その視線に気が付いたのか坂井もまた微妙な顔をして、それから呆れたように「君たちはどういう関係なんだ」と尋ねた。
    「いや、なんか……その」
    「僕の父さんの知り合いなんです」
    「名前も知らなかったのにかい」
    「……まあその、色々あるんすわ」
    「あっ未成年淫行とかではないです!」
    ぶんぶんと手を振って必死に否定する少女に、勘弁してくれよと思う。別にそんなこと誰も思わないから、と呆れ交じりに咎めると、坂井はくすくす笑っていた。何をそんなに面白がることがあるのか。既に若干疲れてきた矢野に「仲がいいんだな」と彼は笑う。いや、仲は良くないです。即座に否定してみせると、今度は違う方向から「えー!」と悲鳴が上がった。背は変わっても喧しいのは相変わらずらしい。
    「えっと、じゃあ綾瀬君は矢野君にしばらく仕事は教えてもらってくれ。そんなに難しいことはないはずだから」
    「あっはい! よろしくお願いします!」
    「……はーい」
    微妙な顔でうだつの上がらない返事をする。坂井はそれに満足げな顔で頷くと、「よろしく頼むよ」と肩を叩いてその場を後にした。綾瀬と矢野だけが取り残された場に、一つため息を落とす。じいと自分を見上げてくる瞳は、自分のものより幾分か低いだけだ。苦手だなぁと思う。今の自分は後ろめたい思惑を抱えているから、余計に。
    「……矢野さん、であってます?」
    「逆に他になんて読むんだよ」
    「それはそうなんですけど」
    なんか、改めて名前を知ってもしっくりこないなぁって。そういう綾瀬に以前名前を教えなかったのはわざとだった。単純に、もう二度と会わないと思っていたのだ。あの場限りで成り立つ関係性であったわけだし、そもそも向こうは自分を人間だとも思っていなかったわけで。だから訂正することもなく『ユーレイさん』と舌足らずに呼ばれることに甘んじていた。いたのだが。
    「……さすがにもうユーレイさんとは呼ぶなよ」
    「わ、わかってますよ! 僕だってそのくらいの常識はあります!」
    「絶対ないと思う」
    「し、失礼なぁ! 僕だってもう高校生なんですから」
    そのくらいの分別はあると言いたいらしいが、到底そうは見えなかった。矢野の中では綾瀬は未だに中学生の認識からいまいち変わっていない。長い時間のブランクがあるからというわけでもなく、単純に今接した限りまったく成長していなさそうだったからだ。こいつに本当に仕事とかできるんだろうか、と一抹の不安が矢野の胸によぎる。そう、これから自分はこの少女を教育しなければならない。自分の代わりに仕事がこなせるように。……自分の代わりに、坂井克樹に大事にされるように。
    「まあ腐っても知り合いだし、厳しくいくからな」
    「えっ!? やですよぉ、手心加えてください」
    「お、難しい言葉知ってるじゃん」
    「馬鹿にしてますね?」
    相変わらず意地悪だ、と唇を尖らせて不満そうにする。そういう子供らしい拗ね方をするから揶揄われるんだぞ、とは言わなかった。


    「おっ、キッズ頑張っとるやんけ」
    「誰がキッズですか失礼な」
    「その本、その棚じゃない」
    「えっ!?」
    「……しっかりいびられとるなぁ」
    必死にメモと本と棚を見比べながら陳列を進めている綾瀬に、本川は感心したように声を上げる。暇つぶしに漫画を見に来たらしいが、それよりも彼女のほうが面白そうだから構っているらしかった。別にいびってるつもりはないんすけどね、と笑ってやれば彼は若干引いたように「いやいつものお前よりもトゲはあるやろ」と一蹴される。どちらかといえば矢野からすればトゲのあるほうが素なのだが。そんなことは口が裂けても言えない。明るい人間でいたいからそうしているのだ。綾瀬は今の会話を聞いていたのか、得意げな顔をして「矢野さんは外面がいいからなぁ」と嘯く。文句を言う前に本川がひどく興味深げな顔をして「そうなん?」と深堀しようとするので、いよいよ口を挟む間がなくなった。
    「そうですよ! 僕とか坂井さん相手にはいっつもムスッとした顔で……」
    「仕事足りない感じっすか? まだまだあるんで遠慮しないでくださいねー」
    「げっ、パワハラ! パワハラですよそれは!」
    「職場で喧嘩すなや」
    矢野が自分で仕分けしようとしていた本の山を押し付けるようにして見せると、途端にわたわたと体の前で手をじたばたさせて反抗する。その姿にてっきり本川は呆れているのかと思ったが、ちらと隣のその顔を覗き見る限り、そうでもないようだった。複雑そうな顔をして綾瀬のことを眺めるその目。気になってじっと見ていると、本川もまたふっとこちらを向いて、それから一気に怪訝な顔にいなった。なんやねん、と探るような顔つきに、矢野は「そっちこそ」と軽く笑う。
    「なんかしてたでしょ、微妙な顔」
    「……してた? そんな顔」
    「うん。なんかめっちゃ、複雑そーな顔」
    「あー……」
    まあ、ふーんとは思っとったかも。そうバツの悪そうな顔をしてごにょごにょと零す本川に、なんだそれと思う。綾瀬は自分がターゲットから外れたことを察知して黙って仕事に打ち込み始めていた。死ぬ気で頭を使っているのだろうから多分今はこちらの話は聞こえていないだろう。本川もそれをわかっているから、少し声を潜めるだけで席を外そうとはしない。
    「別にええねんで。俺らの前でもムスッとした顔してくれて」
    「えー、やですよ。そういうのじゃないし」
    「まあそういうやろうなとは思ったけど」
    「わかってんなら言わないでください」
    「こういうんは、口に出すことが大事やから」
    そう言ってニッと笑うと改めて綾瀬にちょっかいをかけ始める。しゃあないから気のいい兄ちゃんが手伝ったろ。そう言ってうきうきと袖を捲っては品出しを手伝わんとするその姿を見て、そういえば彼がここで手伝いをしたのも一度や二度じゃないのだったな、と思い出した。いつも長期休みのたびに日雇いだとか、完全なボランティアだとかで働いていた。そう思うとこの男との付き合いも、感じていたよりもずっと長いものだとわかる。まったく実感がなかった。それは、時間が過ぎるのがあんまりにも早かったから。昔はあんなに一日が早く終わることを祈っていたのに、皮肉なものだ。
    (やっぱりダメだな)
    早くここを離れなくちゃいけない。離れがたくなればなるほど、苦しむのは己のほうだ。


    矢野葵の部屋には物がない。それは学生時代からずっと変わらずそうで、それは別段綺麗好きだからというわけでもなく、単純に物欲がない人間だからである。だからどこに住んでいようと対して見栄えも変わらない。最低限の家具と、本と、ベッドか万年床が敷かれているだけである。その中にゲーム機なんてものがあるのは、偏に気まぐれの結果でしかなかった。
    「いや、譲ってもらえるのは嬉しいけれど、なんで?」
    「えー、だってこれもう笠田君専用機だし」
    「まあそれはそうなんだけどさ」
    出会ったばかりのころ、笠田がふと自分が唯一知っているゲーム機の名前を零したのが、嫌に印象に残ったのだ。真面目そうに見える男が実はゲームのことばかり考えているというギャップが手伝ったのかもしれない。本当に数年ぶりに自分から実家に連絡を取って送って、自分の部屋で埃を被っていたそれを送ってもらった。昔部屋に引きこもってばかりだった少年のせめてもの楽しみにと買われたそれは、当時ほとんど遊ばなかった代わりに今こうして彼に大切にされている。笠田は少し困ったような顔をして、ゲーム機と矢野の顔を見比べると、「なんで今なの?」と聞いた。
