正しさの丸付けを嫌いになるのは一瞬だなんて、とんだ大嘘だと思った。そんな単純に、まるでスイッチを押すようにして感情の操作ができるのなら、世界はきっともっとうまく回っている。好きになるのも嫌いになるのも、人間って効率が悪い。AIには搭載されないのも納得だと、土岐は溜息をついてスマートフォンの液晶を撫ぜた。現代人は、無意識の中に生きていると思う。何も考えずになんとなく電子機器を触るし、登校や出勤、はたまた社会生活でさえほとんど自動的に行われている人はきっと少なくない。土岐もまた同じ。何となく決められたルーティーンにのっとって息をして、隙間時間になれば自然に携帯を取り出し、そしてなんとなく、好意を持つ相手を目で追っている。
「土岐くん」
そんな見られると困るんやけど、と居心地悪そうに視線を流しながら土岐の目の前に立つ。その動作は今まで思考に意識を沈めていた土岐を連れ戻すには十分すぎるもので、肩を大きく揺らしてすぐにその場に居直った。すんません、考え事してました。首に手を当てとくとくと勢いよく弾んでいる脈を感じながら呟くと、俺の顔見ながら考え事せんといて、と笑いながら背中をぽすりと叩かれ、さらに心臓が動く。良くない。そういうのが良くない。恨みがましく思いながらもそれを表に出すのも癪で、無理に愛想悪く「すんません」とだけ呟いた。それも特に意に介した様子はなさげなのだから、世話ないけれど。
「もうすぐ五限始まるけど、行かんくていいん」
「いや、俺今日もう授業無いんで。この小テスト作ったら帰ります」
「あ、そうなん」
じいっと土岐の言葉を受けて手元を見つめてくる浅野に、何も言うことができなくなる。普通に先輩という立場の人間に己の仕事を見られるのは些か具合が悪い。そんな見られると、困るんですけど。そう先ほどの浅野の言葉をそのまま返してやれば、はは、と嬉しそうに目を細める。はは、ってなんですか。そう土岐もつられて笑えば、ますます機嫌良さげに優しい顔をするのだから、困ったものだった。こんな顔を見せてくれるくせに、俺のこと好きって言ってくれへんの、めっちゃ謎。複雑な気持ちのまま手を機械的に動かしていると、ふとそれを妨げるように浅野の指が視界に入ってくる。
「ここ、同じ単語二つ出してる」
「えっ……あ、ほんまや。ありがとうございます」
「ずっと見てるとわからんくなってくるよな」
腹減ってると余計に、とよくわからない理論でフォローをいれてくるものだから、つい声を出して笑ってしまう。別にお腹は関係ないでしょ。英単語の被りを訂正しながら突っ込む土岐に、なおも自分の意見を曲げる気がないらしい彼は「えー」と緩く頬を掻いて誤魔化した。腹減ってるとめっちゃポンコツなるけどな俺は。ポンコツ、なんていう言葉がどう処理しても可愛くて見合わなくて、喉奥から競りあがってくる笑いが止まらなくなる。浅野先生もポンコツなるんですね。そんな当たり前のような実感が、言葉として浮かんでは消えた。
「なるなる。めっちゃなる。土岐君は俺に夢見すぎ」
「しれっと、なんでもできます、みたいな顔してはるじゃないですか」
「えー、そんな顔してるかな。俺結構情けないってみんなに言われるけど」
「なさっ……そんなこと言われてるんすか」
全然そうは見えない。土岐が不思議そうに聞き返すと、浅野は大袈裟なほどに深々と頷く。逆に何でもできそうな顔してるから、抜けてるとこ目立つんかな。ひっそりとそんなことを考えては、好いなあと思うのだから単純だった。感情の土台が好きで構成されていると、積もっていくものもすべて好意になっていく。それらすべてをひっくり返すことができるのなんて、いつになるのだろう。
(……嫌いになりたい)
贅沢すぎる願いは日に日に餌を与えられて肥大化していく。その裏には、絶大な好感だけがのさばっているというのに。
「こんにちは。……この前は、ありがとうございました」
涼しい顔で既に机に一式を広げている砂川は、土岐の姿を見とめるとすっと会釈をして、それから紙袋を取り出す。なにか、したのだったか。覚えのないままに中身を覗くと、そこには確かに自分の折り畳み傘が入っている。土岐があの日、傘を忘れた砂川に貸したものだった。綺麗に畳まれたそれの隣に入っている、菓子らしき小箱が揺れる。いやいや、こんな、ええのに。受け取れない意思表示にぱっと両手をあげても、彼女は少しだけ笑って「まあいつものお礼も兼ねて、ということで」と引く様子がなかった。甘くない食品のチョイス、確かに魅力的ではあるが、しかし。どうにも手が付けづらく固まってしまった土岐に、砂川は不思議そうな顔をする。
