信仰じゃない「春期休みは実家に帰ろうと思っているのだけれど」
夕方、居候先兼仕事先である店の締め作業後、坂井はおもむろにそんな話を切り出した。瞬時、ただの同居人にまで律儀にそんなことを報告しなくても、と突き放しの一言を口にするのを躊躇するようになったのは、成長かそれとも後退か。そんな問答に答えを出すほど考え込む余裕は、当たり前に進んでいく日常会話にはなくて、矢野は「はあ」と置きの一言を返すことしかできなかった。まあ高々一、二泊なんだけどさ、従妹が泊まりに来てるらしくて、僕もたまには顔出すように言われたからさ。そうまるで言い訳でもするように話す意味が解らない。別に矢野はこの男がいなければ死ぬ愛玩動物でもなければ、この男と当たり前にすべての時間を過ごすような夫婦や恋人的な関係でもないのだし。
(ああでも、確かに自分がいるときに帰省しているのを見た記憶がない)
ここに来て過ごした長期休みの数など、はっきり言ってたかが知れている。その母数の中では、片手で足りるほどの回数であっても一回のウェイトは大きいのかもしれない。矢野にはその感覚は上手く理解できないが。否、本当は理解できないふりをしているだけなのかもしれない。そう、少し思った。未だどこか、この男の中身を自分の存在が食い潰していくのを、自分の中で男が大きくなっていくのを、恐怖しているのだ。そのくせどこか面白くないと拗ねる己がいるのだから、本当にどうしようもない。子どもじゃない。子どもじゃないと、思わせたいはずなのに。ぐるぐると回り出すと止まらない嫌な思考を断ち切るように口を無理矢理に開く。勝手に口角も上げてくれる脳が大嫌いだ。
「いいじゃないですか。ご実家っていうと温泉街の方でしょう?」
「ああ、まあそうだね。ちょっと距離あるけど」
「風流っすねぇ。春に温泉、最高の休みじゃないっすか」
えらいもので軽薄に慣れた口は勝手に思ってもない適当なことを紡いでいく。いや多少は温泉も春も良いものだろうと思っているけれども。矢野は坂井の地元がどんなところかをあまり知らない。生まれたのは西の都市だし、今だっておおよそ関東とは縁遠いところに住んでいる。矢野が知っているのは精々テレビの中継で見る観光地と、本当に稀に飛び出る坂井のエピソードトーク程度のものだ。それでも、多分良いところなのだろうと思う。こんな男を、作り出してしまうような土地なのだから。いいなあ、と小さな声が漏れだす。別に大した意味はないのに、男はほんの少し気にかけるような色を瞳に映す。
「……そんなに気になるなら、一緒に来るかい」
「えっいや……えっ?」
「まあ別に一人参加者増えても困らないだろうから」
「えー……」
そういうのって、ありなんですか。そう問い返す声が震える。別にそんな卑しい意図はなかったのに。精々、帰ってくるのが早まれば嬉しい程度の欲望だったのに。嬉しい誘いなのに、どこか腰が引けてしまうのは何故なのだろう。この男の優しさが己の身体の中で肥大化していく。そういったところが、どうしたって怖いのだ。そういう行動がどうしようもなく、嬉しいのだ。
駅についてバスに乗ってさらに数十分。春の温泉街というとどうしても桜がつきものなイメージがあったが、実際降り立ってみるとさすがにまだ満開からは縁遠く、まばらに薄紅がちらついている。まだ春になりきらない張り詰めた少し冷たい空気が豊かな自然を包んでいて、それでもなおそこは観光地ということもあって人々の活気で明るい。そんな様子を横目に少し歩いていけば、表の賑やかな雰囲気から一転、閑静な住宅街へと変化していく。その中、ふと坂井が足を止めた先にあったのは、それなりに大きな木造建築だった。
「ただいまー」
前に友人たちと見たアニメ映画に出てきた家がこんなだったような気がする。都会のそこまで大きくない一般建築で育った矢野が思わずその大きさにしり込みしている横で、坂井は平然と玄関を開けて挨拶もそこそこに中に入っていった。慌てて後を追うようにして矢野も靴を脱ぐ。木製の床のぎしりという音が冷えとともに足から我が身に侵食してくるような感覚がした。どこか感じる心地悪さのままに落とせば、視界の中に一つ正面に影が落ちていることに気が付く。
「あ、かっちゃんだ。いらっしゃーい」
「ああ美弥ちゃん、着いてたんだ」
「ミヤもさっき着いたとこ」
「そっか。あれ、母さんは?」
坂井と同じ髪色の少女が「伯母さんは買い物」と端的に答えた。それから視線を矢野へと移し、憚ることもなくまじまじと眺め始める。気まずさから思わずぺこりと頭を下げると、少女は心底不思議そうに、なんなら警戒心を滲ませて「誰?」と坂井に問うた。いや彼は僕の友人。そんな返答に挨拶をするなら今だなと思い、矢野も改めて「矢野葵です。今は克樹さんのところでお世話になってます」と改めて少女と目を合わせる。色素の薄い瞳は、隣にいる男のものとそっくりだ。
「……ユージン」
「そう」
「かっちゃん友達いるんだ」
「美弥ちゃん今日もなかなか無礼だね」
軽いテンポで進んでいく会話に、彼らがそれなりに親しい関係性であることが読み取れる。その横顔は本当に同じような整い方をしていて、坂井が学生の頃はこんな容貌だったのだろうかだなんて、要らぬ想像まで広げてしまいそうだった。ほら、美弥ちゃんも矢野君に自己紹介して。そんな声で促された対面は、矢野にとってやや気まずい。
「えーと、こんにちは」
「……こんにちは」
「ミヤは坂井美弥、って言います。かっちゃんのお父さんの弟の娘……であってる?」
「あってるけどそこは従妹でいいんじゃないかい、普通に」
「じゃあ従妹です。よろしくお願いしまーす」
淡々と坂井美弥と名乗る少女はそうして軽く会釈をすると「寒いからとりあえず後は中で話そ」と先導して歩き始める。その様子に呆気にとられる矢野がおかしかったのか、坂井はくすくすと笑いながら「面白い子だろう」と言った。ええ、まあ。そんな煮え切らない返事は彼にはどう映ったのだろう。大丈夫だよ、という雑な元気づけに心配の色はそこまで見られなかったように思うが。
「……顔、そっくりですね」
「あー、よく言われるね。兄妹と間違えられる」
「なんかちっちゃい克樹さんと話してるみたいでやりにくい」
「僕は中身はあんな感じじゃなかったよ」
「クソガキそうですもんね」
「おい」
僕の周りは失礼な子供ばかりだな、と坂井はわざとらしくため息をつくパフォーマンスをする。だから、子供じゃないって。そう言ってしまうのはそれはそれでなんだかムキになっているようでみっともない気がして、矢野は結局なにも反論することが出来なかった。子どもらしさ、大人らしさ。そんなものに閉じこもっているのもまた、この男からすれば『子ども』なのだろう。ほらこっち、と己の先を進みながら彼は言う。彼が育った家の廊下を、一人慣れた足取りで歩きながら。
(この人は、ここで子どもをやって……そして大人になったのか)
美弥のような子供ではなかったと彼は言った。なら、どんな子供だったのだろう。その人間味すら感じさせないような綺麗な面持ちで、どのようにして生きてきたというのだろう。どうしたら、己と違って世界を恨まずに。自分を、嫌いにならずに。
「ほら、冷えるから早く行こうって。炬燵あっちにあるから」
自分は彼のことをよく知らないのだなと思う。必要以上に自分のことを彼は口にしないのもあるだろうが、それはきっと矢野が周囲の人間に気を配るような余裕がなかったからというのが大きいのだろう。一緒に暮らしていても、何も知らない。どんな人生を経て、己に良くしてくれているのかを、知ろうともしてこなかった。これはいい機会なのかもしれないと思う。いつか対等になるためにも、ここで彼のことをよく知っておく必要がある、そんな気がした。
「矢野さんて普段何してる人なの」
「……大学生してるよ」
「へー。じゃあかっちゃんの後輩?」
他所の家の炬燵で、足を延ばしきらない微妙な体制でぼんやりと年末番組を見ながら、どこか距離感のある会話をする。なんだか試されているような気分だった。問われている内容は己の隣で静かに蜜柑を剥いている男についてだから、なおのこと。
「……まあ、そうなるかな」
煮え切らない返事をしながら、そも自分にとって坂井克樹というのはどういった存在なのだろう、と思う。彼は矢野のことを友人と称した。何の躊躇いもなく言うものだから思わず聞き流してしまったが、どうにもそう形容するには何とも言えない距離間なような気もした。じゃあなにか、と言われればそれもまた、形ある答えに辿り着けないのだけれど。先輩や雇用主というには上下関係がなく、友人というには対等でもない関係。居場所をくれて、無類の優しさを注いでくれて、その癖見返りを求めてこないその男の横はなぜだか異常に心地が良いのだから、困る。自分はそんなものを与えてもらえるような人間ではないのに。
「矢野君は人類学とかを勉強してる人なんだよ」
そう言いながら綺麗に取り出された果実を二つに割って、己と美弥に分けてくれる。己が感謝の言葉を口にする前に、少女がわかりやすく喜ぶものだからなんだかどうにも反応しずらくなってしまった。自分もこのくらいわかりやすく感情表現が出来たらいいのに、と思う。もっとも成人男性がこういった振る舞いをしても気持ち悪いと思われてしまうかもしれないが。くだらない自意識に苛まれて結局ぺこりと頭を下げるだけに留めた矢野にも、坂井は相変わらず優しく微笑みかけるだけだった。
「美弥ちゃんは今高校一年生だっけ」
「んーん、二年生」
「じゃあ来年で卒業だ」
「あそっか。そうなるね」
ミヤももう高三かぁ、と感慨深そうに少女は呟いた。あっという間だなー。蜜柑を食みながらそんなことを言う少女に対して、矢野は何とも言えぬ感情を抱く。学校、楽しいんだね。そう吐き出された言葉は冷たい色になっていなかっただろうか。嫌味の意図はなかったが、己の境遇から吐き出されてしまうそれはどうしたって曲がって伝わってしまいそうで嫌になる。全てを知る隣の男にそれを解釈されてしまうのは、どうにも。そんな心情は露知らず、美弥は平然とまあねーと頷いた。
「友達とか、部活とか? なんかうまく言えないけど楽しいよ」
「そっか。それは素敵だね」
「でしょ。矢野さんは?」
大学楽しいの。そうするりと自分に戻された話題に、矢野は一瞬面食らった。楽しいだろうか。ざっと己の一年を省みても、手繰り寄せられる記憶はたくさんあった。それこそ高校生だったころの自分より、ずっと。
「……うん。楽しいよ。俺も、友達とか、バイトとかで」
あの頃はただ呼吸をしているだけではなかなか一日が終わらなくてやきもきしていたのに、今ではただ誰かと話しているだけであっという間に夜になっている。友人と、バイトの後輩と、そして隣に座る男と。共に時間を消費する人間が増えるだけで、息をつく間もなく日々が流れていく。それがどうしようもなく勿体なく、怖く、そして手放しがたいと思う。へー、と少女は関心があるのかないのかわからない返事をしてから、素敵だねと笑った。それに触発されるようにして隣で坂井が笑い出すのが気に食わなくて、「克樹さんはどうなの」と無理に話の舵を切る。
「え、僕かい」
「俺らの話ばっかりしてても不平等ですから」
「確かに。かっちゃんも話していいよ。どーぞ」
「いや別にそんなに自分の話がしたいわけでもないけれど」