    「いや、目についたんで」
    「君の部屋なら常に目に付くだろあんなの」
    「慣れって怖いっすよね」
    「慣れとかじゃないから」
    つべこべ言わずに貰えるものは貰っておけばいいのに、と思う。それでも笠田は不安げな顔のまま旧型機を抱えて矢野が何か言うのを待っていた。ほんと、遠慮しなくてもいいっすよ、と笑う。別にさして思い入れのあるものでもないし、家を出るにあたってこれはさすがに持っていけないから引き取ってもらいたいだけなのだ。
    「何かあった?」
    「いや、ないですけど」
    「本当に?」
    「しつこいなぁ」
    「ごめん。でも……」
    そこまで言って笠田は口元を軽く手の甲で押さえると、少しだけ視線を迷わせた。なに、と冷たくなってしまった声で尋ねると、観念したようにゆっくりと「君の事情に立ち入るつもりはないんだけど」と前置きする。君を見ていると、不安になる。前のこともあったから、また勝手にどこかに行くんじゃないかって。そんなことを言う彼に、思わず反射的に言い返した。別に責め立てるつもりはなかった。否、本当はそんなつもりだったのかもしれない。
    「笠田君は、俺が勝手にどこかに行ったら、困るの?」
    「……まあ、困らないけれどね」
    「じゃあいいでしょう」
    「そうだね。僕には関係ないことだ」
    思っていたよりもずっとあっさり引き下がられて面食らう。なんて身勝手な思考だろうか。心配されたかったのだとしたら自分はずっと面倒で、嫌な男だ。そんなことをぐるぐると考えてしまう。顔には出ていないだろうが、押し黙って動揺している矢野に向かって、笠田は小さく微笑んで「でもね」と照れ臭そうに俯いた。
    「それでもやっぱり寂しいよ。友人が何も言わずにいなくなってしまうのは」
    「そう、ですか」
    「うん。寂しいし、心配になる」
    「相変わらずお人よしだなぁ」
    「そんなんじゃないよ、僕は」
    現に今、このゲーム機でやりたいソフトのことばかり考えている。そう真面目な顔で語るものだから、矢野は思わず呆れて笑ってしまう。なんなんだこいつ。そう思っても口には出さないけれど、こういう変なところが彼の魅力だと思う。別にそんなに気を取られるなら、本気でもらってくれていいんですよ。そう後押ししても、笠田は改めて首を横に振るだけだった。いらないよ、とはっきり言って、そのそこそこ重量のある機械を矢野に押し返す。
    「悪いけど僕の家は他の機器でいっぱいなんだ。だから、これはここに置いておいてくれ」
    「うぇー、そんな人の家を物置みたいに。先生に怒られますよ」
    「坂井さんのあれは本気で怒ってるわけじゃないから」
    「舐めてるなぁ、ほんと」
    突き返されたゲーム機を、仕方なしにまた部屋の隅へと戻す。相変わらずそこだけ浮いていて見栄えが悪い。どうせならリビングのテレビにずっと繋げておいてよ、と言う笠田に何を勝手なことを、と唇を尖らせる。そんなに頻繁に遊ぶわけでもないのにずっと繋げっぱなしなのも悪いから、必要があるときにだけわざわざ出しているのだ。最も、ほとんど笠田が勝手に出しているわけだけれど。
    「君もやったら? 今度何かソフト買いに行こうよ」
    「もうこんな旧型機のソフトなんか売ってないでしょ」
    「売ってる売ってる。すごい安いし」
    「……まあ、考えときます」
    みんなでやれるパーティーゲームを買ってもいいかもな、といろいろ楽しそうに思案する笠田に、矢野は一人で憂鬱になる。どんどん重たくなっていく。気も、繋がりも。


    「こんにちは、光源氏さん」
    「なんすかその微妙な悪口」
    「まだ悪口と決まったわけじゃないでしょう」
    いつも通り本を物色しに来たのかと思ったら、珍しく矢野のほうへと直行してきて開口一番にこれ。矢野は平山という男がよくわからない。いや、わかりたいとも思わないのだけれど。バックヤードで値札貼りを黙々としていた矢野は、突然の青天の霹靂に小さくため息をついた。どうしたの、今日は。一つ下の同級生にそうわざとらしく語り掛けると、平山は別段表情を変えることもなく、「本川さんたちが噂してたので」と答えた。
    「噂?」
    「そう。なんか新人教育してるんですって?」
    「あぁ、まあ。……えっもしかしてそれで光源氏って言いたいんすか」
    別に若紫みたく好みに育てる気とか一切ないんすけど、と普通に弁明してしまう矢野に、平山は「そりゃああったら問題ですからね」と真面目に答える。そっすね、と適当に返事をしながら黙って作業を続けていると、平山もまたその手元をじっと見るだけで何も言わない。本当に何をしに来たんだ、と思わず訝しんで目を盗み見た。レンズの向こうで何を考えているのか。矢野はそこまで考えたことがない。彼のことがずっと、少しだけ苦手だった。見透かされているような気持ちになるから。薄い唇がゆっくりと開かれて、それでも視線はかみ合わない。
    「様子がおかしいんですって?」
    「……誰の?」
    「貴方の」
    「いや、別に……おかしくないすけど」
    「ふうん」
    そう興味なさげに呟くとすぐに、平山は机上に散らばった本を物色し始めた。矢野だけ勝手に不可解な気分にさせられたようで、なんだか腑に落ちない。けれども、下手に話を蒸し返してさらに腹の底を探られるのも嫌だった。周囲は自分を得体の知れない人間のように扱うが、矢野は別にそこまで飛んでいる人間じゃないのだ。おかしくなれないのだ、自分は。
    「……暇なら、手伝う?」
    「いや、大丈夫です」
    「そう」
    「仕事、忙しいんですか?」
    「別に」
    短文の応酬がじんわりと続く。どうにも調子が狂って仕方がなかった。彼の言う通り、本当は様子がおかしいのかもしれない。いつもなら苦手な平山相手だって上手くいなせるのに。適当に、へらへらと笑っていられるのに。目の前で眼鏡を傾けながらぱらぱらとよく知られた名作を読んでいるその姿に、一つため息をつく。矢野はその作者のことを、痛いほどよく知っている。どうしようもなく何者になりたくて、本当になってしまった人。その綴られた恥の多い生涯を眺めながら、平山はちらりともこちらを見ずに話しかけてくる。
    「バイトの人、優秀ですよね」
    「……まあ」
    「もうすっかり一人で店番ができるようになっている」
    「そう、教えたんで」
    「それに対して貴方が極力自分が店頭に立たなくなっているのは、どうしてです?」
    息を吞んですぐ、誤魔化すようにため息を一つついた。
    「一人で何とかなるなら、俺が立つ必要はないでしょ」
    「もう一人雇うの、貴方が提案したんですってね」
    「……何が言いたいんすか」
    何だかまるで誘導尋問のようで気分が悪いですよ。そう文句を言って元々合わない視線をさらに逸らしてしまう。平山はどんな顔をしているのか、「それはいつもの貴方でしょう」と軽々しく言ってのけると、偉大なるコメディアンの本を音を立ててぱたりと閉じた。真似、と思わず復唱する。いつもの自分はこんな感じだっただろうか? そも、いつもの自分とは何なのか。芯も通らぬ、吹けば飛ぶような軽いアイデンティティの男のくせに。口元を軽く覆って、無理に口角を上げる。どういうことです、と問い返す声は、いつもの矢野葵たるものだろうか。
