騙し騙し「優一君こんど呑み行こうや」
「へっ!?」
「俺もう笠田と呑むの飽きてきたからさぁ」
俺だってたまには可愛い年下と酒を煽りたいねん。そう本川がわざとらしく手を合わせて頼み込んできたのはいつだったか。確かのその時はすぐに笠田が間に入ってきてくれたのだが、結局優一は了承した。長らく一人で舐めるように呑んでいたものだから、わいわいと盛り上がってみたかったのだ。笠田さんも来てくれるんでしょう、と半ばおねだりするように口にすれば優しい彼が同席してくれることもよくわかっていた。優一は、笠田が酔っているところを見てみたかった。あの真面目そうで頼りになる彼の、一枚捲ったところをもっと知りたい。
「今日はちょっと遅くなるんだ。ごめんね」
「知ってるよ」
笠田さんから連絡きた、と翔が見せてきたスマートフォンの画面には律義に「優一君借ります」と日程と共にメッセージが入っている。マメだよね、と感心した風に呟く彼女に優一は苦笑する。まるで自分が妹のはずの少女に預けられているようだ。もう少ししっかりしないとな、と悲しく思いながらも笠田の気づかいを有難く思う。大方笠田は翔に心配をかけないように声をかけておいてくれたのだろう。どこにいるかわかるだけでも、有事の際は安心できるものだ。
「いいな。私も今度ご飯行きたい」
「翔ちゃんはこの前笠田さんにご飯連れてってもらってたでしょ」
「だから、今度は三人でさ。兄貴と笠田さんばっかり仲良くなってずるいじゃん」
頬を膨らませて真面目な顔でそんなことを言えるのは、やっぱり性根がまっすぐだからなのだろうか。優一にはそんなこと、冗談めかしてでは言えても、本気ではとても無理だった。愛されてきた子供なのだ、彼女は。それを思うと少しばかり胸が痛くなる。自分も彼女を大事にしなくてはならないと言う使命感にも似た思いと、わずかな劣等感と。それらを振り払うようにして話しておくよ、と笑えば翔は満足げに頷いて「あんま呑みすぎないようにね」と手袋を渡してくれた。今年のクリスマスに彼女からもらったものだ。
「それこそ笠田さんとか強そうだし。巻き込まれないように」
「あはは、気を付けるよ」
それじゃあ行ってきます、とひらひら手を振って家を出る。向かう先はすぐそこだ。地上に降りずとも、家の前でじっとポケットに手を突っ込んで待っている男の姿が確認できた。手袋、持ってないのかな。そんなことを心配しながら一気に階段を駆け下りると、笠田が音で気づいたのかふっと顔をあげて目線が合う。やあ、と白い息と共に吐き出されたそれは、やっぱり寒そうだった。
「すみません待たせちゃって」
「そんなに待ってないよ。すぐそこだし」
寒いのか無理に袖に隠された指を一本だけ出して指し示す動作に、優一は申し訳なさを覚える。自分も彼に手袋でも贈ろうか。日頃お世話になっているのだし、それくらいしても可笑しくはないだろう。いや、しかしさすがに気持ち悪いだろうか。じっと押し黙って笠田の指先を見つめる。その仕草を不思議に思ったのか「え、なに」と自分の手をまじまじと見つめ始める彼に、優一は慌てて弁明した。
「あ、いえ! その、寒そうだなぁと」
「ああ、手袋がないからか。買わなくちゃとは思っているんだけれどね」
どうしても面倒くさくて、と手に息を吹きかけて暖を取ろうとする姿は、何とも子供じみて見えた。笠田やその友人は皆優一を幼い幼いと揶揄するが、実際笠田だってそういう風に見える節はあるのだ。自分よりやや高い背と、感情が表に出にくい態度のせいで目立たないだけで。もー、仕方ないっすね、と手袋を外して渡してやれば、「いや、いいよ」と首を横に振ってみせた。
「隣で寒そうにされちゃあ、かないませんから」