そうだねぇ、と言いよどむ姿に一抹の不安を覚える。なんですか、楽しくないんですか人生。そう茶化すように口にされた言葉は、震えていなかっただろうか。坂井は間髪入れずに突っ込んでくる矢野がおかしかったのか呆れたように矢野の目を覗き見て、それからその瞳を細めた。
「まあ、楽しいかな。おかげさまで」
「……ふーん。良かったねー、矢野さん」
「あーえっと、はーい」
「自分から振っておいて勝手に気まずくなるのやめてくれるかい」
不満げに唇を尖らす坂井に文句を言いたいのはこちらだと八つ当たりしそうになる。克樹さんってまあまあ恥ずかしい人ですよね。そう体を冷やすための二つ目の蜜柑を手に取りながら言うと、美弥もまた呆れたように「かっちゃん昔からこうだからなあ」と告げ口するように矢野に教えてくれた。
「かっちゃんはもっと自分の顔に感謝したほうがいいよ」
「おいどういう意味だそれは」
同じような顔を持つ小娘が坂井のその容貌にあれこれ言うのは、なんだかひどく滑稽に思えた。かっちゃんはその顔じゃなきゃ悲惨な人生だよ。いや君だって大概僕と似たような顔じゃないか。そうやいやいと言い争いを続ける姿を黙って見守っていると、「矢野君からも何か言ってやってよ」と大人げなく坂井が助力を求めてくる。そんなことを言われても。あからさまに眉を下げてしまう矢野に対して、彼はふてくされたように「あーはいはい」と視線を逸らした。
「どうせ君も僕が顔だけだって思ってるんだ」
「いやそうは思ってないですけど」
まあ確かに坂井はとんでもない美形ではあるが、それとこれとは話が別だろう。思わず美弥の方を見て助けを求めると、そっくりな瞳がにいと細められて「かっちゃんいつもこういわれると拗ねちゃうんだよね」と小声で教えてくれた。意外だ、と思う。彼がそういったことで悩んでいる姿だなんて、いつもの家での姿からはとてもじゃないが想像がつかないものだから。
「俺は別に先生の顔そこまで好きじゃないですから」
「君のそういう気の利いたことの言えないところ、割と最悪だと思うよ」
「普通に悪口だ……」
「顔そこまで好きじゃないも悪口だろ」
こんなに綺麗な顔なのに、と文句を言いつつもその口元は明らかに先ほどより綻んでいる。自分の顔に対して自信があるのは知っていたが、かといって自分の顔で評価されるのは嫌なのだろうな、と改めて思った。矢野にもその気持ちは理解が出来る。自分の内面を見ずに、その容貌だけを見て近づかれるのは正直傷つく。矢野は自分の顔が好きではないから、なおのこと。
(でもこの人は自分の顔のことは結構評価してるんだよな)
そのあたりが、よくわからないなと思う。自分と似ているようで違う、遠いところに彼はいるのだ。
「あら克樹帰ってたの……あらあらあら!」
「……母さん」
「この子が矢野君!? 克樹のお友達ほんとに来てくれるなんて」
「……母さんってば」
「こんなことならもっと豪勢にすき焼きとかにすればよかった! もう美弥ちゃんどうしよう」
「母さん、矢野君困ってるから!」
そう珍しく声を荒げる姿は明らかに矢野を庇うためのものというよりかは、己の恥をこれ以上広げないための動作で、矢野は思わず笑ってしまう。しかしながらそんな坂井の声なぞ気にも留めず、大量に抱えている買い物袋を「ほらあんたこれ冷蔵庫にしまって」と押し付ける姿はまさしく、母親らしいと感じさせるものだった。坂井が不満げにしつつそれに従おうとするのを手伝うように横に並ぶと、するりと美弥も隣に来てビニール袋を漁り始める。「伯母さん今日も愉快だね」とにやにやしながら言う少女に、坂井が小さな声で「口数が多いだけだよ」と呟くものだから思わず笑ってしまった。
「まあ改めて紹介するけど……あの愉快な人が僕の母親」
「矢野君イチゴ食べれる? いっぱいあるから洗って食べてね」
「あ、ありがとうございます。あとその……お世話になります」
「いえいえそんな! いつも克樹のお世話してもらってますから」
「かっちゃんそんなお世話されてるの?」
「……されてない、つもり」
「むしろ俺が世話されてる側なんで……」
その言葉にまた坂井の母から茶化しの一言が入り、それに対してまた応酬が続く。その心地よい会話のテンポに耳を傾けながら、黙々とビニール袋の中身を冷蔵庫へと収納していく時間は、なんだかひどく穏やかだと思った。美弥が食材を手に持ちながら「さやえんどうって野菜室?」と尋ねてくる。野菜室なんじゃない、と答えるが矢野もまた正直確信が持てなかった。自分ひとりじゃ買わない食材だ。野菜を食べるにしても、なかなか選ばない。ここは家庭なのだな、と改めて感じる。
「あれ、そういえばお父さんは」
「父さんは世界中飛び回ってて。大体この家には母さんだけ」
「……何されてる方なんですか?」
「一応写真家なんだ」
「伯母さんはそのモデルとして出会ったんだよ」
だからあんな美人なの、と美弥が指さすのを坂井がたしなめる。人に指さしちゃダメだろ、と注意する声の裏で、改めてその女性を見た。先ほどは勢いと緊張でよくわからなかったが、確かにどうみても一般人にはとれない容姿をしている。先ほどは美弥と似ている、と思ったがこうして見ると母親にはもっとそっくりだ。美弥が目元が似ているとするなら、口元や鼻、なによりその佇まいが。
「……っていうか、若すぎません」
「僕はもう二十何年も生きているけれど、あの人記憶のどこを切り取っても同じ容姿してるよ」
「伯母さん、絶対ヴァンパイアだよね」
「……正直息子の僕ですら疑ってる」
並んで歩いてると姉弟に間違われるんだぞ、と恨みがまし気に呟く姿に、まあそりゃそうだろうなと思う。というか、そう話している坂井も正直二十代後半には見えない容姿をしているのだからちゃんちゃらおかしい。あんたもヴァンパイアの血をしっかり継いでますよ、と笑えば美弥もまた隣で頷いていた。
「ほらほらおしゃべりもいいけど手動かして」
「ねーねー、伯母さんていくつ?」
「み、美弥ちゃんやめときなって」
「えー、二十代かなあ」
「伯母さんの見た目だと全然通用しそうなのが質悪いね」
少女には怖いものなどないのだろうかとひやひやする矢野と坂井を横目に、女性陣はわいわいと盛り上がっている。気づけばあれだけの量があった買い物袋はあっという間に片付き、坂井と顔を見合わせる。彼はほんの少し従妹と母親の様子を伺うとそっと唇に人差し指を当て、「面倒だから僕だけでこの家を案内させてくれ」と笑った。
「一応ここが僕の部屋。あとで荷物こっちに置いていいから」
「おお……」
「そんな感心して見るようなものでもないけど」
「いや、なんか一気に現実味が……」
現実味って何、と呆れたように笑うのがどこか遠かった。当たり前にここには彼の生きた痕跡がある。古い学習机も、綺麗に纏められ残されている教科書や参考書の類も、子供らしい柄のカーテンも。全て丁寧に、時間を止めたみたいに残されていた。ただ言葉を発することもせずに片端からまじまじと観察していく矢野が耐えられなかったのか、坂井は「こら」と手に持っていた教科書で軽く矢野の頭をはたく。痛い。
「プライバシーの侵害だ」
「自分から呼んどいてそれはないでしょう」
「それにしたってそんなにじっくり見られるとは思わんだろう」
そう言いながら坂井はキャスター付きの椅子を回して、そこに座る。矢野もそれに倣って畳の上に胡坐をかくと、なんだか張り詰めていた空気が一気に解けたような気がした。長旅で疲れていたのかもしれない。そんなことを思いながら、必然的に見上げる形で坂井の顔つきを眺める。こうして下から伺うその尊顔はどうしたって神様然としていて、気に食わない。
「もう少し早くゆっくりさせてあげればよかったね。美弥ちゃんも母さんも矢野君に興味津々で困っただろう」
「いえ別に……こっちも面白かったですし」
「まあそう言ってもらえると助かるよ」
そう会話をしながらも、矢野の視線は背景をずっと彷徨っている。本棚に並んでいる純文学や哲学書、申し訳程度の漫画。それから、丁寧に飾られている七五三の姿が収められた写真。こうして見ると、幼少のころから何ら変わっていないのだということがわかる。ただ、その背が伸びただけ。そんなに僕の個人情報が面白いかい。呆れたように問うてくる坂井に、矢野はどう返していいかわからずただ頷く。面白い、とは少し違うけれど。
「ほんとに子どもだったんだなー、というか」
「そりゃそうだろ」
「でも、俺は成人済みの克樹さんしか知らないから」
その言葉に坂井は怪訝な顔をする。この人にはそう言った感覚がわからないのだろうか、と疑問に思った。あんただって俺の子供のころとか想像つかないでしょ。そう言ってからこの例えは適切ではなかったような気がしてくる。自分は、彼に幼少の話を鮮明に告白したし、それでなくとも彼は未だどこか自分を子どもだと思っている。口に出してはっきりと「君は子どもだよ」と言われたこともある。いやまあさすがに己のこともちゃんと成人男性だと認識はしているのだろうが。案の定「あー、まあ……たしかに」と煮え切らない返事を寄こす姿に変な笑いが起こる。
「あんまわかってないでしょ」
「いや実際君の幼少期は想像がつかないな。そもそも僕は君のプライベートをよく知らない」
「割と話したつもりですけどね」
「二十年以上の人生をそんな簡単に語りつくせるわけないだろう」
いくら聞いたって足りないよ、と坂井は柔く微笑む。そう言ったことを言うから、とでかかった文句を静かに飲んで、代わりの言葉を考える。そう思うなら先に自分の話でもしたらどうですか。引き換えに自分の話をするのはかなり抵抗があったが、まあそんなものは後でどうとでも誤魔化せるだろうという打算からの言葉だった。坂井はそのカウンターに眉を下げて腕を組むと、しばらく黙って宙へと視線を彷徨わせた。
「自分の話をすることがそんなにないから、何を話していいのかよくわからないな」
大体の人は僕の容姿か、良くて作品にしか興味がないからね。そう苦笑して矢野と目を合わせる姿は、なんだか懐かしかった。以前、出会ったばかりのころはこんな顔ばかりしていたような気がする。己を異端なものとして見る当惑の色ばかりだと思っていたそれは、今見るとどうにも慈愛の色を含んでいる、ような気がする。
「作品は、作家の内面のようなものでしょう」
「作家を見るときに作品は不可欠かもしれないけれど、作品を見るときに作家は必要ないのさ」
だから別に僕は読者には僕自身を見てほしいとも思わない。その言葉には少しとげがあるような気がした。じゃあ誰に見てほしいんです。そう咄嗟に出た問いにも、彼は「誰だろうねぇ」とはぐらかすだけだ。
「……克樹さんって人間関係から謎ですよね」
「謎というか……語るほど広くないだけだよ。君と違って学生時代の友達もいないし」
「別に、俺も多くないですけど」
「君にはよく遊んでくれるお友達がいるじゃないか」
その言葉になんだか変な気分になる。成り行きで行動を共にしているだけだったはずの彼らが、今では客観的に見ても親しい友達として扱われるのだと知ったからだ。まあ、主体である自分から見ても、確かに今やもう彼らは友人と呼ばざるを得ないくらいには重い存在なのだけれど。彼には、そんな存在はいないのだろうか。
(たしかに、彼の母親は『友達』という存在を物珍しげに扱っていたか)
