観覧車「観覧車、乗りませんか」
「……なんで?」
一つ下の後輩はさも当然のようにそんなことを提案した。園芸部として水やりに勤しんでいる最中のことだ。さっぱりとした小綺麗な顔を以てして、一瞬尤もらしく聞こえるのだから恐ろしいと思う。そこそこの付き合いがある自分ですらそうなのだから、他の人間ならもっとあっさり流されてしまうのかもしれない。問い返されたことが不服なのか、若干眉をひそめる仕草をしている。理由が必要なの、と尋ねられても、そうだろうとしか言えない。
「っていうか、俺なのもおかしいやん。友達誘えや」
「嫌なんですか」
「いや別にそうでもないけど」
「じゃあいいでしょう」
やれやれと言わんばかりにため息をつかれる。それはこちらがすべき態度であってお前がするものではない、と言ってやりたかった。燦燦と日光が照っているのを黒々とした制服が吸収していくのを感じる。ついでに沈黙も集めているらしかった。静まり返った校庭に、鳥のさえずりと、人工的に降り注ぐ雨の音が響き渡る。のどかだ、と他人事みたく思った。少女は話が終わったと言わんばかりに、すでにこちらに興味をなくしてしゃがみこんでは花弁に触れている。春が来て咲いた菜の花は、触れられてくすぐったそうにその身をよじっていた。自分のものよりもずっと小づくりな掌が、黄色の中で白く映えている。
「なんで乗りたいねん、観覧車なんか」
「乗りたいから」
「理由になってないねんなぁ」
「必要ないでしょう、理由なんて」
それとも建前が必要ですか、と日を浴びて照り返す絹糸のような髪が揺れる。探るようなその瞳に今度こそ一つため息をつきかえした。いいよ、と呟く。
「乗るわ、観覧車。いつ?」
「……今週末」
「急すぎ」
俺が暇でよかったな、と吐き捨ててから隣に並び立つ。彼女にかからないようにして菜の花に水をかけた。虹、と小さな声が零れる。自分の立ち位置からではそれが見えないらしいことを悟って、それでもしばらく同じ方向に水をかけ続けた。
所属している園芸部は校内の他の部活に比べても、ひどく緩い活動だった。最も、もともといた運動部が熱が入りすぎているほどだったから、そこに穏やかさを見出しているだけなのかもしれないが。基本的に部員全員集まることは少なく、週に二度の担当日に花壇の水やりをしたりするくらい。そこでたまたま今年同じ日に組まされることになったのが、この微妙に難しい後輩だったわけである。年齢的には一つ上とは言えど、入部時期はそう大差ないから先輩らしいことができるわけでもないのだが、それでもなんだかんだ一緒に活動しているうちに、それなりには心を開いてくれているらしい。観覧車に突然誘ってくるほどには。その文脈は一切謎だが、まあ彼女なりに思うところがあったのだろう。
「ビルの上についているやつ、あるでしょう。あれに乗ります」
そう言って現地集合になった待ち合わせ場所には、まあ滞りなくたどり着けた。なんなら少し早すぎるくらいだった。違うビルの上にも観覧車があったらどうしようと前日に一応調べたくらいだ。さすがに近隣には存在していなかった。そもそもそうぽんぽんと観覧車なんて作れるものでもないのだろうが。建物の下から、見上げる形に回るそれを眺める。いかれた乗り物だと思った。回るゴンドラなんて、考えつくほうがおかしい。それに乗ろうとする人間も。
(……前乗ったんは、いつやっけ)
その時も別に乗り気ではなかったように思う。確か、乞われるままに乗ったのだ。学生の恋愛なんて雰囲気が楽しめたらいいのだろうと思っていたし、それに水を差す気もなかったから。我ながら傲慢で嫌な考えだと思う。きっと、もっと美しい恋愛をしている人間もいるんだろうに。そんなことを考えて少しだけ笑ってしまった。あんまりにも幼稚だ。あの子はなぜ、観覧車になんか乗りたいのだろう。そういうのから離れたところにいそうなところが、なんとなく好ましかったのだが。
「何か見えるんですか」
「うわっ」
「そんな、化け物を見るような」
「ごめんて」