    「貴方はいつも、自分の中で予めすべての答えを出している」
    「……それで?」
    「今の貴方の見解を聞きたいと思っただけです」
    回りくどい聞き方はやっぱり上手くいきませんね。そういうと、平山はひらりと手を机の上に広げて、ゆらゆらと落ち着かなさげに擦り合わせる。見解、とか言われても困る。そう言い訳するように呟いても、平山は追及をやめる気はさらさらなさそうだった。軽く上睫越しに彼を見る。どうせ、次にとる行動はもう決まっているのだろうと、値踏みするような、その目。
    「聞かせてもらいましょうか。別に、何を言われたって否定しませんから」
    「……答えが出てるのは、お互い様なんじゃないの」
    「さあ? 私は貴方たちのことなんて一切理解できないので」
    「それは俺もですけどねー……」
    矢野には平山はもちろん、笠田のことも本川のことも、全くと言っていいほど理解できない。多分お互いにそうなのだろうと思う。全く違うというよりかは、なまじ重なる部分があるだけに、違いが際立って理解できないのだ。同位体のような存在に自分が感じるのは羨望か嫉妬か、それとも。逃げ出さずにすべてに堂々と向き合って生きられる、その強さがひどく、矢野のような人間には怖い。影にいる人間を焼く、日光のような強さ。行使している人間は、己がそれを放っていることなど知る由もなく、自然体なのだろうけれど。気づけば珍しく上機嫌に微笑んで、矢野に照準を合わせている平山は、何一つ後ろめたいことなどなさそうだった。
    「理解できないついでに聞くんですが、なんでわざわざ逃げようとするんです?」
    「どうせ聞いたってわかんないでしょ、君には」
    「あ、やっぱり逃げるつもりなんですね」
    「隠したって君には解るんだろ。……わざとらしくカマかけないでください」
    「私は別に正々堂々とした人間でもないので」
    嘘をつくな、と言ってやるか迷ってやっぱりやめた。自覚がない方がまだマシだと思ったのだ。どうして逃げるんです、と平山が尋ねる。今の貴方に都合の悪いことなんて、何一つないはずだと。ここには貴方を傷つけるものなんて何もないはずだと。全くもってその通りだ。この場所はひどく矢野に優しい。
    「貴方は、何にそんな傷ついているんです? 綿で怪我でもしているんですか」
    「……趣味の悪い引用っすね」
    「貴方はどんな加害よりも、まず幸福に傷つけられている」
    「聞けよ」
    「そこまで貴方を不幸へと駆り立てるのは、なんです?」
    黒曜石のような黒い瞳に、確かに自分が映っている。焦っている顔、怒っている顔、動揺している顔、……泣きそうな顔。自分の表情がそのどれなのか、矢野にはもうよくわからない。平山が口にしたのはその手に携えられた男の生涯だ。傷つけられないうちに、早く、このまま別れたいと焦る。そんな風にしか生きられない男の在り方だ。矢野はその追及を無視して黙り込む。答えたくないと、態度で示すのは我ながら幼稚だ。
    「言いたくない、ですか」
    「俺からしたらなんでそんなに聞きたいのかのほうが疑問っすけどね。そこまで入れ込むタイプじゃないでしょ」
    「心外ですね。私は情に熱いタイプですよ」
    「そういう嘘はいいから」
    「……正直別に、大した理由はないんですよ」
    別に私は貴方がいなくなろうが、そうなんだなって思うだけだろうし。寂しいとかも、多分ないですし。平山がはっきりとそんなことを言う。ひどい言葉のようだが、矢野はそれに少し安心した。彼との繋がりは、重たくない。彼は自分が離れようとしたら、その糸を手放せる人だ。決して、手繰り寄せようとはしない。引き戻そうとは、しない。自分が感じていた通りの男だ。ぱちぱちと目の前の瞳が揺らされる。でもね、と唇が動く。
    「今が、楽しいんですよ」
    「今って?」
    「ここや笠田さんとこで適当に集まって駄弁ったりするの、楽しいでしょ」
    「……まあ」
    「だから極力続いてほしいんですよ。出来る限りはね」
    「それで俺のことを探るんすか」
    「そうですねぇ……まあ、私に何とかできることなら、何とかしてあげようかなって」
    出血大サービスですよ、とぎこちなくピースサインを作って笑う。なんだそれ、と思わず呟いてしまった。そんな適当な理由で人のことを暴き立てようとするなと、怒りと脱力と馬鹿馬鹿しさが同時に襲ってきてどうでもよくなる。なんなんだこいつ、と本気で思った。こういう無茶苦茶なところが彼らしくもあるのだろうが。いろいろ考えているようで、本質は随分と強引で特攻的だ。大きくため息をついて机に散らばるシールも無視して突っ伏した。頭上から、「ま、教えてくれないんならいいです」と間の抜けた声が聞こえる。
    「精々話したくなったら話してくれたらいいです。消えるなら消えるで、ご自由に」
    「言われなくてもそうしますよ」
    「でもまあ、勿体ないですよ。折角の幸せを手放すのって」
    「……知ってるよ」
    ここには自分を傷つけるものなんて何もない。勝手に傷ついているだけだ。存在するかもわからない裏切りに、終わりに怯えて、その身を切る痛みを味わうくらいならと自分から距離を置いて。それが如何に馬鹿馬鹿しいことかくらい、言われなくてもわかっている。わかっているからずっと言い訳していた。ここを離れるのは、他でもない彼のためなのだと、自分に都合よく解釈した。
    「平山君は、何かに執着することが怖くないの」
    「怖くないですよ」
    「いつか、裏切られるかもしれなくても? いつか……いつか、相手が死んでしまうとしても」
    「ええ。だってそんなの当たり前でしょう。変わらないものなんてないんですよ」
    だからこそ、側にいてくれる間に大事にするし、側にいてくれるように努力するんです。執着と言われようと、私はそれを惜しみたくはないですから。そう躊躇いなく口にできる彼が、ひどく眩しい。……本当は、彼のようになりたいと思う。その裏でずっと、彼のようにはなれないと思っている。


    春先は日の入りと同じくらいに閉業時間がやってくる。店頭のプレートを裏返して、締めの清掃を行えばその日の業務は終了だ。綾瀬にさっさと帰るように指示しながら、なんとなく家にいるのも嫌で自分も軽く外出する準備をする。
    「どっか行くんですか」
    「あー……まあ、どっか」
    「暇なら一緒に本屋行きません?」
    「本ならここで買えよ」
    「参考書とかは新しいのほしいじゃないですか」
    一緒に選んでくださいよ、と手を合わせてくる綾瀬に、断る理由もないので適当に頷く。このあたりの本屋というと駅前が大きかっただろうか。戸締りをしながら坂井に一声かけていくか迷って、それからやっぱりやめた。メッセージを送るほうが気楽でいい。なんとなく、今顔を見て話せる気がしなかった。平山と余計な話を長くしてしまったせいかもしれない。嫌な気分を誤魔化したくて、夕日に照らされて伸びる影を見つめながら歩く。
    「高一のくせに参考書とか使うんだ」
    「えっ、そういうもんじゃないんです?」
    「知らない。俺高校行ってないし」
    「あっえっ、そうなんですか!? す、すみません話させちゃって」
    「別に気にはしてないからいいけど」