もしかして自分以外に友人と実家に紹介された人間はいないのだろうか、と少しばかり自惚れたことを思う。しかしながら、これだけ面倒見の良い男に友人がいないというのも、どうにも信憑性に欠ける話だと思った。適当に言っているだけなのか、とも思ったが意味もなく謙遜をするような男でもない。矢野がそう不思議そうにしているのを感じ取ったのか、坂井は困ったように笑ってから「そう不思議そうな顔をしてくれるのは嬉しいけれどね」と矢野に言った。
「だってあんたの性格と顔なら普通にしてたら出来るでしょう。あんたに寄ってくる人間なんていっぱいいたでしょうに」
「いやいや、学生時代なんて何年前だと思ってるんだい」
それにあの頃はとにかく人を遠ざけて過ごしてたから、と呟く男の顔は上向きで、なんだか遠くの景色でも見やっているようだった。どうして、と子供じみた問いが出てくるのを止められなくて、少しだけ気まずい思いをする。彼も、その顔で何か被害を受けていたのだとしたら、同様の思いをしたはずの自分がそれを掘り起こして傷つけてしまうのは、とても不用意で、最低なことな気がした。それでも、一度口にしてしまった言葉は取り消せないからただ彼の出方を待つことしかできないのがもどかしく、彼がその形の良い唇を綻ばせ、迷わせるのがひどくゆっくりに見えた。
「どうしてって言われるとすごく困るんだけど」
「……すみません」
「ずっと、他人が嫌いだったんだよね」
「え、っと」
「でもこういう言い方をするとまた君はどうしてって思うんでしょ」
いたずらっぽく微笑む彼に、何も言えず正直に頷いてしまう。彼は可笑しそうに「最近の君は正直だな」と告げた。そんなこと、と反論の言葉が迷いで途切れる。正直、なのだろうか。自分はずっと変わっていないつもりだけれど、彼にとっては自分もまた日々変化している存在なのかもしれない。目の前の彼の表情が少し真面目になるのを眺めながら、そんなことを思う。
「知っていると思うけれど僕はとても器用でね。大抵のことが人並み以上に出来る」
「はあ……はあ?」
「それでいてこの顔だろう? だからほら、どうしたってやっかみを受けてしまってね……」
「おい」
わざとらしく顔を覆って泣き真似をする彼に、間髪入れずにツッコミを入れる。それは嘘か冗談かどっちなんですか。そう途端に緩くなった空気のままに尋ねれば、彼は「えー?」としらを切って誤魔化すだけだ。
(いやまあすべてが嘘というわけでもないんだろうけど)
しかしどうしたって彼がふざけてそれを口にしていたのは明らかなわけで。改めて謎の多い人だ、と矢野はため息をつく。遠ざけられている、と少し嫌な感情がちらついて胸が痛んだ。今まで自分がしてきたことだって同じはずだろ、と嫌な言葉を聞いた気がする。まあ、あんたがそういうことにしたいなら、それでいいですけど。そう口にした言葉は譲歩などではなく、逃げだ。坂井はそれに目ざとく気づいたのか、少しだけ眉を下げて「別に君相手に話したくないというわけじゃあないよ」と告げてくる。
「ただほら、少し気恥ずかしいじゃないか。自分の若いころの話なんていうのは」
「……俺だって自分の昔話するの嫌でしたけど」
「いやごめんて。悪かったよちゃんといつか話すから」
不安にさせて悪かったよ、という言葉に嗚呼あやされているなと思う。結局自分が悪いのだ。子ども扱いしてくる彼ではなく、そのような対応をさせてしまう自分が悪いのだと、わかってはいるのだけれども。今だってそうだ。本当に対等でありたいのなら、別に無理して話す必要はないと一言言ってのければよかっただけなのに。いつだって彼は、大人の目線で、自分に都合のいい言葉だけを与えてくれるから。だから、自分はずっと彼を見上げることしかできない。
「先生と」
「……うん?」
「先生と、対等になりたい」
いつだって神様みたいな人はその言葉にひどく驚いたような顔をして、椅子を降りて己の横に座ってくれる。僕はずっと対等だと思っていたけれど。そうかけてくれる言葉に、矢野はただ「これは俺の心の問題だから」と首を横に振ることしかできなかった。
それからしばらく押し黙って並んで座っていると、美弥が部屋までやってきて「何してるの」とやや引き気味に声をかけてくれた。暇してるなら珈琲切らしてたから買ってきて、って伯母さんが。そう小綺麗な財布を手にしながら、美弥もまたよくわからないといった風貌で横並びに立つ。やや心配そうな顔をして「行く?」と小首をかしげる坂井に、黙って立ち上がって見せれば、彼もまた慌てて後に続いた。
「美弥ちゃんも行くの」
「えー暇だし行こうかな」
「じゃあ三人で行こう」
そう言って部屋を出る坂井の後ろを歩きながら、未だどこかぼんやりとしている矢野に、美弥は心底不思議そうに「さっき何の話してたの」と声を潜めて尋ねる。何の話してたの、と言われても困る。耳奥で反芻する自分の言葉がどうにも気持ち悪いものに思えて、うんざりとした。何の話って言われても。そう小さな声で答えたところで「克樹ー!」と大声が割入り、即座にかき消される。前を歩く男が大きく肩を震わせたのがなんだか可笑しかった。
「な、なに母さん」
「ちょっとこれ動かすの手伝ってほしくて! あんたの力でもあるのとないのとでは大違いだから!」
「いや今から僕ら買い物行くから」
「ミヤ、お店の場所わかるから、かっちゃんいなくても大丈夫だよ」
「え、いやそれは」
「なんかあっても矢野さんがいるしー」
そもそも真昼間なこともあって何か起こるとも到底思えないわけだが、とりあえず矢野は話を合わせて適当に頷く。坂井はあからさまに母のことを手伝いたくない、といった様子だったがここで下手にごねるのも体裁が悪いと思ったのだろう。一つ大きなため息をついて「じゃあ何かあったら連絡して」と大人の対応をした。その裏でも彼の母親から飛んでくる追撃に、焦ったように「今から行く!」と声を張り上げる姿は、とても矢野との生活では見られないものだ。あっという間にその場から姿を消していった坂井を呆然と見送っていると、美弥もまた呆れたように笑い声をあげた。
「じゃあ行こっかー」
「……そうだね」
平然と任務を遂行しようとする少女に、果たして今日初対面の知らぬ男との二人行動が気まずくはないものだろうか、と思う。かといってそれを自分が切り出すのも可笑しな話で、矢野は静かに美弥の後ろをついていくことしかできない。なにか、話題を振るべきなのだろうか。適当な人間関係ならぺらぺらと言葉が出てくるのに、彼女が坂井の大切な親族だというだけで、どうにも態度を選んでしまう。どうしようもないな、と静かに自嘲した。
「あ、そういえばさっきの話の続きだけどさ」
「え……ああ、うん」
「結局かっちゃんと何の話してたの?」
そういえばそんな話をしていただろうか。改めて問われたところで、答えが用意しづらい問題なことには変わりないのだが。「言えないようなことなの」と問う姿は口元に笑みこそ浮かべているもののなんだか変に圧を感じるもので、矢野は早急に答えを口にしないといけないような気分になる。
「なんかこう、歳の差あるからさ」
「うん」
「ちゃんと対等になりたいな、みたいな」
自分でも何を言っているかわからない下手くそな説明だと思った。案の定彼女は不思議そうな顔で「どういういみ?」と可愛らしく小首をかしげる。さっきから言葉に詰まる問いばかりだが、少女はそれを理解しているのだろうか。わかっているのなら、相当だと思った。
「矢野さんの思う対等ってなんなの? 農民と武家や、貴族と庶民みたいな世界観に生きてるわけじゃないでしょー?」
「そ、れはそうだけど。そういうのじゃなくて……なんて言えばいいんだ」
「同い年みたいな関係性になりたいとかなら無理じゃない? だって普通に歳の差はあるんだし」
その言葉に思わずグサリとくる。それは、そうなのだ。歳の差はどうしたって埋められないし、出会ったころの印象を覆すのは簡単なことじゃない。
「……わかってるよ。わかってるんだけど」
「いや別にミヤも矢野さんとかっちゃんのこと良く知らないけど」
「どうせ俺はあの人にとって年下だし。そうじゃなくても出会った時からずっとふらふらしてるから俺に頼る気になんてならない、だろうし……」
「すごい急に饒舌にネガるじゃん」
なんだかこの少女と話していると自分の底が見透かされている感覚になる。この目がいけないのだろうか。全てを見通してしまうような、理知的な瞳。あの人と同じ、茶色く澄んだそれは、どうにも自分の弱点なような気がして、無意識に直視することを体が拒む。下げた視線にはにんまりした口元が移って、そこがゆっくりと言葉を紡ぐのをどこかスローモーションのように眺めてしまった。
「っていうか、矢野さんってかっちゃんに頼られたいんだ」
「そういうわけじゃ……いやそういうことに……なる、のか」
「自分で言ったんじゃん今」
呆れたようにツッコむ美弥に、返事をする余裕もない。確かに自分の滑った口から出てきたそれは、坂井に頼ってもらうことこそがゴールのようなニュアンスだった。しかしそれを認めるのは、何というかあまりにも恥ずかしいことじゃないだろうか。いやしかし。
(……たしかに俺は自分ばかり彼にもたれかかってるのが嫌だった、ような気がする)
今や自分は彼なしの生活がひどく遠く感じられるようになってしまった。自分ばかりが彼に甘え、頼り、その蜜を啜っている。けれども、その逆はどうだろうか。彼はきっと自分なしでも普通に生きることができる。自分は彼のことを支えるには、何もかもが足りない。それが、気に食わないから対等になりたいのだとしたら。
「……俺めちゃめちゃ嫌なやつかも」
「嫌な奴だったらかっちゃんも友達って紹介しないと思うよ。まあわかんないけど」
「そこは言い切ってよ」
恨みがましく美弥にそう言ってしまう矢野に、美弥は「だってほんとに知らないもん」と少しむくれる。ミヤだってただ従妹なだけだから、かっちゃんの生活なんて知らないことの方が多いよ。それこそ矢野さんの方が詳しいんじゃない。その突き放すような言葉は、どこか寂しそうにすら思えて、矢野は少し申し訳なくなる。
「でもかっちゃんは矢野さんのこと相当大事にしてると思うけどね」
つまらなさそうなその美弥の言葉に、それはそうなのかもしれない、と感じられるようになったのは成長なのだろうか。でも、それだけじゃ足りないと思ってしまうのが、望ましくないことなのはわかる。
「でも対等になって、頼られて、それでどうなりたいの?」
「そんなの聞いてどうすんの」
「いやシンプルに知りたくてさ」
だって別に、好きになってほしいーとか恋人になりたいーとかそういう感じじゃなさそうだし。そう呟く美弥に、なんだか自分も一気に不安な気分になる。対等になることばかりを目指して彼の行動一つ一つに目くじらを立てていたものの、いざそれが達成されたときのビジョンなど、まるで思いつかないのも事実だった。彼と出会う前の自分はこんな面倒くさい思考は持ち合わせていなかったはずだ。いろんなものを与えられて捻じ曲げられて、いつも、自分ばかりが。
「俺はただあの人の、助けになりたい、ってだけ」
「ふーん、聖人だねー」
「……嫌味?」
美弥の言葉に思わず眉を顰める。矢野だって自分がそんな聖人だとは思っていない。己が憧れた男であるまいし、そんな綺麗な感情だけで生きられる人間なはずがないのだ。それでも優等生の回答をしてしまうのは、偏に醜い自分に蓋をしていたいだけに他ならない。今更、そんなお行儀良くしていたってもう、仕方がないのに。