強引にその手を取って、合皮でできたそれを被せる。はめるときに、そこに自身の体温がまだ残っていることに気が付いて少しだけ気恥ずかしかった。自分では隙間ができて不格好になる指の部分も、笠田にはきっちりとはまっている。せっかく様になる手の形をしているのだから、きちんと手袋を使えばいいのに。優一は羨ましさから半ば当てつけのようにそんな感想を覚えた。
「わ、温い」
「そりゃあ温くなかったら困りますよう」
「まあそれはそうなんだけれどね」
長く使わないと感覚を忘れるものだなぁ、とその手を真剣に広げたり閉じたりし始めるものだから、優一は思わず笑ってしまう。なんですよ、それ。呆れ声の中にも喜色を隠しきれない優一に、笠田はただその手を夜空にかざして「いいなあ、と思ってね」とだけ告げた。まるで初めて手袋を買い与えられた子供のような、そんな郷愁とわずかな憧憬に胸を突かれて、優一はただただその姿を隣で見ていることしかできなかった。
「優一君、めっちゃザルやん」
「へ!? いやそんな、僕ぁ人並みですよ」
「瓶ビール四本あけてけろっとしてるのは人並み言いません」
笠田見てみぃ、と指さされたほうを見るまでもなく、優一は隣に突っ伏している男の存在には気づいている。自分の半分ほども飲んでいない割にしっかり赤くなっている肌は、いつもの彼からは想像のできないものだ。もっとも、酔ったからと言って失言をしてしまうわけでもなくただただ眠りにつくと言うのは、彼らしいと言えば彼らしいのだが。やから笠田と呑むん躊躇うんよなぁ、と苦言を呈す本川は、自分のペースを理解しているのか酒は程々に先ほどから食事を楽しんでいるようだった。
「いつもこんな感じなんですか?」
「そうそう。矢野も平山もダメやから仕方なく誘うけど、こいつも大概なんよなぁ」
「へえ……なんか、意外ですね」
「まあ澄ました顔だけは上手いからな」
手間のかかる男やでほんま、と呆れ声をあげて本川は閉じられた瞼の上にある額をデコピンする。うう、と緩く唸り声をあげたものの浮上はしない様子に、二人して笑った。机上で空を抱きしめるようにして組まれた腕に頬を乗せている姿は、なんだか授業中の学生を彷彿とさせる。絶対普段の講義の時はしていないのだろうな、というアンバランス感がまた優一のツボだった。延々と見ていられる、とちびちび本川からもらったチューハイを煽っていると、本川が若干引いたように「そんなもん肴にしなや」と提言してくる。
「優一君、笠田にめっちゃ懐いとるよな」
「や、やめてくださいよお。そんな、犬みたいな」
「さして変わらんやろ」
一蹴してから、本川はふっと酔いがさめたように瞬いて「まあ、悪いやつではないからな」と呟いた。それは、本当のことなのだと思う。一方で、優一は善悪で彼を見たことがないのでその感覚はよくわからなかった。優しい人だとは思ったことがある。でもいい人だとは思ったことがなかった。優一は笠田に半ば無理やりともいえる形で秘密を暴かれたのだし、別にそれをいまさら非難しようとも思わないし感謝もしているが、それでもどこかいい人と言い切るには戸惑いが残る。まあそもそも、この世にいい人だなんて存在するのかという話にもなってしまうのだが。そういう意味では本川の言うことが一番正しいのだろう。悪いやつではない。それは、とても正しい評価だと思った。
「……僕は」
僕は、どうして彼と一緒にいるのだろうか。それを考えると優一はたまらなくなる。自分はただ、一緒にいると言ってくれた彼に甘えて、依存せんとしているだけなのではないだろうか。そんなことを思ってしまうと途端に嫌になった。笠田は、多分優しいだけなのだ。自分のような人間が放っておけないから目をかけてくれているだけで、ずっと彼にしがみついていてはいけないのだと、鬱々とした思考が自己否定を始める。
「僕はただ、笠田さんのご厚意に甘えているだけで」