    ちらちらと不安げに矢野の顔を伺う姿に、少し辟易する。やっぱりこういう反応なんだよなと思った。だからあまり話したくはないのだ。矢野自身の話は、口にすると気を遣わせるようなものばかりになってしまう。だから隠す。話したって気まずいだけだから。そういう意味では綾瀬はかなり特別なのかもしれない。彼女にすべてを話すのは、なんなら八つ当たりに近かった。彼女と彼女の父親が別人なことは百も承知だが、それでもたまに、ひどく困らせてやりたくなる。
    「なんで行かなかったか、気になるんだろ」
    「……教えてもらえるんですか」
    「そんなにビビった顔して聞くならやめとく」
    「えぇ!」
    綾瀬と話していると、自分が嫌な奴だという自覚がさらに強くなっていく。矮小で、つまらなくて、どうしようもない人間なのだと、無理矢理にわからされる感覚。なんなんですかぁ、と情けない声を上げる少女は、自分の代わりにするにはあんまりにも純粋すぎるような気がした。沈みかけの太陽を背にして歩く。日光が、自分の影を焼く。矢野さんは、と未だ慣れなさそうに口にする綾瀬に、小さく「なに」とだけ言った。
    「矢野さんは、謎が多いですよね」
    「謎なんてないよ」
    「僕の父さんのこともだし、お店に来る友達にはキャラ違うし、学校行ってないっていうし」
    「別に、一つ一つは大したことないだろ」
    「まあ、そうですけど。僕が知ってることなんてほとんどないなっていうか」
    「そりゃそうだろ」
    別に長い付き合いでもなんでもないんだから、と一蹴してやると、綾瀬はむっとしたように「そりゃあそうですけどね」と声を少しばかり大きくする。それでも、僕にとって矢野さんはちょっと特別なんです。矢野さんがどうかは知らないですけど。そう唇を尖らせて言われても、矢野は何も返してやれない。ちょっと、特別。そう称されるほど、矢野は綾瀬に何かをしてやった記憶はなかった。それどころか利用することばかり考えている。そのギャップに少し困って、それから突き放すような言葉をわざと選んだ。
    「俺のことなんて、知ってどうすんの」
    「どうするっていうか……仲いい人のこと知りたいって思うのは、普通じゃないです?」
    「知ってそれで、嫌いになるかもよ」
    「そんなこと思って生きてるんですか?」
    根暗だなぁ。そう呆れたように呟かれる一言に、想像以上にショックを受ける。いや、実際そうなのだが。一回りも小さい子供にそんなことを言われると凹むというか、本質を突かれた感覚がして辛いというか。悪かったな、と今度は矢野が不貞腐れるような素振りを見せると、綾瀬が慌てたように「いや、わかりますけどね!」とフォローを返してきた。余計にしんどくなるから、その動きはやめてほしい。
    「僕もまあ、隠し事は多いほうですし。嫌われちゃうかもって気持ちもわかりますよ」
    「根暗だ」
    「わ、悪かったですって!」
    根に持つなぁ、と恨めし気に口元を隠して、少し立ち止まる。歩みを止めない社会の流れから、途端に取り残されたような焦りが、矢野の心に飛来した。そんなことは露知らず、綾瀬は人差し指をくるりと回して話を続ける。
    「でもなんていうかそれでも、絶対自分の側にいてくれる人っていうのかな。母さんとか、親しい友達とか」
    「あー……うん」
    「そういう人がいてくれるから、怖くはないです。いや、怖いですけど、ちょっと勇気もらえるっていうか」
    そこで言葉を区切って、躊躇いがちに瞳がこちらを映す。矢野さんにも、そんな人はちゃんといますか。そうおずおずと尋ねるのは、薄々矢野の答えに勘付いているからなのだろう。絶対的に自分の側にいてくれる人。そんな者、存在するのだろうか。家族はいつだって何も言わない。幼少期に信頼していた男は、自分を手籠めにしようとした。少年期に信頼していた男は、あっという間に自分以外を選んで死んでしまった。絶対なんてない。永遠なんてない。いつかみんな、自分を虐げるか去っていくかのどちらかなのだと、そう信じて止まなかった。返事をしない矢野に対して、綾瀬は気遣うように声を張り上げて笑みを作る。いないなら、僕がなってあげます。その言葉はとても、信用に足るものとは思えない。思えないことが、とても悲しい。
    「……そこまでする理由ないでしょ」
    「ありますよ」
    「冗談きつい」
    「冗談じゃないですって」
    「俺が君に何したっていうんだよ」
    わずかに強くなった語気に、綾瀬は面食らったように瞳をきゅうと丸くした。それから一瞬でにんまりと口角を上げて得意げな顔になる。
    「そんなにビビった顔するなら教えてあげませーん」
    「はっ!?」
    「あははっ! 精々自分で考えてください」
    駆け足気味に自分の前に躍り出る少女に絶句する。なまじ先ほどの自分が言った言葉だから何も言えない。解っていてやっているのだろう。全くもって質が悪い。大きくため息をついてその足取りを追う。いつかわかる日が来ますよ、と少女が振り返って言った。赤い日を背に立つ。斜陽を背負っているくせに、未来への希望に満ち溢れているのが、力強い。リップも何も塗られていない、幼い唇が矢野に向けて言葉を送るのを、どこかスローモーションのように感じていた。
    「早く、気づいてください」
    「……何に?」
    「坂井さんが泣いちゃいますよ」
    「いやだからなんで」
    どうしてそこであの人の名前が出てくるのか。目に見えて動揺する矢野に、綾瀬はくすくすと笑う。矢野さんは、坂井さんのこと、ちゃんとわかってないでしょう。そんなことを可笑しそうに言う。ちゃんとわかってないってなんだ。他人のことなんてわかるわけがない。自分のことでさえ、ろくに理解できていないというのに。はくはくと何を言おうとしても言葉にならない口を動かす。少女はその姿に苦笑していた。そんなに難しいことじゃなくて。そう柔く笑む姿は、なんだかデジャヴを感じさせた。
    「坂井さんも僕も、おんなじだから。きっとお友達もみんなそうです」
    「だからわかるように喋れって」
    「ダメですよ。これは、矢野さんが気づかなきゃ」
    「じゃあ中途半端に言うなよ……」
    それもそうですねぇ、と口元に手を押し当てて少し考え込む素振りを見せる。もう直に本屋につく。そうすればこの意味の解らない会話も終わるだろうか。矢野が甚だしい居心地の悪さを誤魔化すように足を動かしていると、綾瀬が「じゃあ宿題!」と高く声を上げた。
    「坂井さんはなんで矢野さんの側にいるんでしょう?」
    「は? そりゃ雇用してるから……」
    「ダメですよ、宿題なんだから今答えだしちゃ!」
    ぜひ坂井さんに答えを聞いてみてください。そうウインクする少女の姿は軽やかだ。出会った時よりもずっと、晴れ晴れしく自由な在り様。それは矢野が子供に望んだ姿だ。ただ、純粋に良かったと思う。彼女が必死に父親という存在に向き合って、ようやく手に入れた心の軽さを喜ばしく思う。だから結局、矢野は綾瀬に強くは出れない。仕方がない、と息をついてその質問をシミュレーションしてみる。
    (……先生は、なんで俺の側に)
    考えたことがないわけじゃない。なんならずっと考え続けていることだ。考え続けて、嫌な想像しかできないから離れようとするほどには。面倒くさそうな顔をするだろうか。女性にだって変な好かれ方をする彼だ。そんな質問ごまんとされてきているかもしれない。煩わしいと、一蹴されないだろうか。自分ならきっと、そんな風に言ってしまう。どんな反応をされても受け入れなければならない。なんなら彼から離れるいい機会だと、そう割り切れてしまえれば、どんなに楽だろうか。