美弥に先導されてやってきたのはやや大きめのショッピングモールだった。てっきりスーパーにでも行くのかと思っていたが、なんでもそれなりにこだわりがあるらしい。そういえば息子の方もいつも茶葉やら珈琲豆やらには詳しかったな、と思い出す。矢野には全くそういった知識はないが、違うものは違うのだろう。美弥が「また棚の場所変わってる」と不満を零しながらも見つけた目的のものを購入し、後は帰るだけというのも少し味気ない。何かアイスでも奢ってやろうかとアイスチェーン店を横目で見ていると、美弥は「あ!」と声を上げて足を速める。吸い込まれていった先は書店だった。
「かっちゃんの本だ」
「ほんとだ。さすがに故郷なだけあって推されてるんだ」
「まあねー。仮にも有名小説家だし」
文庫本に再編された彼の文章を手に取り、ぱらぱらと目を通しているのかいないのかわからない速度で捲る。そのタイトルは矢野もよく知っていた。ずっと前、筆が進まないからといって休憩ばかりしていた彼の前で口にすれば、面白いくらいわかりやすく頭を抱えだしたその表題が、今こうしてきちんと活字になっているのだと思うと、なかなかに感慨深い。いや別に、己は何もしていないのだけれど。
「美弥ちゃんは克樹さんの小説とか読んでるの」
「読んでるよ。かっちゃんのお話、なんか最近ほんとに面白くなったよね」
昔はぱっとしなかったのになあ、と辛辣なことを言う美弥に、思わず「そんなことないだろ」と口出ししてしまう。言ってから後悔した。感じ方だなんて人それぞれあって当たり前だ。昔のほうが良かったというファンも、どんどん面白くなっていると思うファンも、いるはずなのだ。というか矢野自身もまた、かつての彼の作品は何かが欠けていると感じていた一人だったくせに。
(でもそういうところが、好きだったんだよな)
自分には理解できない存在が書いた文章だと思っていた。己のような面倒くさい情緒からは逸脱した、超然的存在が書いた何か。それがかつての矢野にとってはひどく魅力的だったのだ。人から己に向けられる感情に、己が他者へと向ける感情に、疲れていた当時の自分にとっては。それがここ数年の作品はひどく人間的になったのだから、周りに変わったと持ち上げられるのもよくわかる。社会に迎合したわけでも、単純化したわけでもない。もちろんつまらなくなったわけでもなく、ただそれは例えるなら、神だった男が人間に入れ込んでいるのが透けているような、人間的情緒を手にしたような。もしかしてここ数年の間に近しい人、有体にいるなら恋人でも出来たのだろうか。いやしかしそういった素振りがあるならさすがに自分も気が付くと思うが。そんなことをぐるぐると考えていると、まじまじと美弥が己のことを見ているのに気づくのが遅れた。なに、と尋ねると美弥は呆れたように「いやー」と首を横に振る。
「矢野さんってわかりやすく、かっちゃんのファンなんだなあと思って」
「別にそんなんじゃないけど」
「いやさっきの否定の速さは古参のオタクのそれだよ」
「……オタク」
「ショック受けないでよ」
まあそりゃあ確かに矢野は彼の作品を追う人間の中でもかなり昔からいる部類ではあるのだろうが、しかしながらなんというか『古参のオタク』という表現は些か気に入らない。もちろんそう言った呼ばれ方をされる人間がいることももちろん知っているし、なんなら坂井にはそう言った所謂オタクと言われるタイプのファンが多いわけで、そう言った人たちのことを否定する気はさらさらないのだが。ただなんというかこう、矢野自身が彼のそう言った存在であると言われるのは、まるで。
「別に俺は……俺は、あの人のことを信奉しているわけじゃない、から」
「えー、じゃあ矢野さんにとってかっちゃんはなんなの」
「さっきからめちゃめちゃ聞いてくるじゃん」
「だって面白いんだもん」
そうけらけらと笑う少女に対して、自分は何と返せばいいのかと答えを悩んでしまう。ここに来て彼女に会ったばかりの時も少し考えたが、どうにも明確な言葉にしづらいのだ。信奉はしていない。けれど、彼のことを尊敬はしているし、根底にあるのは確かに好意だとも、思う。ただその一方で好意だけで片付けるにはあんまりにもぐちゃぐちゃとしていて、とてもじゃないが綺麗な言葉で片付けられるものでもない。
(俺があの人に向けている感情)
その中には自分より遥かに整った容姿のくせにまともに生きられている羨望があり、自分のような人間にずっと付き合わせている申し訳なさがあり、そしてなにより、自分が大事だと、ずっと側にいると言ってくれたことへの喜びと感謝が一番容量を占めていた。気づけばいつか彼が己を裏切るかもしれないという恐怖はかなり目減りし、漫然と坂井克樹という男の近くにいる未来を描けるくらいには、己は彼を信頼しているのだと思う。それは彼は絶対的に自分を受け入れてくれるのだという、半ば確信のような。
「……居場所、みたいな」
「いばしょ」
「あの人の隣にいるのが一番落ち着くし、楽で……こういうのがずっと続くんだって、思う、から」
いや、っていうか俺が続いてほしいって思ってるだけ、なのかもしれないけど。そう途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、本心を吐露する精神の動きはいつだって気分を害してくるものだな、と他人事みたいに思う。美弥はそれに対して「ふうん」と納得しているのかしていないのかいまいちよくわからない返事を寄こし、それから改めて本に視線を落としては、ふっと笑った。
「大好きじゃん、かっちゃんのこと」
その言葉になんだかどうしてもこそばゆさを感じて「いや」と思わず発してしまう。けれども、どうしたってそれを否定するのは不誠実な気がして、心が反発する。そこまで自分の感情がはっきりしているくせに「まあ、うん」とだけ告げるまでに何秒もかかって、それも消え入りそうな声なのだから、本当に情けないと思った。どうせなら笑ってくれ、とすら感じてしまう。
「……まあ、気持ちはわかるけどねー」
けれども、美弥は先ほどまでと打って変わって、ため息交じりにそう呟くだけだった。急に色を落とした態度に矢野は態度に出さずに驚く。少女は白く細い指先で、手にしていたその本をそっと棚に直すと、改めてこちらに視線をかち合わせる。それは、もしかしたら己を睨みつけていたのかもしれない。けれども、その瞳にはどうしたって悲哀の色が含まれていて、そうは思えなかった。坂井によく似た瞳に映る深い悲しみは、どうしたって矢野の心象を曇らせる。
「だってかっちゃん、優しいもん。好きになる気持ち、わかるよ」
その言葉を皮切りに、少女は押し黙って俯いてしまった。そのほんの少しの感情の決壊に、矢野は触れていいのか少しだけ迷ってから、「帰ろう」と少女の身長に合わせた中腰で告げる。それとも、アイスとか食べる。細い首がわずかに動くのが長い髪の中から見え、矢野は努めて穏やかに「そっか」と答える。己の隣を静かに歩く少女の肩を見つめながら、嗚呼あの人は生きているだけで周りの人間を焼くのだと、思った。
「……ミヤの両親、離婚してるんだけどさ」
ずっと重く閉じられていた口を開かせたのは、そんな言葉だった。それは黙ってアイスの種類を選んでいた矢先の話で、あんまりにも藪から棒なそれに矢野が答える前に、少女は先ほどまでとは打って変わって明るい様子で店員に向かってアイスの種類を三つ呼びかける。矢野さんは、と急かすような言葉に矢野もアイスコーヒー一つ、とだけ答えると慌てて会計を済ませる。話の続きを、聞かねばならないと思った。
「ごちになりまーす」
「いやそれは全然いいんだけど。……それで?」
「こっち座ろうよ」
「俺の声聞こえてる?」
さっさとイートインスペースへ移動していく美弥の分までアイスを受け取って、矢野もまたその後を追う。少女が座っていたのはカウンター型の席で、少女の前に「ほい」と三色のそれを置いてやれば「おいしそー」と歓声が上がった。元気、なのだろうかと思ってしまう。そんなはずはないのに。アイスに軽くスプーンを刺す動作を横目に見ながら、コーヒーを口に含む。未だに何が上手いのかよくわからないが、それでも落ち着く味だった。美弥もまた一匙だけアイスを掬って口に含み嚥下すると、ふう、と長く息を吐いてから緩く髪を触った。
「まあ、そうさっきも言ったけど……離婚、してて。それはミヤが生まれたばっかの時の話だから、全然なんも覚えてないんだけど」
「うん」
「ミヤはママに引き取られたの。でもママはミヤが十一歳の時に死んじゃって、それで、今度はお父さんに引き取られたのね」
美弥はそう言ってぼんやりと、何があるでもない目前の壁を見つめる。でも、お父さんは忙しいから当たり前に美弥の面倒なんて見れなくて、だからかっちゃんの家にしばらく二人でお世話になることになって。その言葉は過去を振り返っている、というよりかはただ聞いた話を確かめているかのような語り口であるかのように、矢野には思えた。何かアクションを起こして話の腰を折るのも違う気がして、矢野はただ静かに相槌と頷きを添える。
「でも、そんなの馴染めるわけない、じゃん」
その当時の少女の心境は、いったいどれほど不安なものだっただろうか。矢野にその機微が理解できるとはとても思えないが、それでも想像できる範囲だけでも、ひどく苦しい話だと思った。お父さんだなんて、思えるわけないじゃんね。それだけの言葉で、窮屈さが如実に伝わってくるのが、切ない。
「知らない人ばっかりの家になんて当たり前に帰りたくなかった。でも知らない人ばっかりの学校もやっぱり居心地悪くて、授業終わったら飛び出して、それでいつも公園で一人で時間つぶして、心配されないぎりぎりの時間に帰ってた」
でも、一日だけすごい疲れてる日があって、公園でぼうっとしてるうちに寝ちゃって。その時の、目を開いた瞬間の虚脱感は忘れられない、と少女は話した。青かった空が黒く染まり、公園にはオレンジの街灯がもたらす心許ない光しかない。周りで楽し気にしていた子供たちはすでに一人もおらず、ただただ冷たい風だけにくるまれて、呆然と体を起こしたのだという。もう、早く帰らなきゃって気持ちすらわかなかった。その言葉は、矢野にも少しだけわかるような気がした。その時、悲しみを通り越してすべてがどうでもよくなっていたのだろう。
「その時、かっちゃんが迎えに来てくれたの」
「克樹さんが」
「そう。……ミヤがぼうっとベンチに座ってるの見て、焦った顔して駆け寄って来てくれた」
あの人なら、そうするだろうな、と思った。どんなときだって、誰にだって優しい人だ。自分のうちにやってきた少女のことを、どうしたって放ってはおけなかったのだろう。それがね、すごく嬉しかったの。そう少女は語る。駆け寄ってきてくれて、何があったのかって尋ねて、それからたくさん話を聞いてくれた。その瞬間の光景が、矢野にも思い浮かぶくらいに、坂井克樹という人間は誰から見てもブレがないのだと思った。
「それだけのこと、って思うでしょ。でもそれだけの価値があったんだよ。昔のミヤにとって、それはそれだけの意味があったんだよ」
「うん。わかるよ、俺にも」
その一瞬の出来事を、少女は何よりも尊いものとして抱え続けているのだろう。それは矢野だって同じだ。彼と話した数十分を、己は後生自分の人生の意味として、そこに据え続けているのだから。美弥はその矢野の共感に対して一気に苦い表情をして、「矢野さんも、かっちゃんに救われたんでしょ」と零す。その言葉には、頷かざるを得なかった。