声に引き戻されて慌てて視線を大幅に下げると、いつもの黒いセーラー服とは違う、明るく目に優しい色彩が映った。ああそうか、私服かと一拍遅れて理解する。こんにちは、と軽く頭を下げる少女に、同じように挨拶をして、それからいつも通りの沈黙が訪れる。黙って先ほどの自分のように頭上を眺める仕草に、なんとなく同じ質問を返した。なんか見えるか。唇を尖らせて少女はただ、「何も」とだけ言った。
「強いて言うなら、観覧車が」
「まあ、それはそう」
「あとは、人」
「結構混んでる?」
「そうでもないでしょう」
休日ならこんなものでは、と返事をして再び黙る。しばらく二人して観覧車を眺めていた。花も土もない、コンクリートジャングルの中で彼女と話すのは初めてだろう。なんとなくどんな顔をしていいのかわからなくて、ただ上を見ながら「乗らへんの」と尋ねる。少女はただ小さく頷くと、少しだけ歩みを進めるのを躊躇して、上目にこちらを見る。なにか、かわる? そう、どこか怯えを滲ませた疑問が、一つ雑踏に落とされた。
「乗ったら、何か変わるんでしょうか」
「……たかが観覧車やろ?」
「だったらどうしてみんな乗るんでしょうね」
「うーん……」
自分が観覧車に意味を見出せない人間であることは、つい先ほど確認したばかりだから何とも言えなかった。確かになんで乗るんやろ、と同調するように呟く。馬鹿と煙は高いところが好き……というのはさすがに穿ちすぎだろうが。不機嫌そうに眉を顰める少女に、抜本的な質問を投げかけてみる。そういう自分は、なんで乗りたいと思ったん。改めて尋ねられたそれに、彼女は小さく首を横に振った。
「乗りたいから」
「じゃあ、みんなそうなんやろ」
「そう」
じゃあ、そういうことで。そう言って今度は迷いなく歩みを進める。チケットは購入してあります、と小さなポシェットから二枚分をひらひらと取り出す仕草に、普通に感心した。なにか、かわる。その呟きが未だ自分をこの場に引き留めようとする。あの明らかに不安げな表情は、なんだったのだろう。
「今更ですけど、高いところ大丈夫なんですか」
「ほんまに今更やな」
まあそれなりに、と空間が動いているのを感じながら言う。別に怖いとは思わない。精々落ちたら死ぬなと思うくらいだ。何かあっても人命を守れるように最低限設計はされているはずだろうし、そこに不安は感じない。強いて言うなら、スナイプされる想像をして少しぞっとするくらいである。これは漫画の読みすぎだが。
「こういうのって、どう反応するのがセオリーなんですかね」
「……風景を楽しむ、とか」
「楽しんでます?」
「別にやな」
低温の会話がじっくりと進んでいく。高度と同じように会話のボルテージも上がっていってくれればいいのだが。否、盛り上がる会話などこの少女に自分は求めていないだろう。彼女も多分、自分にそういう役割は求めていない。向かい合って座り、仏頂面でおもちゃみたいな町を眺めている姿にため息をつく。さすがに気まずいので、低温ながらも会話を振ることにした。
「乗ったことないんや、観覧車」
「そうですね。これが初めて」
「彼氏とかじゃなくてよかったん」
その単語にあからさまに不快そうな顔をする。低俗、とでも言われかねないその表情に苦笑して、別に煽ってるわけじゃないで、と付け足す。気づけば憂い気な表情は完全にこちらに向けられていて、二人して全く景色を見なくなっていた。これではただの隔離空間だ。話すだけなら、ここじゃなくたってできるだろうに。
「やっぱり、特別な意味がないと、乗れないんでしょうか」
「どうやろうな。現に今全くなんでもない流れで俺らは乗ってるわけやけど」
「これは、異端?」
「まあ異端よりかなぁ」
友達と呼ぶのすら微妙にはばかられる距離感である。学校外であったことがない。なんなら学校内ですら、校庭以外で顔を合わせることなんてほとんどない。週二日、決まった時間にしか話さない相手である。奇妙な縁だと思った。少しのきっかけで、なぜだか自分は彼女と観覧車に乗っている。何の、理由もなく。
「理由なく乗っても楽しいもんやけどな」
「まったく楽しそうじゃないですが」
「楽しいよ、それなりに」
「……そう」