「これ、うちで余っていたものなので、別にそんな気負っていただかなくても大丈夫ですよ」
「おー、えらい正直に……」
「母に押し付けられたんです。気が引けるのなら、別の先生方と食べるなり譲るなりしてください」
「……別の」
こういう時にあの人が真っ先に思いついてしまうのも、なかなかにどうしようもない。結局その言葉に押されて、しぶしぶ手に取ってしまった紙袋を、小テストを解く砂川を横目に眺める。自分に声をかけられて、彼は迷惑じゃないだろうか。いやでも、あの人から俺に話しかけてくることのほうが何なら多いし。ぐるぐると止まらない思考の渦に飲まれながら今日の授業内容を確認していると、ふと砂川が独り言のように声を上げる。難しいですよね。ぽつりと落とされたそれは、ビー玉のように机上に落ちて、それから割れた。
「他人の望むとおりに振舞うのが一番簡単なのに、それができないとき」
立場とか、感情とかで。思考を纏め上げている途中なのか、どこかゆるりとした語りの言葉の上で完成されていく思想を、土岐は黙って聞いていた。
「生徒から何かを貰うのは倫理的に良くないという判断は、私は正しいと思います」
「……うん」
「でも、それはそれとして躊躇されることに悲しさを覚えたのもまた事実です」
「いや、ごめんな?」
「別に怒っているわけじゃないです」
ただ、どちらが正しい振る舞いなのか、少し考えてしまって。下唇にゆるく触れたシャープペンシルが、口元を歪めるようにして揺れる。どちらが正しい、だなんて変な質問だと思った。それこそ正解のない疑問なのに、大真面目にも少女は真剣に取り合っている。これ、と全て解き終わったらしい解答用紙をすっとスライドさせて寄こしてくる砂川は、相も変わらずどこか探るような目つきで、土岐を観察していた。別にそれを居心地が悪いとは思わないが、ただただいつも何かに頭を悩ませている所以はこういった性格に機縁しているのだろうか、と少し心配してしまう。まるで初めから答えがわかっているかのように全て正解そのままを書いている答案に、一つ一つ赤で丸をしながら何と答えたものかと考えた。
「砂川さんはさー」
「はい」
「なんか、人生全てに、取るべき行動があるような考え方するねんな」
「……悪いですか」
「や! 面白いなあと思って」
俺は別に、正解せな、と思って動いたことはなかったからさ。隅から隅まで丸の並んだコピー用紙に、さっさっと点数をかきこんで、ついでに軽い褒め言葉も添えて返す。「すごい!」と軽くぱちぱちと手を叩いて見せれば、砂川はわずかに眉を下げながら、小さい声でありがとうございます、とだけ頭を下げた。今日やるべきテキストを広げながら、話の続きを切り出す。テストって、採点なかったら絶対真面目にやらへんくない。教える側としてはあるまじき発言に対して、答えづらかったのか口ごもる砂川に、なおも土岐は続けた。
「要は目に見える形で評価されるから真面目にやるわけやん。生きていくための教養をつけるのだけが目的やったら、もっと他の方法あるやろうし」
「……身も蓋もない」
「人生の正解を探すのって、多分採点されへんテストを真面目に解くんと同じやと思うねんな」
正解も点数も最終的に教えてもらわれへん中で、なお正解を探そうとするのって多分ほとんどの人はできん、すごいことやよ。そう言ってから砂川の手元にテキストを置く。さ、やろか。そう顔を覗き込んで声をかければ、ぎゅうと不機嫌そうに眉を寄せて砂川が、小さくただうなずいた。
「人生の正解って、あると思います?」
「えっ急に何!?」
「いや、ちょっと聞いてみたくて」
浅野先生なら何て言いはるかなって。二限と三限の間の一時間休みに選ぶには、些か重い話題だっただろうか。そう思いながらもいつもは生徒の座っている椅子に陣取って隣に並べば、生徒の人生相談に乗ってるみたいで嫌やな、とわずかに眉を下げる。別に雑談の延長線上でいいっすよ。そう雰囲気を和らげるように笑っても、浅野は相変わらず困ったような顔をして考え込むように指をいじるだけだ。逆に土岐君は、どうなん。繋ぎと言わんばかりの問いにも、少しだけ緊張する。自分という人間を見られるのは、少し苦手だった。