「矢野さんも、ミヤとおんなじなんでしょ」
「……そう、かもね」
「かっちゃんはね、質が悪いんだよ。誰にでも優しいの。だから一度ちゃんと関われば、関わってしまったら、みんな……」
「あの人のことを、好きになるだろうね」
ぱっとその言葉に矢野の方を向いて、あの男とそっくりな目で矢野のことを睨みつける。彼も怒ったらそんな感じなのだろうか、とふと思った。矢野は坂井が本気で敵意をかざしているのを見たことがない。あの人は、それほどまでに誰かに対して情を抱かないのだろう、と思っていた。それが、ひどくもどかしいのだ。自分にとっても、もちろん目の前のこの少女にとっても。
「ミヤは、顔でかっちゃんのことを好きになったわけじゃない。この気持ちは恋なんかでもない。そんな性欲まがいの感情なんかじゃなくて、もっと純粋にかっちゃんのこと、好き、だった。矢野さんより、矢野さんなんかよりずっと前から好き、だったのに」
「……」
「それなのに、どうしてかっちゃんの特別は、矢野さんなの……?」
ミヤが従妹だったから? それとも、ミヤが女だったからいけないの? そう答えのない問いを譫言みたいに呟き続ける姿は、ひどく痛々しいと思った。そんなことを思われることすら、美弥にとっては屈辱でしかないだろうが、それでも矢野は思ってしまった。自分は冷たい人間なのだな、と改めて思う。矢野にはこの少女は救えない。
「かっちゃんが矢野さんを連れてきたとき、一目見て嗚呼特別なんだなって思った。あんな風に他人と親しくしてるかっちゃんなんて、この家で見たことなかったの」
「……そう、だったんだ」
「どうしてそんな無自覚なの!? さっきは同じだって話したけど、ミヤと矢野さんは、違う、違うんだよ……」
そう言うと、彼女はいよいよはらはらと泣き出してしまった。もっと、うるさく声を出して泣くものだと思っていたのに、その泣き声はどうしたって静かで、それがまた彼女の抱える絶望の大きさを映し出しているようで、やるせなかった。
(……俺も別に、あの人の特別じゃない、つもりだったけど)
良く考えずにその言葉を吐き出してしまうのはきっと、また美弥を傷つけることに繋がると思った。坂井克樹は、誰にでも優しい。それは矢野もよく知っている。だからこそ、いくら優しくされているのは知っていても、自分が特別だとはとてもじゃないが思えなかった。自分じゃなくたって、彼はそうするだろう。だって彼は当たり前に人に慈愛を持てる人間なのだから。たまたま自分が彼の一番側に転がり込めて、たまたま自分が一番彼と時間を共にしているから、自分が親しくされているだけ、だと。
「美弥ちゃんは、克樹さんの特別になりたいの?」
「そう、だよ」
「特別って、どういう状態」
「……それ、意趣返しのつもり?」
「だって特別って言葉は逃げでしょ」
好きも嫌いも、どんな感情だって強いってだけでそれは特別になり得るんだよ。その言葉に美弥は流している涙を拭いながら、下唇を噛み締める。好きになってほしいとか、恋人になりたいとか、そう言う感じじゃないんでしょ。それは彼女が矢野に対してかけた言葉でありながら、きっと彼女自身にも当てはまるものだったのだろう。なら、彼女が坂井に望むのはなんだったのか。彼女が矢野を、こんなぐちゃぐちゃになってまで羨むのは何故なのか。それを、知りたいと思った。
「……そんなの、ミヤが知りたいよ」
でも、と少女の言葉がそこで途切れ、思案するように視線が揺れる。言葉を探しているようだった。言葉を通して自分の気持ちを明文化しようと、整理しようとしている動きが見て取れる。
「でも、でもそう……ミヤは多分、かっちゃんの唯一の理解者でいたかったんだと思う」
「独占欲、みたいな感じだ」
「そう、なのかもね。あの日公園で、かっちゃんが自分の話をしてくれて。容姿のこととか、人に心を開けないこととか……そういうの全部、ミヤと同じだと思ったんだよ」
「……うん」
「だからミヤが、ミヤだけがわかってあげられるって、思った、のに」
そうじゃなかった。それを吐き捨てるようにして告げる唇はいっそ無機質すぎるほどで、あどけない顔つきにはとてもじゃないが似合わない。似合わないが、そこにはどうにも切り離せぬ超人的な美しさがあって、思わず息を呑んでしまった。神様みたいな顔つき。それはどうしたってあの男の影と重なって、嗚呼この少女もまた人間らしい感情が似合わないのだと、他人事みたく思う。それでも、彼女は抱いてしまったのだろう。
「そういうのがしんどいの、わかるよ」
「共感とか、いいよ別に」
「いや俺も昔、尊敬してた人の特別になりたかったから」
なれなかったけどね、と矢野は自嘲気味に笑った。文字通り最期まで、自分は彼の特別ではなかっただろうと思う。あの人はそういった枠組みを持たない人だった。それが当時の自分にとってはどうしたって面白くなくて、どうしたってそれになりたくて、ずっと何か渇いていたような気がする。それは、あの人が亡くなった後もなお、ずっと。
(誰にでも優しいっていうのは、残酷だよな)
自分以外にもその甘さを行使しているのだと一度思ってしまえば、相手にとって自分が取るに足らない有象無象なのだと思い知らされてしまう。自分にとっては救世主である相手に、そんな風に切り捨てられてしまうのは。いつか、自分のことなど忘れてしまってどこかへと消えていってしまうのじゃないだろうかと怯えながら暮らすのは、ひどく悲しい。だからこそ、特別になりたいと思う。捨てられぬ存在になりたいと、思う。少女のように、唯一にこだわる。でもそれは、どうしたって自己肯定感の低さからくる、独占欲でしかないのだ。
「なんかでも、克樹さんなら大丈夫なんじゃない」
「なにそれ。適当言わないでよ」
「あの人は、美弥ちゃんが特別じゃなくても、唯一じゃなくても、離れていったりしないよ」
俺が憧れたあの人とは違って、と矢野は心の中で付け足した。それがきっと、矢野が未だ安心して坂井の側にいる選択を取れている理由なのだろうとも思う。選ばれなくたって、彼は自分を拒絶したりはしない。どこかへ勝手に行ってしまったりは、しない。もっともその安堵があってもなお、今度はもっと欲深い感情が首を擡げたりはするのだけれど。少女はそんな矢野の心中など知らず、矢野のその言葉に悔しそうに顔を歪めて、地を這うような声でなんとか言葉を絞り出さんとする。
「……そんなの」
わかってるよ。そう今にも掻き消えそうな声で少女は呟いた。
「それがわかってて、信じたくて、でも……信じられないから、美弥はあの人の一番にはなれないんでしょう」
それは、諦めの一言だった。諦めであり、踏ん切りの一言であると思った。美弥はその音が聞こえるほどに大きく息を吸って、どろどろに溶けたアイスを前にスプーンを構えたかと思うと、さっさとかきこんでしまった。それから、ゴミ箱にぽいと勢いよくそのゴミを放り投げる。緩やかにその深淵へと落ちていくいろんな感情のこびりついたそれを、無言で見つめる背中が切ない。けれどどのような表情をしているのか、自分が見るのは違うと思った。それは、野暮だと思った。
「家に戻ったら全部忘れてね」
言うまでもないと思うけど。それが無言の帰り道の終止符として打たれた一言だった。少女はそれを告げてから、一気に口角を上げて、持ち前の高い声で「ただいまー」と勢いよく扉を開ける。健気なものだな、と矢野はぱたぱたと駆けていくその後姿を見ながら思った。彼女が脱ぎ捨てた靴も、そっと整えてから自分の靴を脱いで家にあがる。目前にはわざわざ廊下まで出てきたであろう坂井の姿が増えていた。
「ああおかえり。あれ美弥ちゃん、矢野君は?」
「矢野さん後ろにいるじゃん。ほら玄関」
「あ、ほんとだ」
坂井はこちらに気が付くと、ゆるりと微笑みをこちらに向けて「おかえり」と柔い声で告げてくれる。その反応に思わず美弥の方を見てしまいそうだった。いや別に他意はないのだろうが、なんとなく美弥の顔が見えなくてよかったと思った。
「美弥ちゃん、矢野君とは仲良くできた」
「えーもう余裕。めっちゃ喋ったもんねー」
「あー、うん。そうだね」
「ねえやめてよその気使ってるみたいな返事!」
美弥がそう笑いながら、しかし確実に圧をかけてきているのに気が付いて思わず「ごめんごめん」と誤魔化す。二人でアイスとか食べたもんね、と暗黙の指示のままに仲良しアピールをすると、それはそれでお気に召さなかったらしく「いや矢野さんはコーヒーだったじゃん」と文句を言われる。どうにも少女の扱いは難しい。いやいいだろそのくらい、と言い返して応戦していると、その様子を可笑しそうにくすくすと坂井に笑われた。
「何笑ってるんです」
「いや、ほんとに仲良くなったみたいで嬉しいなあと思って」
「別にミヤと矢野さんが仲良くなったところで、かっちゃんには関係ないでしょー」
「いやいや、嬉しいじゃないか」
自分の親しい人同士が仲良くなってくれたら。そう臆面もなく言い放った坂井に対して、ミヤがほんの一瞬だけ傷ついたような顔をするのを、矢野は見てしまった。見てしまったところで矢野が何か言えるわけでもなく、ただ「物好きですねー」とその場を流すことしかできなかった、ような気がする。いつだって何となくで心を読んで言葉を吐いている矢野にとっては、自分の発言は重みをもたない。美弥もまた全部忘れて、と自分で言っただけあって、その後は特に変な素振りもなく平然と坂井と接していた。それは取り繕われた、表層だけの会話なのかもしれない。それでも、そうしたなんでもない時間が必要なこともあるのだ。その気持ちは矢野にも理解できる。そんな作られた穏やかな時間がゆっくりと流れていき、そこに坂井の母も加わって、少しだけ賑やかな食卓が彩られた。
(同じ四人なのに、こうもあの家と雰囲気が違うものか)
矢野の家もまた、兄と己と両親との四人家族であり、基本的にはこうして食卓を囲んでいた。それでも和気藹々とした色はどうしたってそこには映らず、それはただ矢野の形骸化した人生を延長するための時間でしかなかった、ように思う。ここにいるのは家族でも何でもない他人でしかない。それでもあの頃よりもずっと、家族らしさを感じているような気がした。
「矢野君美味しい?」
「はい。めっちゃ……すごい、美味しいです」
大皿に盛り付けられた天ぷらは、とてもじゃないが普段の生活では見ることのない量で、わかりやすく心が躍る。若い美弥はもちろん、胃がもたれると言って普段は揚げ物を控えている坂井ですら、頻繁に箸を大皿へと差し向けているのだから可笑しい。出来立てのそれは、ほんの少し食むだけでさくさくと音を立てながら崩れていく。美味しい、ともう一度、繰り返す意図はないままに呟いてしまった。
「うちではあんまり天ぷらとか作らないからなあ」
「お母さんも別にしょっちゅう作るわけじゃないわよ。今日は特別」
「ミヤ、伯母さんの料理が一番好きー」
「あら美弥ちゃん、もっと褒めてもいいのよ」
その美弥の態度に、矢野はふっと先ほどの話を思い出す。今はきちんと馴染めているのだ、と思うと少し安心した。血のつながりだけじゃない信頼が、今はきちんと構築されているのだと、改めて思う。
「矢野君は普段料理とかするの?」
「あ、いえ……作れないんで。普段は克樹さんに任せっきりです」
「嘘つけ、別に作れないわけじゃないだろ」
「作れないわけじゃないですけど、克樹さんが作ったほうがうまいんで」
「人が作ったご飯が一番おいしいもんねー」