    「……帰りました」
    「はいはいおかえり。散歩は楽しかったかい」
    「散歩っていうか、駅前の本屋ですけど」
    「そう。浮気はいいけどうちも大事にしてくれよ」
    男はそう言ってくすくすと笑うと、矢野に手を洗ってくるよう指示する。どういうつもりで、そういうことを言うのだろう。ふと立ち止まって考えてみると不思議なことばかりで、矢野は本当にこの坂井克樹という青年のことを、何一つと言っていいほど理解できていないのだとわかった。ひどい話だ。自分はこんなにずっと寄生し続けているのに。
    (……あまつさえ、名前すら読んだことがない)
    矢野は坂井の名を決して呼ぶことがない。彼のことを呼びたいときは『先生』と声をかける、ただそれだけ。名を知らないわけじゃない。ただ、一線を引いていたいという、弱気な抗いだった。そんな距離の詰め方は、必要ないと思っていたいから。蛇口にゆっくりと手を触れる。春先だというのに、金属はまだひんやりと冬の名残を抱いていた。初めてこの家に来た時は、こんなに力を入れていただろうか。いつから、こんなに重たくなったのだろう。
    「いつまで手を洗ってるんだ君は」
    「うわっ……いつのまに」
    「なんでかずっと水音もさせずに洗面台の前にいるようなら、誰だって心配するだろうよ」
    なにかあったの、と別に心配の色すら滲ませずに当たり前に尋ねる。別に、なにもないです。そう素っ気なく返事をしても、気分を害する様子一つないのだから大した人だと思った。彼は、大人だ。大人だから、自分のことも捨てられない。強く力を込めて水を出す。手を晒すと同時に、いらない感情全て流してしまえたらいい。
    「綾瀬君と一緒に行ったんだっけ。連絡来てたよ」
    「れんらく」
    「そう。矢野さん借りますって、一報いれてくれたんだ」
    僕が不安がるといけないからって、律儀だよね。そう呆れ半分にスマートフォンの画面を見せてくる姿に、何と言っていいかわからなくなる。こんなとき、いつもなら何と言っていたのだろう。勝手に気まずさを覚えて、勝手に平静を失っている。不安、がらないでしょう。そうわざとらしくおどけるように言って、その反応に「ああ間違った」と思った。これは、本川達に対する自分か。それとも。坂井のほんの一瞬の心配げな顔を、見なければよかったと思った。
    「なんだ、そんな風に思ってるのか」
    「……だって俺、もういい大人ですから」
    「でかい子供だろう君は」
    「そんな風に思ってるんですか」
    目を離すとすぐにどこかに行ってしまうような気がするのは、子供を見ているようなものだろう。そう何とも言えない顔で坂井は言い放つ。体の奥の嫌な部分が、ざわりと逆なでされたような感覚がした。どこかに行ったって、いいでしょう別に。あんたには関係ない。そう反射的に口答えするのを、他人事のように自分が見ている。坂井の驚いた顔を見て、身勝手にも傷ついている。彼はぱっと口を開いて何かを言おうとしてから、やっぱり上を向きなおして「あー」と頭を押さえた。
    「そう、そうだな。確かに僕には関係ないよ」
    「……すみません」
    「とりあえず座りなさい。少しゆっくり話そうか」
    坂井はちょんちょんと手招きをしてダイニングテーブルをとんとんと叩く。ここに座れという意味だろう。これは本格的にやらかしたな、と思いながらももう逃げられなかった。否、ここ最近の取り繕えなさを鑑みれば、どうあれ近いうちこうなっていたような気もする。ずっと、ダメだった。一度ダメな考えに憑りつかれてしまうと、そこでもう。座りなれた椅子に、背を丸め項垂れて座る。とてもじゃないが、顔なんて見れそうになかった。
    「なにか、あった?」
    「……何もないです」
    「君の友人からタレコミがあったんだ、三人分。みんな君を心配していたよ」
    「だから……!」
    「本当に何もないならいい。話したくないなら、それでもいいよ」
    叱ろうとしてるわけじゃないんだ。そう言葉をゆっくりと選びながら坂井が話す。一度、君としっかり話がしたかったんだ、と。何の変哲もない、ありきたりな言葉だ。ありきたりで、毒に感じるほどに優しい言葉だ。矢野はそれだけでうんざりとする、しんどいと思う。そんな言葉は、心を蝕むだけ。
    「あんまり干渉とか、されるの嫌だろう君は。だから、あんまり口うるさく言わないようにするつもりだったんだけれどね」
    「……」
    「でもやっぱり、不安だよ。子ども扱いしているとかじゃなくてさ」
    「ふあ、んになるなら」
    想像以上にずっと崩れたぎこちない声が出た。口の中が必要以上に乾燥している。体中の水分全てがどこかへと霧散していってしまったようだった。このまま肉体も消滅してくれたらいいのに、そうはいかない。矢野は仕方なしに言葉の続きを考える。自分は何と言おうとしたのだろう。本心と、建前と、どちらを口にするべきなのだろう。どちらを求められているのだろう。探ろうにも矢野は坂井の声以外の情報を得られない。
    「不安になるなら、どうして」
    「うん」
    「どうして、俺を側に置くんですか」
    「うん?」
    不安になるから側に置くのは、当たり前じゃないか。そう平然とした声で彼は言う。確かにそうだ。そうなのだが、矢野が問いたかったことの真意とはずれている。そうじゃなくて、もっと。話の続きをしたくないと思っているくせに、変に縋るように言葉を正しく伝えようとするのは、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
    「俺みたいの、早く切っちゃえばいいじゃんって」
    「え?」
    「俺みたいのに気を揉むよりもっと、あるじゃん。ねえ」
    子供みたいだ。否、子供なのだ。よくわからない癇癪を起こして、自分を甘やかしてくれる大人を困らせたがる、ダメな子供。矢野は誰に対して話しているのかもうわからなくなってきていた。怒っている。駄々をこねている。困らせている。あの少女よりもずっと質の悪い、幼さを行使している。
    「あんたは優しいよ。優しいから俺みたいなのも放っておけないんだ」
    「矢野君」
    「でも生憎だけど俺は一人のが都合いいから。だから、だからはやくもっと別の……」
    「……それは、違う。それじゃあダメだ」
    「ダメじゃない。ダメじゃないだろ!」
    強い力で机上をダンと一発叩く。それと同時に身を乗り出した矢野の瞳には、必然的に坂井の顔が映った。悔しそうにこちらを睨みつける目。どうしてそんなものを向けられているのか、矢野にはよくわからない。けれどその効果だけは絶大で、どうしようもなく体中をめぐっていた激流が一瞬にして凪いでは、ただただ寂寞の思いだけが残ってその場に立ち尽くした。ごめんなさい、と無意識に謝る。そんな顔をさせてしまったことが、どうしてかとても辛かった。
    「……ここに何年暮らしてるか、覚えてるか」
    「よ、ねんとか。その辺」
    「そうだろ。それなのにどうしてわからないんだ……」
    四年あったら赤ん坊が幼稚園児にまで成長するんだぞ、と坂井は若干オーバーな動きで子供のサイズ感を表す。いや、何の話をして。そう口を挟む矢野に対して黙るようにジェスチャーをすると、半ばキレ気味に彼は「君は僕を美化しすぎだ」と指をさし向けてきた。遠慮していた僕も悪いがな、となぜだか偉そうに話す坂井の意図が、矢野には全く読めなくて、当惑する。