「……あるのかも、しれないですけど。それを生きてる間に確認できない以上は、無いのと同じなんじゃないかなって」
「あー……たしかにな」
「浅野先生は」
「……俺は、なあ」
あると、思っちゃうなあ。諦めにも見える笑い声をこぼして、そう呟く。まるでそう思いたくないかのような物の言い方をするのだな、と思った。人生の、っていうとちょっと違うかもしれんけどさ。浅野は土岐のほうを見ずに、宙に浮かぶ空気だけに語り続ける。人としてのあるべき生き方というのはおそらくあって、それを別に自分は絶対的だとは思わないけれども、しかしそれなりに乗っ取って生きようとはしていると。そんな要旨のことを、彼はぽつりぽつりと自分でも考えを纏めるようにして語った。ああやっぱり、と思う。時たまに浅野は正解を模索しながら行動をしているような気がしていた。だからこその優しさなのだと思う。倫理的に、道徳的に、彼は正しい行動をとる。傘がない人がいれば、己の感情の有無に構わず自分の傘に入れる。……一方的に愛情を向けられることを、何より真っ先に申し訳ないと思って断ってしまう。正しいけれども、なんだかそれを素直に評価したくないと思った。
「俺の好意を受け入れるのは、正しくない行動だったってことですか?」
「いやえげつない言い方するな。そういうわけじゃないよ……っていうのも、違うか」
「また正しさを探してる」
咎めるような口ぶりに浅野は少し焦ったのか、いやあかんな俺、とため息をつく。別に責めてるわけじゃないですけど、とわざとらしく拗ねて見せれば、思い当たる節があるのか少し面白そうに笑った。彼女には誰にでもできるわけじゃないすごいことだと思う、だなんて褒めておきながら、同じような思想を持つ浅野にはこうしてもやもやとした思いを感じているだなんて変な話だと思う。自分勝手だなあ、と呆れる。でも、それでも、好きになってほしかった。好きだと言ってほしかった。
「……正しくあれば、傷つかへんやん。それだけよ」
「じゃあそんな辛そうにせんでください」
「えっ辛そう、俺」
「はい。すっごい」
えー、とぺちぺちと頬を叩く。それに誘われるようにしてそっとその輪郭をとらえた。なにしてん、と笑う。こんなことをされても驚く素振りすらせずに、じっとこちらを伺ってくるのが、怖い。今優位に立っているのは間違いなく自分なはずなのに、ずっと自分のほうがぎりぎりに立たされているような感覚が拭えなかった。俺のこと、好きですか。懇願のようなその疑問は、小さな肯定によって奈落に落ちていく。
「……同じだけのもの、返さなくていいです」
「じゃあ俺に、どうしてほしいん」
「今答えてくれた、俺のこと好きって気持ちだけ、ずっと持ってて」
それだけでいいです、と呟く土岐に浅野は困ったように「それだけ、ってもんでもないけどなあ」と笑った。その瞬間、頬に触れていた手のひらが緩んで、彼の首へと、肩へと滑る。そうして離れた体温とは裏腹に体中は未だ火でも灯っているかのように熱くて、それでいて心の底はずっと冷静だった。わかったとも、いいよとも言ってくれない。保証ができぬ約束をしないのは、それが正しくないから? 倫理や道徳は、最終的に多くの人間が幸せになるために存在しているものだ。なら、この人を無味乾燥な世界に生かしている正しさは、本当に正しいのだろうか。難しいことなんてなにもわからない。倫理の授業は決して嫌いではなかったが、選択しなかったから学んだのはたった一年だけだった。正しい人生の歩き方も、正しい呼吸のしかたも、普通に生きてきた土岐にはよくわからない。わかるのは我儘な生き方だけだ。
「……あと、もうちょっと好きでいていいよって、言ってください」
「そんなん俺が言わんくても、好きにしたらいいのに」
「いや、ですか」
「……いいよ」
土岐君が俺のこと好きなんを、否定したりせんよ。好きなだけ、そのままでおり。優しいようで、まるでいつか終わりが来るような言い方だ。いつか誰かに気持ちが移っても、自分は責めたりしない。そんな色が滲んだ発言は、徒に土岐の心を踏みにじっては、踊る。