そりゃあ気持ちの問題でしょとたしなめる坂井に、「その気持ちが大切なんだよ」と美弥は言い返す。その言い分には矢野も同意だった。もちろん作ってもらったほうが自分が楽なのもあるが、それ以上に嬉しいのだ。自分のために温かい食事が用意され、食卓に座ってもらえることが。天ぷらを改めて口に含む。さくり、と軽い出来たての口当たりと熱さが嬉しいと思う。
「克樹の料理ってそんなに美味しいの? 母さんには食べさせてくれないから」
「めちゃめちゃ美味しいです。学食で食う気なくします」
「へー! 具体的には? 何作るの克樹って。どれが一番好き?」
「……母さん、矢野君をあんまり困らせないで」
その坂井の制止は、美弥の「かっちゃん照れてるの?」という一言で完封される。バツが悪そうにしながら、早くこの場を何とかしろと言わんばかりの視線を送る坂井と、興味津々の坂井母、そしてやや気になるらしい美弥のそれぞれの態度を可笑しく思いながら、矢野はなんとなく答えを考える。どれが一番か。矢野には基本的に食の好き嫌いがあまりない。この言い方だと聞こえが良いが、要はあまり食事に対して関心がないのである。生命維持のための行為、といった側面が強い食生活で育ってきた弊害ともいえる。そのため矢野は好きな料理と言った概念もあまり持ち合わせておらず、だからこそ、こういった疑問はどうにも答えにくい。
(かといって全部好きです、というのもなんだか嘘くさいだろうか)
嘘だとか気を使っているだとか思われるのはどうにも気に食わない。とりあえず先に普段作ってもらっているものについて触れようと思い、緩やかに記憶の手繰り寄せ唇を開く。親子丼とか、オムライスとか、茶わん蒸しとか。描き出される食卓に対して、卵ばっかだね、と美弥からツッコまれて少し笑ってしまった。確かにそうかもしれない。ご近所さんから卵を貰ったから、ここしばらくは卵料理ばかりだったのだ。
「でも一番好きなのは味噌汁かも」
「毎日出してるやつじゃないか」
「毎日食べてるから、愛着も湧くってもんですよ」
それに、と内心で矢野は付け足す。坂井はいつも味噌汁を作っているときに話しかけると、彼は具材について語ってくれる。今は白菜が旬で安かったから買ってみたんだ。もやしがちょっと余ったから入れてみたよ。お向かいの渡辺さんいるだろう、あの人が茄子くれたから。そういった言葉から普段の坂井の生活が少しだけ透けるのがどことなく面白くて、だからこそ矢野は味噌汁を作る彼の後ろ姿が好きだった。まあさすがにそれを当人の前で語るのは気まずいので無理だが。そんなことを考えながら坂井の方をちらと見ると、絶妙に眉間に皺が寄っていて笑ってしまった。もうちょっと大層な料理を褒めてくれよ、と小声で文句を言っているが、いつもは陶器のような肌が赤らんでいるせいでまったく説得力がない。
「よかったわね克樹、懐かれてて」
「ほんとだよかっちゃん。なんか一気にお腹いっぱいなっちゃった」
「……それは僕のせいじゃないだろ」
そう言って坂井は不貞腐れながら、小皿にとっていた天ぷらを数口で食べきると「ごちそうさまでした」と手を合わせて席を立つ。皿洗いに向かうのだろう。手際よく空になっている皿を重ねていく姿を見て、矢野もまた同様に手を合わせる。美味しかったです、と改めて作り手に微笑めば、「お粗末様でした」と笑い返された。今度は克樹に味噌汁でも作らせようかしら、と茶目っ気たっぷりに言う姿に坂井の肩が少しだけ揺れて、けれど反応を返さない。しまいにはミヤもかっちゃんのお味噌汁食べたい、とさらに騒ぎは大きくなり、皿を下げに来た矢野に対して恨みがまし気に「君のせいだぞ」と苦言を呈される。矢野はそれに答えず、ただ少しだけ頬を緩ませて笑った。
勧められるがままに入浴させてもらってから改めて坂井の部屋へと戻ると、部屋の主はまた椅子に座り、勉強机に相対していた。かつてもこんな風に勉強していたのだろうか。もっとも、すこぶる要領の良い人だからそういった勉強らしい勉強をせずともそこそこの成績はとれていたようにも思う。そんな姿を、美弥なら知っているのだろうか。かつてこの家に住み、彼と言葉を交わしていた彼女なら。なんだかそれは少し、面白くないように思う。
「何してるんです」
「あ、お風呂あがったんだ」
「いただいてきました。で、何それ。本?」
「そうそう。かなり昔のやつだから君は知らないかもだけれど」
なんとなく懐かしくなってね、と表紙をなぞる指はまるで、ひどく脆いものに触れるかのような手つきだった。そのデザインには矢野にも見覚えがある。それは見覚えがあるどころか幾度となく目にしてきたそれは、何なら記憶の中のほうがずっと年季が入っていて、劣化が目立っていた。冒頭を諳んじることすらできる。表紙を開き、ページを捲ることすらなく、矢野はその内容を鮮明に思い出すことが、出来る。
「知ってますよ、それ。ずっと、俺の一番側にいた本だから」
「……嬉しいことを言ってくれるなあ。自分で見たって拙いばかりの内容なのに」
「自分で見るから、でしょう」
まあ俺も別に良い内容だとは思わないですけど。そう付け足して彼から本を取り上げると、坂井は呆れたように「君はほんといつも一言余計だなあ」と笑った。喜劇も悲劇もロマンスも友情も遠ざけた、ストーリーもへったくれもない、ただ平坦な日々への諦念。世間様に受けないのもよくわかる。矢野だってこれを面白いとは微塵も思わない。けれども。
「この話は、俺にとっての理想そのものでした」
そこにあったのは感動ではなく関心だった。若くして感情に振り回されることに疲れ、その色を遠ざけてきた矢野にとって、描かれたモノクロの世界はひどく魅力的だったのだ。
「俺はそれを読んで、貴方の描く登場人物になりたいと思った。そうすればきっと、上手く生きられるって。ずっと綺麗なまま生きられるって」
「……これを書いた当時、僕はすべてを見下していた。それこそ、自分を神様だとでも思っていたのかな」
「かみ、さま」
事実そうじゃないかと思った。彼はずっと矢野にとって神様だった男だ。神様、だったはずの男だ。ずっと雲の上にいて、己に救いの手という名の優しさを差し伸べる、甘露のように矢野の望む言葉をくれる、神様。それじゃあ満たされなくなったのはいつからだろう。いつから、彼は神様じゃなくなったのだろう。今、矢野の目線は座っている坂井よりもずっと高い位置にある。
「僕の世界はずっとつまらなかった」
向上心だと、承認欲求だとかそういったものとずっと無縁だったんだ、と男は笑った。恵まれた能力値、望まずとも愛され崇められる完成された容姿。それらは他者の目を曇らせるには十分だったのだろう。誰も彼のことを見ないから、誰も彼の世界には存在しなかった。彼が、存在させなかったのだ。誰もいない、何もない世界で何に対しても悩むこともないまま。そんな人生の停滞の中で生きる彼は、次第に全てを馬鹿らしく思うようになったのだと語る。無理もないのかもしれない。幼いうちからそんな状況下にあれば、歪んでしまうのは当たり前だ。
「世にはびこる物語を、僕は全く理解できなかった。恥ずかしい話だけれど、そこまで情緒が発達していなかったんだ。けれど、これだって適当にそれらしく書いておけば評価されるはずだと、傲慢にも思って書いてみた」
けれどそうはいかなかった。つまらない、中身が伴わない、くだらない。彼が今笑って語るその批判は、坂井克樹の世界そのものへの否定だったのだろう。それでムキになって僕のありのままを描いたのがそれ。虚飾なしの当時の彼のありのままがここにあるのだと、その落ち着いた声のトーンからありありと理解させられる。本当に悔しかったんだ、と男は軽く下唇を噛んで告げる。ずっと目を合わせてくれないのは、やはり彼にとっても話しづらいことだからなのだろうか。
「上手くいかないことなんて初めてだった。だからこそのめりこんでいったし、初めて認められたいと思った。認めさせてやるって、思ったんだ」
小さな世界の神様だった男に、はじめて執着が芽生えたのだろう。その感情の萌芽をきっかけに彼の乏しかった感性は徐々に発達していったのだ。それでも学生時代の文芸サークルでの活動は思うようにいかなかった、と男は語る。評価はされる。けれどもそれは、皮肉にも彼の容姿や話題性の恩恵でしかなかった。彼の望むところではもちろんない結果。「でも有難い話だったと、今になっては思うよ」
「……と、いうと」
「結局小説なんてのは、手に取ってもらえないと意味がないだろう」
そう言った意味ではこの容姿が目を惹いてくれたおかげで、僕はこうして今は文章を生業に出来ているんだ。坂井はそう言って自嘲気味に笑った。彼の視野を狭め、世界を諦めさせた原因の一端を担うその容貌が、結果的に彼を助けているのだ。それは、ある種皮肉な事象であると言えるのかもしれない。けれど、坂井はそうは感じていないようだった。もちろんこの見目だけで判断されるのは気に食わないけれど、それでもおかげさまで今の自分があるのも事実だから。だから、この姿も自分の一部として愛してあげなきゃな、って思うよ。そう言って坂井はふっと矢野の顔を見上げると、すっと腕を伸ばして矢野の頬を掌で包む。ひんやりとした肌の感触が、ひどく心地よいと思った。
「君は、自分の容姿が嫌いなんだろう」
「……まあ、そうです」
「別に無理に好きになる必要はないけどさ」
「はあ」
「でも今の君を作ってくれた一部だから、僕は君の顔も好きだってことだけ、知っておいてほしいな」
そう言うと彼はむにと矢野の頬をつまみ、ゆるゆると弄る。あんたの好きな顔、めちゃめちゃ歪まされてますけど。そう文句を言おうとしたのに、口を開けば喉が震えて嗚咽が飛び出そうで、慌てて飲み込んだ。どうしてこんなにこの人の言葉に弱いのだろう。どうしようもない感情の波に浚われそうなのを堪えるために、思考を止めてただその手の感触に集中した。気持ち良いような気がして、ほんの少しだけ脳が落ち着くと、今度は逆にするすると言葉が勝手に零れ落ちていく。
「どうして」
「ん?」
「どうしてあんたは、そんなに俺のことを好いてくれるんすか」
「前もこの話、したような気がするけど」
「……あんときは、正直あんたの言ってる意味よくわからんかった」
「怒るぞ」
「顔が理由じゃないってことだけは覚えてます」
坂井はわざとらしくため息をつくと、「今までの話聞いてもほんとにわからないか」と低い声を出して尋ねる。
「……物を書くことを通して、僕の世界は広がった。認められたい、わかってほしい、褒めてほしい。向上心と言えば聞こえはいいけれど、でもそれは言ってしまえば負の欲求ばかりだ」
「まあ、人間らしいんじゃないですか」
「そうだな、僕は人間になった。それも承認に飢えた人間にだ」
ずっと満たされない気持ちを抱えるようになったんだ。そう吐いた男は目を伏せて勢いを失速させる。それから言葉を迷うようにして形の良い唇を数度動かしてから、意を決したように上目に矢野の瞳を改めて見た。いつも通りの全てを見透かすような理知的な瞳のはずなのに、そこに矢野はほんの少しだけ、縋るような色を見た。
「それを埋めてくれたのが、君だ」
「え」
「僕にとって、君は初めて面と向かって僕の小説を、小説だけを純粋に評価してくれる存在だった」
こんな顔をしている彼は、初めて見るかもしれない。もともと線の細いその身体から普段感じることのない弱弱しさを覚える。この人もこんな顔をするのか、と思った。それが僕が君を好きな理由だ、と男はか細い声で告げる。