    「あのね、僕はそんなに優しい人間じゃない。もしそう思うのならそれは単純にそう解釈できる君の人間力が優れているというだけの話だ」
    「いや、そうはならない……」
    「なるんだ。黙りなさい」
    「……はい」
    久しぶりにこんなに調子のいい坂井を見た気がした。いや、調子がいいと表現すると語弊があるのだろうけれども。出会ったばかりのころは、こんな風に叱られてばかりだったような気がする。まだ自分が明るいおかしな人間を演じていたころの、か弱い記憶をふと、思い出した。あの頃から何が変わったのだろう。どうして自分は、こんな風に彼を。いつも見ているはずなのに懐かしく感じられる眉間に寄った皺をじっと見る。いつから自分は、彼をちゃんと見ていなかったのか。その罪が、そこにあるような気がした。
    「あのな、いいか。一度しか言わないからよく聞け。僕が君のような留年ぼんくら放浪癖腐れ下宿人をこの家にいつまでも置いている理由はな」
    ぴしりと指をさして言う。
    「僕が、君を好きだからだ」
    時が止まったような心地がする。今、何と言った? 目を丸くしてフリーズする矢野に、坂井ははっとしてから、慌てたように「変な意味じゃないぞ」と付け足す。変な意味、だったら困る。そう思わず呟いてしまうと、だから違うってば、と彼は声を荒げた。
    「好きって……なんで? 顔が?」
    「君ほんといい加減にしろよ」
    「ちがっ……! 本気でわかんないから、つい」
    「それにしても顔はないだろ。綺麗な顔が見たいなら僕は鏡を見る」
    「……」
    途端に胡乱な目になる矢野に坂井は一つため息をつくと、何と言ったものかと視線を彷徨わせる。僕が、君が大事な理由は。そう言葉を始めたはいいものの、どうにも繋げにくそうだった。それみろやっぱりないんじゃないか、と言い返してやりたい気持ちを必死に押しとどめる。きっと、言いたいことがあるのだと思った。否、本当は信じたかったのかもしれない。期待していたのかもしれない。
    「君は……僕と初めて会った時のことを覚えているか」
    「初めて? まあ、なんとなくは」
    「そうか。僕ははっきり覚えてる」
    「……はあ」
    君はあの時、僕が一番欲しかった言葉をくれたんだ。そうしみじみと青年は言った。何と言ったのか矢野は一つだって思い出せないから、きっと大したことではなかったのだろう。それをそんなにずっと大事に抱えているのだと、彼のすべてが物語っていた。そんな言葉一つだけで、こんなに大きな荷物を抱えているのか。意味が、解らないと思った。思わず、それだけ、と尋ねる。それだけかなぁ、と男は笑った。
    「君にとっては『それだけ』でも、僕にとってはそれが、本当にうれしかったんだ。それこそ……それこそ、これから先何があっても、君のことを嫌いになれないくらいには」
    「……あんた、やっぱおかしい」
    「そうかもね。でも、覆しようのない事実だから」
    「……」
    「だからもう、悪いけど諦めてくれ。多分ずっとこうだから。ずっと、大事だから」
    ごめんね、と男は笑った。別に謝らなくていい、としか言えなかった。坂井の情は、無条件に注がれるものだった。他に代わりなどいない、矢野だけに注がれる無償の愛がそこにあった。そんな大層なものを貰ってしまっても、矢野はただ恐縮することしかできない。他人よりずっとキャパシティの小さい精神では、そのほとんどがただただ零れ落ちてしまう。
    「……怖いから、そういうの」
    「そうだろうな。君はこういうの、重たくて嫌なんだろ」
    「わかってんなら言うなよ。……そういう、ずっととか、何があってもとかさぁ」
    「……君」
    視界が滲んで、世界が溶け出していく。瞳からじんわりと、ずっと蓋がなされていた感情が溢れては落ちる。何も見えなくなる。優しい言葉をかけてくれる、こんな己を愛してくれる存在のことがまた、遠くなっていく。そんな視界に耐えられなくなって思わず目元を覆った。最悪だと思う。やっぱり立ち上がって今からここを逃げ出そうか。別段必要な荷物なんてないのだし、財布やスマートフォンがなくたってなんとか。そう一瞬にして逃げる算段を立てている自分が、本当に大嫌いだった。結局迷ってしまって動けない自分も、感情を制御できない自分も、全部全部。
    「最悪、ほんっと最悪、なんでそんなこと言うんだ」
    「……ごめん」
    「出来もしないくせに、軽々しく永遠ちらつかせんな。好きとか言うな。大事とか言うな」
    流されている。どうしようもないほどの激情に、完全に弄ばれている。矢野はただ、大波を前にして身を任せることしかできないのだと、己の無力を悟った。重いのは自分だ。面倒なのも自分だ。悪いのは、自分だ。目を瞑って一人きりの世界で自己否定をする。これ以上喚き散らす前に、この大波が去っていくのをただただ祈って。坂井はどんな顔をしているのだろう。もう自分に穏やかに話してくれることはないのかもしれないと思った瞬間、吐きそうになった。彼の足音がする。側に寄らないでほしい。……側を、離れないでほしい。
    「……僕は、君のことを何もわかってなかったんだな」
    「わかってほしいって、思ってないから」
    「僕はちゃんとわかってあげたかったよ」
    出来もしないって思った理由、話せるかい。小さな子供に語り掛けるようにして、坂井は言った。何と言っていいかわからなかった。罪を自白するようにして、矢野は息を吐く。


    恥の多い人生を送ってきた。ろくでもない人生だ。自分が手を伸ばした先にいる人間は、いつだって矢野を掬い上げるような素振りだけ見せて、その手を離す。その度に人間を嫌いになる。その度に、自分を嫌いになる。
    「……昔、近所の男の人が優しかったんです。お菓子とか、くれたりして。家にも上げてくれたし。俺の家は共働きだったから寂しくて、しょっちゅう遊んでもらってて」
    「うん」
    「でもその人は、俺の身体が好きだった」
    「……うん」
    どんな顔をして話すのが正解なのだろうかと思う。悲痛そうにしているべきなのだろうか。辛かった、悲しかった、憎かった。全て正解だけれど、今の矢野にはなんだかもう他人事でしかなかった。最も、数年前のように改めて事実を目の当たりにすることがあれば、また違うのだろうけれど。
    「ひどい目にあって、人が怖くなって、学校にも行けなくなった。そんなとき、優しい人に会ったんです。人間が好きで、他人のために何でもできる人」
    「素敵な人だね」
    「そう……。その人は俺にも優しかった。本当に、裏表なく優しかった。それは俺だけじゃなく、誰にでもそうで」
    「……」
    「俺じゃない、名前も知らない人間の命を選んで、他人を庇って死んだ」
    「……そっか」
    「そんなもんですよ。それだけ、俺の人生なんて」
    無意識に笑う。本当におかしいと思った。お人よしの男に己の恨みつらみを押し付けて、それで一体何になるというのだろう。二十何年も生きているくせに、語ることをすれば十数歳の時の出来事で締まる自分の人生の薄っぺらさも、その滑稽さに加担していたかもしれない。なんだか一周回って余裕が出てきて、そんなつまらないことばかりを考えていた。