小さく返事をして、それから何かを思うようにして目を伏せる。その姿に何かを見出すほうが、よっぽど無粋なような気がした。意味なんてないほうがいい。理由なんてないほうがよっぽど、純粋で美しい経験なように思えた。昔乗った観覧車をふっと思い出す。あの時自分はどんな意味を持ってそれに臨んでいたのだろう。結局それが楽しめなかったから、すべてが上手くいかなくなったのだと、そう解釈するのは違うだろうか。密閉された空間で、各々が全く違うことを考えている。傍から見ればラベルを張られてしまうであろうそれは、しかし自分と彼女の中だけでは正しく存在している。ふっと、何かに縋るようにして目の前の手が窓枠に触れた。
「憧れ、なんですって」
「なにが」
「あれ」
そう言って指先が斜め上を指さす。頂上に辿り着かんとしているカップルが幸せそうに口づけている。ふうん、と冷たい声が出てしまった。我ながら嫌な返事だと思った。自分がかつて求められたことだっただけに、リアリティのある嫌悪が表立ってしまったのだ。
「異性と観覧車に乗ることは、絶対にロマンスを生むのだと、友人が」
「自分もそう思うん」
「そう思いたくないから、あなたを誘った」
「……へえ」
反抗したかったのかもしれません、と少女は言った。あの子が言ったことに、異を唱えたかった。その言葉はどこまでも苦しさを孕んでいて、何とも言えない気持ちになる。なんだか感情を盗み聞きしているような、そんなどうしようもなく気まずさを覚える吐露だった。唱えられそうなん、異は。そう尋ねてみる。わかりません、と口ずさむ唇は、じっと上のゴンドラに向けられて、そこに何かを重ねているみたいだった。
「……唱えたところで、何にもならない」
「何にもならんかったら、ダメなんか」
「まあ、不毛ですよね」
言葉にしたところで何も変わらないなら、口にしないほうがましでしょう、と吐き捨てるように言う。何も変わらない。それは無力感と諦めに満ちた感想だと思った。もし、変わるなら。そんな先を見てみたくなる。もし変えられるなら、どうなってほしかった? 探る感情を視認されたくなくて、彼女と同じようにして窓の外をただ眺めた。小さくなっていく。町も、人も。肉体ですらこんなにくだらないものだというのなら、そこに押しとどめられている感情はどれほどに矮小で、しょうもない存在なのだろう。
「それを聞いて、どうするんですか」
「別に、世間話やよただの」
「変えてはくれないの」
「俺には無理やろ」
わざとらしくため息をつかれた。落胆。そんな言葉がよく似合う。気づけば観覧車は一番上まで来ていて、わざとらしく、そこで揺れが止まった。
「滅ぼしてくださいよ」
「何を」
「この世」
こちらを見て、にやりと笑う。たったそれだけで息ができなくなる。相変わらず恐ろしい効力を持つ顔だと思った。皆彼女のことを可愛らしいだとか綺麗だとかもてはやすけれど、それは少しずれている。この顔は、怖いのだ。凄まじい引力を感じて、思わず寒気を覚える。ぐっと手首を強く抑えて、平静を保った。
「……俺には、無理」
「そう」
じゃあいいです、とつまらなさそうに少女はまた視線を外す。気づけば上にいたはずのカップルのゴンドラは自分たちよりもずっと下にいて、その事実に安堵した。もう見えないだろう、その意味の形は。飽き飽きした様子で大きくなっていく景色を眺めている、その視線を追う。一切こちらを見ないままに、彼女は自分に声をかけた。キス、しときます? そう煽るような言葉に、うんざりとする。
「頂上じゃないけど」
「観覧車にも、頂上にも、意味なんてないんでしょう」
意味がなくても楽しいといったのは己か、と一つ言葉を反芻する。仕方なしに立ち上がってする口づけは、驚くほどに何の感情も孕まなかった。純粋に、行為だけがそこにあった。少女はすぐに顔を離して、けれども驚いた様子一つ見せず指先で唇に触れなおす。こんなのがいいんだ、と傷ついた瞳のほうが、ずっと己を揺さぶった。気づけば自分もまたおもちゃのような街へ戻る用意がされている。何か変わった、と飛んだ文脈で尋ねても、別に、と冷たい返事が返ってくるだけだった。