兄「向いてねぇのかな」
「なにが」
「剣道」
「あー」
帰宅してすぐ、兄はどかりとソファに腰を下ろして自分と隣り合う。視線は交わらない。ポーズだけはテレビを見ながらの世間話だ。その実、二人ともくだらない芸能人の人生哲学などに意識は向いていないのだけれど。少しの沈黙が気持ち悪くて、もう一度意味もなく母音を吐き出す。今度はやや低いキーのそれに、兄は呆れたように「真面目に聞けよ」と笑った。
「聞いてるけど、真面目に」
「じゃあ答えてくれよ」
「剣道の話だっけ」
「そ、剣道」
知らんがな、と言いたい気持ちもないわけではなかったが、それ以上に珍しく弱気な様子の兄に対しては思うところがある。別に善意でも好意でもない。ただ、家の雰囲気を暗くされるのは困る。わざとらしくため息をついて、できるだけ単調に努めながら「なにかあったの」と尋ねた。兄はどんな顔をしているのだろう。気にならないわけではないけど、確認するほどの遠慮のなさがないわけでもなくて、困る。
「あー、なんかっていうか」
「うん」
「試合で、相手に泣かれて」
それ以上なんと説明していいかわからなかったのか、兄はそこで言葉を止めて小さく息をついた。急かすわけにもいかないのでただ小さくもう一度相槌を打って、その場を繋げる。大方、相手に泣かれたことが自分でも想像以上にショックだったのだろう。兄は甘い男だ。運動など一度もろくにしたことがない己が言うのもなんだが、元来スポーツなんて多かれ少なかれそういう性質のものだろうに。どこまでも善的で、理想ばかり追いかけている。バカだなあと思う。結局、案の定己が思い描いていたような思考の揺れ動きを説明する言葉が続いたから、なおのこと。
「悔しかったのか、それとも俺が怖かったのか、そんなのはわかんねぇけどさ、ただ」
「……」
「相手泣かせてまで俺は剣道したいかって思ったらさ」
違う気がすんだよな。その言葉に少しばかりうんざりとする。兄の評価すべき部分であり己が何より嫌いな部分。隣にいると際立つその素晴らしい甘ったるさ、……真反対の己の、性格の悪さ。醜い言葉が浮かんでは消えていく。そんな当たり前の壁に今更ぶちあたったの。エゴばっかりの悩み。大体もう自分の中で正解出てるじゃん。それらの源泉は、完全に己の根底に存在し続ける妬み。
(せっかく健康な体持ってるくせに、そんなことで剣道をやめるの?)
ぎゅっと拳を握りしめて、息を吐きながらゆっくりと開く。同時に体の力も抜けていく。何も考えたくない時のおまじない。いつかの手術の前に教えてくれたのは他でもない隣の兄だ。心から慕うことはできなくても、嫌うことだってできない。六つ離れた兄。己と違って、どれだけ動き回ったって故障しない体を持っている男。剣道が誰よりも強くて、料理も上手で、甘くて優しい自慢のお兄ちゃん。
「……私は剣道してるお兄ちゃんが好きだけど」
「おう」
「向いてないんじゃない。お兄ちゃん優しいから」
そんなんで揺らぐ程度の気持ちで続けてたら、対戦相手にも失礼だよ。そう言って小さく下唇を噛む。今この時、自分が兄の選手生命を終わらせたのだと思った。兄は絶対に己の言葉を肯定し受け入れるだろう。病院のベッドで聞かされ続けた兄の戦歴も、家中に飾られたトロフィーや表彰状も、時折連れて行ってもらえた試合会場も、全て憎く思っていたのだから、これでよかったのだ。そう思いたいのに、徐々に目頭に熱が籠っていくのを感じる。悟られないように躍起になって、声を張り上げる。
「お兄ちゃんはさあ、なんか違う道選んだほうがいいよ」
「むつき」
「料理とかさあ、極めたらいいんじゃない。お兄ちゃんのご飯美味しいもん」
「……ありがとな、睦月」
そんな声、でかくなくてもちゃんと聞こえてるって。そう言って兄は頭を撫ぜようとしてくる。整えた前髪も綺麗に結んだツインテールも崩れてしまうからそれを避けるか迷って、でもやっぱり体は動かなかった。頭を撫ぜながら、睦月は優しいな、と兄は笑う。やっぱり大嫌いだと思った。嫌味にしか聞こえないはずの感謝のセリフが本心からの言葉だとわかってしまうのが腹立たしくってしょうがない。申し訳なさそうな顔なんてするな。ふてぶてしくしていればいい、堂々としていればいい。一片の曇りだってないその善性を誇っておいてほしい。
「今までずっと応援してくれてたもんな、ごめんな」
「応援とかしてないけど」
「いつか、体良くなったら二人でチャンバラしような」
「……絶対負けるじゃん、私」
「接待するから」
「なにそれ」
そんなのされるほうが許せないから。そう言って兄の手を払いのける。体が良くなる日なんて来ないことくらい本当はわかっている。多分この体は良くなることはない。現状維持だって出来ぬまま誰よりも早いスピードで劣化して、いつか動きを止めるのだろう。けれどもしも、もしも本当にそんな日が来るのだとしたら。やっぱり手加減はしてほしくないと思った。完全な実力で、完膚なきまでに己に完勝してくれたらいい。そのとき、ようやく兄のことを素直に慕えるような気がした。