それじゃあいけないと、わかっているのですが。ぱちぱちと瞬きの回数が増える。油断しているとどろどろとした感情がどんどん零れ落ちて行ってしまいそうだと思った。思いの外自分も酔っているのかもしれない。自分は器用じゃないから、醜いところを曝してしまう。笠田のように眠ってしまえる人間であればよかったと思った。やっぱり自分は、彼が羨ましいのだ。彼のように、なりたいのだ。
「浅ましいのです。僕ぁその……構ってくださるのをいいことに、自分の寂しさを埋めようとしているだけなのです」
何を話しているのだろう。優一はふと正気に戻って、ぱたぱたと目の前で手を振って否定の意を示した。や、忘れてください。そう本川のほうを伺えば、本川は笑うでもなく呆れるでもなく、同情するでもなく、ただ「ええんちゃう」とだけ言った。いや、よくはないでしょう。そう思わず言い返してしまっても、彼はただ枝豆の鞘をいじりながら優一のほうを見ることもせずに「それは優一君が決めることとちゃうやん」と続けて語っている。その真面目なのか不真面目なのかよくわからない態度に、ただただ優一は翻弄されるばかりだ。
「それを良しとするか悪いとするかは、こいつが決めることやよ。ほんでそんなん、言われん限り俺らには絶対わからへんやん」
「い、いやそうです、けどぉ……」
「こいつにしかわからへんってことは、俺らにはそんなん存在せんのと一緒。それやったら都合よく思っとけばええやん」
「……それじゃあ笠田さんに悪いですよう」
「そんなん口にせん限り笠田にはわからへんやん。黙っといたらええねん。そしたら笠田にとっては存在せえへんねんから」
「えぇ」
それは、詭弁ではないのか。優一は年上への遠慮も忘れてそう突っかかってしまう。気を悪くしてしまうだろうか、と怯えたのも束の間、本川は大笑いして「そうそう! キベンキベン!」と手を叩いて喜んだ。何がそんなにおかしいのか。段々違う意味で怖くなってきた優一は、平静を取り戻すために取り合えずグラスを傾ける。酒を飲むと人間の素が出ると言うのなら、本川とは元からこういう男なのだろうか。だとしたらなんというか、根まで竹を割ったような男だ。とても優一には真似できそうにない。それなのになんだか人を食ったようなところもあるし、まともそうに見えて矢野に似ているのだろう。本川は焼き鳥を頬張り終えると、串だけになったそれを摘まんで語りだす。
「ぜーんぶ詭弁でええねん。人に見せる自分なんて極論全部嘘やん。ほんまの自分なんて、それこそ他人、いや自分にすら絶対確認できひんねんから。みんなそれっぽさで生きて、それっぽく感情動かして、それっぽく仲良くやってるだけ」
「そ、それっぽいって……」
「優一君が笠田に何を言われて何をされて、それで感動したんか救われたんか知らんけど、そんなんだって全部間違いやよ。それはただ救われたように君が勝手に解釈しただけ」
この世の中のことは全部自分の中でしか起こらへんよ。魔法でもかけるようにくるくると串を回して、本川はそんなことを言った。優一は、それを上手く咀嚼することができなかった。取り入れきれなかったのだ。そんなことを真に受けてしまっては、なんだか本当に自分の中でとんでもないパラダイムシフトが起こってしまうような気がして。ぱちくりとその視界を明滅させている優一を見て、本川は少しだけ感情の起伏が収まってきたのか、焦ったように「あ、いや違くてな」と口元を抑えた。また適当なこと言ってもうたな、とその目を泳がせてから押し黙る。今までの饒舌っぷりとは対照的な態度は、それはそれで扱いに困った。
「その、別に優一君と笠田の関係性を否定するつもりはなくてさ。なんかこう……そんな気い使わんくてもええんちゃう、ってこと」
「どうせ胸の内はわからないから、ってことですか」
「そうそう。わからんねんやったら、ええ方に解釈したほうがさ。ほら、お得やん?」
「お、お得……」