「……君にとっては物足りないものかもしれない。評価してくれれば誰でもよかったのかと言われれば、正直、そうなのかもしれないとも思う」
「マジで正直ですね」
「それでも僕にとってその意味を持ったのが君だったのは事実だから。君だけだったんだ、本当に」
「別に疑っちゃいませんよ……」
「いや、だからその……側に、いてくれ。できれば、ずっと」
狂ってしまいそうだ、と直感的に感じる。こんなものを直視してはいけない。背中が粟立つような感覚がして、嗚呼これは良くないと思った。今自分はこの男の、弱い部分を見せられている。ずっと見たいと思っていたそれを、目前で曝け出されている。にやけそうになる口元を必死に手の甲で隠そうとすると、それを目敏く見出した彼が「何笑ってるんだ」と大袈裟に声を出した。
「いや、そのすみません。熱烈なラブコールありがとうございます。正直めちゃめちゃ気分いいです。すみません」
「……最悪だな」
不満げに唇を尖らせる姿に何とか機嫌を取りたくて、小さい子ども相手にするようにしゃがみこんでの対話を試みる。彼の尊顔がまた自分の頭上に来て見上げるような形になっても、不思議とそこに威厳はない。
「俺ずっと、克樹さんのこと神様みたいって勝手に思ってました」
「……幻滅したかい」
「いいえ。あんたが俺と同じどうしようもない人間でいてくれて、良かった」
そう言ってにっこり笑うと、彼はまた大袈裟にため息をついて立ち上がる。なんだか真面目に話してしまって疲れた、早く寝よう。そう言って己に背中を向けてしまう姿を、ひどく愛おしく思う。おやすみなさい、また明日。柔い声でそう告げれば、しばしの沈黙の後に負け惜しみみたく「おやすみ、また明日」と呟かれる声を、自分はずっと抱きしめて生きていくのだろう。
カンカンカンカン。そんな金属音が文字通り耳をつんざいて飛び起きた。強引に開けたせいで乾燥した目から許容量以上の光が入って来て混乱する。
「朝だよ、おじさんたち」
「誰がおじさんだ」
「さすがー、ナイスツッコミ」
徐々に情報が処理されてきて、状況が読み取れる。それと同時に目も開かれていることに慣れてきて、目の前にいるのはフライパンとお玉を手にした少女であることも理解できるようになった。そんなある種お約束な起こし方を本当にするやつがあるか、という不満をぐっと飲んで、まだかすれた声で挨拶をした。隣の坂井はまだ使い物にならなさそうで、轟音での起床に呆然としながら、いそいそと本能的にベッドに戻っていった。「だめだよかっちゃん!」と言いながら改めてフライパンを構えようとする美弥を急いでいさめる。
「克樹さん死んじゃうから」
「えーでも早く起きないとご飯冷めちゃうよ」
「もうちょっと穏やかな起こし方でいこう。ほら、克樹さん起きてくださいって」
そう言いながら無理矢理布団を剥ぎ取ると、うあ、と情けない呻き声をあげて布団を死守しようとする。この人こんな寝起き悪いのか、と矢野は少し新鮮に思った。朝は強い方なのかと思っていた。矢野はいつも自分より早く起きて食事を用意してくれている坂井の姿しか知らない。しばらくのしょうもない攻防の後、どうしようもないと悟ってしまった矢野は、改めて美弥に目配せをして耳を塞いだ。カンカンカンカン。どう考えても通常ではない音が手のひら越しでも矢野の脳を揺さぶる。
「わ、わかった。起きるって。おはよう!」
「おはよー。相変わらず寝起きの往生際悪いねぇ」
「往生際とか言うな……」
ある程度の助走を経て意識がはっきりしてきたのか、だるそうに頭を抑えながら矢野のことを恨みがましそうな目で見てくる。大方どうしてこの暴走を止めてくれなかったのかとでも言いたいのだろう。矢野だって被害者なのだからそんなこと訴えられても困るのだが。気づかないふりで微笑んで「おはようございます。良い目覚めですね」と返せば、「嫌味な奴だな」と更に文句が返される。
「ご飯できてるから、早く来いってー」
「え、もうそんな時間だったのか」
昨日アラームかけそびれたから起きそびれたんだな、と立ち上がって朝の支度を始める坂井に、美弥は気を使って一旦退室していく。荷物から服を取り出す後ろ姿に、矢野も並んで荷物を漁った。
「朝、そんな弱いだなんて知りませんでした」
「……まあ、取り立てて自分から見せるようなことでもないだろう」
「でもよく俺に隠せてましたね」
「そりゃあ、年長者の意地というやつだよ」
そういうところが、嫌なのに。そんな言葉が口をついて不意に出てしまって、思わず口元を抑える。坂井はひどく悲しげな顔をして、それから「つもりつもったプライドはそう簡単には捨てられないのさ」と自嘲気味に笑った。違う、と己の不用意な発言を急いで否定する。そう言う意味じゃなくて、と今度は一つ一つ確認しながら口にするものだから、もちろん手は動かせないし、言葉だって途切れ途切れになってしまった。
「その、なんというか俺の我儘なんで、あれなんですけど」
「おお」
「あんたの弱いところが、俺は見たい、というか」
「……どういうジャンルの変態?」
「ちがくて!」
なぜ変態呼ばわりされねばならんのだという不満と、今のは己の言い回しも悪かったという反省が相殺し合ってとりあえず落ち着く。この気持ちを何と伝えようか。きちんと丁寧に言語化すれば、きっととてつもなく時間がかかるような気がした。少なくとも、こんな朝支度の片手間に終わらせられるような、そんな軽い感情ではない。しばらく呻きながら思案する矢野に何を思ったのか、坂井は堪えきれないと言わんばかりに笑い出す。
「な、なに」
「いやその、ふふ、ごめん。君、ほんと面白くなったなあ!」
「は!? なんだそれ」
「いやほんと変わった変わった。そっちのが良いよ」
そう言いながらバシバシと矢野の背中を叩く仕草が、矢野にはもう意味が解らなかった。なぜ自分はこんな風に笑われているのか。深く考えると負けなような気がして、とりあえず深くため息をついた。とにかくまたあとで、言葉が纏まったらちゃんと話すので。そうぐちゃぐちゃな羞恥を誤魔化すように咳払いしつつ告げた瞬間、ものすごいノック音が響く。誰のものかなど考える必要性もない。「ねえいつまで乳繰り合ってるの!」という完全に事実無根の大声を抑えるため、追われるようにして外に出れば、美弥が面白くなさそうに「おそい!」と唇を尖らせていて笑ってしまった。
いつまでも部屋でぐずぐずしてたらカビが生えるわよ、と坂井母に言われたのは一時間ほど前。じゃあ何をするのかと片し終わった食卓で議論されているのを適当に聞き流していたら、気づけば少し行ったところにある森林公園へ連れていかれることになってしまった。前を歩いている女性陣の速い足取りを見ながら、男二人でだらだらと歩く。桜はまだ満開とは言えないが、それでも十分に薄紅色は辺りを覆っていた。人々も心なしか上を向き、その花弁を拝んでいるように見える。
「花見の季節ですね」
「そうだね。春がようやく来たんだなあ」
「やっぱ子供のころとかはここでお花見してたんすか」
「まあそうなるかな。花見に限らずよく来てたけど」
父さんがここ、好きだったから。そう何気なく吐き出される父親の影が気にかかる。お父さん、写真家でしたっけ。それとない確認にも、よく覚えてるねと微笑む彼は、神様というよりそれこそ先生然としているな、となんとなしに思った。坂井は存外にちゃんと人を褒めるし、𠮟るべき場面ではきちんと怒ってくれる。そういった人がいてくれるという事実が、今の矢野にとっては嬉しい。
「どんな人なんですか」
「ええ、うーん……まああの人と結婚するくらいだから変な人なんだけどさ」
そうちらと前を歩く後姿を見やりながら声を潜めて言う。その仕草に笑ってしまった。
「でも、そうだな。優しいよ。僕のことも母さんのことも、ちゃんと大事にしてくれてた」
「いいお父さんだったんすね」
「そうだね。息子がこんな王道から外れた生き方してても、見守ってくれてるし」
なんか離れて暮らしてるし、頻繁に連絡するわけでもないけど、ちゃんと気にかけてくれてるっていうのが伝わる人だよ。上手く言えないけれど。そうこそばゆそうに語る青年の言葉に、なんだか愛を見たような気がした。坂井の家庭は温かい。彼の母も父もきっと惜しみなく愛情を与えてきたのだろう。だからこそ坂井は一時冷たい目線を持っていたと言えど、今こうして穏やかな人柄を人に振舞えている。
「君の家の話も、聞いていいかい」
「断りづらい聞き方するなあ」
「ああいや、別にほんとに嫌ならいいんだけど」
「いやまあ、いいんですけど」
別に対して語ることがない、というだけだ。矢野はあまり家族と深いかかわりを持たずに生きてきたから、こう、きちんと語れるようなエピソードがない。俺んちは母と父と、一応兄がいますね。そうとりあえず口にしてみれば、坂井は呆れたように「一応ってなんだい」と笑った。
「いや、そんな仲良くないっていうか、あんま喋らないんで」
「へー。いくつ差なの」
「ちょうど克樹さんくらいじゃなかったかな。結構離れてますよ。ふらふらしてるんで全然そんな風に見えないですけど」
「その辺は似てるんだ」
「ちょっと」
別に今はふらふらしてないでしょう、と不満を零せば「ごめんごめん」と雑に謝られる。兄と似ている、と言われることは今までの人生であまりなかったので少し新鮮だと思った。基本的に矢野は聞かれない限り兄の存在を明かさない。明かしたとしても、話すエピソードがないからである。やっぱり似ているのかい、兄弟って。そう興味津々で聞かれる質問にも、持ち合わせの答えがない。
「似て……るんですかね。でもあの人母親似で俺父親似だから、似てないんじゃないすか」
「家族写真とかないの」
「実家とか行けばあるんじゃないすか。でもあの人はあの人で顔バカ綺麗ですけど」
「美形一家なんだ」
「あんたが言えたことじゃないでしょう」
「それはそう」
わかったような顔をして深く頷いている彼がおかしい。克樹さんは母親似ですねぇ、としみじみ前方の美しい佇まいを見て呟くと「でもどっちにも似てるって言われる」と静かな答えが返ってきた。それこそ写真とかはないのか。そう言えば、彼は黙ってスマートフォンを取り出して、検索欄に坂井姓の男の名前を入力した。
「……こっちにも似てますね」
「どっちの遺伝子も強いんだよ」
画像欄に映っている男性は、確かに坂井克樹に似ていた。坂井のように華やかで豪奢な顔という印象は持たないが、すっとしたそれぞれのパーツが綺麗に収まっている。坂井の母はヴァンパイアと呼ぶにふさわしい見目の変わらない美形だが、こちらは正しく年を取って深みの増した端麗さがある顔つきだ。
「当たり前ですけど、美弥ちゃんとも似てますね」
「まあ父さんと伯父さんも似てるからね」
そう言って二人してスマホを覗き込みながらたらたら歩いていると、ふと目の前に人影があるのがぎりぎりで目に入って、急いで動きを止める。坂井は勢い余ってそのまま激突していた。歩きスマホはダメなんだよー、と露骨ににやにやしているのがわかる声色が降って来て、知り合いでよかったと矢野は息をついた。
「伯父さんの話してたの?」
「そうそう。克樹さんのお父さん、男前だね」
「ねー。そりゃあ伯母さんみたいな美人も捕まるよなって感じ」
「別に捕まったんじゃないわよ。捕まってあげたの」
「母さん、恥ずかしいからやめなって」