    「失うのも、裏切られるのも、嫌になっただけです。だから先に離れたいし、誰かに縋りたくもない。それっておかしいですか」
    「……ううん」
    「期待するだけ辛くなる。優しい言葉をかけられるたびにしんどくなる。そんなのもう終わりにしなくちゃいけないんです」
    「だから、ここを出ていく?」
    「そう」
    小さく頷く。いろいろと順序は間違えたが、それでも結論は変わらないのだと思った。どう足掻いたって矢野葵が矢野葵である限り、ここにはいられない。ここにいたって苦しくなるだけだ。優しい人間が多すぎる場所では、矢野は生きられない。坂井はそれに対してひどく傷ついたような顔をして、それでも決して引き留めることはせずに「そっか」とだけ呟いた。聞いてくれてありがとうございました、と本心からの言葉を吐く。
    「全部話せたのが、先生でよかった」
    「そんな、ことを言うのか。君は」
    「言いますよ、俺だってお礼くらい」
    「知ってるよ、君がお礼を言える人間なのは」
    君はちゃんと思慮深くて優しい子だよ。少しイラついた様子で彼はそんなことを言った。そういうのが、嫌なのだ。ゆっくりと吐き出すようにそう告げる。
    「もうじきいなくなる人間に、そんなこと言ってどうするんです」
    「いなくなるだとかは関係ない。僕が君に対して思っていることを言っただけだ」
    「思ってても、言わないようにしてください」
    「君は、どうしてそう、そんなに意固地なんだ」
    大きくため息をつかれる。意固地なのはどっちだ、と言ってやりたかった。坂井は悲しそうな顔をして、薄い唇を割る。丁寧に、精巧に作られている顔がくしゃりと歪むのを、勿体ないと思う。認めてくれ、と彼は言った。
    「どこへ行ってもいい。僕のことを嫌ってくれてもいい。でも」
    「……はい」
    「僕が君を好きだって事実くらいは、ちゃんと受け入れてくれ」
    「そ、れは。……難しいですよ」
    「どうして」
    「そんな風に思ったら」
    期待、するから。ずっと側にいてくれるんだって、勘違いする。だから、そういうのは無理。そんなことをつらつらと述べたような気がする。あの頃から成長していない少年の、子供の言葉だった。坂井はなんでか嬉しそうにしている。意味が解らない。気持ちが悪いだろう、こんなの。そう思っても、矢野は口を開けばまた子供が露呈しそうでとても何も言えなかった。
    「本当は、ちゃんと側にいてほしいの」
    「ちが」
    「君にはそういう存在が必要なんだな」
    「違うって」
    「いいよ」
    期待してよ、と男は笑った。今まで出会ってきた誰とも違う、坂井克樹という人間がそう言った。ああ、ひかれると思う。何か大きな引力が自分を襲っている。強く、穏やかに、自分だけを導く何かが自分を浚う。抗うことなどできそうにない強い潮流が、彼の笑みだけによって齎されている。
    「だから……無責任だって、そういうのは」
    「ちゃんと責任は取ってやる。絶対にここにいるから、君が必要になったらいつでもここに来ればいいし、いればいい」
    「は……? いや、そんなの無理でしょ。あんただってほら、結婚とかいろいろ将来あるんだし」
    「いいよ。なんとかするから」
    「なんっ……! は!? ほんっと向こう見ずだなあんた、そんなんだから客足も遠のくんだ」
    「いやおいちょっと待てその理屈はおかしいだろ、そんなこと言うな」
    「ほんっと頭おかしいよあんた。ほんとキモイ、最悪」
    「思春期の娘か君は……」
    「娘って言うな」
    一頻り全てに嚙みついて、はあはあと息を切らす。こんなに声を荒げて喋ったのなんていつ以来だろうか。上がる呼吸に馬鹿馬鹿しさすら覚えて、なんだか清々しい思いのままに笑った。声をあげて笑った。坂井はそれに呼応するようにして安堵の表情を浮かべる。ここまで言われて君のこと大事にしてくれるのなんて、僕以外にいないからな。捨て台詞のような言葉のくせに、どうしたってその声色は甘い。甘やかされて、自我が溶かされていく。
    「克樹さん」
    「えっ……ああ」
    「ここにいていいよ、って言って」
    「うん」
    「俺が大事だって言って。側にいるって言って。俺が……」
    「君が好きだよ。大事だし、側にいてほしい。ここにいてくれ」
    「……先回んな」
    バーカ、と悪態づいて坂井のことを軽く小突いた。こんなことをするのは初めてだった。クソガキ、と文句を言われても別に悪い気もしない。彼が甘やかしてくれるのなら、別に子ども扱いされてもいいと思った。


    「あれ、今日は二人して店頭に並んでるんですね」
    「最近矢野さんちゃんと働いてくれるんですよー」
    「もとから働いてはいただろ」
    平山が暖簾をくぐりひょっこりと顔を覗かせては、目を丸くする。綾瀬ともすっかり顔なじみだ。もっとも多分名前までは憶えていないのだろうが。彼はじっと探る様にして矢野の顔を見ると、ふっと笑ってから目をそらした。満足したらしい。
    「もうすぐ本川さんと笠田さんも来ますよ」
    「なんで一緒に来なかったんすか」
    「いや、なんかどっか行っちゃって」
    「どっか行ったんはお前や」
    ほんまちょっと目離したすきに勝手にどっか行きくさって。息を切らしながら恨めしそうに本川が入店してくる。そこに続くようにして、数拍置いてから笠田が死にそうな顔を見せた。慌てて椅子を出そうとする綾瀬にゆっくりと首を振ると彼は、上でゆっくりするから大丈夫だよ、と微笑んだ。体力ないのに無理するから、と矢野が思わず呟くと、平山が他人事みたいに「ほんとですよ」と同調する。
    「君がちょっとコンビニに行くっていってすぐに消えるから、こっちは焦って探し回った挙句に、一縷の望みをかけてここに来たんだぞ……」
    「平山君なら平気でそれくらいするでしょ」
    「それを見抜けんかった俺らが悪いんか……?」
    「そうですよ。もう少し私のことを理解してください」
    「ご、傲慢すぎる……」
    人数が揃って盛り上りを見せる男たちに、綾瀬が呆れたように「積もる話は上でどうぞ」と注意する。それもそうだろう。早く上がるように促すと、本川がすかさずお前は今日何時に上がるん、と聞いた。今日は店番なので閉業までここにいるけど。そう軽く返事をするとすかさず綾瀬がにやっと笑って「シフト代わってあげましょうか」と手を挙げた。
    「僕の仕事はこの棚の整理だけなので。終わったらお友達と話せますよ」
    「えっいや、助かるけど。なんで?」
    「僕は矢野さんの人間関係を応援していますから!」
    「なんでお前女子高生に人間関係をお応援されてるん?」
    引き気味にツッコミを入れられても、矢野は何も言えない。黙って首をすくめると、本川も納得したのか何も言わなくなった。まあ有難い申し出ではあるし、本当にいいなら。そう綾瀬に確認をすれば、「お礼はプリンで結構ですよ」と手で丸を作ってきた。なかなか恩着せがましいが、まあ可愛らしいものだろう。
    「あ、笠田君。上に買ったパーティーゲームあるんで、先にやっといてください」
    「え、本当かい! 見直したよ」
    「ゲーム買っただけで見直される人間って何なんですか」
    「いや、また適当言ってただけなのかと」