「みんな多分、騙し騙しお得に生きとるよ。相手から愛されてると思うのも、完璧になれると思ってそれを目指すのも、救われたと思うのもさ。そっちのが幸せやから」
損するのはそれが自分を騙しきれんくなった時やもん。にぱっと笑って語る本川は、なんだかもっともらしかった。これにも、騙されておいた方が幸せなのだろうか。酒で馬鹿になった優一はそんなことを考えて、小さな声で「じゃあ、僕はどういった風に解釈したらいいんでしょう」と問うた。本川はそれに考え込むような素振りすら見せずに即答する。
「笠田が自分の寂しさを埋めてくれるための存在やと思っといたら? それか、笠田の寂しさも自分が埋めてると思うか」
「そっ、それは! 大きく出すぎじゃないですかね!?」
「ええやん、大きく出たら。自分の世界では自分が中心やでー」
「……他人事だと思って面白がってるでしょう」
「あ、ばれた?」
いやぁ、やっぱ優一君ええわぁ、と景気よく手にしていたジョッキを煽りきると、本川はおもむろに席を立つ。もう帰りますか、と優一が伺うように見上げれば、彼は一つ大きく伸びをして「そうやなぁ」と呟いて笠田を見下ろした。さてどうしたものか、と言わんばかりに腕を組んで逡巡する姿に、優一は何だか嫌な予感がする。
「優一君さぁ」
「はい」
「こいつと家、隣なんやんな」
「まあそうですけど……」
「じゃあ今日は優一君が笠田係な」
会計は俺がしとくから、後はよろしく。そう言って本川は伝票を手にするや否やそそくさとその場を離れて行ってしまった。その場に残された優一は、しかし寝たままの笠田を放置するわけにもいかず、追いかけることも叶わないまま立ち尽くすことしかできない。小さく息をついて、嵐のように去っていったその男を思う。なんだか、ひどく疲れた。愚痴を言おうにももう一人の参加者は話などできるわけもない。とんとんとその肩を叩いて、それでも起きないので緩く揺すった。
「……もう、笠田さん。起きてください」
貴方のせいで僕ぁひどい目に遭いましたよ。そんな自分に都合の良すぎる解釈で笠田に文句を言う。大きな衝撃をさすがに脳が感知したのか彼はゆっくりとその面を上げると、それでも覚醒しきっていないのか「うあ」と突然の明るさに瞳を何度も瞬かせていた。おはようございます、と嫌味のように呟いて見せても反射的に同じ言葉を繰り返してくる姿は、なんとも微笑ましかった。
「もう。いつも僕のことを子供みたいに扱う癖に、笠田さんのほうがずっと子供じゃあないですか」
「そ、んなことは……うわっ」
「えぇ……ちょっと本当に大丈夫ですか」
足元のおぼつかない状態で無理やりに立とうとして失敗する彼を支える。本川はこれが面倒くさくて逃げだしたのだろう。何度もこれをやられていれば、確かにたまったものじゃあないかもしれない。それでも、優一は確かに自分の中に、なんだかワクワクとしている自分を感じていた。なんというか、頼りない笠田は、なんとも。
「酒が入っちゃあダメですね、笠田さんは」
「……うん。そうなんだ」
悪戯を咎められた子供の用に、笠田がしゅんとして頷くものだから、優一はどうにもならなくなって、その腕を自身の肩に回してから立ち上がった。温かな人の体温だ。酒で上がった己のそれよりもずっと、尊く感じられる。慈しむようにその重みを味わうと、優一は自分までくらくらしてしまうような気がして、急いで外に出る。仕方ないなぁ、笠田さんは。そんなことをわざとらしく口走って、冬の夜風で熱を冷ました。
「ダメになった笠田さんのことは、僕がちゃんと見てあげますから」
だから、僕は貴方にとって必要なんだって、騙し続けてくださいね。囁くように、祈るように呟いたそれは、多分笠田の意識には残らない。それでいいのだと思った。いつか、騙しきれなくなる日が来ることも知っている。耐えきれないほどの痛みが伴うであろうその時まで、せめてこの温度をどうか味わわせてほしいものだと切に思った。