っていうかなんでこんなところで止まってるのと、まるでぶつかったのは自分のせいだけではないと言いたげに坂井は母親へと尋ねる。その質問にいつまでも妙齢の彼女は少女とわざとらしく目を合わせてにっこりとした。美弥ちゃん、言ってやりなさい。そうけしかける姿すら映画か何かから飛び出してきたかのように様になっているのだから、末恐ろしい。
「そんな大したことじゃないけどー。ボート乗りたいなーって話してて」
「へー、ボートとかあるんすね」
「そうそう。あっちに見えるでしょ」
そう言って美弥が指すほうを見ればわかりやすく池が広がっており、その上を様々な色形のボートが滑っていた。アヒルボートとか懐かしいな、思わず声を出してしまう。矢野がかつて通っていた公園にも、少し違った形のアヒルが泳いでいた。別に乗りたいとはそこまで思っていなかったが、それでもあれに乗っている人々は皆楽しそうにしていて、ほんの少しだけ羨ましかったのだ。
「いいじゃん、行ってきなよ」
「言われなくても行くわよ。ただ、あんた達にも声かけとかないとあれじゃない」
「はいはい、ごめんごめん」
「もう! 矢野君ごめんね。待ってる間暇だったら全然克樹引っ張ってどこか行ってくれていいから」
「いえいえ」
にこにこと体面よく微笑んで返せば、坂井と美弥からそれぞれ呆れたような視線が向けられる。じゃあちょっと行ってくるわね、と連れ立って乗り場へと急ぐ二人を見送って「どうします?」と問えば、坂井は疲れたような顔でとりあえずここの辺りにいようか、と池に向かって備え付けられているベンチに座りこんだ。年を取るとすぐ疲れるから駄目だな、とため息をつく姿に「お母様のほうが若いですね」と嫌味を返しておいた。
「昔はああいうの、乗ってたんですか?」
「あー……まあそうだな。何度か乗ったことはあるよ」
「へー、いいすね。今日とか天気もいいから気持ちよさそう」
アヒルさん蝶ネクタイ付けてるのも可愛いなー、ともはや脳を使わずにぺらぺらと口だけを動かしている矢野に対して、坂井はかなり意外そうな顔をしていた。君、ああいうの興味あるんだ。そう尋ねてくる坂井に、矢野は何と返していいかわからなくなる。あーまあ、おもしろそうなんで? なぜか疑問形になる曖昧な返答に対して坂井はツッコむこともなく「そっか」となにやら納得したような相槌を打った。
「そんなに気になるなら乗るかい」
「え」
「別にいいけど」
「いやでも、あんた疲れてるんでしょ」
「こんなのずっと座ってるだけだし大丈夫だろ」
乗るならさっさと並ぼうよ。今、空いてるし。そう言って立ち上がってすたすたと歩いていく。アヒルさんと普通の手漕ぎボートどっちがいいの、と振り返って尋ねる姿に、矢野は大人しく「手漕ぎの方で……」と答えることしかできなかった。
さすがにそこまでは甘えられない、と半ば強引に受け取ったオールを握り、ゆっくりと漕いでいく。勝手がわからないなりに動かしていればなんとなく感触は掴めるもので、最初は重いと思っていた水の感触も、徐々に慣れてきて話す余裕が出てきた。どっちの方行きます、と目の前で優雅に座って己を見つめてくる男に尋ねても、まあろくな返答が返ってこないことくらいはさすがに経験上わかっていたが、それでも一応聞いておく。案の定、返ってきたのは「まあ適当に」という雑な返答でしかないが。
「楽しい?」
「まあ、それなりに? 新鮮です、こういうアウトドアな感じ」
「それは良かった。僕もこう気持ちよくお天道様の下にいる君を見るのは随分と物珍しく感じるよ」
「悪口ですか?」
「いやいや」
でも君、実際そんなに外が好きなタイプじゃないだろう。そう頬杖をつきながら呟く坂井に、おざなりな肯定を返す。まあ実際、長らく準引きこもりみたいなことをしていた時期もあったわけだし、そうでなくとも自分からアスレチックやら登山やらキャンプやらにはいかないのは事実である。そんなに体を動かしたいだとか、自然を楽しみたいという欲求がないのだ。それは、坂井も同じことだろうに。それを言ってやれば、「まあね」と彼もまた雑な返事を寄こした。
「でも、だからこそ不思議っていうか。ボート乗りたがると思わなかったから」
「別にそんな乗りたがってはないですよ。見てただけで」
「君はそもそも興味ないものは見もしないだろ」
「まあ、それは……そうですけど」
穏やかな日光に照らされていると、なんだか沈黙にも気まずさがなくなるような気がする。なんだか精神がすごく外側へと開かれているような感覚がそこにはあった。坂井は相変わらずせっかく船に乗っているにも関わらず、ただ矢野のことをぼんやりと見つめている。変な人だな、と思った。せっかくなら景色でも楽しめばよいのに。
「……昔、同じようなボートが通っていた公園にもあって」
「ああ、前話してたとこかい」
「多分そうです。それで、なんとなく懐かしいなって」
「ふうん。そっちでは乗ったことあるの」
「いえ。一人で乗るようなもんでもないじゃないですか、あれ」
そう口にすると坂井は不思議そうに「君が話していた男の人は、一緒に乗ってくれなかったの」と言った。その言葉に思わず心臓がはねて、持っていた櫂が少しだけ手元を滑る。別に、あの人はそんなんじゃないし。まあ、頼んだら乗ってくれたかもですけど。そう何故だか言い訳でもするようにごにょごにょと言葉を並べる矢野に、坂井はただ「そうなんだ」と素っ気ない答えを返す。そっちから聞いといてなんなんだ、と無意識にむっとしてしまって、少しだけ返事に困った。また船上にだけ沈黙が訪れる。
「……そんなんじゃなかったら、なんなの?」
「え、何の話ですか」
「その人。君と公園で会っていた男の人の話」
「そんなこと聞いてどうするんです」
いや気になるから、と単調な返事しか寄こしてこない姿に違和感を覚える。水面にへと落としていた意識を改めて目の前にいる男に向けなおせば、なんだか不服そうというかつまらなさそうというか、とにかくそういった類の表情をしていた。そんなに興味がないなら別に無理に掘り下げなくてもいいのに、と言いたかったがどのように口にしても角が立ちそうで、どうにもできない。
「別に、そんな大した存在では……ありますけど」
言葉の上だけでもあの人を軽んじることはしたくなくて、正直に告げる。あの人は、自分にとってなんなのだろう。ついこの前同じような問いを考えさせられたばかりなのに、また同様の質問を投げかけられている。自分の人生の根幹を、問われている。
「あの人は、俺の人生の大きな傷になってしまった」
清く正しく、模範的なだけの男だったと思う。誰にでも優しくて、誰にでも施しを与えて、そんな人を愛したって微塵も報われない。それこそ、信仰であればよかったのだ。信仰であれば、あんな風に傷つくこともなかった。素性も知らぬ誰かのために命を投げ出したことすら、美談として妄信し続けることができただろうにと思う。
「……あの人のせいで、俺は誰かを愛することが怖くなってしまった」
同じ過ちを繰り返さぬように。もう二度と、あんな傷を負うことがないように。無意識のストッパーで誰か一人を好きになることを、見返りを求めることを拒んでいた。だからこそ、目の前の男のことを信仰しようとしていた。坂井は未だ静かに矢野の言葉を聞いている。対話を、したいと思った。
「だから俺はあんたのことを、信仰しようとしたんだ」
「信仰、かい」
「そう。あんたは誰にでも優しくて何でもできて完璧な……神様だから、だから俺に優しくするんだって、思おうとした」
「それは間違ってるな」
「知ってます」
間髪入れずに捻じ込まれる否定に、矢野は思わず苦笑する。坂井克樹は神様なんかじゃない。そのことを、もう矢野は嫌というほど知っている。ここ数日で、見せつけられてしまった。坂井克樹は完璧な人間なんかじゃない。彼にだって当たり前に親がいて、家族があって、幼少期があって、色々な間違いがあって、苦手なものがある。
「あんたが俺を救ってくれたのは確かなんです。全部嫌になってた俺に根気強く向き合ってくれた」
「……」
「でもそれは理由あってのことで、神様の所業なんかじゃなくて、……一人間として必死に付き合ってくれてたんだって、ようやく気づけました」
だから、えっと、ありがとうございます。なんとなくいたたまれなくて軽く頭を下げる。正直文脈もぐちゃぐちゃな感謝の言葉だったが、まあそれでも言いたいことは彼になら伝わると思った。目の前の男はこれを受けて、どんな言葉を返してくるのだろう。それを聞くのは、少しだけ怖い。けれども、その形の良い唇から吐き出される言葉は、予想以上に明るい色だった。
「神様じゃないなら、今の僕は何なんだい」
「……そういうこと聞いて、恥ずかしくないんですか?」
「はっきりさせておきたいじゃないか」
無駄に不安になって損した、と瞬時に思う。ほんと、変なところで羞恥のスイッチ切れてるよなこの人。無意識の呆れが思わずため息として漏れた。好奇心で爛々とした瞳が真っすぐに己を見ているのが、気まずい。
「まあでも、そうですね」
すうと、小さく息を吸う。それだけで意識がクリアになって、世界が明るく見える。この時間が現実なのだと、信じられる。
「俺にとってあんたの存在は居場所みたいなもので……でも、それじゃ足りなくて」
「うん」
「あんたにとっても、俺がそうであれるようになりたいっていうのが、今の所存です」
だからあんたと対等になりたいし、あんたから頼られたいし、あんたの弱いところとか全部知って受け止めたい、って思うんですよ。その想いをはっきりと口にするのは、正直もう抵抗などなかった。むしろ伝えるべきことを伝えられた達成感で清々しい気すらしてくる。自分が彼に抱えていた澱みや歪みをようやく昇華できたのだと思った。坂井はどんな顔をしているのだろうか。自分の内面の吐露でしかなかったとはいえ、向こうから話を振ってきたわけだし、ここまで返事がないのは気になる。そう思い、ふっと視線をあげると坂井が静かに肩を震わせていて心臓がはねる。
「えっちょっと、は!?」
「ご、ごめん、ちょっとその、びっくりしてしまって」
「いやなんで泣いて、お、落ち着いてください」
「あー! 矢野さんがかっちゃん泣かしてるんだけど伯母さん!」
「これはそのちがくて!」
突然の泣き顔に激しく動揺しているところに、すでにボートの貸し出し時間を終えたのであろう美弥が遠くからヤジを飛ばしてくる。もうすっかりぐちゃぐちゃである。美弥もそうだが、あとで母親の方になんと説明すれば良いのだ、と思考をぐるぐると無意味に回転させる矢野の耳に、近くから大きな笑い声が聞こえる。子どもみたいな、わかりやすい笑い方。
「ちょっと何笑ってるんすかあんたのせいで大変なんですけど」
「あはは! いや今めちゃめちゃ楽しいんだ、すごく気分がいい!」
「なんなんですかほんと、泣いたり笑ったり忙しいなあ」
まああんたが楽しいならいいですけど、とため息をつくと、なんだか矢野も全て馬鹿馬鹿しくなってきて笑ってしまった。意味もわからず笑っている二人のせいで船が微妙に揺れて、水面が雑に叩かれては飛沫が生まれていく。それがまた太陽の光でキラキラと光って、ひどく綺麗だと思った。この時間が、世界で一番美しいものだと思った。船から降りたら聞いてみようと決める。どうして涙を流したのか、彼にとって俺は、いったいどんな存在なのか。彼の口から、かつて焦がれた彼の言葉で、聞いてみたい。