    僕らとまだ遊んでくれる気があってよかった、と笑って笠田はその場をするりと後にする。気づけば本川と平山も二階に上がっていて、客のいない店内はまた静かになった。綾瀬が「じゃあこっちの本棚の整理お願いします」と手招きをする。ここからここまではやっているので、と大きなジェスチャーで示してくれる姿に、少し笑ってしまった。店番と言っても、基本はレジ打ちだけ。今やる仕事がないからか、綾瀬も隣でなんやかんや手伝ってくれている。
    「宿題、わかりましたか」
    「……さあね」
    「隠さなくたってわかりますよ」
    坂井さんに散々怒られたんでしょう、といたずらっぽく笑った。そんな一言で済ませられるような話でもないのだが、結局集約するならそういうことなのだろう。君のせいで散々な目にあった、と軽く文句を言えば、そのくらいでいいんですよう、とへらへらされる。
    「ありがとね」
    「……矢野さんに改めて感謝されるとちょっと怖いです」
    「おい」
    「あははっ! 冗談ですよ。それに、これはお返しですから」
    矢野さんのおかげで僕の人生はちょっと楽になったから、だから矢野さんもちょっと楽になったなら、よかった。綾瀬はそう言ってほほ笑む。ほんっと、出来たガキ。そう嫌味のように呟けば、「ガキじゃないですよ!」とすぐさま反論が飛んだ。やっぱり彼女は自分の代わりにはならない。活力に少し溢れすぎている。それを改めて確認して、矢野は安堵した。


    「調子戻ったやん」
    「先生に告げ口したのはこの口か?」
    「いった! おいやめろ本気で抓るな」
    件の乱闘ゲームで早々に脱落した二人で、タバコを吸いにキッチンへと逃げ込む。火をつける前にこれだけしておこうと勢いよく彼の頬に触れた矢野に、本川が焦ったように体を翻した。想像以上に力が出ていたかもしれないが、あまり反省してやりたくはない。しっかりと距離を取りながら顔を摩る本川に、適当に謝ってからライターをカチカチと鳴らした。ついでに彼の分も取り出して火をつけてやる。
    「お前のタバコ甘いから嫌いやねんけど」
    「何吸ったってまずいんだから一緒でしょうよ」
    「まあそれはそう」
    換気扇を入れて、その下で吸う。そんなことをしても特に意味はないくらいに非喫煙者には丸わかりらしいのだが、まあそれでもつけないよりはマシだろう。肺に煙を入れて、燻す。ゆっくりと、呼吸器官をダメにしていく。その感覚が昔は好きだった。今はもう、なんとなく吸っているだけだ。
    「俺ね、君らには暗いとこ見せたくないんすわ」
    「そうか」
    「そう。だから、それで許してほしいし、なんかあっても見て見ぬふりしてて」
    「はいはい。しゃーないな」
    本川は幸せそうに笑った。変な奴だと思う。お前の好きにしたらええよ、と全部まとめて肯定するその姿勢は、坂井とも少し似ていて、自分の周りの人間はみんな同じような目で自分を見ていてくれているのだと、そう改めて感じる。感謝は、口にはしないけれど。彼はそういう改まった言葉は嫌うのを知っているから。
    「お前がやりたいようにやれる場所に行き」
    「……親かよ」
    「年上の子供とかさすがに嫌や」
    「俺だってこんな親ごめんです」
    顔を見合わせて、今度は矢野も笑った。あほらしい会話ばかりしている。心地よい距離感をずっと、保ってくれている。この少しの重みを大事にしていけたらと思う。軽いばかりではきっと、またどこかへ飛ばされてしまうから。やりたいようにやれる場所。心地のいい場所。そんな場所を、自分は受け入れられるだろうか。
    「もうちょっとは、ちゃんと、ここにいるから」
    幸福に傷つけられてきた。否、幸福で自分を傷つけてきた。でもそんな不毛なことはそろそろやめなければならない。矢野は今、ようやく子供になったのだ。これから少しずつ成長する。大人になって、いつか、その先に死を見る。未練も執着も残して、幽霊になれるだろうか。大切なものを、重りをたくさんつけられて、この世に留まることができるだろうか。できたらいいと思う。いつか、本当に幽霊になれたらいい。
    「あ、こら! タバコを吸うな馬鹿!」
    「げっ坂井さん……」
    「あはは、すみません」
    「ほら、没収だ没収」
    取り上げられていく煙を眺めた。禁煙でもしようかな、と何気なく思う。今ならそれも悪くはない気がした。タバコを吸う理由が徐々に薄れていく。それは、幸せなことなのかもしれない。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    dentyuyade

    DONE性癖交換会で書いたやつ短編のやつです。割とお気に入り。
    星になる、海に還る輝く人工色、眠らない町。人々はただただそこで足音を鳴らす。唾液を飛ばす。下品に笑う。息を、止める。その中で自分はただ、誰かの呼吸を殺して、己の時間が止まるのを待っている。勝手なものだと、誰かが笑ったような気がした。腹の底がむかむかとして、思わず担いでいたそれの腕を、ずるりと落としてしまう。ごめん、と小さく呟いていた。醜いネオンの届かない路地裏の影を、誰かが一等濃くする。月の光を浴びたその瞳が、美しく光る。猫みたいでもあり蛇みたいでもあるその虹彩の中で、自分がただ一人つまらなさそうな顔をしていた。
    「まーた死体処理か趣味悪いな」
    「あー……ないけど、趣味では」
    「いや流石にわかっとるわ」
    「あ、そう?」
    歪む。彼の光の中にいる自分の顔が、強く歪んでいる。不気味だと思った。いつだって彼の中にいる自分はあんまりにも人間なのだ。普通の顔をしているのは、気色が悪い。おかしくあるべきなのだと思う。そうでなければ他人を屠って生きている理屈が通らない。小さく息をついて、目の前のその死体を担ぎなおす。手伝ってやろうか、と何でもないように語る彼に、おねがい、と頼む声は、どうしようもなく甘い。
    6326

    dentyuyade

    DONE息抜きの短編。百合のつもりで書いたNL風味の何か。こういう関係が好きです。
    観覧車「観覧車、乗りませんか」
    「……なんで?」
    一つ下の後輩はさも当然のようにそんなことを提案した。園芸部として水やりに勤しんでいる最中のことだ。さっぱりとした小綺麗な顔を以てして、一瞬尤もらしく聞こえるのだから恐ろしいと思う。そこそこの付き合いがある自分ですらそうなのだから、他の人間ならもっとあっさり流されてしまうのかもしれない。問い返されたことが不服なのか、若干眉をひそめる仕草をしている。理由が必要なの、と尋ねられても、そうだろうとしか言えない。
    「っていうか、俺なのもおかしいやん。友達誘えや」
    「嫌なんですか」
    「いや別にそうでもないけど」
    「じゃあいいでしょう」
    やれやれと言わんばかりにため息をつかれる。それはこちらがすべき態度であってお前がするものではない、と言ってやりたかった。燦燦と日光が照っているのを黒々とした制服が吸収していくのを感じる。ついでに沈黙も集めているらしかった。静まり返った校庭に、鳥のさえずりと、人工的に降り注ぐ雨の音が響き渡る。のどかだ、と他人事みたく思った。少女は話が終わったと言わんばかりに、すでにこちらに興味をなくしてしゃがみこんでは花弁に触れている。春が来て咲いた菜の花は、触れられてくすぐったそうにその身をよじっていた。自分のものよりもずっと小づくりな掌が、黄色の中で白く映えている。
    5150

    recommended works